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2015年3月

2015年3月30日 (月)

あまりにも豪華すぎる『深井美奈子全歌集』

 1950年、昭和25年のことだから、なんと65年前の話だ。今年は終戦から70年ということで、マスコミは米軍のB29爆撃機による東京大空襲の話などを取り上げている。
 
 終戦からわずか5年目の頃、ぼくは阿部正路君(当時は上野にあった学術会議の職員、のちに国学院大学教授となる。その頃は國學院大學の国文科の学生)と、都内十数校の短歌愛好者の大学生を集めて、大学歌人会を立ち上げた。
 
 事務所は当時、世田谷学園北沢1丁目1175番地のわが家、ぼくは駒沢大学国文科の学生だった。
 会員への通知はガリ版印刷で、今は少しは字をうまく書けるようになったが、当時はひどい悪筆。それでも事務的なことはひとりでやっていた。
 ぼくは催物などを考えるのが得意で、今、考えてもすごいなと思う企画を立てて成功させた。
 短歌の世界では、結社という組織があって、主催者がいて、雑誌を発行し、会員から会費を集めて運営している。
 
 その頃、詩人の江口榛一さんを招き、短歌討論会を催したのだ。
 司会は「樹木」主催の中野菊夫さん。講師に作家の中河與一さん(代表作・天の夕顔)「古今」主催の福田栄一さんを招いて、駒澤大学の渋谷校舎で多くの人を集めて催した。
 この催しは朝日新聞の学芸欄にとりあげられ、初めてぼくの名前が新聞にのった。創刊したばかりの角川書店刊行の「短歌」もくわしくとりあげてくれた。
 
 寺山修司くんが「短歌研究」で新人賞をとり話題になったときも、青森から早稲田大学に入学したばかりの寺山くんを招いて、「十代作品を批評する会」を1954年・12月11日に、共立女子大学の教室で催した。
 大学生で歌集を出すということは、経済的に無理なことだった。ぼくは考えて手のひらにのるような小さな歌集を出すことを思いついた。
 
 千部作って5千円かかる。当時、姉が東横デパートに就職しての月給が7千円だった。親父は5千円出してくれなかったが、姉が貯金をはたいて貸してくれた。それを一冊、10円で売ったのだが、全部売れて5千円を姉に返すことができた。
 
 ぼくの歌集は「渦」、友人の相沢一好君は「夜のうた」。こわいもの知らずで、歌壇のお偉方にも送ったが、みんなお礼状を送ってくれた、いい時代だった。
 
 ぼくの「渦」の序文は、昨年、高倉健さんと一緒に文化勲章を授賞した、万葉集研究の第一人者、中西進さんだからすごいことだ。
 中西進さんは再婚相手の久美子と結婚した折には仲人も引き受けてくれた。
 その後、続々と大学歌人会の仲間が小さな歌集を出し続けた。大学歌人会から手を引く頃に入会してきたのが、実践女子大学の深井美奈子さんで、昭和12年生まれとあるから、ぼくより5歳年下だ。
 
 小田急線の多摩川を越えた柿生の丘陵を大学歌人会で、歌会をかねて散歩したことがある。
 ぼくの先妻のミカも参加しているが、早稲田大学の角帽をかぶった、ふくよかな顔つきのかわいい少女が美奈子さんだ。
 青春そのものの写真が今でもぼくのアルバムに貼ってある。美奈子さんの祖父、お父さん、ご主人、息子さんもお医者さん。
 恐らくお金の苦労などしたことがない人だろう。角帽をかぶった美奈子さんは、年をとっても少女のままだ。美奈子さんの全歌集は、豪華、なにも作品を批評する気にはならない。

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2015年3月28日 (土)

「東急プラザ」よ さようなら!

 2015年、3月22日(日)の夕方6時、渋谷の「東急プラザ」の前は、人で埋まった。
 49年の歴史に幕を閉じることを惜しむ人たちが押しかけたのだ。1965年6月の開業から49年、駅周辺の再開発に伴い、新たな複合ビルに生まれ変わる。
 
 2018年度に早くも開業し、地上18階、地下4階で、1階にリムジンバスなどのバスターミナルが整備されるようだ。
「渋谷ヒカリエ」は、すでに完成して地上34階、地下4階、事務所、店舗、文化施設、駐車場などがある。
 我家が代沢5丁目にあった頃は、下北沢駅まで歩いて10分、買物は駅前のスーパーですましていたから、渋谷に買物に行くことはなかった。
 それが追われ追われて、淡島の東急バスの車庫に近い、代沢3丁目のマンションに、女房と息子夫婦と、中学二年生の野球少年と住むようになったのは5年前。
 淡島のバス停まで歩いて3、4分。下北沢の駅までだと、早く歩けないので25分はかかってしまう。そうなると当然、渋谷に東急バスで買物に行くようになってしまった。
「東急プラザ」とのご縁は、それから始まった。
 
 22日の閉館の日、女房と3時頃、バスに乗って「東急プラザ」に出かけた。今日で閉館というので、多くの人たちが押しかけていた。9階のレストラン街にある、うなぎの「松川」、うなぎなんて滅多に食べられないが、最後だというので、食べに行った。
 3時過ぎだというのに満席だった。うな重は高いので、一番安いのを食べたがおいしかった。
 それから5階の紀伊國屋書店の前のカフエ「シャリマアル」。店名の意味を聞いたことがあったけど、忘れてしまった。店名でさえ覚えられないで、紀伊國屋の前にあるカフエと、待ち合わせの相手には伝えていた。
 思い出せば、このカフエでどれだけの人と出会ったことか。窓際の席からは高速道路を走り抜ける車を見渡せ、その向こう側には高層ビルの東急ホテルが見える。
 ぼくは携帯電話を持っていない。誰かと待ち合わせるときは、必ず10分前に着くように心がけている。
 取材や、株式会社「マイルストン」の井上天平君のように、山川純一の「くそみそテクニック」のいろんなグッズを作ってくれた人、復刊ドットコムの「ウホッ!!いい男たち」を製作してくれた女性、Tシャツを作ってくれた人、IKDの小松原慎人君、池田ふみさんは、ヤマジュンを各方面に売り込んでくれた。いろんな人と、このカフエで出会った。
 
 若い女性と出会ったこともあった。携帯を持たないのだから、相手の女性がくるのか、こないのか分からない。顔を見せるまでのワクワク感がたまらない。彼女が顔を見せたときのよろこびは大きい。
 いまどきの若者は、このドキドキ、ワクワク感を味わえないのだから気の毒だとしか言いようがない。
 
 相撲の千秋楽、白鵬が優勝するかどうかをテレビで見たいと思ったので、早めに帰ってきてしまったが、6時の閉館を前に押し寄せた群衆、ニュースで見てびっくり。「東急プラザ」は庶民に支持されていたのだ。東横のれん街は各地の名店がのきを連ねているが、値段が高い。「東急プラザ」の地下の食品街は、小さな業者も多く入っていて安い。魚屋のおじさんも顔を覚えていて、「ダンナいらっしゃい」と声をかけてくれる。ちりめんじゃこのおばさんも顔なじみだ。
 
 西武デパート、パルコが店を閉めたからといって、シャッターが静かに降りるだけだろう。庶民に愛されたから、多くの人が名残を惜しんだのに違いない。

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2015年3月23日 (月)

澁澤龍彦さん、金子國義さん、宇野亜喜良さん―人間の出会いって不思議なものだ!

『澁澤龍彦を求めて』(美術出版社・1994年6月刊・¥2000)に、画家の金子國義さんが「―縁」と題して、「オマージュ澁澤龍彦」を書いている。
 澁澤さんは、昭和62年に59歳で亡くなられた。
 
「澁澤さんが骨になってしまった。小柄だったのに、たくさんのお骨だった。葬儀の日、その量にぼくはなぜか、とりとめもなく感情が昂ってしまった。
 亡くなった知らせを受け、病院にかけつけた夜もそうだった。エレベーターを降りて、霊安室に入るとすでに何人かの人が来ていた。
 焼香が済んで渋澤さんをお棺に納めるとき、奥さんの龍子さんが頭をもち、シモンが脚をもち、ぼくが背中を抱えた。息をひきとってから四時間ほどたっていたが、澁澤さんの背中はまだあたたかかった。そして重かった。入棺後、とりあえずぼくは、たくさんの花束のなかから一束選んでふたの上にそえなえた。(後略)」
 
 澁澤さんという方は、若い才能のある人たちを世に送り出された方だ。金子さんもそのひとりだった。
 1966年『オー嬢の物語』澁澤さんの訳で、河出書房から1966年11月に刊行された。
 その装丁と、本文中の挿絵を金子さんが描いている。翌年、澁澤さんの紹介で、銀座の「青木画廊」で「花咲く乙女たち」と題する個展が開かれ、画壇にデビューした。
 
 世紀末的デカダンスな雰囲気をただよわせる妖艶な女性を得意とする画家だった。
 その頃、ぼくの先妻の、舞踊家の伊藤ミカが独立して、「伊藤ミカ・ビザール・バレエグループ」を結成した。
 ミカは『オー嬢の物語』に出会ったときのことをこんな風に書いている。
 
「このフランスの女性作家ポーリーヌ・レアージュの作品に接したときの私は、少なからぬ感動に打ち震えました。訳者のあとがきによりますと、現実にはそのような作家はどこにも実在しなかったようで、恐らく誰かの匿名だろうとされています。
 しかし、そんなことはどうでもよく、私は「これだな!」と心で叫びました。肉体の芸術である、モダンダンスの形式によって表現するものに、これほど適切な作品があろうか、と私は思ったのです。」
 
 澁澤さんは舞踊家を快諾してくれ、恐らく金子國義さん、宇野亜喜良さんを紹介してくれたに違いない。
 舞台美術を金子國義さん、宣伝美術を宇野亜喜良さん、ふくろうの面の製作を人形作家の四谷シモンさん。今では考えられない豪華なメンバーだ。
『オー嬢の物語』の舞台装置の大きな十字架の彩色を金子さんが、助手を使わずにひとりで描かれた。
 
 厚生年金会館の楽屋に入る裏通りで、もくもくと十字架に彩色していた金子さんの姿が今でも目に焼きついている。
 女性の踊り手のタイツの彩色も金子さんが描いたものだ。
 700人も入る会場が満員。澁澤さんは青木画廊の社長さんと一緒に見に来てくれた。再演も当日売りのチケットを買うお客さんが列をなすほどの大成功だった。
 
 83歳のぼくよりも5歳も若い、金子國義さんが、3月16日、虚血性心不全で78歳で亡くなられてしまった。
 若かりし頃のぼくの応接間には、大きな金子さんの油絵が飾られていた。夢の様な時代だった。ひとりだけ取り残されたような寂しさが……。
 
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2015年3月21日 (土)

「ちりめんじゃこ」よ、さようなら!

 代沢3丁目の大地主、阿川さんの建てたマンションに移り住んでから、早いもので5年近くになる。
 それまでは下北沢の商店街が近かったので、買い物は駅周辺のスーパーで求めることが多かった。
 
 代沢3丁目のわが家からは、下北沢の街に行くのに20分以上かかる。「淡島」の停留所までは、3,4分。渋谷行きの東急バスは、驚くほど、ひんぱんに運行されていて、バスに乗れば10分ほどで渋谷に行ける。
 身体障害者手帳を見せれば、子供料金でバスに乗れるのだ。バスを降りれば、目の前のビルが東急プラザだ。
 
 5階に「紀伊國屋書店」があり、その同じ階にカフエ「シャリマル」がある。大きなつぼに豪華な生花がど〜んといけてあり、このカフエが誰かと待ち合わせるときの場所になっていた。
 地下1階には食品売場があり、庶民的で駅の地下の「のれん街」とは比べようがないくらい安い。5時を過ぎると、お惣菜売場は半額に値下げする。
 
 一軒のお店が出しているのではなく、小さなお店が集まってできている食品街だ。大きな樽に「ちりめんじゃこ」を入れ、一合枡に山盛りにして売っている。
 売っているおばさんと、いつも買いにいくものだから親しくなって、おまけしてくれる。「ちりめんじゃこ」って、なんの魚と思ったら、テレビのクイズ問題で、いわしの稚魚だということを知った。
 ぼくは朝ごはんのとき、毎日、大根おろしの上に「ちりめんじゃこ」をひとつまみのせ、醤油をかけて食べている。これがぼくの健康の元かもしれない。
 
 ところが困ったことに、東急プラザの建物が49年も経ち、老朽化しているので、3月22日で幕を閉じ、解体されてしまうのだ。
 カフエ「シャリマル」は、ポイントカードを発行していて、来店1回につき、1ポイント捺印してくれる。10ポイントたまると、ケーキか、サンドイッチをサービスしてくれる。
 常連客のぼくは、何度サービスのケーキを食べたことか。この店がなくなってしまうと、この近辺にはカフエがない。待ち合わせ場所がなくなってしまうのだ。
 
 名前も聞いていないが、いつもおいしいコーヒーをいれてくれている、おじさんともお別れだ。地下の「ちりめんじゃこ」売場のおばさんも、記念に写真を撮らせてもらったが、78歳だそうで、仕事から引退するそうだ。
 このビルも「ヒカリエ」のような高層ビルになる。ここ数年で渋谷はどんな街になるのだろうか。
 
 現在、ハチ公の銅像が建っているところから、須田町行きの電車が出ていた。駒大を卒業して、父の出版の仕事を手伝うようになってから、須田町行きの電車に乗ることが多かった。
 その頃、本の取次店(本の問屋)は、九段下には、トーハン、大阪屋、大洋社があり、いわゆる神田村には、三和図書、鈴木書店、中央大学の正門前には、神田図書があり、坂を登ってニコライ堂のそばには、日販がある。
 最後に坂を下ると、須田町、そこには中央社があった。九段下から須田町まで、歩いて3,40分はかかったろうか。その頃は若かったから、歩いても苦にはならなかった。
 そのうちスクーターに乗るようになり、車になっていった。晦日の日、九段下から須田町までの8社を集金のために歩いていた頃が、一番なつかしい。今でも街並が、はっきりと浮かんでくるほどだ。
 
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さよなら東急プラザ
 
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このおじさんの淹れるコーヒーはおいしかった
 
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「ちりめんじゃこ」を売っているおばさん

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2015年3月16日 (月)

忘れ去られたか『薔薇族』編集長!

 お役所がやっと目を向けはじめた。ああ、やっとかという思いがするが。
 
 3月3日の朝日新聞朝刊の一面に、「性的少数者の生徒を支援・文科省、学校向け対策」の見出しで、「文部科学省が、同性愛者など幅広い性的少数者への対応は、法律上の定義がある性同一性障害に限られていたが、学校現場でより広範な性的少数者への支援が進む一歩になりそうだ。」
 
「性的少数者」というけれど、男性同性愛者の日本での数は、男性の6・7%いると言われているから、300万人以上いると思われる。
 レズビアンを含めれば、大変な人数になる。何万人、何十万人ならば「性的少数者」と言えるだろうが、何百万人も存在するならば、大変な人数で少数者とは言えまい。
 ただゲイの人たち、レズビアンの人たちが自らの性的指向を隠しているから、その数がわからないのであって、実際は大多数なのに、「少数者」にされているのが現状だ。
 
 文科省の文書では「性同一性障害の子供は「自己肯定感が低くなっている」「(性同一性障害であることを)隠そうとし重圧を感じている」と解説し、「不登校、自傷行為、自殺念慮(自殺への思い)に及ぶこともある」とした。(中略)
 具体的な支援策としては、人権教育の年間指導計画に位置づける校内研修や、職員会議などを提案している。」
 
 宝塚大看護学部教授の日高康晴先生は、「まずは全ての教職員が正しい知識と対応を身につけられるよう、学校現場での研修を急ぐべきだ。」と、コメントされているが、それは不可能な話だ。
『薔薇族』の読者に、教職員は多い。しかし隠れているのだから、同性愛の話を職員会議の席で話せるわけがない。
 文科省はやっと気づいて、同性愛の問題にふみこもうとしているのだろうが、誰が先頭に立って話をするのだろうか? そんな話をしたら、あの先生はゲイかと言われてしまう。そんな勇気のある人が、いるものだろうか。
 
 毎日新聞が「特集ワイド・同棲カップル証明書条例案・流れを変えた当事者の訴え」という見出しで、かつてない画期的な記事を書いている。
 やっと、やっとお役所が動き出したということだ。
 
「東京都渋谷区が「結婚に相当する関係」にある同性カップルに証明書を発行する方針を決めた。条例案が成立すれば、2015年度中にも証明書が発行される。
 全国初の「挑戦」の背景に、一体何があったのか。関係者に聞いた。
「僕らのようにLGBTをオープンにしている人は少数派。証明書発行は家族にも言えず悩んでいる人たちを勇気づける」と杉山文野さん、松中権さん」と、二人の写真に説明が付いている。
 
 渋谷区の区議会で、区議の長谷部健さんが12年6月の区議会本会議で「性的少数者(LGBT)へ証明書発行ができないか」と初めて質問し、桑原敏武区長から「検討したい」との答弁を引き出した。
 それから長い時間を経て、今月下旬の本会議で採決される。この法案が通れば、他の自治体にも波及していくだろう。
 
 証明書を発行してもらうには、ゲイだということを公表することになる。残念ながらぼくは、証明書を申請する人は少ないと思う。日本の場合、夫婦のように同じ屋根の下に住んでいる人は少ないからだ。
『薔薇族』が廃刊になって、10年を越す。マスコミの若い記者たちは、ぼくらのことを知らない。取材されないのは情けない。ゲイの人たちのお役に立ちたいと思い続けているのだが……。
 
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2015年3月14日 (土)

オナニーは「かっぱえびせん」のようなもの

 大本至さんの『オナニーと日本人』から引用させていただく。これは大正時代の話だ。
 
「ある県立中学校の教師である春野道男先生は、文学士の肩書を持ち、生徒に修身を教えているときは性のことまで話してみよう、という意欲を抱いていた。
 大正時代の県立中学校といえば、一高を目指す若いエリートがひしめくところであった。
 たまたま春野先生が担任の生徒の中に、3年まで級の主席だったのに、3年3学期から目に見えて成績が下落し、4年になったときは10位まで落ちた生徒がいた。
 
 春の先生はこの生徒が落ちた偶像をよく観察して、主席だった時代には活気にあふれていたが、最近は元気も消え失せ、運動場の隅にひとりでいて、何やらうれい顔(これは性的悪癖に陥っているな)と、先生は読み取った。
 
「今夜でも先生のところに遊びにこいよ」と春野先生が、この生徒に声をかけたのは4年の2学期、いよいよ入学試験の季節が近づいてきたころだ。
 夜も更けてきた。生徒が腰を上げそうになった。今だ、と春野先生は決意して、「成績がこの1年で目に見えて下がったが、君ほどの男がくやしがって、向上の努力もしないとはどうしたのかね」と、本題を切り出した。
 
 頭脳明晰の如何は、肉体の健康によって左右されるものだ。とりわけ性欲の濫用は恐ろしい結末をもたらす。
 春野先生の話が進むにつれて、生徒は脂汗がにじみ出てきた。みんな先生に知られていると思うと、恥ずかしさで顔まで赤くなった。
 春野先生は先に話を進めた。ひとたび手淫の悪癖の地獄に落ちた者は、意志の力ではどうしようもないものだ。だが克己の精神をつちかう修養と、運動によって身体を鍛えることで救われる場合がないとは言えない。
 
 すみません。うなだれて耳をかたむけていた生徒は、このとき突然に声をあげて泣き始めた。
 先生にすべてを話します。僕は手淫に耽って、勉学をおろそかにしていました。
 ざんげの値打ちもないことを蟻の穴からあふれ始めた大河の水のように、心に秘めていたすべてを告白した。
 
 よしわかった。そこまで後悔しているのなら大丈夫だろう。絶望することはない。今日からあの習慣を断じて改めるならば、君の成績は前のように主席の座に戻れるはずだ。
 春野先生の言葉どおり、5年の卒業にあたっては主席の栄誉に輝いた。しかも、憧れの第一高等学校にも合格。
 やがて帝国大学(東大)法学部を出て、良妻を迎え、かわいい子供まで生まれた。
 おお、うるわしきオナニー征服立身出世物語。
 
 春野先生は、この実績の上にたって、中学3、4年生のために、『年頃の子女を持てる父母に代わりて、性に関する講話』(大正9年)という本を書いた。ひと口にいえば、オナニーをさせない、この目的のために全巻が捧げられているといってよい。」
 
 戦後のぼくの学生時代でも、春野先生のような考え方が広く受け入れられていたのだろう。あまりにもオナニーが害になると強く言われると、オナニーにふけっている若者は、かえって悩んでしまうのでは。
 かっぱえびせんの宣伝文句のように、なかなかやめられないから困ったものだ。いつの時代になっても、この悩みは永遠に続くだろう。
 
 中学1年生の孫に聞くわけにはいかないけれど、今の学校ではどのように教えているのだろうか。教えすぎると、オナニーを知らない子供にまで興味を持たせてしまうかも知れない。この問題、それぞれの意志にまかせるしかないようだ。
 
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2015年3月 9日 (月)

「同性婚」日本でも動きが!

 昨今の報道は暗い話ばかりだ。それが2月27日の新聞には、よろこばしい記事が載っていた。
 
 東京新聞に「IPSから軟骨組織・ブタに移植治療・19年臨床目指す・京大研作製」と見出しにある。まだ先の話で京都大学IPS細胞研究所のグループが研究して初めて成功したとある。
 
 ぼくも9年ほど前に、下北沢南口の「間宮泌尿器科クリニック」の紹介で、新宿の東京医科大学病院・整形外科の正岡利紀先生の執刀で、左足のひざに人工ひざを入れる手術をしてもらった。
 病名は「変形性膝関節症」日本中に患者が1000万人もいるそうだ。不思議なことに右足のひざはなんともなくて、左足のひざの軟骨がすり減り、神経がさわるので痛くて歩けなくなってしまった。
 
 鍼治療を受けたり、近所の外科の診療所で痛み止めの注射を打ってもらい、ひざにたまった水をぬいてもらったりしていて、なかなか手術に踏み切れなかった。
 正岡利紀先生という名医に出会ったことが幸せだった。半年ごとにレントゲンをとり、診察してもらっているが、まだまだぼくのからだに入っている金属の人工膝はもつそうだ。
 
 ぼくの姉も両足、妹は右足、女房の兄も両足と、身近に膝の悪い人がいるのだから患者1000万人という数は、オーバーではないだろう。
 もし、膝の痛みで困っている人がいたら思い切って人工膝を入れる手術をすべきだろう。ぼくも姉も妹も、田舎の兄も杖なんてなしで歩けるようになったのだから。
 
 現在は国内で約8万人が人工関節を使用しているという。1000万人も患者がいるというのに、手術に踏み切れない人が多いということだ。京大の研究が進めば手術をしなくてもすむようになる。早くそうなってほしいものだ。
 
 もうひとつのうれしいニュースは、毎日新聞社トップのニュースだ。
「同性婚日本でも? 渋谷区「証明書」条例案 追随の動き・家探し・入院……当事者安心できる」
「東京都渋谷区が全国で初めて同性のカップルを「結婚に相当する関係」(パートナーシップ)と認め、証明書を発行する条例案を3月議会に提出すると表明したことで、「同性婚」への関心が高まっている。
 同様のパートナーシップ照明に前向きな自治体はまだ一部だが、欧米でも自治体の動きが国へ波及し、精度実現につながった経緯があり、関係者は事態の推移を注視している。」と、記者は書いている。
 
 進歩的な考えの持ち主の、ぼくが住む世田谷区長の保坂展人区長が、「具体的に答えを出すべく準備している」と、15日に発言した東京都世田谷区。昨年9月、議会で同性パートナーシップ精度を提案した、上川あや区議(男性から女性になった人)は「同性婚の実現は、どんな愛の形も、平等に祝福できる社会へとつながる。」
 この動きは横浜市へも。インターネット上では、渋谷区を応援する署名キャンペーンが始まったそうだ。
 ネットをさわれないぼくにとっては、はがゆいばかりだが、今こそ日本中の同性愛者が声をあげるときではないか。
 
『薔薇族』の相棒だった藤田竜さん、内藤ルネさんが、マンションを出なければならなかったとき、どこの不動産屋も部屋を貸してくれなかった。
 もうそんなことのない日本にしたい。やっと動き出した運動をみんなで団結して実現させようではないか。
 
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2015年3月 6日 (金)

3月28日(土)「文ちゃんの83歳の誕生日を祝う会」開催

来る3月28日(土)、午後17時〜19時、「文ちゃんの83歳の誕生日を祝う会・文ちゃん83歳の生涯を語る」を開催します!

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

日時・3月28日(土)午後17時~19時

場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」

(〒1550031 世田谷区北沢23 電話0354329068)

会費・コーヒー代のみ

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
初めての方、女性も大歓迎!
ぜひお気軽にお出かけください★

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2015年3月 2日 (月)

ぼくが無気力になったなんて!

 よく「体調をくずした」という話を人から聞くことがある。代沢3丁目の「メゾン宝生」に、女房と息子夫婦、中学1年生の野球少年と住むようになって、早くも4年以上も経つが、ぼくは健康そのもので、風邪も引かずに過ごしてきた。
「体調をくずす」なんてことは、ただの一度もない。「伊藤さんは前向きで、それに意欲的でうらやましい」と、ぼくを知る友人たちによく言われたものだ。
 
『裸の女房』『やらないか』『ぼくどうして涙がでるの』の3冊を刊行し、それぞれ銀座のキャバレー「白いばら」で、友人、知人を集めて、盛大に出版を祝う会も催した。
 昨年の暮れには、渋谷の「ポスターハリスギャラリー」で、「伝説の前衛舞踊家・伊藤ミカ写真展」と「文ちゃんのアンティーク・コレクション蚤の市」を開催し、多くの人が見に来てくれた。
 
 今年も3月16〜28日まで、銀座の「ヴァニラ画廊」で、「時をかける浪漫と官能の乙女たち・伊藤文学コレクション・バイロス&バルビエ」も催す。
 毎日、会場にいたいのだが、渋谷と違って、銀座まで通うのは大変だ。初日の16日(日)だけは会場にいたいと思っている。
 カメラマンの森田一郎さんの「パリ・コレクション・コラージュ展」も同時に開催されているので、ぜひ、見に来てください。
 
 考えてみれば元気だといっても、3月19日で満83歳になる。じじいであることは確かだ。
 2月15日(日)、なんの前触れもなく、ぼくのからだに変化が。気力がまったくなくなってしまった。なんにもやる気がない。
 毎日、かかさず書き続けてきた日記も書かなくなった。外に行く気も起こらない。
 からだを動かさないものだから、食欲もあまりない。前立腺肥大で夜中に何度もトイレに起きていたのが、テレビの広告で「のこぎりやし」を買い求めて飲むようになり、うそのように効果があって、よろこんでいたのに。それがまた逆戻り。
 こうなると悪循環で、すべてが悪い方に向いていく。眠りが浅いものだから、変な夢ばかり見るようになってしまった。
 
 関西からわざわざ勇気を出して、「文ちゃんと語る会」に、二度も出席してくれた青年からの、便箋30枚もの長い手紙を読まなかったら、元気が出なかったろう。
 ぼくのことを頼りにしている人がいる。そう思うと、気力が回復するのは早かった。食欲も出てくる。前と同じような状態が戻ってきたのだ。
 
 いつものように散歩に出ると、必ず寄るのが、カフエ「つゆ艸」。ママの由美さんとおしゃべりするのが楽しい。明るくて笑顔が魅力的だ。女房にも言えないようなことまでしゃべってしまう。
 ところが由美さんとしゃべりたくて、通ってくる恋敵(?)が何人もいる。カウンターの席は4席しかないから、由美さんを独占するには、1時の開店と同時に行かなければならない。
 誰もお客さんが入ってこなくて、由美さんを独り占めできたときは、心が満たされる。
 
 カフエ「織部」の店長、奥村君はネットを見れないぼくに、いろんなことを調べてくれる。ネットってすごいなと思う。誰が書くのか知らないが、なんでもわかってしまう。
 
 2月20日、夜のバア「まじかな」での催し、ついに行けなかったが、経営者の中嶌くんの話だと、ぼくのブログの呼びかけで出席してくれた人はひとりもいなかったという。寂しいとも思うが、ネットってそういうものなのだろうか。
 
20150225

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