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2015年8月22日 (土)

代沢小学校の「ミドリバンド」のナゾは!

 敗戦後、70年ということで、今年の8月15日の敗戦記念日前後の新聞、テレビは戦争の話ばかりだった。
 NHKスペシャルの映像は、とくになまなましかった。米軍に降伏するということは恥と教えこまれていたから、兵士も民間人も死を選んだ。
 
 サイパン島の崖の上から、抱いていた赤ん坊を先に海の中に投げ落とし、そのあと母親が飛び降りる。子供が海に浮かんでいる映像までが映し出されていた。
 これはアメリカ本土に住むアメリカ人にとっては、太平洋の彼方の話としてしか実感がない。アメリカの軍の指導者は、戦時国債を国民に買ってもらいたいために、カメラマンを多数、戦場に送り込んで、なまなましい映像を国民に見せ、国債を買わせたのだそうだ。そのお金でB29爆撃機や、武器が大量に生産された。
 
 火炎放射器の威力はすさまじい。百数十メートルも炎がとどくというのだから、穴の中に入り込んでいる日本兵は、たちまちのうちに焼き殺されてしまう。
 原爆を広島、長崎に落とされても、まだ戦おうとした戦争指導者、竹槍では米軍が上陸してきたら戦えるわけがない。
 民間人を多数殺してしまったアメリカを憎むべきか、愚かな日本の指導者を憎むべきかはわからない。
 
 ぼくは昭和13年(支那事変が始まった次の年だ)に代沢小学校に入学し、敗戦色が濃くなってきた、昭和19年の4月に世田谷学園に入学している。
 代沢小学校の6年生の担任が浜館菊雄先生だ。あだ名をハマカンと呼んでいた。浜館先生、絵が上手で勉強のできない子の顔を黒板に描いた。この先生の思い出ってそんなことしか覚えていない。
 
 その浜館先生が、戦後、すごい仕事をしていたというのだ。それを調べているのが、きむらけんさん。東大の附属中学の国語教師を定年まで勤められ、退任後は執筆活動を精力的にされている。
 ぼくの父が戦後、「世田谷文学散歩の会」を作り、世田谷に住む文士たちのことを調べあげ「世田谷の文学」という本も出している。
 父の仕事の後を徹底的に調べあげたのが、きむらけんさんだ。
 
 昭和19年8月12日の深夜、代沢小学校の5年以下の子どもたちが、長野のお寺に集団疎開した。
 6年生だけが学校に残り、5年以下の子どもたちを送った記憶があるが、19年となると、ぼくは中学生になっている。18年ではなかったのか。
 
 浜館先生がバンドを作り、子どもたちを指導していたなんて、まったく知らなかった。
 とくに音楽の授業に熱心だったという記憶もないし、浜館先生が指導するバンドの演奏など聞いた記憶はまったくない。
 浜館先生は楽器を疎開先まで送ったのだそうだ。運んだ楽器は、木琴、ハーモニカ、小太鼓、大太鼓、アコーデオン、ラッパなどだ。
 疎開先でも演奏会を開いたりしていたので子どもたちの演奏技量は、なかなかのものだったようだ。
 
 戦争が終わったものの、国民は貧しく食料も不足していた。そんな時代にはまた手先生が指導する「ミドリバンド」が、進駐軍の慰問のために、米軍の施設にバスが迎えに来て、演奏におもむいていた。
 ぼくの家は代沢小のすぐそばなので、若草色の制服で、帽子から革靴まで、すべて米軍が支給していたのだろう。戦後の多くの国民と「ミドリバンド」の子どもたちの姿は、あまりにもかけ離れていた。きむらけんさん、これらのなぞを調べあげて本にするようだ。期待したい。
 

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