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2015年3月23日 (月)

澁澤龍彦さん、金子國義さん、宇野亜喜良さん―人間の出会いって不思議なものだ!

『澁澤龍彦を求めて』(美術出版社・1994年6月刊・¥2000)に、画家の金子國義さんが「―縁」と題して、「オマージュ澁澤龍彦」を書いている。
 澁澤さんは、昭和62年に59歳で亡くなられた。
 
「澁澤さんが骨になってしまった。小柄だったのに、たくさんのお骨だった。葬儀の日、その量にぼくはなぜか、とりとめもなく感情が昂ってしまった。
 亡くなった知らせを受け、病院にかけつけた夜もそうだった。エレベーターを降りて、霊安室に入るとすでに何人かの人が来ていた。
 焼香が済んで渋澤さんをお棺に納めるとき、奥さんの龍子さんが頭をもち、シモンが脚をもち、ぼくが背中を抱えた。息をひきとってから四時間ほどたっていたが、澁澤さんの背中はまだあたたかかった。そして重かった。入棺後、とりあえずぼくは、たくさんの花束のなかから一束選んでふたの上にそえなえた。(後略)」
 
 澁澤さんという方は、若い才能のある人たちを世に送り出された方だ。金子さんもそのひとりだった。
 1966年『オー嬢の物語』澁澤さんの訳で、河出書房から1966年11月に刊行された。
 その装丁と、本文中の挿絵を金子さんが描いている。翌年、澁澤さんの紹介で、銀座の「青木画廊」で「花咲く乙女たち」と題する個展が開かれ、画壇にデビューした。
 
 世紀末的デカダンスな雰囲気をただよわせる妖艶な女性を得意とする画家だった。
 その頃、ぼくの先妻の、舞踊家の伊藤ミカが独立して、「伊藤ミカ・ビザール・バレエグループ」を結成した。
 ミカは『オー嬢の物語』に出会ったときのことをこんな風に書いている。
 
「このフランスの女性作家ポーリーヌ・レアージュの作品に接したときの私は、少なからぬ感動に打ち震えました。訳者のあとがきによりますと、現実にはそのような作家はどこにも実在しなかったようで、恐らく誰かの匿名だろうとされています。
 しかし、そんなことはどうでもよく、私は「これだな!」と心で叫びました。肉体の芸術である、モダンダンスの形式によって表現するものに、これほど適切な作品があろうか、と私は思ったのです。」
 
 澁澤さんは舞踊家を快諾してくれ、恐らく金子國義さん、宇野亜喜良さんを紹介してくれたに違いない。
 舞台美術を金子國義さん、宣伝美術を宇野亜喜良さん、ふくろうの面の製作を人形作家の四谷シモンさん。今では考えられない豪華なメンバーだ。
『オー嬢の物語』の舞台装置の大きな十字架の彩色を金子さんが、助手を使わずにひとりで描かれた。
 
 厚生年金会館の楽屋に入る裏通りで、もくもくと十字架に彩色していた金子さんの姿が今でも目に焼きついている。
 女性の踊り手のタイツの彩色も金子さんが描いたものだ。
 700人も入る会場が満員。澁澤さんは青木画廊の社長さんと一緒に見に来てくれた。再演も当日売りのチケットを買うお客さんが列をなすほどの大成功だった。
 
 83歳のぼくよりも5歳も若い、金子國義さんが、3月16日、虚血性心不全で78歳で亡くなられてしまった。
 若かりし頃のぼくの応接間には、大きな金子さんの油絵が飾られていた。夢の様な時代だった。ひとりだけ取り残されたような寂しさが……。
 
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