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2016年1月

2016年1月30日 (土)

文ちゃんは、まだまだ現役だ!

 「本や雑誌が売れない」と、ネットや携帯電話が普及するにつれて、毎年、毎年、深刻さが増し続けている。
 
 1月25日の東京新聞夕刊によると、「過去最大『減』書籍、雑誌、15年販売額前年比マイナス5.3%」と、悲しい見出し。
 書籍の返品率は、37.2%、雑誌が41.8%で、以前は雑誌のほうが売れていたのが、逆になってしまった。
 『やらないか! オトナのぬりえ』が売れているというから、ヤマジュン人気は本物だ。
 
 『裸の女房』『やらないか!』は、どのくらい売れているのか教えてくれないから、分からないが、まだ返本は山のように積んであるのか?
 ヤマジュンの劇画をぬりえにするという、アイデアがよかった。編集の人でなく、営業の人が考えたというのだから面白い。
 
 『裸の女房』『やらないか!』を出版したときは、盛大に百人近い友人、知人を招いて、銀座で一軒だけ生き残っている、キャバレー『白いばら』で、出版を祝う会を派手に催したが、今回は今の世の中、景気が悪くなっている。
 友人の中嶌くんが、「1万円の会費で集まらないよ」と、忠告してくれた。
 
 80歳の誕生日のお祝いの会を中嶌くんが経営しているバア「まじかな」で、50名近い友人たちを招いて開いたっことがあった。「まじかな」が開店したばかりだったが、あっという間に3年が過ぎていた。
 「白いばら」はキャンセルして、1月23日に「まじかな」で「やらないか!の出版を祝う会」を開くことにした。
 
 ぼくは無類のパーティ好きだ。本を出すたんびにお祝いの会を開く。京王プラザホテルの一番広い宴会場で、300人もの友人を招いてお祝いの会を開いたこともある。
 まだ、売れていない頃のクミコさん、秋元順子さんにも歌ってもらった。新潟のロマンの泉美術館でも数えきないほど、パーティを開いた。
 チラシや案内状をきちんと残しておいたなら、ギネスブックに載ったかもしれない。
 
 人間、いつこの世におさらばするかしれないから、元気なときに友人、知人を集めて語り合いたい。
 お葬式にきてもらったって、本人はいないのだからどうにもならない。
 
 出版を祝う会って、他人さまが著者のために企画して開くものだが、ぼくの場合は、会場を決めたり、案内状を作り、手書きで友人に発送したりと、全部自分でやる。
 今度の場合は、看板も自分で書いた。百通、往復はがきで案内状を出して、四十名も集まってくれたのだから、ありがたいことだ。
 
 代沢小学校の前にあった、ブリキ屋の息子の茂夫ちゃんも来てくれた。お兄さんのゆきおちゃんは、一級下で仲良しだったが早死してしまった。
 「文ちゃんと語る会」に来てくれた、イタリア人のウサイ・ロリス君。明治大学の大学院に入学し、卒業論文に『薔薇族』のことを書き、評判がよかったそうだ。卒業して日本の企業で働いている。ウサイ君も元気な姿を見せてくれた。
 作家の団鬼六さん、五年前に亡くなられてしまったが、いつも奥さんとぼくの会に顔を見せてくれた。
 奥さんの黒岩亜紀子さんは、歌手で「夢二憂愁」など。数曲を歌ってくれ、夢二の待てど暮らせど来ぬ人をは胸にしみた。
 
 まだまだぼくは「伝説の人」ではない。多くの友人に支えられて、幸せ者だ。
 
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2016年1月25日 (月)

ぼくは「過去の人」「伝説の人」か?

 毎日新聞の記事を読まなかったら、平成28年1月16日夜6時からの「LGBT成人式」に参加できなかったろう。
 会場が下北沢の「北沢タウンホール」で、わが家から歩いて20分ぐらいのところにあったので参加できた。
 北沢タウンホールの入場者は、300人ぐらいの収容だと思う。階段式で劇場のようになっている。どういう仕組みかわからないが、平らにもなり、テーブルと椅子を置いて立食形式になっている。
 
 集まっている人は200人を越すだろうか。振り袖を着ている人を何人も見かけたが、男から女になった人、その逆の、女から男になった人が多く、若い人ばかりだ。年寄りはぼくだけだ。
 
 スタッフの人も多いから、「特定非営利活動法人ReBit」という団体はかなり組織化されて活動しているのだろう。
 後援は世田谷区教育委員会・協賛はいくつもの企業、「Google」「GAP」「BEN&JERRY'S」おいしいアイスクリームや飲物、食べ物もテーブルに並ぶ。
 
 新成人がずらっと舞台に並ぶのかと思ったら、二組の人がご自分の体験をしゃべる。そのあと舞台に都内各地から参加した、区議会議員、都会議員が20数名並んで、ひとことずつお祝いの言葉をのべる。
 公明党の議員は何人かいたが、自民党の人はひとりもいない。この成人式は5回目だそうだが、ぼくが『薔薇族』を出していた頃とは、時代が変わったなと思う。
 
 教育委員の人が祝辞を述べ、世田谷区長の保坂展人さんも参加された。世田谷区は渋谷区についで同性カップルに証明書を発行している。今現在、16組のカップルが証明書を受け取ったそうだ。
 
 この催しは北海道2月28日、岩手2月6日、埼玉2月6日、静岡1月30日、愛知3月19日、大阪1月16日、長野3月27日(予定)、石川3月13日、鳥取3月6日、長崎3月26日(予定)と、各地で催されるそうだ。
 
 『薔薇族』は12年前に廃刊になってしまったから、ここに集まっている20歳前後の若者たちは、その存在を知らないだろう。小学生の頃だったから。
 
 豊島区の区議会議員、石川大我君、若いころ下北沢で洋服屋さんをやっていた。
 2009年3月に講談社文庫で『ボクの彼氏はどこにいる?』を出している。その頃何度か会ったことがあったが、議員になってからは会ったことはなかった。
 石川くんに声をかける。しばらくぶりの再会だった。すっかり貫禄がついていた。まわりにいた各地の女性議員たちは、年齢が50歳を過ぎているから、『薔薇族』の存在を知っていた。名刺がなくなってしまうほど交換した。
 
 「LGBT基礎知識」というチラシをもらった。L・レズビアン、G・ゲイ、同性愛・心の性が女性(または男性)の人が同じく心の性が女性(または男性)の人を好きになること。
 バイセクシャル・両性愛・男性も女性も好きになる人。それだけしか書いていない。
 やはりバイセクシャルは、あいまいだ。
 一時的に男も女も性の対象になるが、時間が経てば、どちらかになっていくのではないかとぼくは考えるが、どうだろうか。
 
 ネットの時代になって、すぐに情報を知らせることができるのだから、組織さえしっかりしていれば、運動のひろがりは早いだろう。
 集まっている若者たちは明るく楽しそうだ。ここまで役所を動かし、議員を動員し、多数の若者を集めたということは、大変な苦労があったのだろう。
 
 もう、ぼくは過去の人、伝説の人になってしまったのか。そんな考えがよぎる一日だった。

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2016年1月23日 (土)

LGBTの成人式に出席してみる!

 ぼくは長いこと100円ショップのダイソーの原稿用紙を愛用しているが、日本製と書いてある。
 ボールペンは下北沢の北口に、一軒だけ生き残っている文房具屋さんで、「三菱ゲルインクボールペン」をこれもメイド・イン・ジャパンで、すべりがよくて書きやすいので、長いこと使っている。
 
 年賀状300通。『やらないか! オトナのぬりえ』の銀座「まじかな」での出版を祝う会案内状も、このボールペンで百通書き上げて送った。
 土曜と月曜、更新してくれているS君から、「最近、女性の読者が増えていますよ」との報告があった。あまりエッチなことばかり書くと女性に嫌われるから、そのへんはセーブして書かなければなるまい。この原稿を書き上げてS君に郵送すると、夜の6時から下北沢の「タウンホール」で「LGBT成人式」が行われるというので、カフエ「織部」の女性に頼んでネットで申し込んでもらった。
 
 最近はハガキでとか、電話でとかいわなくなって、すべてネットだ。とにかく世の中から見捨てられてしまっていることは間違いない。
 
 主催者は新宿区にあるNPO法人「ReBit」だそうだが、NPO法人というのが、なんのことなのか理解できない。
 それにもっと理解できないのは「LGBT」という呼び名だ。Lはレズビアン、Gはゲイ、その次のバイセクシャル(両性愛者)Bが、ぼくには理解できない。
 Tはトランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)のこと、これは理解できる。
 
 Bの両性愛者のことは、どうにもわからない。男でも女でも、同じように愛することができる人のことを言うのだが、これをちゃんと説明してくれる人がいたら、おめにかかりたい。人間、多様化しているから、男でも女でも同じように愛することができる人がいても不思議ではない。
 あと数時間後に「タウンホール」に行くが、「バイセクシャルです」と名乗って、出席する人がいるだろうか。ぼくはいないと思う。
 
 「伊藤さんは女好きで、男と寝たことがないから、ゲイの人のことはわからない」と、相棒の藤田竜君にさんざん言われたが、昨年82歳にして男に尺八され、また相手のモノを握った。初めての経験だった。
 しゃぶられるのは気持ちがいい。男だって、女だって、いいのかもしれない。
 
 『薔薇族』が創刊されたのは、1971年、その時代は、30過ぎて結婚しなければ「あいつはホモかも?」と言われてしまう。
 女性と結婚しないわけにはいかなかった。昔の人は頑張って子供も作った。例にあげてはいけないが、有名な作家は女性と結婚して子供もいる。そういう人をバイセクシャルというのだろうか。
 
 男が好きだけど、ふみこめない。女は嫌いだから女性と性するわけがない。ひとりでマスターベーションをして、日々を過ごしている。このような人はゲイと言えないのだろうか。
 我が家を訪ねてきた若者の多くは「ぼくはバイセクシャルです」と言った。「ぼくはゲイです」と言えなかった時代だ。
 ゲイの世界って、好みからいっても色んな人がいる。35年もゲイの雑誌を出し続けてきたが、まだまだわからないことが多い。
 
 さて、これから「タウンホール」へ出かけるが、どんな人が集まってくるのだろうか? 区長も出席するそうだが、どんなことをしゃべるのだろうか?
 「バイセクシャル」を入れたのは、あいまいだけど、どっちともつかない逃げ場になるからではあるまいか。

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2016年1月18日 (月)

「三條新聞」で知った金子繁治さんの死!

 三條新聞2016年1月6日の新聞に新潟県燕市出身のボクサー、金子繁治さんが2日午後、肺炎のために入院先の三宿病院で亡くなられたという記事が大きく載っていた。84歳ということだ。
 東京の新聞には金子繁治さんが亡くなられたという記事は載っていなかった。
 三條新聞といったって、東京の人は知らないだろうし、新潟県の三条市は洋食器や刃物の生産地として有名なだけで、知らないのは当然のことだ。
 
 女房の古里の弥彦村に隣接する町で、弥彦村にも読者はいる。ぼくが弥彦村に「ロマンの泉美術館」を平成5年にオープンさせてから、催し物が変わったり、東京から芸能人を招いて演奏会を開いたりすると、大きく記事にしてくれた。
 社長の息子さんだと思うが、山崎洋一郎さんが、ぼくが弥彦に行くと、必ず取材にかけつけてくれた。
 
 今でも一日遅れになるが、ずっと無料で新聞を送ってくれているので、弥彦村の出来事はすべて理解している。新聞だけでなく、秋になると、大きな梨を送ってくれるし、新米がとれると、お米も。
 
 金子繁治さんとは、北沢税務署の協力団体の北沢法人会で知り合った。北沢法人会の会報の製作をぼくが手伝っていた時に、インタビューをして、写真もぼくが撮って記事にしたことがあった。もう30年ぐらい前のことだ。
 ボクサーだった人なので、ヤクザっぽい、恐い人かとおもったらとんでもない、クリスチャンで温厚な方だった。
 
 金子ジムは下北沢の駅から小田急の電車が新宿に向けて走りだすと、すぐ右手に窓ガラスに大きく「金子ジム」と書かれた建物で目に入ってきた。
 それが今では地下深く走るようになってしまったので、窓から見えなくなってしまった。
 
 金子さんとは歳も同じで、女房と同じ新潟県出身ということで親しくなった。ジムにも何度も見学に行ったり、後楽園ホールでの試合も何度も観に行った。
 長男の健太郎くんが結婚した時には、披露宴に招待されたこともあった。そのときとなりに座られたのは、公明党の代議士さんで、今では党首の次の方で、お名前が思い浮かばない。テレビにもよく登場している方だ。
 長い間、年賀状をやりとりしていたが、何度か住所が変わったので、ご縁がなくなってしまった。
 
 「昭和30年台ボクシング界のスター・昭和28年東洋フェザー級王座獲得・復興期の日本に夢と希望・現役時代から敬虔なクリスチャン」と見出しにある。
 
 「金子さんは昭和6年8月13日、燕市の生まれ。地元の尋常高等小学校を卒業したあと、両親が営んでいた青果店を手伝っていたが、ボクサーになるという自身の幼い頃からの夢を追いかけようと、18歳で上京、ボクシングジムの名門、笹崎ジムの内弟子となってボクシング人生をスタートし、同25年4月、プロデビューを果たした。
 
 階級変更を経て、28年12月、OBF東洋フェザー級王座に挑戦、初代王者のラリーバターン選手(フィリピン)を4回KOで下して王座を獲得。日本人として初の東洋チャンピオンとなり、以来6度の防衛を果たした。
 左フックを得意とし、「魅惑のハードパンチャー」とも呼ばれて人気を博し、日本のボクシング界に一時代を築いた。」
 
 金子さんの死を三條新聞で知るとは。下北沢の街を歩いていると、よく出会って立ち話をしたものだが、ここ数年お会いすることはなかったが、入退院を繰り返されていたようだ。
 下北沢の街へは、毎日のように散歩に出かけるが、最近は知っている方に出会うことがない。みんな亡くなられている。寂しい話だ。
 
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2016年1月16日 (土)

戦後、初めてゲイバアを開いた「夜曲」のマスターは!

 「鹿火屋 ところで東京には、こういう喫茶店や酒場はどのくらいありますか?
 
 芳村 そうですね。昨今ずいぶんできましてね。新宿に4軒、それから銀座の方は、銀座から新橋にかけて、一週間ほど前に開店したお店もありまして、それを合わせてやはり4,5軒あります。
 終戦後、21年に私がここへ店を始めましたときには、東京にはほかにはまだ1軒もなかったのです。
 ですから、その頃は、お客さんがどのくらいいらっしゃいましたことか。大変な数でした。それがだんだんあちらこちらへ、こういうお店ができるようになりまして、散らばっていったわけです。でも、やはり地方から私のお店のことを聞いて、慕ってきてくださる方もありますし、また店が古いだけに、古いお客さんがしばらくぶりに尋ねてきてくださることもありましてね。
 
 山本 銀座の店は三島由紀夫の小説(禁色)に書かれたので、宣伝にはなるけれども迷惑だと言っていますね。あそこは2階はそういうほうの人を上げますが、階下は普通の人が知らずに入っていますからね。
 
 鹿火屋 女の子からもボーイさんは好かれるでしょう?
 
 芳村 そうです。うちのボーイさんは、みんな綺麗だと言われています。それと、うちの店へ来るお客さんは、みんなきれいな人たちばかりですねと、近所の人たちが言いますが。それはやはりうちへおいでになる、こういう傾向の人たちは、とくにいい男というのではないけれども、みんなちゃんと自分の好みに合ったものを身につけていらっしゃったりしていますからね。
 
 山本 普通の世界から見れば、みんなあかぬけた人たちばかりですね。
 
 編集部 バック(肛門性交)の場合、何かぬりますか?
 
 鹿火屋 潤滑油をね。昔の陰間は丁子油などを使ったのでしょう。(注:ラブオイルの登場はまだなかった)
 
 芳村 しかし、ベテランになると別にそんなものつかいませんね。
 
 編集部 しかし、バックを好きな人は、バックが一番いいのではないでしょうか。
 
 芳村 本当に女に飽きた人は、こういう傾向でない人でも、そのほうに転向する人があるのです。とにかく軍隊でこういうことがとても普及され、その後さらにアメリカさんがきたり、それから新聞、雑誌で、ずいぶん書き立てますから、この頃は世の中の人が、ずいぶんこういうことを知っているのではないですか。
 
 編集部 三島さんの本を読んでいたら、ポマードや何かを持ち歩いているということは出ていますが、この頃はバックに使う特別の油ができているのではないですか。
 好きな男性の象徴物なんかは、立派なほうがいいのでしょうね。
 
 芳村 10のうち7,8人は大きいのを喜ぶらしいですよ。
 
 編集部 映画館の中などで、相手の見当はつきますか?
 
 杉田 普通の人の場合だと、身体が接触することは嫌いますけれども、こういうほうの人だと接触することを好みますし、それにそういう人のいる位置は大体決まっていますから、そこへ行けばたいていいるわけです。
 そして、自分が嫌なときには横に退くとか、他のほうへ言ってしまうわけです。」
 
 『風俗草子』に掲載されていたものは、もっと長かったのを、3分の1に省略したと藤田竜くんは書いている。またそれをさらに短くしてしまったが、戦後のゲイの世界、少しはご理解いただけたのでは。

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2016年1月11日 (月)

戦後の日本のゲイたちは進駐軍に教えられた!

 「日本最初のホモ座談会」出席者。
 新宿「夜曲」マスター・芳村豊(42歳)。同店ボーイ・藤井正治(22歳)。雑貨店主・杉田等(32歳)。会社員・山本辰夫(23歳)。司会・作家・鹿火屋一彦・本誌編集部。
 
 鹿火屋一彦さん、当時の雑誌で同性愛の記事があると必ず登場していた。伏見憲明さんの『ゲイという〔経験〕』の中に、鹿火屋さんのことがくわしく書かれている。
 
「かびやかずひこが遺した同性愛に関する記事は膨大であるが、そのかびやにして、自らのセクシャリティについて明確に語ることはなかった。
 どう読んでみても当事者以外が記しようもない内容を語っていても、そして自宅の住所まで公開して、同性愛者の悩み相談のボランティアまで引き受けていながらも、けっして「自分は同性愛者である」という言葉は記さなかった。しかし、それが周到に避けられ明言されていないことが、かえって彼がゲイであることをあぶり出しているようにも感じる。」
 
 鹿火屋さんは、70年台の後半に亡くなられたそうだが、このような方がいて、今とつながっているということを忘れてはならない。
 当時のゲイの人たちは、女性と結婚せざるをえなかったし、ゲイであることを隠し通したのだ。
 
鹿火屋 いつの世、いずれの国でも、戦後には同性愛者が増えるというわれていますが、今次大戦後の日本におけるホモの激増は、僕の知る限りでも大変なもので、地方などでは流行の観があるくらいに、増えている状態です。
 
 芳村 うちへいらっしゃる方には、お若い方を好きだという方が多いですね。そして中年から上の方がいいという方たちは、たいてい浅草へいらっしゃるようですね。
 浅草にもこういう飲み屋―喫茶はありませんけれどもゲイの集まるところはあるんです。若い人を好きな方は新宿のお店へといって、うちあたりへ来てくださるのです。(注:戦後にゲイが増えるということはなくて、いつの世でも比率は同じ。隠れていた人が表へ出てきたということです。)
 
 編集部 山本さんはいつ頃からですか。
 
 山本 そうですね。中学2年のころです。そのころに学校の先生から、そういうことをされたのですが、その時は別に同性愛とかなんとかということは深く意識していなかったし、わからなかったので、ただ可愛がってくれるのだと思っていたのです。
 
 鹿火屋 セックスの交渉はどういう形で?
 
 芳村 昨今の若い方たちはアメリカの方と付き合っていますし、あちらのほうがとても濃厚ですからね。ですから今の若い人のほうが、われわれ年輩のものがビックリするような遊びを知っています。
 
 鹿火屋 性交渉はアヌス(肛門性交)?
 
 芳村 終戦後あちらの人たちが来るようになってから、とても烈しくなりましたね。うちへいらっしゃるある外人の方が、若い子を連れて行って遊んだことがありますけど、あとでその若い子がうちへきて、「マスター、おどろいたよ。あの人がコップを持ってきて、オシッコをしろしろとあまり言うから、出たくなかったけどしたら、それを飲んだよ」と言っていましたね。
 それからもうひとりの別の若い子がやはり外人と遊んだ時には、その外人から大便をしろと言われて、便所へ行って大便をしたらば、一緒に便所にまでついてきて、それをペロペロなめて、おいしい、おいしいと言ったというのです。」
 
 落ちがついたところで、このへんで。(つづく)

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2016年1月 9日 (土)

日本で最初のホモ座談会

 1988年『薔薇族』№181に、相棒の藤田竜が珍しい雑誌を見つけ出している。戦後、雨後の竹の子のように出版されたエロ雑誌の『風俗草子』(昭和28年12月号)だ。
 
「都内で一番古い歴史をもつソドミア喫茶店「夜曲」のマスター芳村氏を囲んで、本誌は全国のホモ党諸兄のために座談会を敢行した。
 かかる本格的な企ては本誌が初めて行うもので全読者のご愛読を乞う次第です。
 出席者は新宿「夜曲」のマスター・芳村豊(42歳)、同店ボーイ・藤井正治(22歳)、雑貨店主・杉田等(32歳)、会社員・山本辰夫(23歳)、作家・鹿火屋一彦、本誌・氏家富良」
 
 藤田竜君は見出しに「34年前の日本最初のホモ座談記録!」と、日本最初と強調している。
 
 戦後のゲイの歴史を知る上での貴重な座談会なので、全部は紹介できないが、何回かにわけて書いてみたい。
 藤田竜君は、この座談会の重要性をちゃんと解説してくれている。
 
「[解説]東京にもホモ・バーがまだ10軒くらいしかなく、もちろんサウナやホテルもない。バーやハッテン場に出てくる男もごく少数……という時代の座談会。
 話の内容はびっくりするようなものではないけれど、上に引いた文章でもわかるとおり、座談会を開いたことは、画期的なことである(テレビじゃないから、座談会に出席したからといって、素性が知れるわけではないが、お客さんが二人も参加したのは、大変な勇気のいることだったろう)
 
 これを読むと、現在、誰もが当然のようにする尺八は、敗戦後アメリカ人が進駐してから広まったものだそうで、それ以前の日本のかたちとしては、バックが主流であったらしい。
 こういう時代の証人もどんどんいなくなって。もうすでに戦前、戦中のことは霧のかなただ。その頃のホモはどんな知り合いかたをしたのだろう。
 
 戦後の東京のホモ・バー第1号店「夜曲」は、当時「二幸」という食品デパートだった今の「新宿アルタ」裏の暗い小路にあった。
 この座談会の中心になっているマスターは、後年、店のボーイだった青年に頭を殴られて殺されている。マスターは金勘定しているところだったと噂されていた。
 
『風俗草子』は月刊誌。男女のSMものを中心にホモや、他の当時のアブ(アブノーマル・セックスの略)と呼ばれた特殊性向をひとまとめに編集されていた。
 ほとんどが縛られ、責められる裸の女の絵と記事で、ホモはほんのわずかしか扱われていなかったけれど、それでも目にできるものはそれしかなく、なぐさめられたり、興奮したりしたものだ。
 後発の同様の雑誌に『風俗科学』『風俗奇譚』があり、やがて18年前(1971年)の『薔薇族』創刊とともに、「ホモの時代」が訪れ、今日の各方面の隆盛に至るわけなのだ。」
 
 それにしても藤田竜さん、間宮浩さん、どうしてもう少し生きていてくれなかったのか。生き証人がみんないなくなってしまった。
 
 伏見憲明さんの『ゲイという〔経験〕』602頁もの分厚い本だが、その中の「ゲイの考古学」は、古いゲイのことが詳しく書かれているので参考にされたらいい。
『風俗草子』の読み物の中でも、ホモに関するものが一番反響が多く、地方の読者の方からの交際や、文通の斡旋、座談会開催などの要求が非常に多いので、この座談会が企画されたようだ。次回から内容を紹介させていただく。(つづく)

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2016年1月 4日 (月)

 松田優作さん、「小笹寿司」で食べることは座禅だ!

 東京新聞の12月29日付朝刊に「私の東京物語」という連載コーナーがある。
 大木雄高さんという「レディ・ジェーン」のマスターが書いている。この店は松田優作さんが通っていたことで有名だ。
 
 ぼくが住んでいた下北沢マンションの筋向かいにあり、茶沢通りに面している。ぼくはお酒を飲まないので、バアにはほとんど入ったことがないが、一度だけこの店に入ったことがある。
 松田優作さんのボトルが棚に残されていた。大木さんがこんなことを書いている。
 
「『小笹寿司』は茶沢通りのほんの先にあった(現在はバーミヤンになっている)。一人で入ると、手ぬぐいを鉢巻きした強面のおやじがいた。デザイナーの東盛太郎の母君が、小笹の鮨が食べたいけど歩けないと言った時には同行した。
 
 終生の朋輩、脚本家の筒井ともみと一緒に行った時、江戸っ子同士のおやじと常連の彼女が、ネタやサビでやり合うのに灼けた。
 
 深川生まれの寺島進を連れた時も、初見客なのに気に入られて、へそを曲げた。そしてやっと、常連がおやじに認知されたぼくは、気難しい単純なおやじに松田優作を引き合わせた。
 
 優作は「小笹で食べることは座禅だ」と、握りに長い指を伸ばした。イラストレーター黒田征太郎と「小笹」で待ち合わせた初七日法要の日、おやじの鮨が優作の祭壇に供された。」
 
 優作の「小笹で食べることは座禅だ」という言葉。なんとなく分かるような気がする。鮨を注文するお客と、握るおやじと息が合わないと、おやじは客をいびってしまう。
 微妙な息づかいが大事で、お金を払っているのになんでいびられるのかと、怒るようなお客は来てもらわなくてもいいのだ。
 
 小笹寿司の岡田さんの家は、今、ぼくが住んでいるマンションから、二、三分のところにある。岡田さんの亡き後、お母さんの介護を一人娘の方が、長い間、つくしていた。
 お母さんも亡くなられて、娘さんがひとりで住んでいる。
 
 「小笹寿司」は、お弟子さんが岡田さんに教えられたことを忠実にまもって、今は茶沢通りに店を構えている。
 夕方五時開店だが、何人かのお客が開店を待っている。毎日のように店の前を通るのだが、2015年は一度だけ、息子の嫁と、友人のお金持ちの奥さんと三人で食べただけだ。
 今年は頑張って月に一度ぐらいは、小笹の寿司を食べたいものだ。
 
 先代のおやじさんのことは、2007年、8月9日のブログに「ヤクザと思われるからやめて!」と題して書いている。
 
「ぼくはおやじさんに頼まれたことがある。お父さんが刺青をしていたそうで小さい時からそれを見ていて、かっこ良く思ったそうだ。
 
 おやじさん、還暦を迎えた記念に自分のからだに墨を入れてみたいと思いついたのだ。まさか刺青なんて、そんな簡単に彫れるものではない。東映のヤクザ映画に出てくるようなかっこいい刺青を描いてくれる人がいないかとぼくに相談をもちかけてきた。
 
(中略)
 
 わが家の座敷で何時間もかけて、丹念にマジックで全身に描いてくれて、それはそれはほれぼれするような見事な出来栄えになった。
 
 おやじさんはガンで亡くなってしまった。お宅にもお邪魔したが、寝ているような安らかな顔をされていた。刺青を入れた写真も大きく伸ばして、残された娘さんが、「その写真を祭壇に飾りたい」と言ったら、お母さんが「ヤクザだと思われるから、それだけはやめてほしい」と言ったとか。」

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2016年1月 2日 (土)

オリンピックまでは生きるぞ!

 2016年、あけましておめでとう。ぼくのブログ「伊藤文学のひとりごと」も書き始めてから10年を超えたのでは。
 ネットを触ったことのないぼくを支えて更新してくれているS君には感謝の言葉もない。「文ちゃんと語る会」も、カフエ「邪宗門」から始まって、「つゆ艸」「占茶」と場所を変え、今では「織部」で続けている。
 これも始めてから何年になるのか、記憶していないが、累計すれば出席してくれた方は数百人になるだろう。
 もうしゃべる話題もなくなっているが、竜超君も毎回出席してくれてしゃべってくれるので助かっている。
 元気で歩けるうちは続けていきたいものだ。
 
 関西からひきこもりの青年が12月の語る会に出てきてくれたのはうれしかった。電話もやっとの思いでかけてくれた直後のことなので、まさか参加してくれるとは思わなかった。となりに座ってもらって、おしゃべりした。自信を持ってこれからの人生を生き抜いてもらいたいものだ。
 
 5年間、書き続けてきた日記帳が、明日で終わりになってしまう。下北沢に一軒しかない三省堂書店に、思いきって10年日記を買おうと行ってみたら、5年日記と3年日記しか棚に並んでいない。
 博文館新社の『2016年版・5年連用ダイアリー』で、装幀もシャレている。東京オリンピックまでを目標に書き続けるつもりだ。
 
 父が戦前勤めていた第一書房の革の表紙に花模様が、箔押しされている豪華な装幀の自由日記は有名だった。
 昭和6年11月発行とある。定価は3円だ。ぼくが生まれた前の年のものだから、84年前のものだ。
 その中に「第18回二科展出品・臥せる裸体」という絵が挿絵として入っている。その裸体に影のような陰毛が描かれているだけで、発禁処分になったそうだ。
 
 『薔薇族』の創刊2号に載った写真が、影のような陰毛が見えるだけで、風紀係に呼ばれて始末書を取られてしまった。
 2015年、世の中変わって、やっと春画が美術館で見られるようになった。長く生きてきたおかげで、世の中の移り変わりを体感することができた。
 
 父は豪華な自由日記に自作の川柳を書いている。川柳の世界が父に一番あっていたのでは。父が嫌いなので父のことはブログに全く書かなかったから、ネットには父の名前は出てこない。
 祖父はクリスチャンで、祷りが一番ということで「祷一」と名付けたのだろう。女好きで浮気ばかりしていた父。恋の句には傑作が多い。
 
  遠くから愛していればそれでよし
 
  人に逢う心ときめき爪を切る
 
  編み機買う金を貸すのも恋のうち
 
  人前で女他人のふりをする
 
  カレンダー逢う日は赤い丸をつけ
 
  逢えばまた別れられなくなるふたり
 
  長生きをすればどこかでまた逢える
 
  愛かなし女の髪に顔埋む
 
  臆面もなく宿帳に妻と書き
 
 
 母は我慢の連続で可哀想だが、父は好き勝手に生きて幸せだったのでは。
 
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今年もブログを書き続けますので、応援よろしく★
 
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2016年1月 1日 (金)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は、2月27日(土)開催です。
(1月は「『【オトナのぬりえ】やらないか!』出版を祝う会」を開催するため、休みます)
 
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日時・2月27日(土)午後17時~19時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
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★どんな方でも歓迎します。どうぞ、お気軽にお越しください。
 

【オトナのぬりえ】やらないか!

ぬりえも、どうぞよろしく★

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