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2015年8月

2015年8月31日 (月)

日活で映画化されて50年も過ぎたとは!

 人間の出会いって不思議なものだ。妹の紀子が心臓手術のために入院していた、東京女子医大病院の心臓病棟、401号室、女性ばかりの6人部屋だ。
 子供の部屋が満員なので、一番扉に近いベッドが空いたところへ、5歳の坊や、田中和雄君がお父さんとお母さんに連れられて入院してきた。
 
 ファロー四微症という生まれつきの心臓奇形で、唇が紫色、手先も血の気がなかった。この坊やが入院してこなければ、ぼくと妹で書いた『ぼくどうして涙が出るの』は生まれなかった。
 
 ぼくと坊やはすぐに仲良しになってしまった。ぼくのいちばん小さい友人というところだ。ぼくは病院に行って退屈している田中君と遊んでくるのが楽しみだった。
「兄さんは私のところにくるの。それとも田中君のところにくるの」と、妹に皮肉まじりに言われてしまった。
 ぼくは坊やとの交流を下手くそな詩に書いた。
 
 
 
 カンニング
 
 3時と7時の検温の時間
 君がいちばん、いやがる時間さ。
 看護婦さんが、体温計を何本も握って入ってくる。
 「ハイッ田中君!」
 「ハイッ松永さん!」
 一本、一本、渡して出て行く。
 君はボタンをはずしてやると、
 わきの下に体温計をはさんで
 神妙な顔をしてすわっている。
 ちゃんと計ると、君はずいぶん熱があったね。
 熱があると
 注射をされるのが怖いものだから、
 もそもそ、からだをゆすって、
 体温計をわきの下から、きまってずらしてしまうんだ。
 看護婦さんも、最初はよくごまかされたね。
 「田中君、今日はオネツがないわね」
 だってさ。
 君は学校に行くようになったら、カンニングの名人になるぜ。
 
 
 
 日活で映画化されたのが、昭和40年。秋の芸術祭参加作品となった。今から50年も前のことだ。十朱幸代さんが初めて主役になった映画、その映画を8月22日(土)下北沢の「artRegCafe」で、50年ぶりに上映する催しを開いた。
 
 多くの友人が集まってくれて、映画はモノクロだけど、涙ぐんでいたお客さんもいたようだ。
 映画のタイトルは、ぼくが書いた文字だ。
 そのバックに、キングレコードのディレクターだった、駒大時代の同期生の長田暁二君がレコード化してくれた、ヴォーチェ・アンジェリカの歌声が流れる。最高にいい気分だった。
 
 
 
 「ぼくどうして涙がでるんだろ」
 最後にそれだけ 言った君
 ああ もう一度病院の
 くもったガラスを拭きながら
 二人でネオンを 眺めたい
 
 
 
 あれから50年も過ぎてしまったとは。しかし、あの本がベストセラーになり、映画化されたこともあって、「全国心臓病の子どもを守る会」が発足し、後学の手術代も保険が適用されるようになった。
 いい仕事を残せて幸せだった。
 
 妹が亡くなって40数年になる。もうじき北沢八幡宮の祭礼がやってくる。お祭りが好きだった妹の紀子。一緒にみこしを見に行くか。

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2015年8月29日 (土)

こんなこと書かないほうがいいのかとブレーキが!

 最近、こんなこと書こうと思っても、やめたほうがいいかなと、自分でブレーキをかけてしまうことが多くなってきた。
 中学1年生の少年と少女が殺されてしまった事件、テレビ報道番組が取り上げていて、犯罪心理学の先生が容疑者の心理を語っているが、的外れのことが多い。
 
 容疑者について、ぼくの意見をのべたいが、やめたほうがいいかと思ってしまう。今の時代、こんなことは書かないほうがいいかと思うことが多くなってきている。
 
「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「ポストの前で待っている君、ゴメンネ」という題で、こんなことが書かれている。1981年10月号だ。
 
「先日、こんなことがあったのです。関西に住む18歳の少年が文通欄にのせた。それに答えて16歳の高1の少年が手紙を出して、それからふたりの交際が始まったのです。
 
 両方とも一人っ子でした。そのうちに熱烈に愛しあうようになったふたりは、とうとう16歳の少年が自由を求めて家出してしまうという結末になってしまったのです。
 
 どう考えたって16歳の少年の方の両親は、たった2つ上とはいっても、年上の子がたぶらかしたとしか思いません。
 
 それから親同士の争いにまで発展してしまう。16歳の少年の親は、自分の子どもがホモだなんてことは信じないから、年上の子が息子を仕込んだとしか思わない。泥仕合が今でも続いている。
 
 なにもぼくは恐がっているわけではなく、お互いに未成年者同士では、どんなに本人同士が愛し合っているからといって、両親にそのことを理解させるのは難しい。
 未成年同士では話がこじれたときに、自分たちだけで問題を解決することは、まず不可能なことなのです。
 
 両親にしてみると、『薔薇族』というようなエロ本があるから、子どもたちが悪くなる、そうとしか思いません。
 かつて発禁処分になったときも、親の投書がきっかけでした。責任を避けるみたいだが未成年同士を紹介してあげることは難しい問題です。すごくぼくの立場が弱いとしか言いようがありません。
 男と男が愛しあうことが悪いことだ。非道徳的なことだという考えをなくさない限りはどうしようもありません。
 
 高校生諸君、なんとかいい方法を見つけて、君ら若い者同士が出会える方法を考えてあげたいと思っています。
 この間も新宿の「祭」に立ち寄ってみたら、夏休みなものだから、相変わらず若い子でムンムンしている。
 高2の子がぼくに話してくれた。「祭」が入っているビル(Qフラットビル。11階建)のエレベーターを上ったり、降りたり、やっと2階の一番奥にあるお店の扉をあけたのだそうです。
 もう今では4回目で、すごくハンサムなお兄さんと友だちになって幸せそうでした。「祭」に入るまでの廊下が長すぎると言う。かなり「祭」の扉をあけるまで、勇気がないと入れなかったようだ。
 
 東京に住んでいる若い子は、度胸さえあれば、こうして友だちを作るチャンスはあるけれど、地方にいる若い子はつらい。
 手紙が届くのを首を長くして待っている子が多かったのです。」
 
 文通欄でしか、相手を見つけることができなかった時代、それこそいろんな物語があった。
 ネットですぐに相手がみつかる今の時代、首を長くしてポストの前で何日も何日も待っていた時代、どっちがよかったのか。ぼくにはわからない。

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2015年8月24日 (月)

ぼくがすすめる下北沢南口の2軒のお店

 下北沢南口の「art ReG cafe」。広くてゆったりとしていて、おしゃれな店だ。映写幕まで用意されていて、大きなテレビが3台も設置されている、ぜいたくなお店だ。
 開店してから4年になるそうだ。茶沢通りから少し離れた3階建で、外側はガラス張り、地下はライブの会場になっていて、2階がカフエになっている。
 
 カフエといっても飲物だけでなく、お酒もあり、食事もできる。値段も高くはない。ライブに訪れる若者たちは、よく利用しているようだが、2階なので年配者にはちょっと入りにくいかもしれない。
 
 下北沢の南口商店街の一番はずれにあるお店といっていいだろう。ぼくは何度か食事に訪れてすっかり気に入り、ここで映画の上映をすることを決めた。
 会場を借りるとなると、たいがいのお店は2時間が限界だ。ところが映画の映写時間が1時間30分だから、食事の時間を入れると、かなりのオーバーになる。
 
 服部店長はいい人だ。ぼくが要求する条件をみんな承知してくれた。いつも会が終わると別のお店で二次会をやっていたが、夕方の5時まで使ってくれてもいいと言う。
 下北沢のお店に、こんなにのんびりとできる空間はない。落ち着かない店ばかりだから……。
 
 ぜひ、下北沢にくることがあったら「art ReG cafe」に立ち寄ってもらいたいものだ。階段は急だが、奥にエレベーターがあるから、楽にお店に入ることができる。
 
 もう一件のすすめたいお店は、やはり下北沢南口の陶器とコーヒーの店「織部」だ。毎月、月の終わりの土曜日、夕方5時から7時まで、「文ちゃんと語る会」を開いているお店だ。
 店長の奥村君、この人と出会ったことが、ネットを触ったことのないぼくにとって、どれだけ助かったか知れない。
 
 このお店の店長になるまでは、デザインの会社に勤めていたそうなので、チラシを作ってくれたり、年賀状まで作ってくれている。
 わからないことがあると、なんでもネットで調べてくれるので、どれだけ助かっていることか。
 
「織部」は、商店街からはずれた路地のまたその奥にある、めだたないお店だ。開店してからもう2年にはなるだろうか。
 このお店には朝日新聞と日本経済新聞の二紙が置いてある。ぼくのために置いてくれているようなものだ。
 店の半分は織部焼の陶器や、小物がいろいろと並べられている。半分はカフエになっているのだが、ゆったりとした大きな椅子が並んでいる。
 ガラス扉の外は煙草も吸える。最近は犬を連れてくる人、乳母車に子供を乗せてくる若いお母さんが多くなっている。下北沢には乳母車で入っていけるお店がないからだ。
 自社ビルなので家賃がないから、やっていけるのだろうが、こんなにゆったりした空間のカフエは、ここしかない。ぜひ、立ち寄ってもらいたいお店だ。
 
 8月の13日から17日まで、わが家の連中は息子が運転して女房の古里、弥彦へ行ってしまい、ぼくだけのひとり暮らしだ。
 口うるさい女房がいないので、ひとりの生活をしばらくぶりに楽しめた。
 お盆なので仏壇に飾る花を買ってきて、仏壇の中の位牌などを掃除した。元文3年6月5日(1739年。276年前)と天保12年(1941年。174年前)の位牌があった。祖父の父は長野の真田家の用人だったそうだ。元文というと江戸時代の中期の頃か。ご先祖さまを大事にしないと。
 
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2015年8月22日 (土)

代沢小学校の「ミドリバンド」のナゾは!

 敗戦後、70年ということで、今年の8月15日の敗戦記念日前後の新聞、テレビは戦争の話ばかりだった。
 NHKスペシャルの映像は、とくになまなましかった。米軍に降伏するということは恥と教えこまれていたから、兵士も民間人も死を選んだ。
 
 サイパン島の崖の上から、抱いていた赤ん坊を先に海の中に投げ落とし、そのあと母親が飛び降りる。子供が海に浮かんでいる映像までが映し出されていた。
 これはアメリカ本土に住むアメリカ人にとっては、太平洋の彼方の話としてしか実感がない。アメリカの軍の指導者は、戦時国債を国民に買ってもらいたいために、カメラマンを多数、戦場に送り込んで、なまなましい映像を国民に見せ、国債を買わせたのだそうだ。そのお金でB29爆撃機や、武器が大量に生産された。
 
 火炎放射器の威力はすさまじい。百数十メートルも炎がとどくというのだから、穴の中に入り込んでいる日本兵は、たちまちのうちに焼き殺されてしまう。
 原爆を広島、長崎に落とされても、まだ戦おうとした戦争指導者、竹槍では米軍が上陸してきたら戦えるわけがない。
 民間人を多数殺してしまったアメリカを憎むべきか、愚かな日本の指導者を憎むべきかはわからない。
 
 ぼくは昭和13年(支那事変が始まった次の年だ)に代沢小学校に入学し、敗戦色が濃くなってきた、昭和19年の4月に世田谷学園に入学している。
 代沢小学校の6年生の担任が浜館菊雄先生だ。あだ名をハマカンと呼んでいた。浜館先生、絵が上手で勉強のできない子の顔を黒板に描いた。この先生の思い出ってそんなことしか覚えていない。
 
 その浜館先生が、戦後、すごい仕事をしていたというのだ。それを調べているのが、きむらけんさん。東大の附属中学の国語教師を定年まで勤められ、退任後は執筆活動を精力的にされている。
 ぼくの父が戦後、「世田谷文学散歩の会」を作り、世田谷に住む文士たちのことを調べあげ「世田谷の文学」という本も出している。
 父の仕事の後を徹底的に調べあげたのが、きむらけんさんだ。
 
 昭和19年8月12日の深夜、代沢小学校の5年以下の子どもたちが、長野のお寺に集団疎開した。
 6年生だけが学校に残り、5年以下の子どもたちを送った記憶があるが、19年となると、ぼくは中学生になっている。18年ではなかったのか。
 
 浜館先生がバンドを作り、子どもたちを指導していたなんて、まったく知らなかった。
 とくに音楽の授業に熱心だったという記憶もないし、浜館先生が指導するバンドの演奏など聞いた記憶はまったくない。
 浜館先生は楽器を疎開先まで送ったのだそうだ。運んだ楽器は、木琴、ハーモニカ、小太鼓、大太鼓、アコーデオン、ラッパなどだ。
 疎開先でも演奏会を開いたりしていたので子どもたちの演奏技量は、なかなかのものだったようだ。
 
 戦争が終わったものの、国民は貧しく食料も不足していた。そんな時代にはまた手先生が指導する「ミドリバンド」が、進駐軍の慰問のために、米軍の施設にバスが迎えに来て、演奏におもむいていた。
 ぼくの家は代沢小のすぐそばなので、若草色の制服で、帽子から革靴まで、すべて米軍が支給していたのだろう。戦後の多くの国民と「ミドリバンド」の子どもたちの姿は、あまりにもかけ離れていた。きむらけんさん、これらのなぞを調べあげて本にするようだ。期待したい。
 

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2015年8月17日 (月)

長田暁二君は、ぼくの誇りの友達だ!

 こんなにうれしい手紙をもらったことはない。ぼくのブログに「長田暁二君は駒沢大学の誇りだ!」ということを書いた。
 
 長田暁二君が『敗戦70年企画・戦争が遺した歌―歌が明かす戦争の背景』(全音楽譜出版社刊)という本を最近出版された。
「歌」という視点からもう一度「戦争」と「平和」を見つめなおす。というキャッチフレーズで。
 
 2015年7月18日の東京新聞の夕刊に「目背けず謙虚に語れ」と題して、年老いた長田君の写真入りで、インタビュー記事が載った。
 ぼくは知らなかったが、記事にこんなことが書いてある。
 
「70年前の夏、長田は海軍の志願兵に採用された。郷里・岡山の中学に通う三年生で、里帰りした兵隊の歌う「同期の桜」に憧れる軍国少年だった。
 
 新聞もラジオも「日本は負けない」「神風が吹く」と報じ、「戦争へ行け」という世論を作り続けていた。しかし、入隊が8月17日だったため命拾いした。二学期になって学校に戻ると、教師から「戦争に行こうとしたばかがいる」と言われ人間不信に陥った」
 
 長田くんは中学4年を修了して、ぼくと同じように駒沢大学の予科に入学してきた。長田くんの実家はお寺さんだったのか、児童教育部の部長をやっていたぐらいだったから、佛教科かもしれない。
 児童教育部の学生たちは、都内の寺院に派遣されて、子どもたちに曹洞宗の布教活動をしていた。わが家の近くの森巌寺に、ぼくの子供の頃、駒大の児童教育部の学生が日曜学校を開いていたことがある。
 
 長田くんは駒大を卒業後、キングレコードに入社、童謡担当ディレクターを振り出しに、芸術賞1回、日本レコード大賞企画賞3回、童謡賞7回。ヒットした「下町の太陽」も彼の仕事だ。現在は音楽文化研究家、音楽プロデューサーとして活躍し、著書も100冊を越える。
 
 ぼくがスクーターに乗っていた頃は、長田くんがディレクターとして活躍していたので、よく職場を訪ねた。そんな時代に、ぼくの『ぼくどうして涙がでるの』をレコード化してくれた。
 長田君はぼくと違って、パーティはお嫌いなのか、100冊を越す本を出版していても出版記念会などしたことはない。
 
 70歳の古希のお祝いの会をホテルで開いたが、それも友達と二人での会だった。歌手や、作詞家、作曲家の人たちも招かれていたが、駒大関係ではぼくひとりだった。
 
 それから早くも時が流れて、15年は経っている。その間にもぼくは出版を祝う会を銀座のキャバレー「白い
ばら」で3回も開いた。その前にも「赤坂プリンスホテル」で豪華なパーティを開いているが、案内状は出していても、長田君はいつも欠席だ。よっぽどパーティ嫌いなのかもしれない。
 
 そんな長田君から昨日、手紙が送られてきた。長田君はネットなど見ていないのだろうか。800頁もの大作は、原稿用紙に書いたのだろうか。頭のいい長田君だから、ネットなど使いこなしているのかも。
 ぼくのブログを全音楽出版社の編集部の人が読んで長田君に送ったらしい。
 
「拝読して懐かしいやら嬉しいやらで涙が止まりません。有難うございました。持つべきは友達と、しみじみ感じているところです。」
 
『戦争が遺した歌』は、もう再版されたそうだ。「持つべきは友達」と言ってくれた長田君、なんとしても本を買わねば!
 
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2015年8月15日 (土)

胸が燃えるようにあつくなり、涙が溢れ出て!―修学旅行、17歳の純愛物語―

『薔薇族』の投稿欄の「人生薔薇模様」を読んでいると、修学旅行の思い出を書いている投稿がよく目につく。
 学生にとって修学旅行って、いろんな思い出を作ってくれたのだろう。
 
 敗戦記念日が間もなくやってくるが、戦争は個人の楽しみをすべてうばってしまう。ぼくの時代は、修学旅行は、戦争が激しくなってきて行ける状態ではなかった。『薔薇族』にのる若者の投稿を読むと、平和っていいなと思わずにはいられない。「ラブオイル校長」として、ラブオイルを持たせて、男子高校生を送り出したぼくとしては、修学旅行の楽しい思い出をつづった投稿には、目がすぐに寄せられてしまう。
 
 1979年・7月号の「人生薔薇模様」に寄せられた、福岡に住む17歳の高校生の投稿だ。
「ぼくは17歳の県立高校3年になりたてのスリムボーイです。金縁と銀縁のメガネをかけています。
 2年のときに仲良くしていたX君がいたのですが、勇気がなくてキッスもしたことがありません。彼、島に住んでいるので、学校の寮にいるんです。
 
 X君が1年生のとき、先輩から尺八させられたという噂を聞きました。また、彼もその気があったかもしれないということも聞きました。
 
 2年生のときに修学旅行があって、それで彼と仲良くなったんです。彼はぼくの後ろの席(バスの中で)に座りました。彼はぼくにちょっかいを出すんです。耳をかんだり、指をかんだり、腕をなめたりしました。
 他の人には、ぼくたちがふざけていると思ったようです。ぼくもそのつもりでした。でも「もしかしたら彼は……」と、ふっと頭をかすめたのです。しかし、ぼくは勇気がなくて、また、みんなに気取られてはいけないと思って、彼にいやな態度をしてしまったんですが、でも二人は仲良く旅行を楽しみました。
 
(中略)
 
 夜があけてまたバスの中。彼、今度はぼくの横に座ったんです。彼は右手でぼくの左手をもって「握ってよ」と言ったんです。でもみんなの手前もあって、ふざけた様子で、その気があるのかどうかわかりませんでした。結局、二人の間には友達としての関係しかできませんでした。
 
 帰りの夜行列車の中のことです。みんな疲れたせいか、12時には寝静まってしまいました。起きているのはぼくだけ。
 ぼくはいろんな人の寝顔を見てまわりました(もちろん男ばっか)。みんなかわいいんです。思わずキッスしてしまいそうになりました。
 
 X君のところにきたとき、理性が負けて彼の唇にキッスしてしまいました。彼は目をさまさなかったのです。ぼくは胸が燃えるように熱くなり、わけもなく涙があふれでてきたんです。今でもなぜ涙が出たのかわかりません。ぼくはそのまま寝ずに朝をむかえました。
 
 彼にもう一度だけキッスをしようと、彼のところへ行きました。彼もみんなもまだ寝ています。そして……。
 X君、ごめんね。ぼく弱虫なんだ。勇気がないんだ。ごめんね。こんなぼくと短い間だけど付き合ってくれてありがとう。」
 
 若き日の純情物語っていいな。修学旅行っていろんな物語を生んだに違いない。単に観光旅行だけでない。人間同士の「愛」も生まれただろう。
 最近は国内だけでなく、海外にも行くようだ。他国の人との友情が生まれれば、それもいいことだろう。なにはともあれ、平和な戦争のない時代が、いつまでも続いてほしい。
 
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イラスト・甲秀樹

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2015年8月10日 (月)

娼婦のような気分にさせられて!

「私はマッサージ師で、35年あまりになります。現在はA市のサウナの専属です。長らく温泉地におり、その時、お客にホモの道を教えられ、お客を治療する時は絶対に、ヘノコ(秋田の方言で、オチンチンのこと)には触るまいと、固く誓っております。
 
 しかし、心とうらはらに手がのびて、気がつくと、お客の道具をしゃぶっている状態で、いつもお客の精液を夢中になって呑んでいる有様です。
 サウナ風呂もやめよう、やめようと思っても、湯上がりのホテっている身体に触れるのが、たまらなくしびれて、われしらず洩らしている始末です。
 
 逞しい肉体にすばらしい男性自身を。なかにはこれみよがしにぶらぶらさせているので、それを見ると全身がぞくぞくして、しびれてくるのです。
 なかには治療を始めると、私のマラに手をのばしてくる人がおり、私も好きだからすぐにお客のやりやすいように、自分の男性を出してやります。
 すばらしい感覚に、思わずわれ知らずにうっとりとなる始末です。
 
 私のマッサージを受けたお客が、「良く手が身体に吸いつくみたいだ」と、言います。ことにマラの根元と、アヌスの中間、俗にいう「蟻の戸渡り」を強く柔らかくやってやると、声を出してよがり涙をながすお客さんがおります。あのふんいきは何とも言われない、すばらしい世界です。
 
 私が小学生の頃、父が農作業の疲れで昼寝をしているとき、なんとなく見ると、ヘノコを立てて眠っているではありませんか。私は子供心に見さかいもなく、ふんどしをはずし、見事な「かさへのこ」に魅せられて、われしらず父のものをしゃぶってしまいました。
 
 今思うと、その頃からホモの傾向があったのかも知れません。目を患って盲学校へ入ったときも、こと寄宿舎に入ると、千ずりかきは、烈しく何日も千ずりされる方でした。中には剛の者もいて、クリームの空びんに精液をためて、悦に入っている者もいました。(秋田県のマラ好き)」
 
 マッサージの仕事をされているすべての方が、このようなことをしているわけではありません。たまたま読者の中のひとりで、マラ好きの人がいたということで、ご理解ください。
 
 いつか関西に住む、お坊さんが、20歳の大学生の頃に、ぼくが経営していた下北沢のカフエ「イカール館」に何度か訪ねてきた話を書いたことがあった。
 ぼくの話を聞きたくて訪ねてきたのかと思ったら、この人、年配の人が好きで、ぼくに好意をもっていて訪ねてきたということを、30年も過ぎてから知った。
 昨年の3月、渋谷の東急ホテルの35階の部屋にぼくを招いてくれた。
 この方、50歳を過ぎた頃で、お坊さんだった。上京してくると、必ずマッサージの先生を部屋に呼んでいた。読者の紹介で、わが家へ、二三度来てもらって、治療を受けたこともあるそうだ。
 
 素晴らしい東京の夜景が見渡せる広い部屋、和食の名店でコースの料理をごちそうになり、足をのばせる風呂に入り、マッサージをしてもらう。
 一度目はなにごともなく終わったが、二度目は前に書いたとおり、オイルマッサージをするというので、全裸に。坊さんもすでに全裸になっている。
 
 82歳での初体験。オチンチンをしゃぶられてしまった。その時、初めて他人さまのオチンチンを握った。それはぼくにとってショックではあったが、いい経験だった。
 人間、不思議なもので、二度目のときは、タクシー代に3万円をもらい、娼婦になったような気分にさせられていた。

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2015年8月 8日 (土)

高校生も安保法案廃案への声をあげた!

 2015年8月3日(月)の東京新聞朝刊の一面は、珍しい「高校生ら5000人・廃案・安保法案抗議デモ」の見出しが目につく。
 
「安保保障関連法案に講義するデモを首都圏の高校生らのグループ「T-NS SOWL」が2日、東京渋谷で催し、大学生や大人も含め約5千人(主催者発表)が参加した。開襟シャツやセーラー服など制服姿の若者らが「未来を勝手に決めてほしくない」と廃案を訴えた。高校生による大規模な政治デモは異例で、世代を超えて広がる法案への反発を象徴する光景となった。」と報じている。
 
 18歳に選挙権が引き下げられた。受験勉強で忙しい高校生は、政治に無関心と見られていたが、安保法案の成立には、危機感を持たずにはいられなくなってきたのだろう。
 
 8月1日、2日の2夜連続9時からの「TBSテレビ60年企画レッドクロス女たちの赤紙」
 東京新聞のテレビ欄「試写室」によると、戦時下、女性でも赤紙を受けて戦地に赴いた従軍看護婦の物語。
 
「赤紙はまさに血の色。2日で4時間半、朝鮮戦争まで続く悲劇を目を背けることもなく描いた。
 敵味方関係なく救護する赤十字の博愛の精神を貫く希代(主人公の女性)は強い女性だが、戦争に寄って生き方を変えざるを得なかった人々の姿がより胸に突き刺さる。」
 
 戦争というものの悲惨さ、みじめさをこれでもか、これでもかというぐらい描いている。この時代をぼくは生きていて、この目で見てきたから、このドラマの展開はよく理解できるが、今の若者たちはこのドラマを見てくれただろうか。見てくれたとしても理解できないだろう。
 
 ぼくの先妻の妹が、日赤の看護婦学校の卒業だったので、何度か学校を女房とともに訪ねたことがあった。その教育はきびしく、徹底的に博愛精神をたたきこまれていた。
 卒業の時の帯帽式にも参加したが、感動的な儀式だった。
 
 戦前の満州は、そこに暮らす日本人にとっては天国のようなところだった。日本人の農家の次男、三男が開拓団として満州に渡っていった。
 ブラジルなどの開拓民は、荒地をたがやして、農場を広げていったが、満州に渡った開拓団は、すでに農場に満人が開拓されているのを強制的に取り上げ、その満人を小作人として使ったというのだから、戦後、満人にしっぺ返しをくらったのは当然のことだ。
 
 いつの世の中にも、いい人間もいれば、悪い人間もいる。満人たちの面倒を親切にみてきた日本人もいた。戦後、日本人がひどい目にあったが、助けてくれた満人もいた。
 
 戦前ののどかな満州でも日本人の生活ぶりから、一変して戦争にまきこまれていった日本、戦後の朝鮮戦争までを描いた大作だ。
 
 8月15日、敗戦の日が近づいてきている。新聞も、テレビも戦争の話ばかりだ。敗戦の日から70年。早いものだ。
 日本は戦争にまきこまれることもなく、過ごすことができた。しかし、まだ、戦いをくりかえしている国もある。戦争はすべてを破壊してしまう。
 軍備を増強するのはきりがない。馬鹿な話だが、よその国も増強しているのだから、やめるわけにはいかない。
 
 サッカーは北朝鮮に、女子も男子も負けてしまった。北朝鮮軍は今、世界で一番強い軍隊ではなかろうか。今は戦争の仕方が変わってきているが、兵隊同士の白兵戦になったら北朝鮮は断然強いのでは。
 
 高校生も立ち上がった。戦争は絶対にしないことだ。
 
Unnamed

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2015年8月 4日 (火)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は、9月26日(土)開催です。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

日時・9月26日(土)午後17時~19時

場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」

〒1550031 世田谷区北沢23 電話0354329068

会費・コーヒー代のみ

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★どんな方でも大歓迎。皆さま、お気軽にお越しください。

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2015年8月 3日 (月)

世田谷区も同性カップルを公認!

 ぼくが83年も住んでいる世田谷区が、渋谷区に続いて、「同性カップル」を公認することを、11月をめどに決めた。
 7月29日の東京新聞夕刊が、一面トップに「同性カップル世田谷も公認=区が公的書類発行へ」の見出しで報じた。
 
 1971年に日本で最初の同性愛誌を創刊させたぼくとしては、感無量といったところだ。これまでには半世紀近い歳月が流れている。
 アメリカは確かすべての州で同性婚が認められている。オバマ大統領の言うことをなんでも受け入れている安倍晋三首相は、今年4月の参院予算委員会で、「家族のあり方にも関する問題だが、憲法で結婚は「両性の合意」となっている。慎重に議論していくべきではないか」と答弁し、同性婚を認めるための法整備に否定的な考えを示している。
 
 アメリカではゲイの人たちが投票しないと選挙に勝てないことを知っているから、ゲイの人たちが望む同性婚を認めないわけにはいかないのだろう。
 かつて親しくしていたアメリカのゲイ雑誌「フロンティア」のオーナーのボブさんから、アメリカの大統領と握手している写真を送ってもらったことさえあった。
 電通のダイバーシティ・ラボが日本の成人約7万人を対象にした調査では、7、6%がLGBTに該当すると答えるそうだから、大変な数になることは間違いない。
 みんなが自覚し団結して行動するならば、政治をも動かす大きな力になるだろうが、そうは簡単にはいかない。
 
 安部首相は、多くの知識人、学者、マスコミの多くが連日のように憲法に違反していると抗議しているにもかかわらず、参院でも安全保障関連法案を強行採決しようとしている。
 オバマさんの言いなりになっている安部首相、同性婚を認める法律を作るぐらいなんでもないのでは。
 
 渋谷区がいち早く、同性カップルを公認するようにしたというが、ゲイのカップルや、レズのカップルが区役所を訪れて、どれほどのカップルが書類を発行してもらったのだろうか。まったく報道されていないから、その数字はわからない。
 ゲイであること、レズであることを公表してしまうことは、ものすごく勇気のいることだ。今まで隠していたことを公表することが果たしてできるのだろうか。
『薔薇族』の雑誌を書店で買うことに、読者がどれだけの苦労をしていたことか。それはそんなに古い話ではない。
 
 最近の話だが、「ラブオイル」を注文するのでさえ、何日の午前中にポストに入れてくださいと言ってくる人がいる。奥さんに知られてはまずいからだろう。
『薔薇族』の読者にはこんな人がいた。
 
「私にとって『薔薇族』は、心の友であり、心の支えでもあり、もっと突きつめて言うならば、恋人でもありました。
『薔薇族』創刊の年に、奇しくも私は管理職に栄進し、そのため単身赴任、家族との別居を余儀なくされました。
 以来、18年間、別居生活といっても、土曜日曜には家に帰り、妻もときどきは私のアパートにくるという生活……。
 その単身生活の18年間、この『薔薇族』が私の恋人でした。夜、この『薔薇族』と過ごす。アパートでの時間、単身赴任の味気なさを世の男性たちは言いますが、私にとっての単身赴任は実に都合がよかったわけです。」
 
 まだまだ、ほとんどのゲイ、レズの人たちは自分の性癖を隠して暮らしているのが現状だ。
 続々と区役所を訪れるカップルがいるようになるのは、いつの日のことだろうか?

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2015年8月 1日 (土)

やりがいがあり、これほど無言の感謝に包まれた仕事はない!

 今から26年前、1989年の9月号が、『薔薇族』創刊200号記念号だった。何人もの読者からお祝いの投稿があったが、その中で八雲麻生さんの文章は心にしみた。
 
「伊藤文学さん、200号、おめでとう。ずいぶん長いみちのりだったと思います。18年の歳月――ひとりの子供が一人前になるほどの時間。その間、読者のひとりひとりがたどったのと同じように、伊藤さんご自身にも、いろんな山坂があったことでしょう。でも、そのほとんどは『薔薇族』と結びついているのではないかと想像しています。いわば伊藤さんは、その後半生を『薔薇族』編集に捧げられたのです。
 
 第一号からの読者である私には、ごく初めのころ、何度かお会いする機会がありました。『薔薇族』と大きく書かれたライトバンの車に乗せてもらったこともあります。
 その頃、伊藤さんはご自身で本屋さんをまわっていたのだと思います。まだ工事中の、木の香りも新しい新宿の「祭」を見させてもらったこともありました。
 
 いつでも伊藤さんは、少し前かがみに低い声で話され、読者から持ち込まれる面倒な問題にも決して激昂することはないように見えました。
 そんな伊藤さんだからこそ、雑誌の編集以外にさまざまなことの要求される『薔薇族』を、今日まで続けてこられたのだと思います。
 
(中略)
 
『薔薇族』が世間に知られるようになったと言っても、それはある一面だけです。「趣味は人それぞれだからなあ」と、理解されるのでは、本当の理解ではありません。
 男が女を愛するのが「趣味」ではないのと同様に、男が男を愛するのも、人間のもって生まれた「自然」です。そのことを敢えて公言するのでもなく、不自然に隠し続けるのでもなく、素直に生きられるのが本当なのですが、それはなかなか難しい。誰かひとりの人に心を奪われたときから葛藤がはじまります。普通の男が女を愛するように自然には進みません。
 
 でも神様は公平なのだと言えないこともありません。外に向かうことも許されず、うちに深められた思いは、芸術となって花開くことが多いのですから。
 さまざまなジャンルで活躍する薔薇族のいることを、伊藤さんはご存知だと思います。逆に言えば、芸術は、この世のいかなるものにも充たされぬ孤独な心から生まれるので、地位や名誉、富に恵まれながら人一倍さびしがりやだった美空ひばりはその典型だと言えるでしょう。
 
 伊藤さん、先駆者であるあなたには、風当たりが強く、いろいろと人には言えないご苦労もあったと思います。『薔薇族』編集者であるあなたに、政府が褒賞を与えることは、多分ないでしょう。でも『薔薇族』のなかの一頁、伊藤さんのひとことが、ある人のいのちを救っているかも知れません。
 打ちひしがれた絶望の中から、生きる勇気を与えられた人もいるに違いありません。この本のおかげで、しばし孤独を忘れることのできた人も多いでしょう。
 これほどやりがいのある、これほど無言の感謝に包まれた仕事はないと思います。
 
 伊藤さん、どうかいつまでもお元気で、300号、400号と、『薔薇族』の灯をともし続けてください。」
 
 八雲麻生さん、あなたは何篇もの小説を寄せてくれた。どの作品も感動的なものだったが、老人と少年の純愛を描いた作品は、今でも覚えている。助手席に君を乗せて、『薔薇族』を書店や、ポルノショップに納品に行ったなんて、まったく記憶にないけど、いい読者をもったものだ。
 
Unnamed

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