弱いものはいつの世でも泣きを見る!
廓の娼妓を救世軍が救いだしたとしても、すぐに元の娼妓に戻ってしまうのではないかと、『娼妓解放哀話』の著者の沖野岩三郎さんは、祖父の伊藤富士雄に質問している。
「これは意地悪い質問ではなかった。実際にそんなことがあるだろうと思って問うたのであった。すると伊藤くんは、小型のノートブックをポケットから取り出して、「そこです。君たちのような人でも、そんな質問をする。その質問の裏には、君だって自由廃業にケチをつけたいという気持ちがあるからでしょう。
世間にはそこに疑念を抱いて、自由廃業を面白いやり方ではないと、非難する人が多いようだが、それは娼妓稼業がどんなに苦しいものだかということを知らない人の言うことです。
今、私がある期間に取り扱った300人の廃業者がどんなところへ縁付いているかをお目にかけましょう」と言って、伊藤くんはそのノートブックを机の上に置いて、大きな手でそのしわをのばした。そのノートブックには綺麗な文字で統計が記されていた。(60人近い嫁として迎えた男性の職業と人数が記されているが、全部は紹介できない)
工場職工・37 会社員・16 人力車夫・11 日雇労働・10 大工職・10 印刷職工・9 などだ。
「娼妓を経験した女性の結婚は案外幸福です。なんといっても人生のどん底を見てきた女性ですから、普通の女の知らない苦労を知っているので、自然と亭主に対する心仕えもよいのでしょう。
ただひとつ悲しいことは、子供ができにくいことです。しかし、まったくできないわけではなく、この統計中の理髪師の妻君になったひとりは、5年間も娼妓だった女性でしたが、結婚後まもなく、まるまるとした男の子を産みました。
それから工場の職工の妻君になった女性も、会社員の妻君になったのも、男の子を産み、建具屋の妻君になったのも、同じく男の子を産んで、4人が4人とも元気で育っています。
この300人中に、廃業以前に出産したものが、18人もいました。ところが不思議なことにも、そのうちの17人までが、女の子でした。しかも、その8人の子供は、たった4人しか育ちませんでした。娼妓稼業中に産む子供が、9分9厘まで女の子で、廃業後、産んだ子が、みんな男の子だということに、なんらかの理由がありそうに思われます。」」
祖父の偉大なところは、廃業させた女性のことをずっと面倒をみてきたということだ。これはなかなか出来ないことでは……。
この本の中には、こんなことも書かれている。
「あなた方が、そんなに必死になって娼妓の自覚をうながしても、警察官の中にその意味を理解しない人がいて、その運動を妨害するようなことがあるんじゃありませんか。と聞いたら伊藤くんはニヤニヤ笑いながら、あなたは日光の東照宮に参詣したことがありますか? と聞いた。
あの社殿の前に、ずらりと灯籠が並んでいるでしょう。
一番表の方にある大きな常夜灯一対には「品川貸座敷中」と刻んであり、その次の石の鳥居には「洲崎貸座敷中」と彫りつけてあり、その中の立派な常夜灯には「新吉原貸座敷中」と刻みつけてあります」
吉原の経営者たちは、警察に多額の献金をしていたに違いない。パチンコ業者と警察の癒着、今も変わらない。
弱いものは、いつの世でも泣かされるのか!
ロンドンの救世軍の大将ブラムエル・ブース
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コメント
弱いモノは泣かされますね、人柱にならない努力をしなければね、元娼婦より、今は一夫一婦制を厳守しておりますよ。
投稿: | 2015年6月 1日 (月) 00時50分