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2015年5月18日 (月)

冷たい父と、心やさしかった母

 先日、電話でラブオイルの注文が入った。名古屋の二川寮という、ゲイ旅館の経営者の方だった。
「名古屋の夜は 二川寮 名古屋駅より歩いて5分 ヤング 中年紳士一杯」と、広告に書かれている。
『薔薇族』が広告を扱うようになってから、廃刊になるまで、競争誌から妨害され、広告を入れないようにされたことがあったが、二川寮は出し続けてくれた。
 
 ご主人は、ぼくよりも年上で、87歳とか。上京した折にわが家を訪ねてくれて、ぼくはまったく覚えていないが、ごちそうになったと、お礼を言われてしまった。
 ラブオイルもずっと置いてくれている。ありがたいことだ。
 
 ぼくの母は、訪ねてくる読者のどんな人にでもよくしてくれた。父は冷たい人間だったが、母は無学で父に馬鹿にされながら、心のやさしい人だった。
 
 笹沢左保さんという有名な作家がいたが、そのお父さんは詩人の笹沢美明さんで、貧乏詩人だった。
 第二書房から「現代詩鑑賞」という、明治・大正・昭和に活躍した詩人たちを紹介する本を父が出していた。そのお手伝いをしていたのが、笹沢美明さんだ。
 
 その頃、仕事がなくて笹沢美明さんは、生活に困っていたのだろう。姉から聞いた話だが、父は絶対にお金を貸さない一方、母は帰っていく笹沢さんを追いかけて、僅かなお金を握らせていたとか。
 
 父のすぐ下の弟、浅草橋のエプロンの卸問屋のひとり娘のところへ、養子になっていた。太平洋戦争の折には、中国に従軍していたが、終戦後、日本に元気で復員してきた。
 しかし、エプロンの卸は、番頭さんだった人が引き継いでいたが、4人の子どもと、祖母と嫁、生活に苦しかったのか、番頭さんの力にすがるしかなかったのだろう。
 
 ぼくが子供の頃、隅田川の花火大会のときなど、よく遊びに行った。3階建てだったので花火の打ち上げがよく見えた。必ずお寿司をとってくれたのが楽しみだった。
 いつの間にか、家も番頭さんのものになり、荒川だったか、堤の下の小さな家に移り住んでいた。
 おじさんがどんな職についたのか、よく覚えていないが、男の子3人、女の子1人を一流大学に通わせ卒業させたのだから、おじさんは苦労したに違いない。
 
 これだけは忘れないで覚えている。上智大学を卒業して、日産自動車の長崎だったかの営業所の社長にまでなった、一番下の息子。いつも使いに出されて、父のところにお金を借りに来た。
 父はおじさんの息子たちが、大学に入学するときの保証人になる印鑑ですら押さなかった。確かぼくが保証人になったと思う。
 父はお金を貸さなかった。やはり母がお金を持たし、お米なども持たせて帰したようだ。
 
 ぼくの父母も亡くなり、おじさん夫婦も亡くなり、おじさんの残した3人の子供は、長男は「三愛」次男は「ニッポン放送」三男は「日産自動車」の営業所の社長に。女の子は三菱銀行に勤め、社内結婚して幸せに暮らしている。
 
 もう10年以上も前のことだったか。おじさんの法事があって、上野の料理屋へ集ったことがあった。三男坊が酒の勢いもあってか、その頃、ぼくがお金に困っていたときで、いくらでも昔の恩義を忘れないで貸すよと言ってくれた。
 100万円貸してくれたが、借用書と担保になる絵画などを要求されてしまった。当たり前のことなのだろうが、さすがに商売人だ。
 
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ぼくを抱いている母

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