年をとると、友人がみんなあの世に!
長く生きていると、次から次へと友人、知人がこの世から去っていく。
駒沢大学の文学部国文科の後輩の玉島勝雄君が、1月26日に他界したと、奥さま茂代さんが知らせてきた。
ぼくが駒大に入学したのは、敗戦から3年しか経っていない、昭和23年の4月だ。世田谷学園の中学4年から、駒大の予科1年に入学した。
その1年後、新制大学の1年になり、それから4年間、学生生活を送った。玉島くんは2年くらい後輩だった。
その頃の駒大は全生徒が700人ほどしかいない。クラブ活動をしている学生は、2,300人ぐらい。アルバイトをしていて、学校に出てこないものもいるから、毎日、通ってくる学生は数百人というところ。
他の学部の学生でも知らないものはいなかった。ぼくと同期の国文科の学生は、15人ほど、全部で100人ぐらいしかいない。
学生服を着ているものはほんの僅かぼくは姉が新宿の文化服飾学園の師範科に通っていたので、学生服を作ってくれた。
学徒動員で戦争に駆り出され、また戻ってきて大学に入り直した学生が多かった。年齢もさまざま。服装も海軍から戻ってきたものは、海軍の服、陸軍から戻ってきたものは、陸軍の服、教授たちもよれよれのスーツを着ていた。
冷房や、暖房なんてない。冬の寒さはひどかった。手がかじかんでしまっていた。
ぼくは文芸部を立ち上げた。部室は廊下をベニヤ板で囲って、いくつかの部屋として使っていた。その頃の写真を見ると、火鉢が机の上に置かれている。
クラブ活動も児童教育部、演劇部、写真部など10ぐらいあって、全体の予算が10万円ほど。その10万円をみんなで話し合って分ける。文芸部は1万円もらうことに。
その頃の1万円はかなりの価値があった。使ったお金の明細を学校に報告する制度はなかったから、5、6人の部員で温泉に1泊旅行を2度ほどできた。
玉島君の知り合いの旅館があって、群馬県だと思うが猿が京温泉に行くことにした。1泊500円で2食つきだ。今ならコーヒー代にしかならない。玉島君が電話してくれたのだが、相手が聞き違えたのか、人数を間違えて、にわとりも沢山、くびをしめたそうだ。おかげで料理もたくさん出て、豪華に。
玉島君の実家は、お兄さんがえんぴつに社名を入れたりする仕事をやっていた。そのとなりの家にミシンを踏んで、洋服を作っている女性がいた。
玉島君が想いを寄せていた女性で、後に奥さんになった茂代さんだ。垣根越しに茂代さんが働いている姿が見えた。美しい女性だった。ふたりで垣根越しに長いことのぞいていたことをよく覚えている。
戦後初の大学祭を催すことになり、ぼくが宣伝を担当した。貧弱なプログラムだが、広告も何軒かとって作った。
玉電の中吊り広告も東横デパートの広告を入れて宣伝することができた。立て看板も何枚も作り、ぼくが文字を書いた。玉島君と一緒にあっちこっちの電信柱にくくりつけた。
玉島君との思い出は、妙なことを覚えている。ズボンをハンガーに下げる方法、これは今でも玉島君に教えてもらったとおりにしている。
お吸い物を入れたふたがどうにも取れないとき、簡単に取る方法も教えてもらった。
学校の授業で教わったことはなんにも覚えていないが、玉島君に教えてもらったことは今でも役に立っている。
玉島君、おそらく浮気なんてしまかったろう。茂代さんを困らせることはなかったのでは。安らかな死に顔だったそうだ。
看板もぼくが書いて、親友の江田君と片山君、二人ともこの世にいない
右側が伊藤、そのとなりが玉島君、左側が富倉教授
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