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2014年9月

2014年9月29日 (月)

フランス料理のメニューは、オシャレだ!

 下北沢駅周辺の商店街に、以前は何軒もあった、フランス料理の店は、いつの間にか姿を消してしまっている。
 
 イタリア料理の店は、まだ何軒か残っているのに…。居酒屋ばかりが目立った街になってしまった。
 
 コースで次々と料理が出てきて、ワインを飲んだりすると、一万円では足りない。時間をかけてワインを飲みながら食事をするフランス料理は、若者の街では育たないのかもしれない。
 
 読売新聞社から1988年(今から26年前)に、「アール・ヌーボー/アール・デコ」という大判のムックと呼ばれる、定価も¥2300、華麗なカラー頁が豊富な雑誌が、次々と刊行されていた。
 
 その中には、西洋骨董店がカレーや、ドームの高価な商品を並べて広告を載せている。
 日本が景気のいい時代だった。その第3集に、料理研究家の辻静雄さん(1933年2月13日生、1993年3月2日、60歳で没)が、「パリのグルマン」と題して、19世紀末から20世紀にかけてのパリでのフランス料理の話を書いている。その当時に使われたレストランの美しいメニューのコレクションが、紹介されている。
 
 ぼくもこの時代のメニューを少しばかりコレクションしているが、辻さんの解説がなかったら、どんな価値のあるものか知ることはできなかった。
 
 11月28日から10日間、催す渋谷「ポスター・ハリスギャラリー」でのぼくのコレクション展に、展示して販売しようと思っている。
 
 メニューには、なんにも書かれていない未使用のもので、シェフがその日の料理のコースを書き入れたのだろう。辻さんの解説を引用させてもらうことにする。
 
 現在はこのような雑誌はない。西洋骨董を啓蒙してくれる雑誌がないから西洋骨董の愛好家の裾野がひろがらない。
 
 100年も200年も前に残されたものを知ることができないのは残念なことだ。
 
「フランス料理の歴史の中でのピークは、1860年ごろだといわれています。また料理の盛りつけも、このころ、第二帝政といわれた19世紀の中ごろのフランスでは、すでにすべて完成しつくされているようです。
 
 当時の豪華な盛りつけから見れば、現在の盛りつけはカスみたいといっても過言ではなく、とても比べ物になりません。
 
 しかし、料理の作り方に関しては、1920年代から30年代にかけてがピークだったように思います。その時期のフランスで、特にパリで有名なコックさんたちが作った料理が、現在の私たちの舌にいちばんよく合う料理の味なんです。(中略)
 
 僕はフランス料理を史的に研究するにあたり、1977年に『フランス料理研究』などの文献収集につとめるうち、19世紀の中頃からメニューコレクションができました。こういうものは集めようと思っても集まるものではなく、オークションで買ったものですが……。
 
 フランスでは偉いコックさんが亡くなると、未亡人が蔵書を売りに出すことがあるものですから。そうして集めた中に、二十世紀の初頭にバンコクの宮廷で働いていたユールリースというコックさんの上書が大部分あり、その中に世界各国のメニューがあったんです。(後略)」
 
 辻さん、21年も前に亡くなられているが、メニューのコレクションはどうなってしまったのだろうか。
 ぼくのコレクションも息子たちは、まったく興味がないから、ぼくが生きているうちにみんな処分してしまって、好きな人の手に渡してしまいたい。そうしてお金が少し入ったら、フランス料理をコースでしばらくぶりに味わってみたいものだ。
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2014年9月27日 (土)

父、祷一こそ、ネットに残すべき人?

 ぼくが最近、毎日のように訪れているカフエ「織部」。横丁のまた路地の奥という立地条件の悪さから、下北沢には、こんな落ち着いた店はないというのにお客が少ない。
 
 ひまだから店長の奥村くんが、ネットを触れないぼくに、調べたいものがあると、見せてくれている。ありがたいことだ。
 
 カフエ「織部」こそ、「男の隠れ家」といっていい店だろう。「朝日新聞」と「日経新聞」が置いてあるので、必ず読むようにしていて、ブログに書くネタも、そこから得ている。
 
 誰が調べて書いてくれたのかは、知る由もないが、ありがたいことに「伊藤文学」をネットで検索すると、驚くほどの情報が入っている。若い時から、年をとってからの写真も見ることができる。よく調べてくれたものだ。
 
 大正時代に吉原のお女郎さんを千人近くも苦界から救い出した、祖父の伊藤富士雄のことも、くわしく書かれている。
 
 これはぼくがブログで「救世軍」の軍人として、身体を張ってお女郎さんを救い出した話を何度も書いてきた。
 おそらくそれらを丹念に読んで書き記してくれたのだろう。それよりも驚いたのは、ぼくの先妻、ミカ(本名・君子)のことだ。
 
 昭和60年代の後半に、それこそ疾風のように駆け抜けて、33歳で事故死してしまった、ミカの仕事は、ぼくがブログに書かなければ残るわけがない。
 
 彩流社刊の『裸の女房』は、2009年の6月に発売されたが、あまり売れなかった。しかし、最近になって、ミカのこともネット上で、経歴や、どんな仕事をしたかも、くわしく紹介されている。
 
 陰でお金にもならないことを後の世の人のために書き記してくれている人がいることを感謝するばかりだ。
 
 ぼくの親父、伊藤祷一のことは、ネット上に現れない。戦前、勤めていた第一書房の中に、名前が残されているだけだ。ネット上に名前が出てこないのは、ぼくがまったく親父のことを書かないからだ。
 
 祖父、富士雄が、父、祷一に送った葉書が見つかった。消印に大正10年6月12日とある。ぼくは旅先から、父の手紙をもらったことは一度もない。
 
 山梨県の甲府からの葉書だ。
 
「ぶどうのおみやげはないが、きゅうりの安いのには驚いたが、持ち帰るには重くてだめだ。火曜の夜か、水曜日の早朝には帰るはずだ。」と、記している。
 
 9月14日(日)三連休の真ん中の日、友人のNくんが車を運転してくれて、新潟の弥彦に連れて行ってくれた。朝、6時に東京を出て4時間ちょっとで弥彦村に着くことができた。
 
 Nくん、運転しながら父親の若いときに女道楽で、母親を泣かした話を聞かせてくれた。女だけでなく、大酒飲みだったそうだ。
 
 子供の頃から、父親の道楽ぶりを見てきたので、酒もほとんどのまないし、煙草も吸わない。浮気も一度もしたことがないそうだ。
 
 ぼくも父親の女道楽と、母親の暴力を何度も見てきたので、酒もお付き合い程度で、煙草はというと、これも吸ったことはない。
 
 女性はというと、これはNくんのようなわけにはいかない。しかし、再婚してからは一度も浮気はしていない。それは先妻の残した子どもを立派に育て、ぼくの両親を最後まで看護してくれたからだ。
 
 親父、祷一こそ、ネットに残すべき足跡を残した人だが、ぼくは書かない。別に憎んでいるわけではないが……。
 
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父、祷一が10代の頃の同人誌。
イラストは祷一のもの。

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2014年9月22日 (月)

秘密の楽しみをもって生まれて幸せ!

『薔薇族』の読者は、長い長い手紙をくれた。今の人は、こんな長い手紙を書くことはできないだろう。書くことによって、発散していたのかも知れない。
 松江正一さん、少年を愛する方で、「秘かに少年を愛して40年」という、タイトルの投稿だ。
 
「男が男に恋をし、男が男に性欲を感じる。それも相手が少年に限られていたり、中年に限られていたり、その範囲は極めて狭いものになっている。
 
 いったいこんな精神作用を、だれが人間に植え付けたのであろうか。
 人間社会においては、男と女が結ばれるのが、最も自然な姿であることは、いうまでもない。この世にある全てものは大自然の摂理に従って、なんの狂いもなく、いとも正確に回転している。
 
 秋がくれば山は紅葉し、やがて雪が降る。春になれば、また新しい木の芽が伸びてくる。この偉大なる自然の力。どこにもこの自然の力に逆行するようなものは見当たらない。
 
 人間の心の中にだけ実に不思議な、けれども実に楽しい自然に壮反する作用を与えたもうた。これまことに神のなせる業。神々の正気の沙汰なのか、それとも神々のたわむれなのか……。
 
 ひそやかに、いつもびくびくしながら楽しむ人、おおっぴらに堂々と自分に忠実に生きる人、じっと押し隠して、もやもやと苦しみながら、嫌いな女を相手に一生をむなしく終わらせる人、いろいろであろう。
 
 今に始まった事ではないという。大昔からこの不思議で楽しく、ともすれば危険をはらんでいる愛の形はあったと聞く。
「少年」を受け入れる「心」がある者は、少年を見て最高に美しいと思うのだ。6年生ぐらいから中学生ぐらいの少年のすらっとした足、まだ、どこかたよりなさそうな顔。これこそ美の極致であり、この世の最高の芸術であると、少年愛の人は言う。
 
 では、この楽しい精神作用は、いつどんなときに芽を出すのだろう。ある人は少年期に大人の人から愛されていつとはなしに、この愛を知ったという人もある。
 
 20歳を過ぎて、こんな機会に出会ったという人もある。でも、そういう人たちはみんな心の内にそれを受け入れる「もの」があったから、その芽が成長したのである。
 
 まったくの正常な人であるのに、強い誘惑に負けてという人もあるが、その人もやはり心の片隅にその気がひそんでいたのだ。中にはまったく生まれつき、生まれた時から男しか愛せないように、生まれたという人もいる。」
 
 ここから松江正一さんの3歳か4歳のときからの少年を愛する遍歴が始まり、面白く読ませるが、長過ぎてどうにも紹介することができないのは残念だ。最後に6年生のT君との話。
 
「今、6年生のT君が好きになった。今、新しいこのT君、すばらしいのだ。やさしく心をかけてやり、時に用を頼み、時々、家へ連れてきてお菓子を食べさせる。それだけだ。なついてくれて、用をいやがらずにしてくれて、にっこり笑ってくれたら、それで心が充実しているのだ。
 
 T君、目が大きく、色は黒いけれど、すてきな容貌、今なんでも要求に応えてくれる。夕方、少々おそくなっても、一緒に来ないかと言えばついてきてくれる。可愛いんだ。
 
 密やかに男の子を愛し続けて40年。だれにも教えられずに、この愛を知った私、これからも愛し続けるであろう。神のたわむれであってもよい。この秘密の楽しみをもって生まれてしあわせだと思う。少年は美しい。」
 
 松江正一さん、幸せな人生だったのでは。

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2014年9月20日 (土)

「マダム、ダワイ!」(女を出せ!)

 ソ連兵による日本人女性に対する残虐ぶりは、新聞は書かない思ったら、「終戦と朝鮮半島」という週一回の連載記事で「日常化する暴行」という見出しで、ナマナマしく東京新聞は伝えている。
 
 昭和31年に刊行して、ベスト・セラーになった、わが第二書房の『匪賊と共に』は、真実味を増してきた。
 
「日本の植民地支配が終わった朝鮮半島の北部に、1945年(昭和20年)8月、進駐してきたソ連軍、当初の主力は中央アジアの監獄から釈放された、囚人の戦闘部隊だった。「マダム、ダワイ!(女を出せ!)」。
 極端な耐乏生活を続けてきたソ連兵は各地で、略奪を繰り広げたにとどまらず、多数の女性にむごい仕打ちを加えた。」とある。
 
 記事は具体的に日本人女性が、野獣のようなソ連兵に暴行を加えられた様子が書かれている。
 残念ながら『匪賊と共に』は、すでに絶版になっているから、古書でしか購入できないが、興味のある人は読んでもらいたい。
 
『薔薇族』のカメラマンとして、活躍してくれた羽賀九郎さんから聞いた話だが、若い時に満蒙開拓団として、満州に渡ったという話を聞いたことがある。
『匪賊と共に』の中に、こんなことが記されている。
 
「満州(今は中国、かつては日本の植民地)の楽土建設をうたって、笛と太鼓で奨励した日本政府は、満洲国政府に指令して、、満人農家の人たちが先祖伝来、営々として経営してきた、豊かな土地を安く、ただみたいな金で強制的に買い上げると、そこへ日本開拓団を送り込んだのである。
 
 こうした好条件で迎え入れられた開拓団の人の中には、それが全部とは言わないけれど、次第と開拓の精神を忘れて、安逸をむさぼるものも当然でてきた。
 
 正直な話、内地で豪農でいたものが、土地を捨てて満州へ移住なぞしなかったであろう。多くが貧農なるがゆえの満州移住であったのだ。
 
「そう言っちゃなんだけど、比較的、教養のない人が多いように思うんだ。それで……」
 
 満州へ来て、一躍、膨大な土地の主となった彼らの中には、満人を小作人として酷使したものもあった。
 満人は取り上げられた自分の土地で、小作人となってこき使われ、しかも主人は、年がら年中、どぶろくを飲んで、ぶんぞりかえって少しも自分では働かない。
 
「畜生! いつかは……と思っていた。積もりに積もった満人の怒りが、日本の敗北で爆発したんだ。ともかく開拓団に対する満人の反感は根が深いからね」
 
 戦前、日本の農民たちが、ブラジルなどにわたって、未開の土地を開拓し、苦労に苦労を重ねて、農地に変えていったという話は、よく聞いたことがある。
 
 満州における日本人開拓団は、未開の土地に鍬を入れて、開梱の土地を切り開いていったのではなかった。
 ソ連兵と、積もりに積もった満人の反撃で、日本人がひどい状態になったのは、当然のことだ。
 
 一般の日本人を守るべき、日本の軍隊は、8月9日、ソ連参戦と同時に醜態をさらけ出し、軍人家族の避難列車の争奪戦が始まったのだ。
 将校同士が殴り合いまで演じる始末。避難できたのは高級将校の家族だけで、少佐以下の家族の大半は、ついに残留を余儀なくされたという。
 
 こんな戦争、二度と起こしてはいけない。
 
(★コメントをぜひ、お寄せください。読んでいますから)

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2014年9月15日 (月)

ロシアという国は恐ろしい!

「2014年の9月5日、ウクライナ東部をめぐるウクライナ政府と、親ロシア派による5日の停戦合意を受けて、6日、ドネック、ルガンスク両州で、大規模な、戦闘の発生は伝えられていない」と、東京新聞は伝えているが、ロシアのプーチンが停戦を守るかどうかは、信用ができない。
 
 広島、長崎に原爆が投下され、日本が連合軍に対して、無条件降伏する8月15日の直前、ロシア軍は、1945(昭和20年)8月、日ソ中立条約を破棄して、日本の植民地支配下にあった、朝鮮半島の北東部に侵攻した。
 
 続いて北緯三八線以北の北朝鮮各地に進駐、日本が築き上げた発電所などの施設を次々に撤去し、ドイツとの戦争で疲弊した本国へと運び去る。
 
 ソ連兵は戦利品として、あらゆる物資を現地調達した。その結果、略奪行為が横行し、在留邦人を苦境に突き落とした。
 
 9月3日の東京新聞は、「ソ連兵の横暴、物資根こそぎ略奪」と題して、長い記事でロシアの横暴さをくわしく報じている。 
 北朝鮮には当時、陸海合わせて約12万人の日本軍が駐屯していた。ソ連軍はその武装解除を行うと、使役のためシベリアに続々と連行。さらに朝鮮総督府の官吏や警察官も拘束した。
 
 満州や北朝鮮にあった資材や、機械類を根こそぎ取り外しては貨車に載せ、本国に送った。
 東洋一とうたわれた水豊水力発電所もその一つ。約3千人のソ連兵が約2ヶ月間作業し、7基あった発電機のうち、5基を解体して持ち去った。
 
 最初に進駐してきたソ連兵の様子には、多くの在留邦人が度肝を抜かれた。汗と埃にまみれたボロボロの軍服と軍靴。食糧として携帯してきた黒パンを時に枕にし、地面に座るときには尻の下に敷いていた、という話もある。
 
 この記事の最後が重要だ。
 
「ソ連兵の横暴は略奪にとどまらなかった。長い戦争の間、極端な耐乏生活を強いられた彼らの凶暴性は、何よりも女性に対して、むき出しにされる。」と、ここで終わっているが野獣のようなロシア兵に、在留邦人の日本人女性がどんなことをされたかは、想像がつくだろう。
 
 昭和31年(1956年)11月10日、第1刷発行のわが第二書房の三上綾子著『匪賊と共に・チチハル脱出記』は、想像するだけでも恐ろしい、日本女性の悲惨な話が、克明に描かれているノンフィクションだ。
 
 この本は発売されるや、『週刊新潮』が、4、5頁使って、特集で紹介してくれた。その効果たるや絶大で、頭をペコペコ下げて取次店の仕入係に部数を多くとってもらおうとしていたのが、逆になって仕入れの人が、下北沢のわが家まで、ぜひ、多く回してくれと頼みに来たのだから、驚きだった。
 
 この本はノンフィクションといっても、多くはフィクションで、オーバーに書いたものと思っていたが、東京新聞の記事を読むと、この本に書かれていることは、真実だったと確信する。
 
 この本を紹介しようにも、あまりにも悲惨な話で、とても書く気にはならない。
 中国に進駐した日本軍も、ロシア兵と同じようなことをしたに違いない。とにかく戦争は人間を異常にする。絶対に戦争をしてはいけない。
 
 ロシアの人って、シベリアに住んでいる人たちなどは、みんな素朴で人のいいひとたちだろうが、プーチンはじめ、指導者が何を考えているのか。北方領土など、日本に返す気はさらさらないのでは。ウクライナのことを考えるとそう思えてくる。

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2014年9月13日 (土)

審判は蛾をふみ殺さなかった!

 以前のぼくはジャイアンツを応援していた。DeNAに駒沢大学出身の中畑監督が就任してから、DeNAに変えてしまった。女房は相変わらずジャイアンツ。一緒に住んでいる息子夫婦は阪神フアン。家中がバラバラだ。
 
 昨年までのDeNAは、再開で不甲斐ないチームだったが、中畑監督は他の球団の監督と違って、感情を身体全体で表現する。テレビの時代でベンチの表情も映しだすから、勝っても負けても無表情の監督では、見ていて面白くない。
 
 今年のDeNAは強い。3月、4月は負けがこんだが、それからは立ち直り、順位も4位とあげてきた。9月8日(日)の広島との試合、逆転勝ちで11対4と打ちまくった。tvkの3チャンネルで、DeNAの試合が見れることを最近になって知り、もうひとつのテレビは、ジャイアンツフアンの女房に独占されているが、DeNAno試合を楽しむことができている。
 
 徐々に選手たちの名前や、顔を覚えてきた。DeNAの選手がバッターボックスに立ってかまえているとき、横浜球場は屋根がないから、虫などがとんでくる。
 大きな蛾が選手の顔にあたって、下に落ちた。それを見た審判は、素早く地面に落ちている蛾を手づかみにして、後ろに投げた。
 
 靴で一瞬のことだから、踏み殺すのかと思ったら、審判は蛾を殺さなかった。この光景を見て、審判は心の優しい人だと思い、心がなごむ思いがした。
 
「人間残酷物語 マゾヒスト伊藤ミカの生涯――被虐の舞踊家、忌まわしい血の烙印を負って奴隷の快楽を踊り求めた美貌のダンサー!」
 1971年(昭和46年)8月1日発行の『小説現代』(講談社刊)の見出しに、恐ろしいような文字が並び、丸川賀世子さんという女流作家の作品が載った。
 
 先妻の女房、ミカが風呂場の浴槽の中で、酸欠による事故死をとげたとき、多くの週刊誌が記事にしてくれたのを見て、丸川さんが小説にしたいと取材を求めてきた。
 
 そのとき、週刊誌や、新聞に乗った切抜帳、日記、写真などを丸川さんに届けたが、その後、すっかり忘れていた。
 
 30数年も経ってから、丸川さんが身体を悪くして、古里の徳島に帰ることになり、荷物を片付けていたら
ぼくが化していたミカの資料を見つけ出し、送り返してくれた。
 
 この資料がなかったら、ぼくの著書『裸の女房』(彩流社刊)は、世にでることはなかったし、ミカの写真を使ってのTシャツも生まれないし、渋谷の「ポスター・ハリスギャラリー」での写真展も開くことはできなかったろう。
 
 最近、「文ちゃんと語る会」の会場をカフエ「織部」に移したが、店長の奥村くんが、ネットをいじれないぼくにネットを見せてくれている。
 
 丸川賀世子さん、どうしているのかと思ってネットで調べてもらったら、2013年の10月25日、82歳で亡くなっていることがわかった。ネットってスゴイ。なんでも知ることができるのだから…。
 
 伊藤ミカはネット上で、その経歴、舞踊の仕事ぶりはどうなっているのか、奥村くんに調べてもらったら、その生い立ちから、出身学校などすべて記録されている。どなたが調べて書いてくれたのかは知る由もないが、奇特な方がいるものだと驚いてしまった。
 
 ぼくの書いたものを丹念に読み、間違いなく記事にしているのだから、大変な時間を費やしたに違いない。
 この方のためにも、ミカの写真展はなんとしても成功させたいものだ。
 

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2014年9月 6日 (土)

ひとつの椅子から物語は始まった!

 1969年9月17日の夜、渋谷の山の手教会の地下にある劇場「渋谷・ジャン・ジャン」(現在はカフエ、1969年7月開館、2000年4月に閉館。オーナーは高嶋進さん。『ジャン・ジャン狂宴』(左右社刊)の著書がある。)
 
「渋谷・ジャン・ジャン」が開館して、間もなくの頃だ。西独とイタリアの合作映画「マルキ・ド・サドのジュスティーヌ」の宣伝のために、配給会社・ヘラルド映画の宣伝部長と親しかった、漫画家の富田英三さんが企画したものだ。
 
「週刊ポスト」の10月3日号の記事によると「教会の下のサド・ストリップがあげた宣伝効果」と題して、「この催しは日本ヘラルド映画『マルキ・ド・サドのジュスティーヌ』のPRのためのもの。20万円出したというヘラルド側も、この日、集まったジャーナリストが55人というわけで、安い宣伝費だと大ニコニコ。サドの後継者をもって任ずる前衛舞踊家が商魂に踊らされた。この一幕、地下のサドが見たらサド悲しむだろう」と、皮肉めいた記事にしている。(週刊ポストの誌代が70円。45年も前のことだから、今だと100万円ぐらいの価値か。)
 
 ぼくの先妻の舞踊家ミカは、それ以前に「オー嬢の物語」「愛奴」を舞踊化して、センセーションを巻き起こしたあとだけに、マスコミが押しかけたのは当然のことだ。
 
 ありとあらゆる新聞、週刊誌が記事にしたり、グラビアで紹介され、裸の部分だけをとりあげて、面白おかしく紹介しているが、これは売らんかなで仕方がないことだ。
 
 ミカはPRのためのショウであっても、かなりの時間をさいてコンテを作り、練習を重ねて、この日のためにそなえていた。
 
 ぼくはこの日のショウは、最高の出来ばえで、ミカの隠れた部分を赤裸々に出したもので、どの週刊誌も「彼女の真に迫った演技には、ドギモを抜かれたようで、水を打ったような静けさだった。」と書いている。
 
 その日のミカは、マスコミの人たち、多くのお客さんの中にまじって、椅子に座っていた。それが服を脱いで、はだかになりショウが始まった。
 
 それからのことは、「内外スポーツ」がくわしく書いているので紹介するが、11月28日から、12月7日までの10日間、渋谷の「ポスター・ハリスギャラリー」で、45年前のミカの写真のネガを見つけ出したので、まだタイトルは決まっていないが、「裸の女房」写真展を開催する。
 
 観客のドギモを抜いたショウは、写真を見ていただければ納得されるだろう。まさかミカの写真がTシャツになるとは夢にも思わなかったが、毎日のように訪れているカフエ「織部」の店長が、デザイナーだったそうで、ミカの写真をちらと見せたら感動してくれて、名古屋のTシャツの工房の友人と一緒に、素晴らしいTシャツを3通りも作ってくれた。
 
 因縁というべきだろうか、ミカが「ジャン・ジャン」で座っていた椅子が、なんとミカの写真展を開く、「ポスター・ハリスギャラリー」に、10脚も置いてあるではないか。
 
「ジャン・ジャン」が閉館になったとき、譲り受けたものだそうだ。人間との出会い、モノとの出会いって不思議なものだ。
 
「内外スポーツ」は「キリストもびっくり、ド肝抜いたサドショウ」の見出しで、「肉体こそ武器というヌード舞踊家として知られる伊藤女史は、ほとんど全裸に近い格好で、満員の客席の間を走り抜け、太い鎖で両手をしばられ、鞭打たれたり、異様にして熱気ムンムンたる舞台を展開、満員の客席は一様に目を剥き、ショックに打たれてた。」とある。
 
 ミカの踊りが芸術なのかどうかは、ぜひ、写真展を見て、ご判断を!

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2014年9月 1日 (月)

9月27日(土)「文ちゃんと語る会」開催

来る9月27日(土)、器と珈琲の「織部下北沢店」にて、「文ちゃんと語る会」を開催致します。
 
日時・9月27日(土)午後18時~20時
場所・下北沢南口から4分、器と珈琲の「織部」
   (〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3 電話03—5432—9068)
会費・¥1000(おみやげ付)
 
女性の方も大歓迎!

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「文ちゃんと語る会」は、大盛況だった!

 テレビで見て知ったことだが、上海の裕福な家庭で育った女性は、結婚相手の男性に年収2千万円以上で、マンションなどの家付きという条件を出しているそうだ。
 
 ついこのあいだまで、町中を自転車で走り回っていた中国の人たちが、あっという間にお金持ちになってしまった。
 8月23日(土)の夕方6時から、下北沢南口の「器と珈琲の店・織部」で、長い間、「伊藤文学と語る会」と称してきた会の名前を「文ちゃんと語る会」と変えての最初の会だ。
 
 Twitterなる、わけのわからないものを若い人たちが始めてくれて、それが以外と反響があったので、よろこんでいいものか、悲しんでいいものか、多くの人たちが見てくれたのだから、よろこんでいいのだろう。
 
「織部」はゆったりとした空間に、大きな椅子を置いているので、そんなに多くは入れない。それが語る会を始めて以来の大入りだった。
 会費も初めて千円としたので、そのぶんはおみやげをと思って、「ラブオイル」は1本千円のものだが5本、ぼくの歌集「靴下と女」は3千円もするものをおみやげにした。
 
 次の会は、9月27日(土)夕方6時〜8時まで。3時間は長過ぎるので、2時間にし、2次会をすぐそばの居酒屋「つくし亭」にして、ビールをのみながら話をしたいと思っている。
 
「つくし亭」のご主人は、ハンサムな男で、なんとぼくの先妻のミカが、世田谷区立「松沢中学校」の保健体育の教師を10年間勤めていたが、その時の教え子だった。
 
 なんで中国の上海の女性の話を最初に書いたかというと、2次会にまで来てくれた人を含めて、20名から集まってくれた人の全てが独身だということだ。
 
 中国、上海の女性のように高望みをしているわけではないのに、日本の若い人たちは結婚しない。いろんな事情でそれぞれあるのだろうが、これは日本の将来にとって大変なことだ。
 
 今朝の新聞には、大手の塾の「代々木ゼミナール」が、多くの教室を閉鎖するという。子供がすくなくなってきたのが、大きな原因だ。
 
 ぼくの女房、ミカと出会ったのは、仙台の七夕まつりに行く満員のお客を乗せた、上野発の夜汽車の中だった。
 日本女子体育大学の1年生の夏休み、仙台の近くに住む友人を訪ねての初めての一人旅。
 
 ミカが下車するときに、ぼくに手渡してくれた小さな名刺。これをもらわなければ、二度と出会うことはなかった。
 大学が我が家の近くの明大前だったので、それから再び出会い、たちまち恋に落ちてしまう。
 
 ミカは子供のいない、叔父さんに中学1年生の頃、養女として家を出た。
 養父、養母というのは、自分たちが年を取ったときに、面倒を見てもらうという打算があって養女にするのだから、ミカがぼくと恋に落ちて、それが果たせないと知るや、戸籍を実父のほうに戻してしまった。
 
 その頃のぼくは、親父の出版の仕事を手伝っていたが、親父はぼくに給料をくれない。食べさせて、多少の小遣いをやっていればいいという考えだ。
 
 ミカは実父の家に戻ることもできない。養父は今まで買い与えたものを何一つ持たせなかった。スーツケースに下着類だけを入れて、わが家にころがりこんできてしまった。
 
 ありがたいことにぼくの両親も、姉、妹たちもあたたかく迎えてくれたが…。
 
 今の若者たちにこんなことはできないだろう。なにしろ60年も前の話だから…。
 

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