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2015年5月

2015年5月30日 (土)

日本を代表する男絵師、甲秀樹の作品を見てほしい!

 ぼくが少しばかり力を貸しただけで、人形の製作者、男絵師として、脚光を浴びるようになった人がいる。
 それは甲秀樹さんだ。いつの頃か、まったく忘れてしまっているが、親しくしてくれている新宿2丁目のゲイ・バアのマスターから電話があって、男の人形を作っている人を紹介したいということだった。
 
 2丁目に出向いて、その男と出会ってみた。しかし、男の人形では『薔薇族』には使えない。それじゃ、男の絵を描いてみたらと言ったら、しばらくして何点か男の絵を描いて持ってきた。
 そのときは稚拙な絵だったが、採用することにした。しかし、驚いたことには、絵を持ってくるたびに、上手になっていた。
 もともと天性のものだったと思うが、こんなに短期間で上達した人は珍しいのでは。
 
 そして『薔薇族』の表紙絵を描くまでになっていた。画廊で個展を開くようになったが、その作品は飛ぶように売れた。
 絵だけでなく、人物の製作でも素晴らしい作品を次から次へと製作して、注目を浴びるようになっていた。
 甲秀樹の作品を最初の個展から買い求めていた、コレクターがいた。それが70点にもなるという。
 
 甲秀樹の好みは、中学1年生から2年生ぐらいの男の子で、子供から大人になっていく頃の男の子が好きだったようだ。
 しかし、『薔薇族』の表紙絵にするには、高校生から、大学生ぐらいの男性でないとまずい。甲秀樹にそのことを要求したのだが、それに応えた表紙絵を描いてくれた。
 
 これは甲秀樹にとって、苦痛だったのではと、今から考えると悪かったなと思うが、仕方がないことだった。
 
 表紙のデザインをしてくれたのは、宇野亜喜良さんだ。現在、月刊誌『WiLL』の編集長の花田紀凱さんが、『編集会議』の編集長時代(平成14年の月号)が、2001年「雑誌表紙大賞」の年間賞に、多くの雑誌の中から選ばれて、健闘賞に輝いた。
 その表紙絵は、甲秀樹の作品だ。
 甲秀樹の作品は、国内だけでなく、海外でも広く知られていて、今や日本を代表する男絵師になっている。
 
「六本木ストライプスペース」で開かれる、「甲秀樹Art&Doll展・プレミアム・コレクション」は、必見の展覧会だ。ぜひ、見てもらいたいものだ。
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2015年5月25日 (月)

浅草に行ってストリップを見たい!

 吉原に遊びに行った話しならともかく、お女郎さんを苦界から救い出したという、祖父の話ばかりでは面白くない。
 お固い話の間にエッチな話も入れなければ、ぼくのブログを読み続けてはくれないだろう。
 
 もう51年も前になる。その頃、ぼくは「ナイト・ブックス」と名づけて、エロ本ばかりを次々と出し続けていた。
 森福二郎さんという、敗戦後、数年して映画館・浅草座に入社・昭和24年4月、ストリップ劇場に転向し、同座の支配人になった方だ。
『はだかの楽屋』という著書をぼくは出版している。読み返してみたら、それがじつに面白い。浅草に人があふれていた、良い時代の話だ。
 
「入場料40円。流行のお産映画とコミで「日本一小さいストリップ劇場は、オールカブりつき」というのが浅草座のうたい文句だった。
 踊り子はメリー梅園、エミー大和、アンナ小牧、ジプシー・ツヤのたった4人。バンドを入れる余裕もなく、全部レコードだった。
 ショウは約25分間、映画が20分、休憩15分を入れて、小一時間もすると、私たちはステージに駆け上がって、「さあ、一回の終わりだよ」と、お客さんを追い出す。
 
 当時のお客さんにすれば、白昼に女性のオッパイを見られるということは、オリンピック以上の魅力と、興奮をおぼえたのだろう。そしてその行列は、浅草座を一周りして、大勝館のほうにまで、延々と長蛇の列を作ったものである。」
 
 戦争が終わって平和な世の中になり、女性のオッパイを拝めるだけで、庶民は劇場につめかけたに違いない。
 踊り子さんをスカウトする話、面白い話は次から次へと登場する。
 作家の永井荷風先生が、楽屋に足繁く通ったという話は有名だ。
 森さんは、こんな作家の先生のことを書いている。
 
「作家の先生方が、お忍びでストリップ劇場に姿を見せるようになったのは、不思議と昭和27年(ぼくが駒大を卒業した年だ)に多い。
 室生犀星先生が、飄然と現れたのもやはり27年の6月、蒸し暑い日であった。客席にいる先生を私のところの文芸部員が見つけ出し、さっそく楽屋に案内したところ、先生はご満悦だった。
 
 それに当時、浅草座きっての読書家と言われた滝みどりが、はからずも先生の『あにいもうと』をはじめ、先生の詩集などの熱心な愛読者とわかって、二人の間で話がはずんだことも、先生を喜ばせたひとつの原因でもあったようだ。
 ストリップを見たのは、これで二度目だという先生は、再び客席で舞台を見終わってから「ちょっと疲れたね。あの子たちの私生活は? 給料は? みんな独身かね? それにしても彼女たちが舞台から客席に出てきて、お客に「からみ」をしたのには驚いたね」
 などと矢継ぎ早の質問を浴びせながらも、
「さっき楽屋で、ゆでたまごをひとつもらっちゃった」と、満足そうにふところから取り出して、「また、ゆっくり来るよ」の言葉を残して浅草の雑踏に消えていった。」
 
 ぼくがストリップに凝りだして、浅草に通いだしたのは、この話の頃から10年ぐらい経った頃だったろうか。
『薔薇族』を創刊してからは、立場上ストリップを観に行くわけにいかなかった。だが、もう自由な身になったのだから、浅草にストリップを観に行ってみようと思ったものの、今度はふところ具合が寂しくて、行かれないとは、なんとも情けない話ではないか。」
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2015年5月23日 (土)

世界の果ての国の読者ってどんな人!

 毎日新聞2015.5.11の朝刊の「毎日歌壇」。大学歌人会時代の後輩(といっても今や歌壇の大御所で、宮中の御歌所の選者にもなっている)篠弘君が選者の一人なので、ぼくは作歌をやめてしまっているが、ちらっとは読むようにしている。
 
 歌集の新刊の紹介欄に、槇弥生子さんの歌集『ゆめのあとさき』第14歌集。ひと日ひと日の目の動きをなだらかに詠み、老いの境地を深めた大らかな味わいを創り出している。
 
 目を閉づればやはらかくなる読書の灯すかしてだれかひたひたと来る
 
 と、短い書評が載っていた。槇弥生子さんは、ぼくの駒沢大学時代の御師、短歌を創ることを教えてくれた、万葉集学者の森本治吉先生の長男の嫁さんだ。確か二松学舎大学の出身だと思う。森本先生は二松学舎大学でも教えていたので、槇弥生子さんは教え子だったのだろう。
 
 二松学舎大学でも歌会が開かれていたのでそこで弥生子さんと、ぼくは出会ったのか。弥生子さんは、なぎなたの名手で、がっちりした大きなからだの女性だった。
 もう20年以上お会いしていない。ぼくが本を出版したときに、『薔薇族』に書評をお願いしたこともあった。
 
 14冊も歌集を出し続けるなんてすごいことだ。引用されている「目を開づれば」の一首ぼくにはよく理解できない。現実に「だれかひたひたと来る」わけではなく、心のなかを歌っているのでは。
 
 弥生子さん、ぼくより年上かもしれない。ご主人の森本先生の長男は元気でいるのだろうか。古い名簿にあった電話をかけたら、「使われていません」ということだから。転居されたのかもしれない。
 
 ひとつのことを長く続けるということは、大変なことなのだ。『薔薇族』は、35年間も出し続けたが、廃刊になって文章を発表する場がなくなり、ぼうっとしていたときに、一緒に住んでいる息子の嫁が、「ブログを書いてみたら」と、声をかけてくれた。
 それから書き出して、そろそろ10年近くになる。ネットを触ったことがないぼくを支えてくれた人が、今は3人目、若いS君が、原稿用紙4枚にひとつの話を書いて、郵送すると、土曜日と、月曜日に更新してくれる。ボランティアでやってくれているのだから、こんなにありがたいことはない。感謝!
 
 S君の報告によると、中国・韓国の人も多く、聞いたこともないような国の人まで、ひとりとかふたり、読んでくれている。
 
 もうじきぼくのブログが、1000回に達するそうだ。1000回という数字が、どれほどすごいことなのかは、ぼくにはわからないが、遠い国で見てくれている人たち、ひとことでもコメントを寄せてもらえないだろうか。
 それを励みにして書き続けていきたいし、どんな方が読んでくれているのか気になっているので……。
 
 ぼくのブログを紙焼きにしてくれた、フアンの女性がいたので、そこから選び出して、『やらないか! 『薔薇族』編集長による極私的ゲイ文化史論』と名づけた本が、2010年11月20日に彩流社から刊行された。
 いつもぼくを応援してくれている、早稲田大学教授の丹尾安典さんが、序文を寄せ、山川純一の劇画を装画にしている。
 
 もう出版してから5年にもなる。最近読みなおしてみたら、自分でほめるのもへんだけどじつに面白い。たった2千部発行の本が売れ残っているなんて。そろそろくず紙にされてしまう。アマゾンに注文よろしく!
 
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森本先生と文芸部員たち。62年前の2月。暖房なんて無くて、火鉢が置いてある。電気もなくてローソク。
 

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2015年5月18日 (月)

冷たい父と、心やさしかった母

 先日、電話でラブオイルの注文が入った。名古屋の二川寮という、ゲイ旅館の経営者の方だった。
「名古屋の夜は 二川寮 名古屋駅より歩いて5分 ヤング 中年紳士一杯」と、広告に書かれている。
『薔薇族』が広告を扱うようになってから、廃刊になるまで、競争誌から妨害され、広告を入れないようにされたことがあったが、二川寮は出し続けてくれた。
 
 ご主人は、ぼくよりも年上で、87歳とか。上京した折にわが家を訪ねてくれて、ぼくはまったく覚えていないが、ごちそうになったと、お礼を言われてしまった。
 ラブオイルもずっと置いてくれている。ありがたいことだ。
 
 ぼくの母は、訪ねてくる読者のどんな人にでもよくしてくれた。父は冷たい人間だったが、母は無学で父に馬鹿にされながら、心のやさしい人だった。
 
 笹沢左保さんという有名な作家がいたが、そのお父さんは詩人の笹沢美明さんで、貧乏詩人だった。
 第二書房から「現代詩鑑賞」という、明治・大正・昭和に活躍した詩人たちを紹介する本を父が出していた。そのお手伝いをしていたのが、笹沢美明さんだ。
 
 その頃、仕事がなくて笹沢美明さんは、生活に困っていたのだろう。姉から聞いた話だが、父は絶対にお金を貸さない一方、母は帰っていく笹沢さんを追いかけて、僅かなお金を握らせていたとか。
 
 父のすぐ下の弟、浅草橋のエプロンの卸問屋のひとり娘のところへ、養子になっていた。太平洋戦争の折には、中国に従軍していたが、終戦後、日本に元気で復員してきた。
 しかし、エプロンの卸は、番頭さんだった人が引き継いでいたが、4人の子どもと、祖母と嫁、生活に苦しかったのか、番頭さんの力にすがるしかなかったのだろう。
 
 ぼくが子供の頃、隅田川の花火大会のときなど、よく遊びに行った。3階建てだったので花火の打ち上げがよく見えた。必ずお寿司をとってくれたのが楽しみだった。
 いつの間にか、家も番頭さんのものになり、荒川だったか、堤の下の小さな家に移り住んでいた。
 おじさんがどんな職についたのか、よく覚えていないが、男の子3人、女の子1人を一流大学に通わせ卒業させたのだから、おじさんは苦労したに違いない。
 
 これだけは忘れないで覚えている。上智大学を卒業して、日産自動車の長崎だったかの営業所の社長にまでなった、一番下の息子。いつも使いに出されて、父のところにお金を借りに来た。
 父はおじさんの息子たちが、大学に入学するときの保証人になる印鑑ですら押さなかった。確かぼくが保証人になったと思う。
 父はお金を貸さなかった。やはり母がお金を持たし、お米なども持たせて帰したようだ。
 
 ぼくの父母も亡くなり、おじさん夫婦も亡くなり、おじさんの残した3人の子供は、長男は「三愛」次男は「ニッポン放送」三男は「日産自動車」の営業所の社長に。女の子は三菱銀行に勤め、社内結婚して幸せに暮らしている。
 
 もう10年以上も前のことだったか。おじさんの法事があって、上野の料理屋へ集ったことがあった。三男坊が酒の勢いもあってか、その頃、ぼくがお金に困っていたときで、いくらでも昔の恩義を忘れないで貸すよと言ってくれた。
 100万円貸してくれたが、借用書と担保になる絵画などを要求されてしまった。当たり前のことなのだろうが、さすがに商売人だ。
 
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ぼくを抱いている母

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2015年5月16日 (土)

貧しさと、無学の悲しさと!

「板橋遊郭の「平尾楼」で働いていた、花魁錦絲は、あるひ、計算長を見せてもらうと、500円の前借で稼ぎ始めて、3年の月日を経過したが、借金は800円に増えている。
 これはひどいと、自由廃業を決心したのはよいが、無学の悲しさに、どうすることもできない。
 なんでもいいから救世軍に駆け込めば、助けてくれるという一年で、大胆にもある晩、裏の板塀を乗り越えた。
 
 頑丈な忍び返し(泥棒よけに、塀の上などに、尖った木、竹、鉄片などを並べたもの)だと思って、それをふんばると、不意にぽきりと折れて、あべこべの久米仙が狭い小路へ宙返りをした。
 けれども気丈な錦絲は、起き返りさま、5,6間走ったと思うと、急に近所がさわがしくなって、『なんだ、なんだ、変な音がしたぞ!』と叫ぶ声が聞こえた。
 小道を表通りまででうと、電灯が明るいので、きっと捕らえられると思って、まごまごしているうちに、塀ぎわの大きなえのきの樹があるのを見た。
 幼いころ田舎で覚えた、木登り術で、するすると、その上によじ登って、青葉の繁みに身を隠していると、果たして裏門が開いて、番頭や妓夫が右往左往している。
 
 錦絲は度胸をすえて下を見ていると、車夫の提灯が、3つ、4つ、しきりに家の周囲を探している。
 とうとう夜が明けるまで、蚊に襲われながら木の上で我慢して、いよいよ大丈夫と、小路へ降りようとしたが、脚がぶるぶるとふるえ、目眩がしそう。
 用心しながら降りてきたとき、気がゆるんだのか、二間ばかりの高さから滑り落ちてしまった。
 
 気づいてみると、半時間以上、気絶していたらしい。びっこをひきひき夢中で走ってくると、向こうから辻車(人力車のこと)がきたので、それに乗って救世軍の本営にまで連れて行ってもらった。
 伊藤君はとりあえず、救世軍病院へ錦絲を送って、「申請者自ら出頭するにあたわざる自由ありと認るときは、この限りにあらず」という、取締り規則を盾に陳情書と、廃業届を板橋署へ持参して、苦もなく名簿削除ができたまではよかったが、4,5日経つと、板橋署の刑事巡査がきて、錦絲にすぐ出頭するように命じた。
 
 そこで伊藤君も一緒について行くと、もう貸座敷の女将もきていた。呼び出した理由は、錦絲が女将の指輪を盗んで逃げたというのである。
 係の警部の前で、2人が向き合った。一問一答の結果、この指輪は女将のものではなく、遊びに来た客が落として行ったらしいのを、錦絲が掃除中に拾って、女将に渡したものであることがわかった。
『ね、おかみさん、そうじゃありませんか。あのとき、私はまだ18歳未満で、店へ出られなかったんでしょう。だから、おかみさんがあの指輪を私にくださって……』
 錦絲がそこまで言うと、急に女将は青くなってしまった。つまり錦絲が年足らずで娼妓の許可がおりない前から、いろいろと機嫌をとって、規則を犯していたことが、バレそうになったので、女将はそれっきり黙ってしまった。」
 
 売春防止法が施行されたのは、1958年の4月1日のことだ。それまでお金でカワれて、人権無視もいいところで、女性は廓の経営者のいうままになっていたのだからひどい話だ。
 従軍慰安婦の問題にしても、「貧しさ」が根底にあるのだろう。
 
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イギリスの救世軍将校夫妻

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2015年5月11日 (月)

お金でころばなかった祖父!

『娼妓解放哀話』の中に出てくる祖父、伊藤富士雄の話は、興味深いものばかりだが、話が長いので短くするのが大変だ。
 現在、新宿2丁目といえばゲイの街だが、昔は赤線地帯だった。その頃の話だ。
 
「新宿2丁目のある貸座敷から、二人の連名で至急面会に来てくれという男文字の手紙がきた。しかも、その表書きには救世軍婦人救済係伊藤富士雄殿と書いてあった。
 行ってみると名前の娼妓は二人とも一軒の貸座敷にいた。来意を告げると、貸座敷では大騒ぎ、妓夫や番頭たちを非常招集して、伊藤君を奥の一室に閉じ込めてしまった。
 
 やりて婆さんがきて煙草をすすめる。吸わないというと、酒をもってくる。救世軍は禁酒だという。とうとう1時間ばかり待たされたが、面会を許さず楼主も出てこないので、伊藤君は玄関へきて大声でどなった。
『娼妓取締規則第12条には、何人といえども娼妓の通信面接、文書の閲読、物件の所持購買、その他の自由を妨害することを得ず、これに反したるものは、百円以下の罰金、もしくは、3ヶ月以下の懲役に処すとあるのは、ご存知でしょう』(祖父は法律も勉強していたとはすごい)
 
 すると楼主が飛び出してきて、低頭平身、「二人はやすんでいましたので失礼致しました。ただ今、面会いたせますから……」と言って、伊藤君を元の座敷へ押し戻し、お茶よ菓子よと言っているうちに、また1時間を過ごしてしまった。
 そこへ妓夫が現れて『旦那様、ただ今、2人がまいりました。こちらへお通し申しましょうか』と、言ったので、楼主はすぐ連れてくるようにと指図した。
 伊藤君は手紙の主だとばかり思って、ふすまの開くのを待っていると、そこへ現れたのは、56ぐらいと、70ばかりの年とった老人が2人。いきなり伊藤君の前に両手をついて、自分たちは2人の娼妓の連帯保証人で、今、自由廃業をされては、財産差し押さえの憂き目を見るから、どうか、あと2日間だけ、名簿削除の申請を待ってくれと願い、伊藤君は2人の言葉を信じられないので、ぜひ、本人たちをここへ呼んでくれという。
 
 とうとう楼主も我を折って、2人を伊藤君の前に連れてきたが、会って話してみると、2人とも学校の表も通ったことのない、無学と文盲で、登楼者に頼んでてがみを書いてもらったものの、さて廃業届を出しに警察に出頭することが、恐ろしくてたまらず、伊藤君も手のつけようがなく、そのままにして帰ってきた。
 すると、その翌朝、楼主は伊藤君の自宅へ訪ねてきて、『昨日はわざわざお出くださって、ありがとうございました。2人の娼妓は、とりあえず休業させて、親元へ帰しました。自由廃業など言い出されるのも、元は私どもの不徳から起こったことです。何分、お手柔らかにお願い致します』と言って、紙包みを伊藤君の前に差し出した。
 
『これは何です?』と言いながら包を開けてみると、中に10円札が10枚ばかり入っていた。そこで伊藤君は言った。
『お金をくださるお考えなら、これでは少し不足ですね』
 楼主は目を丸くして、だまって伊藤くんの顔を見つめていた。
『すみませんが、5千円ばかり頂戴できませんでしょうか。それだけくだされば、今日中にあなたのお家にいる娼妓を一人残らず落籍(金を出して娼妓をやめさせること)してしまいますが……』
 伊藤君の意外な言葉に、楼主は金包をふところに入れて、頭をかきながら出て行った。」
 
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大正6年の消印のある葉書

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2015年5月 9日 (土)

弱いものはいつの世でも泣きを見る!

 廓の娼妓を救世軍が救いだしたとしても、すぐに元の娼妓に戻ってしまうのではないかと、『娼妓解放哀話』の著者の沖野岩三郎さんは、祖父の伊藤富士雄に質問している。
 
「これは意地悪い質問ではなかった。実際にそんなことがあるだろうと思って問うたのであった。すると伊藤くんは、小型のノートブックをポケットから取り出して、「そこです。君たちのような人でも、そんな質問をする。その質問の裏には、君だって自由廃業にケチをつけたいという気持ちがあるからでしょう。
 世間にはそこに疑念を抱いて、自由廃業を面白いやり方ではないと、非難する人が多いようだが、それは娼妓稼業がどんなに苦しいものだかということを知らない人の言うことです。
 今、私がある期間に取り扱った300人の廃業者がどんなところへ縁付いているかをお目にかけましょう」と言って、伊藤くんはそのノートブックを机の上に置いて、大きな手でそのしわをのばした。そのノートブックには綺麗な文字で統計が記されていた。(60人近い嫁として迎えた男性の職業と人数が記されているが、全部は紹介できない)
 
 工場職工・37  会社員・16  人力車夫・11  日雇労働・10  大工職・10  印刷職工・9  などだ。
 
「娼妓を経験した女性の結婚は案外幸福です。なんといっても人生のどん底を見てきた女性ですから、普通の女の知らない苦労を知っているので、自然と亭主に対する心仕えもよいのでしょう。
 ただひとつ悲しいことは、子供ができにくいことです。しかし、まったくできないわけではなく、この統計中の理髪師の妻君になったひとりは、5年間も娼妓だった女性でしたが、結婚後まもなく、まるまるとした男の子を産みました。
 それから工場の職工の妻君になった女性も、会社員の妻君になったのも、男の子を産み、建具屋の妻君になったのも、同じく男の子を産んで、4人が4人とも元気で育っています。
 この300人中に、廃業以前に出産したものが、18人もいました。ところが不思議なことにも、そのうちの17人までが、女の子でした。しかも、その8人の子供は、たった4人しか育ちませんでした。娼妓稼業中に産む子供が、9分9厘まで女の子で、廃業後、産んだ子が、みんな男の子だということに、なんらかの理由がありそうに思われます。」」
 
 祖父の偉大なところは、廃業させた女性のことをずっと面倒をみてきたということだ。これはなかなか出来ないことでは……。
 
 この本の中には、こんなことも書かれている。
 
「あなた方が、そんなに必死になって娼妓の自覚をうながしても、警察官の中にその意味を理解しない人がいて、その運動を妨害するようなことがあるんじゃありませんか。と聞いたら伊藤くんはニヤニヤ笑いながら、あなたは日光の東照宮に参詣したことがありますか? と聞いた。
 あの社殿の前に、ずらりと灯籠が並んでいるでしょう。
 一番表の方にある大きな常夜灯一対には「品川貸座敷中」と刻んであり、その次の石の鳥居には「洲崎貸座敷中」と彫りつけてあり、その中の立派な常夜灯には「新吉原貸座敷中」と刻みつけてあります」
 
 吉原の経営者たちは、警察に多額の献金をしていたに違いない。パチンコ業者と警察の癒着、今も変わらない。
 弱いものは、いつの世でも泣かされるのか!
 
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 ロンドンの救世軍の大将ブラムエル・ブース

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2015年5月 4日 (月)

無学だということは悲しい話だ!

 ぼくのブログを読んでくれている人たちがなんの話に興味をもったかという、順位がのっている。
 1位は、ぼくの祖父、伊藤富士雄が、大正時代に救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教する団体)の軍人として、廃娼運動(廓へ貧し家からお金で売られた娘たちを救い出す運動)の闘士として、多くの女性たちをからだを張って救いだした話だ。
 お女郎さんたちを自由廃業させた、苦労話など、今の時代、語る人はいないから興味を持ってくれたに違いない。
 
 沖野岩三郎さんという作家の方が、直接、祖父から話を聞き、まとめて、昭和5年に中央公論社から『娼妓解放哀話』という本に残した。祖父は大正12年、震災のちょっと前に53歳で亡くなっている。
 
「1ヶ月ほど前に、須崎弁天町の「米河内樓」の二人の娼妓を救い出そうとしたとき、廓の経営者が雇っている暴漢に襲われ、半死半生の大怪我を負ったばかりのときだ。
 救世軍の本営に伊藤くんを訪問すると、頸部にななめに包帯をした伊藤くんは、しきりにそろばんをはじいていた。(※祖父は数字に強い人だったようだ)
 
「なんの計算ですか?」と問うと、伊藤くんはどもり、どもり、こんなことを言った。
「じつに驚いた話です。今まで僕のところへ廃業したいからと言って、救済を頼みに来た娼妓の中の158人に、樓主との貸借関係がどうなっているかと聞いたところ、正確に自分の借金がどのくらいあるのかを答えたものは、わずか70人だけでした。
 この70人を廃業させた際に、くわしくその貸借関係を調査してみると、一人分の前借金は平均337円74銭総計金2万3千6百41円80銭になっている。ところでこの前借金に対して、70人の娼妓が悲しい稼業を強請された歳月は、合計1.86年10ヶ月になります。すなわち一人前平均2年8ヶ月稼いだのですが、樓主の帳面では、彼女らが合計1.86年10ヶ月の間、肉をひさいで、やっと328円55銭しか前借金の償却ができていない勘定になっています。
 つまり彼女らは平均2年8ヶ月ずつ淫売をさせられて、一人前たった4円69銭3厘の借金払いしかできなかったのです。
 さんざん淫乱男の玩具にされて、死ぬほどの苦しい思いをしながら、1カ年に割り当てるとたった14銭6厘6毛、1ヶ月平均4厘9毛弱ずつしか借金が返せないという仕組みになっているのです。
 娼妓に自由廃業を勧告することを悪事でも犯すかのように思う人たちは、この計算をひととおり見るが良い。今、この70人を自由廃業をしないで、正直に樓主の言いなり放題になって稼いで、前借金のなくなる日を待つとしたらどうでしょう。
 1日平均4厘9毛では、じつに1.88年10ヶ月と6日の長い年月を稼がなければならない計算になるのです。いかに無病息災な婦人であっても、娼妓を1.88年10ヶ月も勤められるはじのものではあるまい。
 どうしたって1日も早く公娼全廃までこぎつけなければならないが、まず今日のところでは娼妓自身に「自分たちは金銭で買われた身でない」という自覚だけでも與えてやりたいものです」
 
 無学であるがために、廓の経営者の言うままになっていた女性たち。今の世でも貧しいがために学校に行けない子供たちがたくさんいる。
 世界中の子供たちが、学校に行けるようにしなければ。無学は悲しいことだ。
 
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祖父に似ないで数字に弱いぼく

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2015年5月 2日 (土)

5月30日(土)「文ちゃんと語る会」開催

来る5月30日(土)、午後17時〜19時、「文ちゃんと語る会」を開催します。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

日時・5月30日(土)午後17時~19時

場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」

(〒1550031 世田谷区北沢23 電話0354329068)

会費・コーヒー代のみ

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
大正時代に「廃娼運動」の闘士として千人近い娼妓を解放した祖父を語ります、女性にぜひ聞いてほしい話です。★

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しばらくぶりの青空、ぼくの心もさわやか!

 駒沢大学の後輩、中畑清監督が率いるDeNAが、単独首位という記事をブログを書いたとたんに負け続け、なんと7連敗。
 またも毎日新聞の野球欄トップに「DeNA失速 7連敗・追いついて踏ん張れず」の情けない見出しがついて……。
 中畑監督のがっくりと手で頭を抱えている屈辱の写真はあわれだ。
 
 4月9日には8年ぶりの単独首位に、ファンは沸いたのに、2013年7月、8月以来の7連敗とは。今夜の阪神戦、勝ってくれればいいが。
 毎日新聞の井沢真記者は、こう書いている。
 
「打戦もエンジンのかかりが遅い。阪神先発の岩田の前に、6回まで一人の走者も出せなかった。
 17日のヤクルト戦では、小川に7回1死まで完全投球を喫している。この日はエースの久保が一回に2失点。7連敗中はすべて先制点を許しており、後手に回って負の流れを断ち切れない。「諦めない姿、頑張りはある。ステップアップするしかない」。中畑監督は自らに言い聞かせるように話し、球場を後にした。」
 
 DeNAが負けてばかりだと、ぼくまで元気が出ない。それにしても声をからして、とびはね応援し続けているフアンの若者たち。野球って試合時間が長いから、疲れるだろうに。まあ、夢中になれるものがあるだけいいのか。
 
 野球には関心があるけれど、選挙には無関心。立候補者がいなくて、無投票になってしまう市町村が多いという。
 ぼくが住んでいる世田谷区も、区長選挙と区議会議員の選挙があるが、原色の区長の保坂展人さんの対抗馬は久保田英文さんだけ。
 人口が80万人を越す大きな区で、対抗馬がひとりだけ。洋菓子店を経営する方で、政治家としての実績はなにもない方だ。
 
 政治家を目指す人が、なぜ、いなくなってしまったのか。政治家というと悪いイメージしかない。それに誰がやっても同じことかと思ってしまう。
 今度の選挙の投票率が心配だ。区議会議員は誰に入れたらいいのか分からない。
 
 最近、親しくなった高須基仁さんの著書『新国粋 ニッポン闘議』の出版記念会が、友人が経営する銀座のバア「まじかな」であった。
 マスコミ関係の人たちも多く、高須さんは交友関係が広く、人望がある方なので、多くの人が集まった。
 その本の中にも登場しているが、武道総本庁総裁の朝堂院大覚さんのスピーチには、聞き入ってしまった。
 ドスの利いた低い声で、こんな迫力のあるしゃべり方をする人は、政治家にもいない。安部総理を批判する話だが、写真を撮ろうと思い、シャッターをきろうと思ったが、その気迫に押されて、できなかった。
 弓道の弓を布でくるんだようなものを杖にして、立つ姿は凄みがあった。
 
『新国粋 ニッポン闘議』は、高須基仁対談集で、東條英機の孫の東條由布子、『WiLL』の編集長、花田紀凱、田母神俊雄、滑川裕二、朝堂院大覚との対談と、いずれも興味深い話ばかりだ。
 
 4月23日、阪神とDeNAの2回戦。7対4で連敗を止めた。中畑監督、試合後、「勝ったね。勝ったんだね。」と、興奮冷めやらなかった。11日ぶりの白星。ぼくまでうれしくなってしまった。
 駒大も亜大に2対1で勝ったし、お天気もしばらくぶりの青空。ぼくの心もさわやかだ。
 

Unnamed

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