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2015年6月

2015年6月29日 (月)

私の体がワイセツ?!

「マ××」という言葉の意味を知ろうと思って、常用している小学館刊の『新鮮国語辞典』を開いたが載っていない。岩波書店刊の『広辞苑』(4版)にも載っていない。
 
 カフエ「織部」の店長、奥村君にネットで調べてもらったら、第6版の『広辞苑』から乗っているそうだ。この言葉はテレビでも使えないし、あまり誰もが口にしない言葉だからなのかもしれない。
 
 そんな「マ××」を連呼する女性アーティストのろくでなし子さんが現れたのだから、ワイセツ物を取り締まる警視庁の風紀係も困惑したに違いない。
 
 ろくでなし子さんが、最近、筑摩書房から『私の体がワイセツ?!』という本を出版したというのを知って、風紀係には大変お世話になったぼくとしては、本屋に滅多に行かないのに、早速買ってみて、一気に読んでしまった。
 
 まえがきにこんなことが書かれている。
 
「ま××は人間の女性ならだれでも持っている体の一部。なのにどうして日本人は毛嫌いしたり、無視したりするの? もしくは、必要以上にあがめたてまつるの? いやがる人は、そのいやなま××から生まれてきたのに、何を言っているの?
 そんな疑問からわたしはま××のアートを作りました。作れば作るほど、おじさんたちに怒られるので、わたしはムキになってもっとすごいま××作品を作ってやろうと奮起しました。」
 
 女性器って見た目は、そんなに美しいものではないと思うけれど、それをアートにして美しくしてしまったのだから、誰も文句を言うことはできないし、すごいことだ。
 
 40数年前、ぼくの先妻の舞踊家、ミカが公立の中学校の体育教師でありながら、舞台でハダカになるということで、大変な騒ぎになってしまったことを思い出す。60年代と、今と「ハダカ」と「ま××」が重なるような気がする。
 
 ろくでなし子さんは、作品がワイセツだということで、2回も逮捕され、留置所にほうりこまれ、2014年12月24日、起訴された。これから裁判ということになる。
 ぼくも単行本の『女の防波堤』で発禁、『薔薇族』は4回も発禁処分を受け、始末書を書かされたことは20数回、そんなぼくだからろくでなし子さんが、どういうことになるのか関心がある。
 
 ぼくの時代は、調書は3枚複写で、カーボン紙を間にいれて、刑事が文章にしていく。刑事は文字を知らないので、小さな辞書を見ながら書くのだから、大変な時間がかかってしまった。
 今は時代が変わってワープロだそうだが、年配の刑事さんにとっては調書をとるのはやはり時間がかかるようだ。
 
 本を読むと、時代が変わっても刑事たちの体質は変わっていないようだ。ぼくも留置所に入って体験したいと思ったりしたが、留置所でのろくでなし子さんの体験を読んだたら、とってもぼくには堪えられない。
 トイレットペーパーがひどいもので、痔もちのろくでなし子さんは、痔が悪化してしまったそうだ。
 
 男と女って、半分ずつ存在するのに、警察署の女性の留置所って、「湾岸署」「原宿署」「西が丘分室」と、都内に3ヶ所しかないとは驚きだ。
 女性の犯罪者って、男に比べて少ないということか。留置所での生活が、イラスト入りでくわしく書かれている。
 
 同じワイセツ物陳列罪なのに、ぼくは手錠などかけられたりしたことはない。警察って反抗的な人間にはつらく当たる。素直にあやまってしまえば、罰金だけですんでしまうのだが。
 しかし、ろくでなし子さんのように、権力に抵抗する人がいないと、世の中、いつまでも変わらない。
 
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2015年6月27日 (土)

雨降る中を「渋谷道頓堀劇場」へ!

 ぼくが20代の頃、ストリップ劇場に誘ってくれたのは、主婦と生活社のカメラマンの橋本信一郎くんだった。餃子を初めて食べたのも、橋本くんとだ。87歳の現在の橋本さん、古里の熊本で今でも写真を撮り続けている。
 
 それからすっかりストリップにはまりこんで、渋谷から浅草行きの地下鉄に乗り、終点の浅草のひとつ手前の駅、田原町で降りる。映画館のビルの地下にあった「浅草カジノ座」が、ぼくのお気に入りの劇場だった。
 
 座敷数は50席ぐらいだったが、椅子が豪華なものだった。客席の中央に舞台から伸びる花道があり、そこに踊り子さんが踊りながら出てくるので、間近に見られるようになっている。
 
 ストリップ劇場出でこし夜の街に透きとおる靴下を下げし店あり
 
 客席に伸びる舞台を幕の間に小さき尻立てて老婆はふけり
 
 こんな作品をぼくは残している。その頃の浅草は全盛時代で、人があふれていたものだ。『はだかの楽屋』の森福二郎さんの本によると、浅草だけでもストリップ劇場は7つ。都内に14の劇場があったという。おそらく全国では何百という劇場があったのが、現在では27軒ぐらいに減ってしまっている。
 
 わずかばかりの臨時収入があったので、女房には渋谷のギャラリーに打ち合わせに行くとうそをついて、雨の中を渋谷道頓堀劇場に行ってみた。
 60歳以上のシルバー割引で、5千円が4千円に。場内に入ると50人ぐらいの観客席に、20人ぐらいのお客さんが入っていた。
 80歳を越えたじいさんは見当たらない。学割2千円なので、若い人もちらほら。30代、40代ぐらいの人が多かった。
 
 お客さんを観察してみると、ほとんどがご常連のお客さんのようだ。ひとりの野球帽をかぶった50代ぐらいのおじさんは、タンバリンを持ち込んでいて、舞台のそでで、速い曲に合わせて、タンバリンを打ち鳴らす。手慣れたものだ。ロックのお客さんと同じで、全員が手拍子で、一体となって楽しんでいる。
 
 ひとりが踊り終えると、撮影タイムがあり、ポラロイドカメラを使って、どんなポーズでもして撮らしてくれる。4,5人が並んで写真を撮る。お客さんと踊り子さんがなにやらしゃべっているから、ご常連なのだろう。
 ポラ券というのが11枚綴りで5千円。千円札をだしている人もいるから、1枚500円なのだろうか。
 7人の踊り子さんが、次から次へと踊り、その間に写真を撮る時間がある。にこにこして踊り子さんも楽しそうだ。
 
 以前より進歩したのは、照明の設備だろう。ピンク色の照明を当てているから、肌が美しく見える。
 いまどきの女性は、椅子の生活をしているから足が美しい。7人の踊り子さんはみんな美人だ。ぶよぶよした贅肉がついている女性はいない。そして踊りも上手だ。
 
 森さんの本によると、「踊り子の体の部分における魅力点アンケート」をお客に求めたことがあった。集まった回答はそのとき282。年齢別に分けると、40歳以上が76名、30歳代が108名、20歳代が96名だ。
 さすがにずばり「オッパイ」が圧倒的(当時はアソコは見せない)。「ヒップ」に魅力を感じるという人も多かった。「オヘソ」にたまらない魅力を感じるという人が意外と多かったそうだ。
 
 ぼくはオッパイ派だ。でも、アソコをあんなにサービスして見せなくてもいいのでは。大きな貝のような、アソコって美しいのかな? 80を過ぎても女体を見たい。そんな自分をほめてもいいのか。
 
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2015年6月22日 (月)

ゲイの人の見る眼は違う!

「性病の検査が終わると、「後ろ」という軍医の声に合わせて、後ろを向き、半歩開いて四つん這いになる。すると尻の周囲と肛門、睾丸を手で触れてみる。次に肛門を開かせるようにして、痔の病気をみるのである。
 
 こうして身体検査の最後の陰部、肛門の検査がすむと、その軍医が尻を平手で、パチンとたたいて「よ〜し、合格」ということで、すべてが終わることになる。
 すんだ人たちはホッとして、にこにこしながら服を身につけるのだった。
 
 たいしたハプニングもなく身体検査は順調に進んでいるようだ。だんだん私の順番も近づいてくる。先を見ると、例のずんぐり男の順番がきたが、まだ元気よくたっている。これに他の誰が気づいたろうか?
 
 私は周囲をみたが、みな気がつかないのか見てみぬふりをしているのか、誰も口に出す者もいない。
 しかし、私の関心は彼のそこに集中していた。軍医の前に立ったが、軍医はまだ気づかない。前の人のカルテに何か記録していた。
 彼は恥ずかしそうにあたりを見ながら、褌をはずしたので、ピーンとそそりたっているものを、左右の両手を広げて隠していた。が、私はとうとう彼の勃起したそれを見てしまった。大きく、若さがあり、むくれている。小さくけいれんしているのがよく分かる。
 
 とうとう軍医が気がついた。「オ、オ、貴様、元気がいいではないか!」と、あたりに聞こえるようにか、関心を集めるためか、大声で言ってしまった。その大声で、部屋にいた30名程度の眼が、一斉に彼のあそこに集まった。
 ずんぐりの彼は顔を赤くして下を向いていた。軍医は「ホホー」と言いながら、今度は親指と人差指だけでなく、見ごたえ、握りごたえのあるように、5本の指をつかって、3回ほどしごいた。
 
 周囲の眼が注目しているのを意識するかのように検査に入った。親指と人差指でおもむろに根元に静かにしごいていった。私は、陰部、肛門検査の軍医がうらめしかった。
 軍医はおもむろにしごいた。彼は少し痛いのか、眼と眼の間にシワをよせたが、いっこうにおさまる気配はなかった。ずんぐりの彼は胸、すね、尻などの白い肌に、黒毛がとくに目立ち、私を刺激せずにはおかなかった。
 
 普通は1回か、2回しかしごかないものを首をかしげながらも、2回、3回、4回もしごいた。
 彼のは15センチはあったろうか。上に少しそり、グランスが大きいのでホウケイではない。こんなしごき甲斐のある彼のものを、軍医は残念そうに手を離した。
 軍医は「後ろ」と小さい声で言い、彼は後ろを向いて四つん這いになった。肛門の検査は簡単にすませ、再び体を前に向かせた。
 
「どこか悪いところはないか? 病気したことはないか、ン?」と質問したが、彼は「ありません」と答え、「よし、合格」と、太ももを平手でパチリ。
 彼はすぐさま褌を拾いあげてしめた。ちょっと元気がなくなったようだったが、まだたっていたものを上につり上げて褌をしめたので、今度はあまりめだたなくなった。」
 
 女好きの男だったら、徴兵検査に行ったら他人のオチンチンに目が向くということはないだろう。
 この投稿者がゲイの人だったから、このような記事が書けたというものだ。ノンケだったら緊張のあまり、オチンチンが縮こまってしまうのが大半だろう。
 
 軍医のことをゲイではないかと、判断したところもさすがだ。ぼくの言いたいことは、2度と戦争はごめんだということだ。
 
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2015年6月20日 (土)

こんな野蛮な徴兵検査が!

 日本の自衛隊は志願制だから、強制的に韓国のように軍隊にとられることはない。日本の敗戦前は徴兵制だったから、21歳になると徴兵検査を受けなければならなかった。
 
 1980年(昭和53年)の『薔薇族』7月号に貴重な記録が残っていた。
 
「私は徴兵検査を郷里で受けた。当時、この徴兵検査という制度はきびしいものであり、またひとつの若者のセレモニーでもあった。第一日目は、軍服を着た軍医大殿が、最初に訓示を行い、その後、各教室に分かれて入って、筆記試験を受けた。
 その内容は一般的な社会常識と、科学、数学などであったと思う。30分もあれば簡単にできる問題だったが、1時間半いっぱいまでねばっている人もいた。
 
 2日目は当初から身体検査だった。前日より、いや、それよりも以前から通知が有り、身体検査当日は、必ず褌をつけてくるよう指示があった。したがって200名の男子が、一斉に裸姿になっていた。
 
 最初は眼、口腔、耳、鼻などの検査が行われた。そして手足の障害者について行われた。
 最後は内診、そして陰部、肛門の順に検査が続けられる。陰部、肛門を担当するのは、少尉ぐらいの軍医であったと思う。
 
 5人ずつが1列になって続いて検査を受けるのだが、その軍医は5人集まると大声で「おれの前に来たら、すぐに褌をはずせ、貴様らの金玉を検査するので、足を半歩開け」と言ったことを覚えている。
 そしてまた「それがすんだら、すぐ後ろを向いて四つん這いになれ。肛門を検査する。それで終わりだ。以上」と、いかにも軍隊調で言うのだった。
 
 軍隊という世界は、これまったく男の世界だ。男ばかりの世界であったら、なんであんなにもはっきりと露骨に言うのだろうか? と、みな唖然として聞いていた。
 一瞬静かになった。突然、陰部、肛門検査の軍医がおろおろしている私らに対して、「早く来んか」と大声を発したので、またびっくりした。
 みんな最初はこの雰囲気に飲まれていたが、だんだん慣れてくるにしたがって、笑い声や、こそこそ話も出てきた。
 
 私より7人先のずんぐりした男を何気なしに見るtお、越中褌の前に垂れている部分が持ち上がり、明らかに勃起していることに気がついた。
 こんな雰囲気の中で勃起するなんて、たいした度胸の持ち主だと、私はひそかに感心したものだ。もっとも当の彼は少し恥ずかしそうに手で押さえていたが……。
 
 陰部、肛門の検査は順調に進行した。軍医の検査が、私の所よりよく見えるようになった。
 みな恥ずかしそうに褌をはずして立つ。ほとんど同年輩の者ばかりなのに、あそこだけはさまざまで、大きいの小さいの、短いの、ホウケイ、ムクレ、大型雁等などさまざまだ。
 
 いくらなんでも、一日に何百人ものチンを検査したら、さぞ、いやになるのではないか、それにほとんどが緊張して縮み上がっているものばかりで……と、私は軍医に同情を覚えた。
 軍医は鼻先に立った若者の褌をはずした。それを見ながら、陰茎の周囲や、睾丸を引き上げて注意深く見る。そしてそれがすむと陰茎の皮を親指と、人差指で根元まではじき、今度は親指と人差指、中指を使ってしごき戻すのである。
 
 なんでそんな方法で診察するのかというと、陰茎を根元からしごき戻すと、性病持ちの人は尿道から、うみがでるのだ。」
 
 平和が続いているから、こんな野蛮なことをされないですんでいるが、戦争にでもなったら、また、こんなことに。(つづく)
 
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2015年6月15日 (月)

他人を思いやる心を!

 昭和37年(1962年)10月3日(水)の朝日新聞朝刊には、「読者のひろば」という投稿欄があった。なんと53年前のことだ。
 その「読者のひろば」のトップに、ぼくの投稿の「妹に激励の手紙」が載っている。この投稿が載ったことが、ぼくの人生を変えたといってもいいだろう。
 
 その頃、ぼくの末の妹、紀子が心臓手術のために、東京女子医大の心臓病棟に入院中だった。
 予定されていた手術日が、何度も病院側の都合で変更されたために、妹はやけくそになっていた。それを心配したぼくは「読者のひろば」に投稿したのだ。
 
「心臓手術で話題になった栄介ちゃんが亡くなってから一年、21歳になる妹が僧帽弁閉鎖不全症という、心臓手術でもっともむずかしいと言われる病気で、東京女子医大病院に入院しました。(中略)
 
 こうした不幸な病気を背負って死と対決している病人が、どの病室にもいっぱい。そしてベッドのあくのを待っている全国の患者たち。
 手術を前にしての不安な気持ちは、家族のものたちだけの励ましの言葉では、取り除くことはできません。皆さんの激励の手紙を寄せていただければ、こんなにうれしいことはありません。」
 
 病室の住所、部屋番号、ぼくの住所まで書いてある。この投稿の反響はものすごく、波紋のように広がり続け、本はベストセラーになり、日活で映画化されるまでになった。
 
 この「読者のひろば」には、あと5人の方の投稿が載っている。他の方の投稿をぼくが読んだかは、まったく覚えていない。何気なく読みかえしてみたら、「わたしは土方」という投稿が載っている。今、「土方」という言葉は、使ってはいけない。住所、お名前まで載っている。個人情報なんてものがうるさくなかった時代だ。病室に行くのにもガードマンなんていなかったから、だれでも自由に入れた。
 
「わたしは池袋のあるパーキングビル工場現場で働いている作業員です。先日、昼食のあと道ばたで休んでいると、通りがかったおばあさんに声をかけられました。
「そんなにドロだらけになって、ほんとに大変ですね。でも、あなたたちが働いてくださるおかげで、わたしの娘も、気持よくビルの中で事務をとることができるのですよ。これからも縁の下のちから持ちのつもりで、頑張ってください」と。
 
 このひとことで、午前中の重労働の疲れもすっかり吹き飛ぶようでした。「なんだ土方」と世間でいわれるわたしたちに、こんな励ましの言葉はどれほどうれしいかわかりません・
 先日、現場近くのアパートで便所に落ちた子供を、同僚が汚物にまみれて救い出しました。わたしは思わず、その同僚に握手を求めたものです。
 
 力強く生き抜いていく“土方”のよろこび、それはこんなところにあるのです。」
 
 江東区に住む青島さんという方の投稿だ。読んでいてほのぼのとしてくるいい話ではないか。
 
 この時代に生きている人たちには、他人を思いやる気持ちが残っていた。下町に住むおばあさんには、とくに多かったのでは。
 トイレに落ちる。今の若者にはなんのことかと思うだろうが、ぼくの妹もトイレに落ちかかったことがあった。便器の下に大きなかめが置かれていて、そこに直接、汚物が落ちるのだ。そのくみ取りを韓国の人たちがやっていたということも、忘れてはいけない。汚い仕事を韓国の人たちにさせていたのだ。
 
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2015年6月13日 (土)

修学旅行の夜は楽しかった!

 修学旅行というものを一度も体験したことのないぼくにとっては、学生たちがこんなことしてたのかと驚くばかりだ。
『薔薇族』の読者の投稿頁「人生薔薇模様」を読み返してみると、修学旅行の旅館での夜が、たびたび登場してくる。
 
 1980年の1月号に載っていた「名古屋市・ジェミニ」君からの投稿だ。
 
「僕いま25歳。『薔薇族』は高校生のときからずっと読ませてもらっています。僕が高校生だった頃の『薔薇族』と今のとを比べるとずいぶんと変わっていますね。だって昔のはページ数だって今の半分くらいで、製本もチャチだったでしょう。しかも発売は一ヶ月おき、それなのに値段は300円もしたんだ。
 
 当時、高校生だった僕にとって、300円といえば、ものすごい出費だったんですよ。なにしろコーヒーが80円、郵便料金も封書で15円の時代だもんね。でも発売日が近づくと毎日、本屋に通ったものです」
 
 この原稿が書き終わると、ブログを更新してくれているS君のところへ、封筒に入れて送るんだけど、郵便代が82円。ずいぶん高くなったものだ。
 300円の『薔薇族』代って、当時の高校生のおこづかいでは大変な出費だったんだ。
 
「修学旅行で面白かった話といえば、やっぱり夜の旅館でのできごと、これはどこの学校でも同じような内容だろうね。
 夜、先生たちが眠ったあとが僕たちの天下、みんなでビールをのんだり、煙草を吸ったりするのは序の口で、ドボン(ポンド遊び)をやったりしたもんでした。
 
 そうやって騒いでいるうちに、「最初に寝たやつをみんなで押さえつけてズリセンかいてやるぞ」などと言い出した奴がいたもんだから、みんな警戒して朝まで起きていました。
 僕、タヌキ寝入りしようかなと、思ったんですけど、やっぱりできなかった。2日目はさすがにみんな疲れてきて、とうとうN君が犠牲者第一号だったんです。
 
「おい、Nのやつ、寝てしまったみたいだぞ」
「どれ、どれ、あっ、本当だ。一発やったるか。」
 
 言うが早いか、みんなでN君に襲いかかって、あっという間に素裸にしてしまった。N君必死になって、かみついたりして抵抗したけど、6対1じゃ、どうしようもなく、身動きがとれませんでした。
 
 みんなでN君のPをたたいたり、こすったりしたら、だんだん大きくなってきて、それに誰が持ってきたのか、エアーサロンパスをたっぷりふりかけて、みんなでこすってやったら、ピューってとうとう出してしまった。
 
 N君、あとで泣いていたけど、2人目の犠牲者のK君のPを一番喜んでこすっていたのはN君でした。
 不覚にも僕が3番目の犠牲者(僕の場合は犠牲といえるのか?)になってしまいました。はっと気づいた時、もう6人に押さえこまれていて、下半身は裸でした。
 
 みんなに触られるので、ぼくの分身は元気いっぱい。それにエアーサロンパスをたっぷりふりかけられたから、さあ大変、熱いような、痛いような感覚、ヒリヒリして目から涙が流れて痛いんだけど、押さえつけられてどうしようもなく、触られているうちに発射してしまいました。正直言って気持ちよかったな。」
 
 その頃は、「ラブオイル」発売されていなかった。修学旅行に行く男子生徒に、ラブオイル校長が、ラブオイル持たせたというのは、後の話。
 
 こんな野蛮なこと、高校生やっていたのかな? 先生たちだって、女の先生と、いや、旅館を抜けだして、バアに。修学旅行の夜って、とにかく楽しかったんだ。うらやましい!
 
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2015年6月 8日 (月)

あどけない、ほほえみをまた!

 6月3日、夜7時半からのNHKの番組「クローズアップ現代」はさすがNHK、時代の流れをよくとらえた番組を制作している。
「老いて恋して結ばれて、超高齢社会の“男と女”」いい年をして若い女性と付き合いたいなどと言ったら、エロ親父呼ばわれしたものだが、今の時代、年老いてから少しでも若い女性と恋をして、結婚したいという男性が増えているそうだ。
 
 ぼくの机の上には、憧れの女優だった、同じ町内に住む久我美子さんとのツウショットの写真が飾ってある。そのとなりには、心臓病で亡くなった、ぼくの末の妹、紀子が東京女子医大に入院中に、担当だった看護婦さんと、患者の子供達の写真も飾ってある。
 
 ぼくが30代後半だったろうか、この看護婦さん、確か19歳だったと思う。恋をして夢中だったことがある。女房と離婚して、看護婦さんと一緒になろうとまで思った。しかし、女房の知るところとなり、ふたりが対決してしまったことがある。
 看護婦さん、手を引いてくれた。その後、どうしているのか、まったくわからない。幸せになってくれていればいいがと、いつも写真を見て思っている。
 気の強い、しっかりした女性だった。
 
 再婚してから早いもので、40年を越している。10歳も年下だが、ヘビースモーカーで酒好き。運動もしないので、やせおとろえていて、ぼくより先に死ぬのではと心配だ。
 
 医者で作家だった「失楽園」の著者、渡辺淳一さん(亡くなられてしまった)が、年をとっても、セックスのことを考え、恋愛をしなければいけないというようなことを書いておられた。
 初めて会う女性との機会を多く持つことが脳の刺激になって長生きするそうだ。ぼくはありがたいことに、毎月、月の終わりの土曜日に、下北沢南口のカフエ「織部」で、「文ちゃんと語る会」を定期的に開いている。
 2代目『薔薇族』編集長の竜超君に、いつもひやかされるのだが、初めて会に参加する若い女性がいると、ぼくのテンションが自然に上がるのだそうだ。
 
 5月終わりの土曜日の会には、20代の女性が3人も参加してくれ、何度か参加してくれている女性もいて、10数人を越えるにぎやかな会になった。
 こんなことができる老人って、そう多くはいないだろう。これも『薔薇族』という雑誌を長いこと出し続けたお蔭というものだ。
 
 ぼくは汗っかきで、暑くなってくると外出して帰ってきた時、下着をとりかえて汗を拭かないとならない。
 暑いのは嫌だが、街を歩いている女性が、胸元の谷間をこれみよがしに見せてくれるのがたまらない。
 
 ストリップショウを見に行きたいけれど、ふところが寂しくて行けないと、ブログに書いたが、「語る会」に出席した女性も、見に行きたいと言っていた。
 何年か前に「語る会」に出席してくれた、20代の女性に恋心を抱いてしまったことがある。
 洋服のコーディネーターをしている女性なので、洋服の趣味は良かった。あどけなさが残ったほほえみがなんとも、かわいかった。
 
「こんなに人との出会いの奇蹟を感じたことはありません。一緒に色々なところに出かけることができたことが本当に楽しく、うれしいことでした」そんな手紙をくれたというのに。
 約束して出会う日に、お母さんがぎっくり腰になって歩けなくなり、これなくなってしまった。転職がうまくいかなかったのか、それから会っていない。
 いつの日か、また、あどけないほほえみを見せてくれるものと信じている。
 
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若い女性と、幸せ。

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2015年6月 6日 (土)

人間、だれしも弱いものなのだ!

 1979年の『薔薇族』4月号に、ぼくは「死ぬなんて言わないで」という記事を書いたことがあった。読者の中には自殺してしまう若者が何人もいたからだ。
 3万人を越す年間の自殺者の数が減ってきているようだが、ゲイの人の自殺者の割合は多いのでは。
 ぼくの記事を読んだ、“福岡県の青少年をまもる者”さんが、「自殺に走る前に」という投稿を寄せてくれている。長い文章なので全文は載せられないが。
 
「私は幼少の頃から長い苦悩の果てに、20代の時ついに重症のノイローゼになり、街の精神病院や、大学の精神科を転々と4年間も入院生活を送ったんだんだよ。
 ノイローゼのあらゆる症状に心身ともにさいなまれ、苦痛のあまり大学病院の屋上から飛び降りようとしたけど、未遂に終わった。
 廃人同様になり、家人からも見放されてしまったんだよ。
 
 そんな私が現在まがりなりにも、人並みに生活できるようになったのは、ある精神分析医との出会いがあったからだ。この医師との愛と涙の長い苦闘があったわけだが、この体験は私の人生上、貴重なものとなっている。
 
 精神的に追い詰められた、ひとつの命が、死(自殺)のぎりぎりの線上で、もがきながらも生きることの意味と、大切さを医師の愛によって、少しずつ自分のものとしていった。まるでドキュメンタリー映画でも観るような劇的なシーンがあったんだ。
 
 私の少・青年時代は、まさに精神地獄そのものだったけど、人の愛によって救われた命、もう粗末にはできなくなったよ。それに私はこの貴重な体験をもって、同病者を救う義務があるのだ。それが医師への恩返しなのだ。
 
 ノイローゼのひどいときは、自分の命だもの死のうとどうしようと、自分勝手だと思った。でも自分の生命というものをよく考えて見ると、自分のもののようで、自分のものじゃないんだな。
 なぜなら、私は自分の意志で生まれてきたのじゃないし、この心臓や、脳を動かしているのは私じゃないからだ。つまり生命は自然のものなんだ。自然にこの世に生まれ出た命は、自然に大地に帰してやるのが、自然な姿じゃないのだろうか。(苦労しただけのことがあって、いいこと言うな。同感だ)
 
 君たちは不幸にして、幼少時、両親とくに父親から、この世の苦難のひとつ、ひとつに打ち勝っていく男としての強さや、忍耐力をもらうことができなかったのだ。
 男の子は父親を見本に、男としての強さやたくましさを自分のものとしていくものだ。ところがその父親自身が弱かったり、きびしいだけだったり、子に対する男親の愛のかけ方を知らなかったり、加えて母親が君に甘かったりする場合、君は人に順応、妥協できない、依頼心の強い、ささいな難事にもつまずき、苦しむ、活力のない弱々しい人間に育っていくのだ。
 
 最終的にはいつまでも苦しみの原因を、両親や社会のせいにしていても、それは自分に対する甘えにほかならず、君はこの甘えが苦しみを生み出す原因になっていることを、悟らなければならないのだよ。
 今の君たちはせめてその苦しみを自分ひとりのものとせず、誰かに相談することが、当面、君のする努力なのだ。とにかくひとりで悶々とする状態が、一番危険なのだ。
 
 君は「自分が弱いからダメだ」と悲観するが人間だれしも弱いものなんだよ。とにかく今の君は、この人はと思う人を信じて、真剣に相談することだ。」
 
 先輩が若い人に教える、アドバイスする、『薔薇族』のいいところだった。
 
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2015年6月 5日 (金)

6月27日(土)「文ちゃんと語る会」開催

来る6月27日(土)、午後17時〜19時、「文ちゃんと語る会」を開催します。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

日時・6月27日(土)午後17時~19時

場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」

(〒1550031 世田谷区北沢23 電話0354329068)

会費・コーヒー代のみ

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★初めての方、女性、大歓迎いたします。お気軽にお越しください。

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2015年6月 1日 (月)

『薔薇族』にあった「少年の部屋」とはどんな?

『薔薇族』には「少年の部屋」という中・高生からの投稿コーナーがあった。中学生からの投稿は少なく、ほとんどは高校生からのものだ。
 本人が自分は同性愛者だということを自覚しはじめていた年頃だろう。ネットなんていうものがない時代、今の少年よりも文章力があって、自分の考えを長文で投稿してくる高校生が多かった。
 今、こんな高校生からの投稿を載せるなんていうことはできないだろうが、ある意味でいい時代だったのでは……。
 
 1988年の9月号、内藤ルネさんの表紙絵で、きりっとした少年が描かれている。
 鳥取県のP・S君からの投稿だ。
 
「僕は高校生で、もうすぐ18歳になるけど、子供っぽいので中学生によく見られます。
 僕がこの雑誌を初めて知ったのは、ついこの前。勇気を出して買ったんだけど、僕と同じ年ぐらいの中学生や、高校生がたくさんいて少しびっくりしちゃいました。
 
 僕が男の人を好きになったのは、小学生のころからだと思います。あのころからガキっぽかった僕は、いつも誰もいない野球場で、目隠しさせられて、友達のオナニーをやらされていました。
 その人は強かったので、いやとは言えず仕方なくやっていました。こんなこともありました。友達のA君の家に、B君と行ったとき、遊び疲れた僕は、A君のベッドで眠ってしまい、目が覚めるとA君は買い物に行って、B君が僕のアソコをなぜていて、アソコはビンビンになっちゃってた。
 
 B君は僕が目を覚ましたのを知ると、自分の硬くなったアソコを僕の口に向けて「なめてーや」と言ってきました。
 僕は「やだっ」と言って断ると、いきなり口に入れてきました。いつの間にか僕はB君のをなめていました。
 B君は気持ちよさそうにしていて、しばらくすると僕の頭をおさえました。B君は僕の口に精液を出しました。僕はすぐに口を洗いに台所に行った。そのときはオシッコだと思ったのです。
 
 中学生のころは、2,3人にフェラチオをさせられていた。たぶんB君が「気持ちいいからやってもらえ」とか言ったんだろうと思う。
 僕の学校には明るいホモの奴とかもいた。修学旅行で風呂に入るとき、ふざけあって先生もいるのに、C君がD君のアソコをペロペロしていた。
 それからベッドで寝ていたら、また「おまえのチンポなめてやるけ、おれのもなめて」と言ってきた。あとは書かなくても、分かると思います。」
 
 27年前の鳥取の高校生の話。今ではいい親父さんになっていると思うけど、どんな人生を送っているのだろうか。
 ぼくは中学生、大学生の頃にもそんな経験はまったくない。戦争中から敗戦後の食糧難の時代、大学に入ってからオナニーを覚えたぐらいだから……。
 
「ラブオイル校長」とあだ名が付いて、修学旅行におもむく高校生を前にして、男子生徒にラブオイルをもたせた、ビデオのワンシーンを思い出す。
 空襲が激しくなってきて、修学旅行にも行けなかった時代に育ったぼく。今の子供たちは幸せだ。
 それは敗戦後、平和な時代が70年も続いたからで、なんとしても戦争に巻き込まれないようにしなくては。
 
 ぼくが生まれた表参道、敗戦間際の5月の末にB29の空爆により多数の死者を出したようだ。今住んでいる代沢は焼けないところが多かったので、死体を見ることはなかった。いつまでも平和が続いてほしいものだ。
 
Unnamed

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