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2014年12月

2014年12月22日 (月)

貧乏人にも優しい政治を!

 保証協会から2ヶ月に1度、借金の督促状の葉書が郵送されてくる。返済されない場合は、法的な手続きをとると書かれている。あまりいい気持ちではない。
 
 会社が10数年前に借りた、5千万ぐらいの借金のようだが、経理は女房と息子の嫁にまかせっきりだったので、なんのために借りたのかは覚えていない。
 
 保証協会というのは、芝信用金庫代沢支店からお金を借りたとき、間に入って借りた人が返済できなかった場合、信用金庫にその借金を保証するという制度のようだ。
 
 もちろん会社の借金であっても、社長の住んでいる家、土地は担保にしなければならない。
 
 下北沢の駅に近い下北沢マンションの206号室を40年以上も前に、購入してあったので、女房と二人で住んでいた。そこも信用金庫の担保になっていたので売って、保証協会に払った。
 
 もうぼくの財産は、新潟の弥彦村の「ロマンの泉美術館」しかないが、これはもう数年閉じたままで、廃墟になっている。
 
 壊して更地にするには、莫大なお金がかかり、修理して使えるようにするのにも同じようにお金がかかる。廃墟にして朽ち果てるのを待つしかないのだ。
 
 保証協会も債権を取り立てるのは、別会社になっている。下北沢マンションの部屋は、地震の前に売ったので高く売れた。とはいってもそのお金は保証協会の方に入りぼくの手許には、一銭も入ってこない。
 
 それでもまだ、二、三千万の借金が残っているから、督促状が送られてくるのだ。
 
 二、三年すると担当者が変わる。新しい担当者から電話がかかってきて、一度足を運んで欲しいという。
 
 あいにく雨の日だったが、息子の嫁が地図を書いてくれた。銀座線の「京橋」で降りて6番口を出て、5、6分のところの「ブリジストン美術館」のとなりの大きなビルの8階だ。
 
 取調室のような部屋がずらっと並んでいて、その一室に招き入れられた。担当者は50歳前後の感じのいい人だった。
 
 会社の決算報告書も見せた。前任者から受け継いでいるらしく、督促状が送られてくると、ぼくはすぐにわが家の経済状態を書いて、宝くじを当てて払うしかないと、いつも同じことを書いて送っていた。なんにも返事を出さないよりは、担当者への心象はよかったようだ。
 
 とりあえずわが家の経済状況を説明したので、払えないということを理解してくれたようだ。
 
 戦法は借金を取り立てるという仕事がある。少しでも払ってもらわないと、担当者は困るのだ。
 
 ぼくは月に二、三万でも払えというのかと思ったら、なんと月に五千円ずつ納付書を送るから振り込んでくださいということだ。
 
 ぼくは酒も煙草も嗜まないから、少し節約すれば五千円なら返済していける。ところが問題は、税務署もそうだが、年利14%が加算されるのだ。借金を返せない人に、なんでそんな高い利子を払えというのか。
 
 それに保証協会は税金でまかなっているそうだが、なんであんな立派なビルに入っているのか。もっと場末の安いビルに入ってもらいたいものだ。
 
 お金持ちには銀行は安い利子で貸すが、庶民が借りるとなると、とんでもない高い利子を払わなければならない。貧乏人にも優しい政治をおねがいしたい。
 
 五千円でも返すと、もう督促状は送られてこないそうだ。やれやれだ。
 
 ブログを読んでくれている方々に、クリスマスプレゼント。カリフォルニアのフルーツのラベル。果物を生産している農場が作った、おしゃれなラベルだ。
 
Gazou
 
「文ちゃんと語る会」
2015年1月24日(土)夕方5時〜7時
「織部下北沢店」
〒155−0031 世田谷区北沢2−2−3 
TEL 03−5432−9068
 
女性も歓迎、ぜひ、お出かけください。

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2014年12月20日 (土)

「ゴムでもないのに伸びちぢみ」なんのこっちゃ!

 ぼくが日本で最初に1971年に創刊した同性愛の専門誌『薔薇族』って、ありがたい雑誌だった。
 
 いろんな職業の読者がいたから、何かわからないことがあると、「編集室から」に書くと、時間はかかったけれど教えてくれた。
 
 この人も「人生薔薇模様」という読者の投稿欄に投稿して呼びかけたら、何通も手紙が舞い込んで教えてくれたという。
 
 その質問というのは「金玉の七不思議」の歌詞をご存知の方は教えて下さいというものだ。
 
 早速、7、8通の手紙が舞い込んできたが、みんなうろ覚えで、逆にわかったら知らせてくださいという手紙ばかり。
 
 半ば諦めていたところへ、突然一通の手紙が。期待していた歌詞が書かれていた。交通公社へお勤めの方で、運転手さんか、車掌さんかは不明だが、長距離の車中でお客さんが疲れたころに、サービスで歌っているとのことだ。
 
 
 金玉の七不思議
 
 ゴムでもないのに伸びちぢみ
 牛でもないのにミルク出し
 竹でもないのにフシがある
 酒でもないのにカスためて
 竿は竿でも物干さず
 偉くもないのにひげはやし
 日かげにあれど色黒し
 これぞ金玉の七不思議
 
 
 うまいこと考えたものだ。女性にはなんのことかわからない人が多いだろうが、女性の××××も歌詞を考える人はいないものだろうか。
 
 自民、公明が議席の過半数をしめてしまって、安倍さんのやりたい放題になってしまうのだろうか? 2015年、日本の将来は暗い。こんなバカバカしいことを考えていなければ生きてはいけない。
 
 この投稿者は秋田県の人で、小学校の教師。こんなことも書いている。
 
「10年前の貼る、平均年齢41歳、30名の職員の中に、輝く若さと、はちきれんばかりの健康美を兼ね備えた体育大卒の美男子が、一年間講師として配置になりました。
 
 小学校3年担任のわたしの隣がKの席、かわいがりました。公私ともに同僚がうらやむほどに。歓迎会の席上に「金玉の七不思議」を歌い拍手喝采。こんな歌もあるのかと、ただ同僚は唖然とするばかり。
 
 Kとの出会いは素晴らしいものでした。一年間、影のごとくつねに一緒でした。春の運動会の練習、放課後のクラブの体育指導、卓球大会、フォークダンスのレクリエーション、ソフトボール大会等など、若さの発散は眼を見張るばかりだ。
 遠足のあとの慰労会など、酒との付き合いも最終ラウンドまで。
 
 一年間の慰労と送別を兼ねての一泊旅行。
 酔ってひとり感傷に浸っていた。「大丈夫ですか」と、突然耳元で低いがはっきりしたKの声、労うような慈愛に満ちた優しい声で。いつ入ってきたのか、まったく気づかなかった。
 
「一年間ご苦労だったな」「いろいろとお世話になりました」
 
 握手がいつしか抱擁になり、涙となった。この一年間の苦しかったこと、楽しかったこと、また将来のことなど、空が白むまで語り明かした。顔を見合わせ、にっこり笑いながら、強く強く抱き合う。自然に口づけ、あとは流れに身を任せるのみ。若いエネルギーの爆発は、一度では収まらなかった。」
 
『薔薇族』の読者で、多かったのは学校の教師だった。なんとなく暗い世の中、「金玉の七不思議」でも歌って、うさをはらすか!
 
「文ちゃんと語る会」
2015年1月24日(土)夕方5時〜7時
「織部下北沢店」
〒155−0031 世田谷区北沢2−2−3 
TEL 03−5432−9068
 
今年も続けます。女性も歓迎、ぜひ、お出かけください。

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2014年12月15日 (月)

2015年もぼくのブログを見てね!

 2014年、新年早々残念だったのは、母校駒沢大学が59秒の差で、東洋大学に敗れて2位になってしまったことだ。往路も4分の差をつけられて2位。2015年はなんとしても優勝してもらいたい。
 野球は東都6大学リーグで、しばらくぶりの優勝。母校が優勝するというのはうれしいものだ。
 
 秋葉原のお店でニコニコ動画のナマ番組に出演させてもらい、何万人もの人が見てくれたとか。
 ネットも触ったこともなく、携帯電話をもたないぼくを若い人たちがたすけてくれて、ブログを今年も書き続けることができた。
 ボランティアで毎週、土曜と月曜に原稿用紙4枚を郵送すると、更新してくれる猪口コルネくんには感謝の言葉もないくらいだ。
 
 秋葉原のIKDインターナショナルの池田ふみさんと、小松原慎人さん、ツイッターなるものを始めてくれ、山川純一の劇画をいろいろと商品化してくれている。その行動力には頭が下がるばかりだ。
 
 一緒に住んでいる孫が小学校を卒業し、中学生に。背がぐんぐんのびてぼくよりも10センチ以上も大きくなってしまった。ついこの間まで乳母車に乗せて、あちこち連れ歩いていたというのに、子どもの成長は早い。それだけぼくが年齢を重ねたということか。
 
 世田谷学園の同期会の幹事役を20年以上続けているが、最初の頃は5、60人は集まって賑やかだったが、2014年は8人。来年は5、6人集まればいいところか。
 
 5月に専修大学の講師の先生から頼まれて『薔薇族』の話をすることになっていたのが、間際になって学校側から理由を言わずに中止ということになってしまった。まだまだ偏見が残っているということか。
 
 12月22日に東大の駒場校舎で、やはり講師の先生から講演を頼まれた。劣等生のぼくが東大生の前でおしゃべりするなんて夢のようだが、今年のしゃべり納め、しゃべりまくりたいものだ。
 
 今年の最大の収穫は、下北沢南口のカフエ「織部」の店長、奥村さんと出会ったことか。元デザイナーだった奥村さんが、先妻の舞踊家、ミカのクラブ「スペースカプセル」でのショウの写真をデザインしてくれて、Tシャツを作ってくれた。
 
 渋谷の「ポスターハリスギャラリー」での「文ちゃんのアンティーク蚤の市」でTシャツが5枚売れた。下北沢の「ヴィレッジバンガード」でも扱ってくれるようなので、ぜひ買ってほしい。
 
 今年も時代劇の「鬼平犯科帳」と「剣客商売」をずっと見続けた。何度も何度も同じものを放映しているのだが、すぐストーリーを忘れてしまうので、何度見てもあきないのだからありがたいことだ。
 
 今年に入ってから急速に耳が遠くなってきた。耳が遠い人ほど長生きするというから、よろこばしいことかもしれないが、ぼそぼそしゃべられると、まったく何をしゃべっているのか分からない。
 
「織部」に置いてある朝日新聞に「悠遊ショップ」の一頁広告があり、片隅の「オムロン・イヤメイト」(¥19800)の文字に気がついた。店員の女性にメモをしてもらって、帰宅してから電話で注文した。こんな機械の助けを借りるなんて情けない。
 
 8月は三軒茶屋のサンバ祭。カメラを持った男たちの狙うところは巨大なオッパイ。男の欲望ってスゴイ。ぼくもねらうところはオッパイだが、そんな欲望があるだけでも幸せか。
 
 とりとめもないことを書いてしまったが、これから年賀状を300枚ほど書かなければ。病気をしないで今年も終わり。感謝!
 
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2014年12月13日 (土)

「蚤の市」の大きな収穫は、若い女性とのおしゃべり!

「文ちゃん(伊藤文学)アンティーク・コレクション蚤の市・併設展・伝説の前衛舞踊家・伊藤ミカ写真展」11月28日から12月7日までの10日間の会期を無事に終えることができた。これもぼくを応援してくれた、皆さまのお蔭と感謝している。
 
 10日間ってあっという間だったが、「ポスターハリスギャラリー」の長谷川町子さん、もうひとりの若い男性(お名前をわすれてしまった)が、展示の仕方を工夫してくれたので見応えのある催しになった。
 
 28日夜のオープニングパーティには、なつかしい友人、知人が狭い会場に40名も集まってくれて、賑やかに幕を開けることができた。
 
 10日間で見に来てくれた人は、100人足らずだったが、わかりにくい会場にたどりついた方々は、さすがに熱心に見てくれた。
 
 画廊の常連のお客さんが多かったのは当然だが、「伊藤文学と語る会」に出てくれた人が何人もいた。明治大学のかわいい女性のHさんは、語る会にもよく顔を出し、パーティにも出席してくれ、また蚤の市も見に来てくれて何やら買い求めてくれたようだ。
 
 見に来てくれた半数以上は若い女性だから、ぼくとしては張りきらざるをえなく、写真を一緒に撮らせてもらったり、おしゃべりに夢中だった。
 
 45年前の舞踊雑誌の「人と作品」と題する頁に、ミカのことを書かせてくれたものを写真とともにコピーして展示していたのだが、文字を読んでくれる人は少なかった。
 
 ひとりの若い女性が、かがみこんでぼくの文章を熱心に読んでくれていた。そんな人がいなかっただけに、ぼくは感動して声をかけてしまった。
 
 ひとりでアパートに住んでいて、正規の社員ではない仕事だそうだから、決して生活は楽ではないだろう。森茉莉さんのフアンで、ネットを見ているうちに、ぼくのブログにたどりついて来てくれたそうだ。
 
 秋葉原のお店でニコニコ動画の生番組があり、それに出演した折に、ちょこっとおしゃべりした保険会社に勤めているという女性も来てくれた。携帯にぼくと一緒の写真が収まっていたのはうれしかった。
 
 ミカの写真は刺激が強いだけに、顔をそむけるのではないかと、心配していたが、その気迫あふれる写真を受け入れてくれたようだ。
 
 黒川紀章さんが内装を設計し、照明は東京タワー、東京駅の照明をデザインした若き日の石井幹子さん。時代の最先端をゆく、クラブ「スペースカプセル」のショウに出演することができたのは幸せだった。
 
 中央公論社の編集を長く勤められたという86歳の吉田好男さん、名刺の肩書に小さな文字で「路地裏の編集者」と書かれている。ぼくよりも4歳も年上だというのに、記憶力は抜群で、クラブ「スペースカプセル」のこともよく覚えているのには驚きだった。
 
 テープレコーダーを持ってくればよかったが、貴重な話をしてくれたのに、すぐに忘れてしまうのでは、もったいない話だった。
 
 最近のぼくは耳が遠くなってきているので、吉田さんの声は聞き取れなかった。補聴器を耳につけなければならないのだろうか。
 ぼそぼそと小さな声でしゃべる人には、大きな声でと、お願いすることにしている。
 
 今の世の中、庶民のふところは寂しいから必要でないものは買わない。でも古いものを好きな人にとっては、ついつい買ってしまう。
 
 まあ、お金ではない。若い女性たちとおしゃべりできたことが、大きな収穫だった。
 
 困ったのは60点も売れ残った額装してある絵だ。誰かまとめて買ってくれる人いないかな。ぼくの狭い部屋がいっぱいで身動きができないよ。
 
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新潟の大学生と
 
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元気な吉田好男さんと

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2014年12月 8日 (月)

横尾忠則さんも、クラブ「スペースカプセル」のオープンに駆けつけた!

 ミカが毎週、金曜日のショウに出演していた、赤坂のクラブ「スペースカプセル」のことはあまり記録が残っていない。
 
 ぼくが保存していた「月刊SHOW MAGAZINE 芸通96号」に、こう紹介されている。
 
「住所・港区赤坂2−16−13、テイサンレジデンス地階。社長・山名雅之、支配人・高橋繁。TBSスタジオ(かつての)に近く、赤坂の繁華街からそれた静かな一角にある。
 
 ハイセンスでユニークなクラブとして、オープン以来、数々の話題をまいた店で、土地柄、芸能人や、文化人の常連が多い。
 
 点滅をつづける照明と、GS学園の演奏効果に加えて、フロアショウはモダンアートの本格派たちが、粋をこらして番組を構成している。都会派のインテリなら一度は訪れて前衛感覚の何たるかをここで把握しなければ損をするような店である。ショウタイム・9時・11時」と紹介され、ミカの裸の写真が載っている。
 
 ぼくはミカのショウの照明係をやっていたから見ていたが、他の人のショウは残念ながら見ていない。ミカのショウが抜群に、マスコミに取り上げられたことは間違いない。
 
「ポスターハリスギャラリー」の長谷川町子さんに、「スペースカプセル」の記録がネット上にもほとんど残っていないと嘆いたら、ネットを使って貴重な雑誌を見つけ出してくれた。
 
 美術出版社発行の「デザイン」第117号で、昭和44年1月1日発行、¥500、その中に、横尾忠則さんが「スペースカプセル オデッセイ=スペースカプセル訪問記」を店内のカラー写真(大橋富夫・小山孝)入りで書いてくれている。オープン当時に書かれた貴重な資料だ。
 
 設計・黒川紀章 グラフィックデザイン・粟津潔 照明デザイン・石井幹子 構成 演出・一柳慧 電子装置・奥山重之助 プロデューサー・山名雅之 協力・寺山修司、石原慎太郎、谷川俊太郎という、すごい顔ぶれだ。
 
 照明デザインの石井幹子さんは、東京タワーや、東京駅の照明をデザインされた方だ。
 
 横尾忠則さんが「スペース・カプセル」のオープンの日をワクワクして待ち、そのオープンの日を楽しみにしていたに違いない。
 
「石原慎太郎さんが「ここに本物のソティスフィケーションがある!」と、おっしゃっている案内嬢を手にオープニングに出かけた。
 ところが超満員御礼でシャッターアウト! しかしカワイイタレント子ちゃんが、カッコイイ車で乗りつけて、二言、三言、彼女は入場OK。
 
 ――チキショーッ!
 
 見れないとなると、ますます見たいのが人情。そこで私は一週間後、また超満員で入れてもらえなければ困ると思い、私が日夜、バカミタイ二、イカレテイル女優のAさんを誘った。さすがAさんだ。一発で入場OK。
 
 私は前もって彼女に「なんたって、飛ぶ鳥もウィンク一つで落とすというスゴイ奴らが作った日本一のディスコティックだよ」と、大風呂敷を広げて連れてきたのだ。私もなんだか自分の言葉のイリュージョンにかかって胸をドキドキさせながら、金だか銀だかの獅子の頭の取っ手のついた重い扉を押すか引くかしてカプセルと名付けられた部屋に入った。
 
 暗示にかかりやすい私は、カプセルという名を聞いただけで、もう宇宙船の中にいるような気分になってしまったものだ。(後略)」
 
 こんなスゴイクラブでショウをやらせてもらったミカが張りきらないわけがない。亡くなる数日前までの一年間、ミカのショウは話題になりそれこそ超満員のお客さんが来てくれた。
 
 今の若い人たちにも見てもらいたかった。
 
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ショウ「静かの海の恐怖」を踊るミカ
 
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東京駅の照明を手がけた石井幹子さんが店内の照明を考案した。

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2014年12月 6日 (土)

日本女子体育大学の同級生が出席してくれた!

「文ちゃん(伊藤文学)蚤の市・伝説の舞踊家・伊藤ミカ」の会期は、この原稿が更新される頃には終わってしまう。
 
 12月1日(月)は、画廊の休廊日、28日(金)の夜のオープニングパーティ、そして土曜、日曜と、あっという間に過ぎてしまった。
 
 オープニングパーティには、狭い会場に40名の友人、知人が押しかけてくれて大盛況。ミカが世田谷区立の下高井戸にある、松沢中学で保健体育の今日しの時代に教え子だったO君も参加してくれた。
 
 化粧が濃いとか言われて、教師仲間ではあまり評判がよくなかったようだが、生徒たちには人望があったようだ。
 
 野球部の選手だったO君のことを好きだとミカは日記に書いていた。このO君、「オー嬢の物語」を見たというのだから、ませた少年だったのか。
 
 日本女子体育大学時代のミカの同期生、高橋美智子さん、ご主人と一緒に来てくれた。美智子さんの学生時代は、目がぱっちりとした美少女だった。現在は78歳ぐらい、ミカも生きていれば老婆になっていたのだろうが、美智子さんは今でも美しい。
 
 宇野亜喜良さんが出席してくれるというので色紙を何枚も持ってきて、サインをしてもらうつもりの方が、お会いするのを期待していたのが、歯の具合が悪くて、奥様から電話があり、欠席されてしまったのは残念だった。
 
 イタリア料理の店の出張サービスで、料理も美味しかったので全部たいらげてしまった。
 
 台湾料理の店で、10人ほどが残って、12時近くまでのんで、語って大盛り上がり。みんな楽しんで帰ってくれたので大成功でした。
 
 さて、次の土曜、日曜、多くの人が来てくれるものと期待していたのが大はずれ。やはり甘いものではなかった。
 会場のポスターハリスギャラリーもわかりにくい場所にある。ぼくも最初に訪ねたときは迷ってしまった。若い人は携帯で場所がわかるようだが、そうでない人は迷ってしまってたどりつけず、何人も電話で場所を聞いてきた人もいた。
 
 やはりネットを見ている人って、自分の足で会場に行ってみようという人はいないようだ。「伊藤文学と語る会」に出席してくれた人は、何人も来てくれた。
 
 画廊の常連さんのような人も多かった。立正大学の国文科の4年生だという、ぼくの学生時代に似たような、ひ弱な青年と話し込んでしまった。
 
 就職活動をしていて30数社で面接を受けたが、全部ダメだったという。ぼくが面接する会社の人間だとしても、この学生はとらないだろう。
 もっと自信を持って、大きな声でしゃべれと、励ましたが。
 
 彼はぼくの学生時代と同じで、短歌を作って、歌集まで自分で作っている。いい感性を持っている好青年だ。
 もしもまだ本気だったら電話してください。いつも待ってますから。
 
 
  その人の裸足の裏が真っ黒でそのままどこまで行く気でしょうか
 
 
 ぼくも学生時代、定型でない短歌を何首か作っている。
 
 
  透明な硝子びんの中でもがく女 女の心はどうしたら捕らえられる
 
  威圧する瞳 瞳 瞳 その中の優しそうな瞳に上眼を使った
 
 
 短歌って悲しいオナニーだ。

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2014年12月 1日 (月)

いよいよ蚤の市が始まるぞ!

「文ちゃんのアンティークコレクション」と「伝説の舞踊家・伊藤ミカ写真展」が、11月28日から、12月7日まで、渋谷のポスターハリスギャラリーで開かれる。
 
 今、この原稿を書いているのが、二日前の26日。ギャラリーの長谷川町子さんが、気合を入れて展示をしてくれている。これはスゴイ蚤の市になりそうだ。
 
 ところが女房の久美子に、先妻のミカの写真展を開くということをどうしても言えなかった。
 
 5年前に彩流社から『裸の女房』を出版したときに、銀座のキャバレー「白いばら」で盛大に出版を祝う会を開いたが、久美子は出席してくれた。
 2DKの狭いマンションの部屋で、原稿を書いていたのだから、久美子にとってはあまり気分のいいものではなかったに違いない。
 
 1971年の1月11日、33歳の若さで風呂場で亡くなった年の秋、北沢八幡宮のお祭りの日に、久美子は訪ねてきてくれた。
 ミカが残した文人は、幼稚園に入園したばかりで、入園したときは入園式にミカが付き添い、卒園するときは久美子が付き添っていた。
 文人を我が子のようにかわいがってくれ、家庭教師まで付けて勉強させたので、京都大学理学部にストレートで入ることができた。
 ぼくの父親、母親を亡くなるまで、一緒に住み、最後まで面倒をみてくれた。これには感謝しないわけがない。
 
 久美子にしてみては、ぼくがこそこそやっていることは、パーティの出欠のはがきがまいこんでくるから、分かっているのだろう。
 バブルがはじけてからの日本は、落ち込むばかり。今の若い人はあまりにもかわいそうだ。日本の活気に満ちた1960年の熱気を知らないのだから。
 
 たまたま45年前のミカの写真のネガを見つけ出した。幸いなことにネガはいい状態で保存されていた。
 無名の舞踊家ミカに、当時、活躍していた超一流の芸術家たちが、こぞって力になってくれた。画家の金子國義さんが、舞台美術を担当してくれ、大道具の十字架に、黙々と絵を描いてくれた姿が今でも浮かんでくる。
 
 1960年代という活気満々の時代のミカは産物だったのではないか。
 
「いつまでも過去を背負っている」と、久美子に言われるのはつらいけれど、もう一度ミカの迫力ある写真を若い人に見てもらって、1960年代の熱気を感じてもらいたいのだ。
 
「文ちゃんのアンティーク蚤の市」は、ギャラリーの長谷川町子さんが、展示に工夫を凝らしている。
 戦前のアメリカから仕入れてきた、手刺繍のハンカチ。瀬戸の陶器のかわいいお人形、アメリカに輸出されたものが、また戻ってきたものだ。
 パリでフランス料理が盛んだった頃のメニュー、これにシェフが料理の献立を書き込んだのだろう。これは貴重なコレクションだ。
 アメリカのカリフォルニアの農場主がこぞって製作した、フルーツラベル。これはすばらしいもので、印刷、デザインがすぐれている。
 パリの女性が使ったコンパクト。開くと鏡がついていて、使った女性の諮問が付いているような気がする。
 
 まあ、いろんなものをよくも買い集めたものだ。買った時の値段は高かった。しかし、もうそんなものは忘れているから、とんでもない安い値段で売ってしまうつもりだ。
 
 このTシャツを着て、街を歩けないかもしれないが、ミカの迫力ある写真入りのTシャツ。魔除けになるかもしれない。これは義理でも買ってもらいたい。
 
 何がなんでも、会場に足を運んでください。会場で待っているから……。
 
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