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2014年11月

2014年11月29日 (土)

人間ひとりでは生きられない!

『薔薇族』が廃刊になってしまってから、この11月で早くも10年にもなるようだ。
 
 75年も生まれたれた時から住みなれた家と土地を失い、マンション下北沢206号室の2DKの部屋も失い、今では女房と息子夫婦と中学1年始絵の野球少年との5人ぐらし。
 
 女房と息子の嫁は、お互いに酒が好きだから、嫁、しゅうとのいざかいはなく、仲良くくらしている。
 野球少年の孫は、練習や、試合の後などはユニホームが泥まみれ。それを洗濯するのが女房の役目で、最初に手洗いをして、それから洗濯機で洗う。
 学校の規則がやかましく、髪の毛が長くなると注意される。制服のワイシャツ、ズボンのアイロンかけも念入りに女房がやっている。
 
 マンションの部屋を借りての貧乏暮らしも、早くも4年めを迎える。ぼくの6畳の部屋は寝室兼仕事部屋。物を増やさないようにして必要でないものは処分しているが、それでもゆだんすると、ゴミ屋敷になってしまう。
 
 年金というものは、ありがたいものだ。年々減らされているが、月にするとぼくの年金は8万円ぐらい。2ヶ月に1回支給される。
 ぼくは酒、煙草は、のまないし吸わないからその支出はない。衣類も古着で十分あるから、下着ぐらいしか買わない。長男の嫁がクリーニング店でアルバイトをして働いているので、クリーニング代は半額、古着でもいつもパリっとしたシャツを着ていられる。
 
 サラリーマンの毎月のこづかいって、2、3万だそうだから、8万円をぼくひとりのこづかいに使えるなら、こんなにいいことないが、そのほとんどが5人の食事代に消えてしまう。
 
 ふところが豊かなときには感じなかったが、どん底生活を続けていると、身にしみて感じられるようになったことは、他人様のぼくに対するおもいやりだ。
 ネットを触ったことがないぼくのために、長い間、ブログを更新しつづけてくれている若者がいたり、わからないことがあると、ネットを使って調べてくれて教えてくれる人もいる。
 
 人間、落ち目になると、人が寄りつかなくなると昔から言われているが、ぼくの場合、豊かなときと同じように、パーティを開くというと、多くの友人、知人が集まってくれる。
 欠席なのに会費を送ってくれる人も、何人もいるのには感謝だ。骨董屋や、画商に売るとなると、アンティークって、とんでもない安い値でしか買ってもらえない。
 
 コレクターの買い手がいて、その人が気に入ってくれれば、それなりの値段で買ってもらえる。
 28日の金曜日から、渋谷のポスターハリスギャラリーで催される、「伝説の舞踊家、伊藤ミカ写真展」と、「文ちゃんのアンティーク・コレクション蚤の市」を開催するにしても、かなりのお金がいる。
 写真を大きく引き伸ばす費用もかかる。新潟に置いてある展示品を取りに行くだけでも費用がかかる。運転をやめてしまったので、友人に頼むしかない。古いうう人のカメラマンの中嶌君が費用をもってくれて、日帰りでとりに行ってきた。ありがたいことだ。
 
 デザイナーであり、イラストレーターでもある宇野亜喜良さんから、ミカの写真展に寄せて推薦の言葉を頂いた。篠山紀信さんのミカを撮った写真も飾れる。
 多くの人の力を借りて、写真展と蚤の市をにぎやかに開けそうだ。
 
 人間、ひとりでは生きられないということを感じながら、今年も生きてこられた。
 あとはぼくのブログを見てくれている多くの人たち。会場に毎日通いますから、ぜひ、足を運んでください。
 
 一番最初に来てくれた人に、なにか記念品をプレゼントします。
 

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2014年11月24日 (月)

伊藤ミカさんは不思議感覚の人だった!

 宇野亜喜良さんは、イラストレーターや、デザイナーを目指す若者たちにとっては、神様的な存在の方だ。
 
 1999年には、優れた芸術家に與えられる紫綬褒章を受賞されている。1934年3月13日に名古屋で生まれ、1955年に上京して、カルピス食品工業の広告課に入社、それから現在まで第一線で、めざましい活躍をされている。
 
 ちょっと有名になって偉くなってくると、やたらと威張る人が多いが、宇野さんほど相手のことを思いやり、優しく、謙虚な人と出会ったことはない。
 
 昨年のことだったか、上海から中国の青年がぼくを訪ねてきて、宇野さんにインタビューをしたいという。青年は日本語はペラペラ、日本語の文章も読める。頭のいい雑誌記者で、寺山修司くんのファンで、寺山くんの作品をほとんど読み、青森の寺山くんの美術館も訪れたというから驚きだ。
 
 宇野さんの書かれた本もすべて読み、インタビューの質問もすべてでてきるので、宇野さんに電話したら、気軽にひきうけてくれた。
 約束の日に麻布にある宇野さんのスタジオへ、青年とカメラマンを連れて訪れた。
 初めて会う中国の青年に、一時間半もかけて、彼が用意してきた質問にすべて答えてくれた。
 
 いつも宇野さんを訪れて感心するのは、椅子から立って、玄関先まで見送ってくれることだ。椅子に座ったまま、「はい、さようなら」と、普通ならそうするだろうが、そこが宇野さんの違うところだ。
 
 ぼくが手土産ぐらい持って行ったらと言ったので、東横のれん街で、お菓子を買って持っていったが、インタビューはノウギャラだ。中国ではそれが当然のことなのだろう。
 中国は金持ちになってしまったから、アメリカと対等になったつもりでいるようだが、まだまだ後進国だ。
 
 宇野さんはお金のことは、一切口にしない方だ。『薔薇族』の表紙のデザインも担当してくれたが、僅かなお礼しかしていない。
 新潟のロマンの泉美術館での催しのチラシのデザイン、レストランのランチョンマットの素敵なデザインも手がけてくれた。
 雑誌がいきづまって経営困難になり、お礼も払えなくなったのに、宇野さんは「いいよ、いいよ」と言ってくれた。
 
 そんな宇野さんが、またまた、ぼくを応援してくれて、「伝説の前衛舞踊家、伊藤ミカ写真展」のチラシに入れる長文の推薦を寄せてくれたのには、感謝のしようがない。
 そのうえ28日の夜の「オープニングパーティ」に出席してくださるようだ。宇野さんの女性ファンは多い。宇野さんに会えるならと、パーティに出席希望者が増えてしまったらと、今から心配している。
 
 一行か、二行の短い文をとお願いしたのに、原稿用紙一枚分も書いてくれたので、全部は紹介できない。
 
「伊藤ミカさんは不思議感覚の人だった。
 時代は1960年代後半。土方巽さんや、大野一雄さんたちの舞踏が最高の熱量をたぎらせた時代に、彼女は西欧的なバレエで、スキャンダラスに耽美を創ったのだった。」
 
 1960年代の熱気あふれる時代の空気を今の人に伝えることは難しい。
 ミカの写真を見ることによって、少しでも肌で感じてほしいものだ。
 
★11月28日(金)から12月7日(日)まで。渋谷ポスターハリスギャラリーへどうぞ!
 ブログも来年には、1000回を越すそうだ。
 コメントをぜひ、書き入れてください! 必ず読みますから。
 
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2014年11月22日 (土)

マスコミはミカの舞踊の「裸」だけに!

 世田谷区立の体育の教師が、フランスの地下文学の最高傑作の『オー嬢の物語』(澁澤龍彦訳・河出書房新社刊)を舞踊化し、舞台で全裸になるというのだから、マスコミが見逃すわけがない。
 当時はテレビは取材に来ない。主に週刊誌、スポーツ紙が主役だった。
 
 舞踊家が公演をするといっても、ありきたりの作品では記事にはならない。公職の体育教師が、それも性をテーマにした『オー嬢の物語』を舞踊化するというのだから、マスコミが目をつけるのは当然のことだ。
 
 公演一週間前のこと、週刊誌の記者がどこから聞き出したのか、学校を訪れて、ミカの上司や、同僚の先生方に『オー嬢の物語』の公演について、いろいろと質問されたことから、騒ぎが大きくなっていった。
 
 週刊誌や、スポーツ紙などは、ミカの裸のことにしかスポットを当てず、興味本位にしか書かないが、これはぼくのねらいだった。
 
 今までの舞踊公演というと、出演者が親族、友人、知人にチケットを押し付けて見に来てもらう。
 一般の人で舞踊に興味を持って、チケットを買い、見に来てくれる人は皆無に近い。ぼくは『オー嬢の物語』という、フランスの地下文学の最高峰の作品を舞踊化するのだから、一般誌に売り込むしかないと思った。
 
 それでコネもなく訪ねたのが『週刊新潮』の編集部だった。その絶大な力で会場は満員になった。
 
 週刊誌が興味本位に書くのは仕方がないことだが、舞踊評論家たちも「音楽舞踊新聞」に舞踊評を買いてくれて、ミカの作品を評価してくれた。
 舞踊評論家の池宮信夫さんも、1967年下半期、洋舞ベスト5の4位に選んでくれている。山野博大さんも3位に選んでくれている。
 
 昭和42年11月25日の「音楽舞踊新聞」で池宮信夫さんが絶賛してくれ、裸だけに焦点を合わせたマスコミに対して、裸になることの必然性と、芸術性をプロの評論家が評価してくれたことは、うれしいことだ。
 
 長い評論なので全部は紹介できないが、最後にこう結んでいる。
「伊藤ミカは舞踊家をやめて、オブジェになって作品を完結した。舞踊家として見られることと、オブジェとして見られることは違う。そのときの視線を受けることで、彼女は品位を身につけた。
『オー嬢の物語』は、その品位を問題にした小説なのだ。〈肉体を涜されることによって彼女は品位を身につけたのである。とにかく問題なのは品位であった。あたかも内なる光によって、照らされるかのように、彼女は品位によって輝いていた。〉という部分を伊藤ミカが舞踊で見事に表現し得たということで、この小説の完全上演が行われたことになると思う。」
 
「この小説の完全上演」これ以上の賛辞はない。裸になるなんていうことは、問題ではない。
 当時の若者が愛読していた「平凡パンチ」昭和43年2月12号の人気コーナー、陳平対談にミカは登場している。
 
 チンペイ あなたの場合、肉ジュバンでなく、全裸にならなきゃいけない理由があったの?
 
 ミカ あります。オー嬢のいうのは完全なるドレイで、ぜったいに妥協しちゃいけない。だから肉ジュバンではウソになります。
 
 あとは『裸の女房(彩流社刊)を購入して読んで、渋谷のポスターハリスギャラリーの写真展を見に来て欲しい。

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2014年11月17日 (月)

バイセクシュアルを考える!

 とんでもない告白をしてしまって、「バイセクシュアル」のことを書こうとしたのに、脱線してしまった。
 
 あの老人好きの坊さんに、ぼくは感謝している。いい経験をさせてもらったと。
 
「LGBT」と名づけた人って、「B」のバイセクシュアルの人の実態を、どう考えておられるのか。
「B」の人が、この世に何人ぐらい存在しているのだろうか。これは男性だけでなく、女性にも、男性と女性を同じように愛することができる人がいるということに違いない。
 
 ぼくは同性愛の雑誌『薔薇族』を1971年に創刊させて、多くの読者と知り合うことができた。
 ゲイの世界って、知れば知るほど奥が深いというか、複雑だ。
 
 男が好きな男だということは、自分でははっきり分かっているのだろう。女性を愛するということはない。だからといって、男とセックスすることにもふみきれない。
 一度でも男セックスしてしまえば、もう元に戻れないという恐さがあるからそれもできない。ひとりで処理するしかないのだ。そのまま歳をとってしまっている男性に何人か会ったことがある。
 
 ぼくの家に訪ねてくる男性も、初対面で、「ぼくはゲイですが」という人は少ない。たいがいの人が「ぼくはバイセクシュアルです」と言う。
 
「バイセクシュアル」という言葉は、なんともかっこいい響きを持っている。ぼくが『薔薇族』を創刊した頃の時代は、ゲイであっても女性と結婚しないわけにはいかなかった。
 両親は孫の顔を見たいと思うだろうし、会社の上司に結婚をすすめられる。30歳を過ぎて、結婚しなければ「あの人、おかしいのでは」と言われるし、女性にしても25歳過ぎても結婚しないと「売れ残り」と言われた時代だった。
 
「結婚」の問題が読者にとっては人生の最大の悩みだった。どうしても女性と結婚できない人もいたが、多くの人は女性と結婚し努力して性をして、子供をもうけているのだから、当時の男性はがまん強かった。
 女性にゲイだと知られたり、性生活がうまくいかず離婚する人も多かったようだ。
 
 時代が変わって、いろんな理由で、男も女も結婚しない人が増えてしまったから、ひとりでいても変に思われることもなくなった。
 なんとか奥さんとも性をし、男性とも付き合っている人もいる。そういう人をバイセクシュアルというのだろうか。
 
 人間、だれもが自分の心の奥底までは分からない。心臓だってひとりでに動き続けている。
 
 意味もなく女性を殺してしまう男がいる。テレビの取材班が、犯人の友人や知人に、インタビューすると、口をそろえて「まさかあの人が」とか「あんなに愛想のいい人が」と答える場面をよく目にする。
 人間、外見だけではわからないものだ。
 
「例外」ということもあるから、この世は広い。男も女も同じように愛せる人がいないとは断定できない。しかし、少ないことは間違いない。
 
 ぼくは結論的には、バイセクシュアルは存在しない、最初は女性を愛していても、いずれは男の方に行ってしまうものだ。ただ女性の場合は、からだが受身にできているから男性との結婚生活を続けているのだろう。まして子供がいれば……。
 
 バイセクシュアルというあいまいな言葉、これはある意味で、ゲイの「逃げ場」だ。「あの趣味が」ということと同じで、あいまいだからいいということだ。
 
★コメントを寄せてください。必ず読みます。

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2014年11月15日 (土)

初めて藤田竜君にほめてもらえるかな!

「朝日新聞」の11月2日朝刊の一面と二面に掲載された、「性同一性障害」で、21歳で亡くなった女性の話。
「ありのままで いたいのに」と題する同性愛者の話。さすが「朝日新聞」と感動したものだ。
 電通総研が国内の成人約7万人を対象にした調査では、5.2%。国や人種に関係なく、人口の5%とされるとある。
 
 ぼくはもう少し多く、6,7%と思っているが、これは推定にしかすぎない。
 
「LGBT」という呼び方があるそうで、誰が命名したのかは、ぼくには分からない。「L」は女性同性愛者のレズビアン、「G」は男性同性愛者のゲイ。「B」は両性愛者のバイセクシュアル。「T」は心と身体の性が一致しない人のトランスジェンダーのことだそうだ。
 
「LGBT」という分け方は、便宜上つけたもので、はっきりとした根拠があって名づけたものではないだろう。
 ぼくは長い間、ゲイの専門誌『薔薇族』を出し続けてきて、多くのゲイの人との出会いがあったが、ゲイの世界って複雑で、そう簡単に区別できるものではない。
 
 創刊号からずっと付き合ってくれた、『薔薇族』の相棒の藤田竜さんから、さんざん言われたものだ。
「伊藤さんはノンケ(女好きの男の人のこと)だから、ゲイの人のことを理解できない」と。
 
 たしかにぼくは女性しか知らない。男性と寝たことはないし、他人さまの男根を82歳になるまで、握ったことはないし、また、ぼくの男根をしゃぶられたこともない。 
 これでは藤田竜君の言うように、ゲイの人の本質を理解できないのは、当然のことかも知れない。
 
 もう20年以上も前のことだ。下北沢の北口に「イカール館」というカフエを開いていたことがあった。そこでよく読者から電話がかかってくると、お茶や、食事をごちそうして、おしゃべりしたものだ。
 
 20数年前のこと、当時、大学生だった青年と何度か出会ったらしい。ぼくはまったく覚えていないが、その青年はずっと覚えていたらしい。
 今年の3月のぼくの誕生日の前に、その時の青年だという人から電話がかかってきた。関西の人だそうだが、上京するのでぜひ会いたいという。
 渋谷のいつも友人たちと出会う、東急プラザの5階のカフエで会うことにした。あれから30年近く経っている。なんとでっぷりした僧侶だった。
 
 一回目の出会いのことは、「満月だけが見て知っている」というタイトルでブログに書いた。
 さて、二度目は、東京で法事があって、また僧侶が上京してきた。20数年前、ゲイの人の紹介で指圧の上手な先生を自宅に招いて何度かもんでもらったことがあった。
 その指圧の先生と、僧侶は知り合いで、上京してくると、ホテルに呼んでからだをもんでもらっていたようだ。
 
 豪華な食事のあとで、東京の夜景が見下ろせる35階のホテルの広い部屋。その日は、オイルマッサージをしてくれるという。パンツを脱がされたときは、なにかがはじまるなと覚悟した。
 僧侶はすでに裸になっていた。82歳にして初めて、相手のモノを握り、しゃぶられた。
 
 バイセクシャルのことを書こうと思ったのが、とんでもない脱線をしてしまった。この僧侶、老人が好きな人で、若い時に出会ったときも、ぼくに憧れていたとは……。
 

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2014年11月10日 (月)

世の中が活気に満ちあふれていたから!

 2004年の4月に、河出書房新社から『原宿セントラルアパートを歩く=1962−86 あの場所にいたクリエイターを訪ねて』という本が君塚太編著で出版されている。
 
 冒頭にこんなことが。
 
「東京は原宿、表参道と明治通りの交差点の一角に、セントラルアパートが建てられたのは1958年、もともとは住居用の高級賃貸“マンション”だったこの建物に、62年ぐらいから70年代にかけて、グラフィックデザイナーやイラストレーター、写真家、コピーライターなどが続々と事務所やスタジオを構え、雑誌の編集室や出版社も入居するようになる。
 
 セントラルアパートが今も「伝説の……」という言葉を添えて語られるのは、入居していたクリエイター達が、日本のポップ・カルチャーの草創期を席巻した錚々たる顔ぶれだったからである。」
 
 この建物は1996年7月に取り壊されているから、今では見ることはできない。
 宇野亜喜良さんは、セントラルマンションの460号室に入居したのが、1965年、その後、3、4年で転居している。
 
 この時代の宇野さんは、「マックスファクター」の専属デザイナーとして活躍していた。先妻の舞踊家ミカが、デザイナーの神様的存在だった宇野さんに、まったくの紹介者もなく訪ねたのか、今では知る由もない。
 
 ぼくの世田谷学園から、駒大時代の親友、劇団「人間座」の主宰者であり、演出家の江田和夫君が、1966年に栗田勇さんの『愛奴』を劇化し、宇野さんが宣伝美術を担当しポスターを製作しているから、江田君の紹介かもしれない。
 
 それにしても無名の舞踊家ミカのために、ポスターを製作したのだから、ありがたいことだ。
 
 ぼくもセントラルマンションに宇野さんを訪ねたことが何度かあったが、トビラは開け放たれていて、BGMが廊下にまで聞こえ、何人ものスタッフが忙しそうに動きまわり、活気に満ち溢れていた。
 
 宇野さんは澁澤龍彦さん訳の『オー嬢の物語』を舞踊化するというので、興味をもったのだろう。
 ポスター、チラシ、チケットと、助手にやらせるのではなくて、すべてご自分でデザインしてくれた。
 その後も『週刊新潮』は何度も記事にしてくれ、グラビア頁に写真を載せてくれたのだから、すごいことだ。
 その効果は抜群で、再演のときなど、当日売りのチケット売り場に行列ができたほどだった。
 
『オー嬢の物語』の舞台美術を担当してくれたのが、画家の金子國義さん。大道具の十字架のセットに、ひとりで絵を描き、何人もの踊り子のタイツにも絵を描き入れてくれた。
 
 フクロウの面を製作してくれたのは、人形作家の四谷シモンさん。麿赤児さんも出演してくれている。
 こんな豪華な舞台を製作できたなんて夢のような話だ。
 
『オー嬢の物語』が話題になったからだろうか。カメラマンの篠山紀信さんが、『芸術生活』のグラビアに載せるために、当時「梅ヶ丘」にあったスタジオに来てくれた。
 
 68年の6月号に、その写真は掲載された。そのとき写真を引き伸ばして、10枚ほど送ってくれた。45年間、大切に保存していたのを篠山さんの承諾を得て、ミカの写真展に展示する。
 
 宇野さんのポスター、篠山さんの写真、ミカは、どんな思いでいるだろうか。

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2014年11月 8日 (土)

美輪明宏さん、寺山修司さんの原稿を!

 いよいよ、ぼくの今年最後のイベント、渋谷「ポスターハリスギャラリー」で催される「文ちゃんのアンティーク・コレクション蚤の市」と「伝説の前衛舞踊家 伊藤ミカ写真展」の開催日が近づいてきた。
 
 2014年11月28日(金)〜12月7日(日)まで、13時から19時までだ。東急本店をめざしてきて、「俺流ラーメン」の横を左に曲がると、すぐ2軒目に「魚新渋谷店」がある。そこをさらに左に曲がり、突き当たりの階段を上がったところ。「ドンキホーテ」の裏側にある。
 
 我が家のすぐそばの東急バスの停留所「淡島」から、田舎のバスみたいだけど、一時間に二度だけ、「東急本店行」のバスが出ているのでありがたい。それに乗って会期中、毎日ギャラリーに通いますから、声をかけてください。一対一でどんな相談にも乗ろうと思っていますから。大入満員だったら、そんなことできないだろうが……。
 
『薔薇族』編集長としては、かわいいものばかり展示するのではどうかと思うので、どきっとさせるものもと考えている。
 いつどこで、いくらで買ったものか忘れてしまっているが、なかなかいい出来の木彫りの×××が四体ある。これはまとめて購入してくれるとありがたい。
 
 ぼくが戦時中、陸軍大佐?だったときの凛々しい軍刀を手にした写真がある。軍帽をコレクションしようと思ったこともあったが、わずか7点でやめてしまった。
 軍帽って、どんないい男がかぶっていたのだろうと、想像するのが楽しい。軍帽をかぶると、青春がよみがえって元気が出てくる。
 
 20年ぐらい前だったか、ロサンゼルスのゲイパレードに招待されたとき、ロシアの人が多く住んでいるというところへ行ったことがある。リサイクル屋があったので、ロシア兵の軍帽を買うことができた。
 
 かつて下北沢南口の商店街2階に、軍用品ばかりを売っている店があった。ご主人はスイス人で、奥さんは日本人。ご主人の関係でスイスから仕入れたものが多かった。
 スイスの軍帽は、いかにもオシャレだ。戦前のものだと、ご主人は言っていたが……。
 
 今でも残っているかもしれないが、上野のアメ横に、確か軍装品ばかりを売っているお店があった。(こんなときネットで調べられないなんて情けない)
 渋谷の西武でパートの前に、大盛堂書店のビルがあった頃、地下に軍装品の店があったが今はない。
 
『薔薇族』の読者の中には、熱烈な軍装マニアの人がいたけれど、ネットで調べればいまでもいるに違いない。戦争は悪だけど、軍装には男の匂いと、ロマンを感ずるのかもしれない。
 
 男絵はすでに処分してしまって、あまり残っていないが、平野剛さんのものはある。お見せするので声をかけてほしい。
 
 これはぼくの宝物で、お売りすることはできないが、寺山修司君が、『薔薇族』の読者のために、百五十号の記念号のために寄せてくれた詩の原稿がある。
 二百号の記念号を出したときに、美輪明宏さんが、お祝いにと寄せてくれた、すばらしい原稿。これも読者に寄せてくれたものだから、大切にしてある。それらも展示したいと考えている。
 
『薔薇族』を創刊した、1971年頃は、マスコミの間でも、同性愛はタブーだったから、新聞紙上に載ることはなかった。
 それが11月2日(日)の朝日新聞の朝刊一面トップと二面に、「〝自分〟追いつめた性別」と題して、21歳で亡くなった性同一性障害の女性のことが書かれている。それと同性愛者の話も。さすが朝日と思ったが、あまり同性愛の世界は進化していないようだ。
 
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