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2016年3月

2016年3月30日 (水)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は、4月23日(土)開催です。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
日時・4月23日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年3月28日 (月)

小学校六年生の読者からの手紙!

 『薔薇族』には高校生、中学生の投稿のページで「少年の部屋」というコーナーがあった。今ならとても考えられないページだった。
 
 1984年の7月号に、さすがにぼくは驚いたのか、「小6の子から手紙をもらってしまった!」と「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに書いている。
 小学生から手紙をもらったのは初めてのことだったが、なんともかわいい手紙だ。
 
 「はじめまして、ぼくは小6の男の子です。手紙を出すのは初めてです。でも、この本は毎月読んでます。
 ぼくはこの世界を知る前から、もういろいろなことをやっていました。たとえば音楽の時間に「笛」を持ってくるのに、わざと忘れて、ぼくの好きな男の子に、「洗っておくから一時間だけ貸して」と言って借りて味わうとか。
 
 あと、ぼくがわざと好きな子と「つばき」のかけあいをして、あとでトイレでなめちゃうとか。自分でも少しおかしいと思うけど、とても楽しいです。
 でも、ひとりぐらい恋人がほしいのです。そして、みなさんがやっていることも体験してみたいです。
 サークルっていうところにも入ってみたいけど、なんかこわいし、でも、ぼくは今、とっても仕合せだからいいです。これから修学旅行もあるし、まだ「笛」を借りたい人がたくさんいるし、下級生にも好きな子がいるし。下級生の場合は、夜、学校に行って用務員の人に「忘れ物をとりにきました」と言って校内に入るんだけど、そして1〜6年の教室に入っちゃいます。
 1〜2年生はハーモニカで、3〜6年生は「笛」を味わいます。1〜2年生はかわいいですよ。これを読んでいる小、中学生のみなさんも、ためしてみてはいかがですか?
 
 次にぼくの紹介をします。都内のある小学校6年生で、なったばかりです。背はクラスで中位です。太ってはいません。ふつうです。クラブはもちろん水泳です。わくわくしています。以上、こんなことをやっているせいか、アソコの毛も少しあります。Gは毎日やっています。
 あと、あの「フラッシュ・ダンス」君(少年の部屋に登場の)って、すごいんですね。毎月楽しく読んでいます。とても中学生って感じじゃない。この世界の人って、みんなああいうこわいこと書けるのかな。
 
 でも、ぼくはひとりでがんばります。学校でも勉強は中の上ぐらいで、わりと良い子で通っています。好きな科目は国語です。好きな男の子のタイプはありません。いいと思ったらいいという感じです。
 ぼくはおかまではありません。目標があります。それは近所の小学校の子と友だちになりたいのです。なんでかわかりますよね。ガンバルゾ! 読みにくかったと思いますが、ゴメン。気が向いたらまた書きます。それまでバイバイ。」
 
 国語が好きだというけれど、文章もしっかりしているし、考えていることも、ませているというか、ぼくが一緒に住んでいる中学二年生の野球少年にはこれだけの文章は書けないだろう。
 中学生、高校生の投稿欄「少年の部屋」にもたくさんの投稿が寄せられていたが、犯罪につながるようなことはなかった。
 
 ぼくが通っていた代沢小学校、今はガードマンがいて、勝手に校内に入れない。運動会だって、孫がお世話になっていたときは写真を撮って、銀行のロビーに展示したが今はそんなこと許されない。
 もう孫も卒業してしまっているから、運動会だって見ることはできない。だんだん窮屈な世の中になってしまった。

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2016年3月26日 (土)

火葬場の立ち上る煙突の煙が!

 ぼくのブログを読んでくれている人たちが興味を持った順番がわかるようになっている。なんでそんなことがわかるのか、ぼくには理解できない。
 その一番は、ぼくの祖父、伊藤富士雄が救世軍の軍人として、大正時代に吉原のお女郎さんを苦界から救い出した話だ。
 
 祖父が話したことを沖野岩三郎という作家が昭和5年に中央公論社から刊行した『娼妓解放哀話』がネタ本だ。
 ひとつひとつの話が長いので、原稿用紙4枚ではとても紹介しきれない。ぼくは毎日のように時代劇専門チャンネルのお世話になって、3、40年前に制作された時代劇を見ているが、吉原のお女郎さんが描かれている作品が多い。
 
 最近でこそ女性は強くなってきているが、時代劇に登場してくる女性は、ひどい目に合っている。
 
 「伊藤君(祖父のこと)は、またひとつの哀れ話をした。
 年の頃、20歳ばかりに見える世にもまれな美人が訪ねてきた。会ってみると秋田県雄勝郡の者で、洲崎弁天町のある貸座敷で、しん子と名のっている娼妓であった。
 しん子は果たして病気であった。4、5日以前から休業して養生していると、楼主から仙台の方へ住みかえをするようにとの話が出たので、今住みかえさせられては生命にかかわるから、なんとかしてくれというのであった。
 
 早速、救世軍病院の医師に診察を受けさせると、肺病も肺病、もう第3期だから、婦人ホームのような多人数のいる所へ置くわけにはいかないと言った。
 さて困ったものだと思っているところへ楼主が訪ねてきた。
 
 私は呼吸が苦しくって、もう一日も稼業はできません。
 あまりにも、しん子の態度が明瞭だったので、楼主もとうとう廃業に同意して、即日、その手続をすませた。そこで伊藤君は救世軍病院に連れて行って入院させたが、非常にかしこい女性で、日曜ごとに熱心に説教を聞き、とうとう救世軍の兵士に入隊式まですましたが、その年のクリスマスの朝、病院で感謝のうちに死んでしまった。
 
 しん子の本名は芳子というのであった。両親に早く死に別れ、伯父のところで育てられたのであるが、3人姉妹とも伯父に売り飛ばされ、悲惨な境遇にいたのであった。
 死ぬ3日前に涙ににじんだ手紙が、伊藤君の手に届いたので、早速かけつけてみると、骨と皮とにやせ衰えながら、精神だけは実に確かであった。自分が亡くなったら、遺骨は埼玉にいる妹のところへ取りにくるように言ってくれと遺言した。
 
 亡くなったとき、すぐに電話で妹に知らせてやったが、なんの返事もなかった。それで伊藤君は柳原川岸の助葬会に頼んで火葬に対し、遺骨は院長室に保管を頼んでおいたが、翌年の7月にその妹というのが、5円の金を工面して、ようやくに妹の遺骨を受け取りにきて持って帰った。
 
 火葬場の煙突を見るたびに、ぼくは妹の遺骨をかかえて、泣く泣く病院を出て行った、あの妹のことを思い出す。今頃はもう妹と同じ運命に落ちているかもしれない。
 伊藤君は静かに立ち上がった。私も元気なく戸口まで伊藤君を見送った。」
 
 時代劇を見ていると、「労咳」、肺結核のことだが、咳込んだり、血を吐いたりするシーンが多い。
 肺結核の特効薬が出現して、治る病気になったが、結核病棟に長いこと入院している人が多かった。
 病気なのに働かせられていた、お女郎さん。悲惨な姿が目に浮かぶ。

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2016年3月21日 (月)

オカマなんて言葉を使ってはダメ!

 上越新幹線の終着駅「新潟」のひとつ手前の駅、「燕三條」の駅構内に「燕三條エフエム放送」のスタジオがある。
 ぼくが「ロマンの泉美術館」の館長だったころ、スタジオでおしゃべりしたことがあった。なにをしゃべったのかは忘れてしまっている。
 
 美輪明宏さんが経営していた、新宿のクラブ「巴里」にホストとして勤めていた、自衛隊にもいたことのある男性が、ぼくを訪ねてその日にスタジオにきたことがあった。
 その男性は長岡の人だったと思う。「燕三條エフエム放送」のパーソナリティがゲイの方で、友人だったと記憶している。その方はゲイであることを隠していないので、ゲイであることはかなり知られていたのだろう。おしゃべりが上手だったので評判もよかったのでは。
 
 ぼくの女房の古里の弥彦村(人口は8000人ぐらい)のとなりの街の三条市、そこで発行されている「三條新聞」、美術館の催し物をよく記事にしてくれた新聞だ。
 ボクシングの金子繁治さんが「燕市」の出身で東京の新聞に亡くなったことを報じられなかったが、「三條新聞」が大きくとりあげてくれたのを読んで、ブログに書いたことがあった。
 東京杉並区の若い女性区議が、同性愛者に区の予算を使って援助することはないと、発言して物議をかもしたことがあったが、新潟県三条市の3月定例会が10日に行った新年度予算の審査で、今月26日にオープンする街中交流広場「ステージえんがわ」の運営事業費に関連する西川重則氏の質問で一部、不穏当な部分があったとして、翌11日、西川氏が取り消しを申し出て、議事録から削除されることになった。
 この議員も自民党員だ。
 
 「全部で七百万円あまりをエフエム放送に支出することになる。民間の放送局に行政が経営支援するのはいかがなものか。と疑問を示したのに合わせ、同番組のパーソナリティを務める男性について、オカマの方と聞いている。社会常識に照らして、正常な形でない人を支援する必要はないのではないか。
 人の趣味、趣向は何をやってもいいのだろうが、行政が支援することはないのではないかと指摘した。」
 
 情けない話だ。しかし、うれしいことに、「三條新聞」の読者は、この議員の発言に対して、多くの人が怒りをぶつけている。
 
 「11日の三條新聞を読んでたまげました。三条市市民福祉常任委員会での発言で「オカマに公費。FM放送に二百八十六万円」との見出し。
 どなたかわからないが「オカマ」と本当に発言されたのか。いかにもストレートな発言でも有り、この差別語は先日、どこかの代議士が「黒人でも大統領になれる」と放言したのと同じレベル。
 KABAちゃんだ、クリス松村だ、カルーセル麻紀だと、そちら系のタレントたちがこの話を聞いたらどう反応するか。あるいは一笑に付すか。それとも「週刊文春」さんが乗り出すか、少々興味はある。
 「福祉」と名がつくだけに、ことは簡単に済まないと思うが、いかがなものだろうか。(燕市・元気高齢者)」
 
 この元気高齢者の人、そちら系のタレントの人たちがゲイだと思っているような気がする。
 エフエム放送を毎日、楽しみに聞いていて生活の一部になっていると投稿している人もいる。
 パーソナリティの方、お名前を忘れてしまっているが、エフエム放送はこの方のおしゃべりで長いこと聞く人を楽しませているのだから、ゲイであることに誇りをもってこれからも仕事を続けてもらいたいものだ。
 

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2016年3月19日 (土)

官能の世界を描くバイロスを見てほしい!

 「侯爵フランツ・フォン・バイロス(1866−1924)は、19世紀末から20世紀のはじめに、ウィーンとミュンヘンで活躍して58歳で生涯を閉じた天才的な挿絵画家である。世界最高の蔵書票画家とも言われながら、彼の名は一般に知られていない。
 
 というのはほかでもない、彼の作品の多くが好色的で特殊な愛書家や富豪のための贅沢な秘められた少部数限定本の挿絵や蔵書票が主な仕事で、一般の人の目に触れる機会が少なかったと思われる。
 
 彼と同時代のビアズレー(1872−98年)が高い評価を受けているのに比べると寂しい気がする。
 バイロスは代々ハプスブルク家に仕えた古くからの貴族の家柄で、ウィーンとリンツで絵の勉強をして、30歳のときにウィーン社交界の花形であった、ワルツ王、ヨハン・シュトラウスの娘と結婚する。当時としては話題となった華やかな結婚であったはずであるが、どうしたことか一年で離婚している」
 
 これは山本芳樹さんという、バイロスの作品のコレクターであり、平成10年に京都書院(倒産して今はない)から『バイロス侯爵画集』と題する本と、1992年2月20日にサイン入りで頂いた『バイロス侯爵の蔵書票』と題する手の平にのるような豆本の中から引用させて頂いている。24年も前のことだ。
 
 「どうしたことか一年で離婚」と、山本芳樹さんは書いているが、その理由はバイロスはゲイだったからと、ぼくは推測している。
 バイロスはゲイだったと、ぼくが言うと、山本さんはバイロスは女好きだと信じているので嫌がっていた。その山本さんも亡くなられているので、寂しい限りだ。
 
 バイロスは末っ子で、母親にかわいがられていたこと、それにこの繊細な絵は、女好きの画家では描けない。それにバイロスは「薔薇の画家」とも言われるぐらい、絵の中に薔薇をちりばめている。それはぼくのこじつけだが。
 
 1991年3月に読売新聞社から刊行された、『アール・ヌーボー/アール・デコ』の第5集に、ぼくが「イカール追想・人との出会い、モノとの出会い」を書き、山本芳樹さんが「ウィーンの装飾画家・侯爵フランツ・フォン・バイロス」を書いていた。
 編集部の人に山本さんの電話番号を聞いて神戸から上京してきた折に、赤坂のホテルで出会い、それからお付き合いが始まった。
 バイロスの作品を集めだしたのはそれからだ。ぼくがコレクションしていた、ルイ・イカールも、バイロスもゲイだったということは、何かの因縁かもしれない。
 
 女房の古里の新潟県弥彦村の村立「弥彦の丘美術館」で、1992年11月1日から29日まで、世界初の「バイロス展」を開催した。その後、ぼくがオープンさせた「ロマンの泉美術館」でも「バイロス展」を開いている。
 そのときには山本芳樹さんも来てくれたしバイロスのフアンの人も、ウィーンからきてくれたのには大感激だった。
 
 立派なバイロスの墓も、子供がいないので無縁仏になって壊されるのをフアンの人たちが市に働きかけて残されることになったそうだ。
 
 東京でも銀座「ヴァニア画廊」で「バイロス展」を二度ほど開いてくれた。
 今度は大阪の北区堂山町「ワイアートギャラリー」で、4月6日から17日まで、「フランツ・フォン・バイロス創作版画・蔵書票展」が開かれる。
 実物を見たら、バイロスの魅力にとりつかれるだろう。ぜひ、見に行ってもらいたいものだ。
 
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2016年3月14日 (月)

ひとりの人間としての女子大生の意見!

 34年も前の『薔薇族』の投稿ページ「人生薔薇模樣」に載っていた「私の主張」と題する京都市に住む21歳女子大生からのものだ。
 ネットなんてもののない時代、34年も前の女子大生って、本をよく読んでいた。
 
 「私は21歳の女子大生です。同性愛に興味を持ち始めたのは、中学生のころです。
 最初は少年愛マンガを読みあさり、高校の時に『JUNE』の愛読者に。大学に入ってからは時間がたっぷりとれ、三島由紀夫、森茉莉、南条範夫、稲垣足穂、赤江瀑、栗本薫、水上勉、福永武彦、大江健三郎、ジュネ、サド、ワイルド、マン、ヘッセ、ジイド、ロレンス、アポリネール等、3年ほどで読んだ本の数は50冊ぐらいでしょうか。
 
 最近では古典物を辞書片手に読んだりしています。大学では心理学のゼミを受講していますので、その関係の本も読んでいますが、そこで残念に思うのは、同性愛が性の異常として扱われている場合が少なくありません。
 
 私は人が人を愛することに、正常、異常があるとは思いません。男性が男性を愛することがなぜ異常でしょうか。人間の性本能が生まれながらにして特定の性を志向しているとは思いません。
 一組の人間同士の結びつきが同性だからといって、倒錯視される理由にはならないと思います。
 
 純粋な愛は他者本位で、自己放棄的で、自己犠牲的なものです。
 
 「愛はなんらかの犠牲にして成り立つものです。若い君たちが犠牲にするものといえば、デートの時間と、コーヒー代だけである。それだけの犠牲でいったいどれほどの愛が得られよう。自己中心的な愛なんて恋愛のまねごとに過ぎない。愛のために今の生活を投げ出してみろ!」とは、大学の講義中に聞いたことです。その教授は、
 「最近あったことですが、某学生が妻子ある男性と深く愛しあい、それが両親にも知れ退学していった。彼女は報われない愛のため、たった数回の逢瀬のために、自分の体と大学生活を、いいえ、一生を犠牲にしたといえます。あなたがたに、これだけの犠牲を払ってまで、むくわれない愛に身を投じる勇気がありますか」
 と聞かれました。しかし、だれも答えられませんでした。
 
 同性愛を賛美する気はありませんが、むくわれない愛に身を投じている人々、あなた方はそれを誇るべきです。自己犠牲の上に成り立つ同性愛は真の同性愛であると思います。
 同性愛が精神的に利点があるといわれるのは、このような同性愛に限っていわれることではないでしょうか。
 
 ただ単に肉体的に結びついた同性愛の方、自己中心的な同性愛では、むなしいばかりではありませんか? どうか早く本当の愛を見つけてください。もう一度言います。本当に心から愛し合っている人たちを男同士だからといって変な目で見る人は、人間として、どこか欠けているのです。自信を持ってください。
 
 私は同性愛も一つの愛の形として認める人々がもっともっと増え続けることを願って、この主張を恥ずかしがらずに続けていくつもりです。
 私のこの主張は、自分が同性愛者であることに罪悪感を持ち悩んでいる人、たんに興味本位でホモってみたいなどという人に対する意見です。そして男性どうしの同性愛者に、女性として主張した意見ではなく、ひとりの人間として私なりの意見を主張したものです。」
 
 いくらネットがない時代とはいえ、本の読みすぎ。「人間の性本能が生まれながらにして、特定の性を志向しているとは思いません」。これはちょっと。男性同性愛者のことをひとりの人間として見てのご意見だから、ありがたく聞かなければ……。
 

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2016年3月12日 (土)

文通欄でめぐりあえた父以上の父と!

 『薔薇族』が読者に受け入れられた最大のひとつは、「薔薇通信」と名付けられた文通欄の存在だった。
 ネットなんてものがなかった時代だから、かなりの時間がかかったが、仲間と出会うためには、このコーナーを使うしかなかった。
 北は北海道から、南は沖縄まで、海外からの投稿も増えていた。毎号千人近い人が仲間と出会うために、短い文章の中でどうしたら目に留まるかを工夫して呼びかけていた。
 
 どれだけの人がめぐりあったかは知る由もないが、「人生薔薇模樣」の投稿欄に、こんな微笑ましい投稿が載っていてうれしかった。
 
 「幼い時に父をなくし、16歳で母にわかれた私は、天涯孤独の身で当年27歳、五日市のある料理屋で板前をしています。
 
 誌上でこの人はと思った年配の人に便りを出しました。するとすぐに返事が来たのです。東京駅中央線ホーム神田寄りの階段のところで、左手にハンカチを細くたたんで巻いてくるように指示されました。
 一度も会ったことのない人に会うのですから、目印が必要だったのです。その人は右手に巻いてくるとありました。
 
 約束の夕刻5時ぴったりに、その人がにこやかに笑って私のそばに立ちました。いかにも温厚な紳士といった服装で「お待ちどうさま」そう言って肩に手をかけてきました。
 まるで10年来の知己のように、そして車に乗って一路、箱根へと向かいました。
 
 運転をしながらその人は「よく来たね。おいしい天ぷらをご馳走しよう」と言い、小田原の駅前通にある「だるま」という天ぷら屋に入りました。ビールをとってくれ、運転するからと言って、その人はジュースで二人の出会いに乾杯しました。
 
 車窓から入ってくる風邪は、秋の箱根の匂いを私に感じさせました。ビールの酔いが頬に出て、その熱をさますような風のいたぶりにまどろんだとき、車は富士屋ホテルの玄関につきました。
 
 フロントで鍵をもらって部屋へ。その部屋は朱塗りの橋が見下ろせる位置にあって、調度品のすべてが落ち着いたもので、私には初めてのものでした。
 
 「お風呂にはいっておいで」
 
 そう言ってその人は着替えをはじめました。
 
 「一緒に入りましょう。背中を流しますから」
 「本当かい、そんなやさしい言葉を聞いたのは何年ぶりかな。じゃあ遠慮なく一緒に入るかなあ」
 
 そう言って一緒に湯船に身体を沈めました。無言のうちに手が伸びて、お互いのものを握り合いました。そしてキッスのやさしさ。石鹸をつけて体を洗い合い、私がひざまずいてその人のを含むと、その人は私の肩に両手をのせて、目をつむり楽しんでくれました。そして今度は私のを含んで舌での愛撫―私がもう限界にきたことを告げると、
 
 「お出し、心おきなくお出し」
 
 そう言って私の放出する精液を全部のんでくれました。
 
 「たまっていたんだね。量が多かったよ」
 
 ベッドの上で手枕をしてくれました。
 
 「お父さんが恋しいと言っていたが、今夜からお父さんにはなれないけれど、心のよりどころとして私についてくればいいよ」
 
 その夜、私とその人とは堅く結ばれました。
 (中略)
 私は文通で父以上の人を得ました。幸せいっぱいです。この喜びを同好の人に分けてあげたい。(東京都・YY)」
 
 初めての出会いで、ホテル、それも富士屋ホテルで、こんなことってあるのだろうか。編集長として、こんなにうれしいことはない。二人の仲はずっとつづいているようだ。

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2016年3月 7日 (月)

戦中、戦後のあの飢えの時代を!

 脚本家の倉本聰さんが、2016年3月2日の毎日新聞朝刊に「林中無策」と題して、週に1回、エッセイを連載している。今回は「恩送り」と題して。あまり聞かない言葉だが「未来永劫に対し、その恩を返してく行為を言う」そうだ(ぼくが使っている国語の辞書には載っていない)。
 
 倉本さんって、ネットで調べられないのが残念だが、ぼくと同じくらいのお年だろう(ぼくは3月19日で84歳)。戦中、戦後の食物がなかったころの話を書かれているので、同年代のお年だと思う。
 
 「戦中戦後のあの飢えの時代、食と腹の問題だった。背中と腹がくっつきそうになるのを何とか埋めてくれる胃袋の問題だった。だが今、食は胃袋から舌の問題に移り、うまい! と感謝される対象は、板前や料理屋の店主に代わって、そもそもの食料生産者は感謝の対象から外されている。
 
 1食何千円、何万円もする都会の料理屋は、その基になる第一次生産者にそれだけの対価を払っているのだろうか。
 消費者の支払う高額の金は、その何割が本来の生産者に渡っているのだろう? 高価な着物を風呂敷に包んで、必至に頭を下げ何個かの芋と交換してもらったあの飢餓の時代を経験したものにとっては、何かが狂ってしまった気がしてならない。」
 
 ぼくは日本の敗戦の年が中学1年生だったから、戦時中と戦後の食物のなかった時代を鮮明に覚えている。
 母は4人の子どもたちを食べさせるために懸命だった。世田谷もちょっと奥の方へ行くと農家が多かった。ぼくが住んでいる代沢は、米軍の空爆の被害はあまりなかった。家が焼け残り、父も兵隊にとられなかったので、あとは食物の調達だけだった。
 
 母は着物を風呂敷に包み、リュックサックをしょって、ぼくを連れて農家に買い出しに行った。近県の埼玉とか。千葉ではなく、世田谷もちょっと奥に入った烏山あたりは、一面が畠だった。
 農家のおかみさんは、いばっていたように覚えている。母は頭をペコペコ下げて、お芋と交換し、リュックを背負って帰ってきたのを思い出す。
 父は第一書房に勤めていた頃の書籍を選び出して、山形の古本屋に送り、お米と交換していた。
 
 戦後はなんでも物と物を交換する時代だった。変な話で酒や煙草を吸わない家にも配給があった。母はそれをためておいて、下北沢の駅の近くにあった物々交換のお店から、軍隊の将校がはいていた立派な革靴を手に入れてきた。
 ちょっと大きすぎたが、綿を詰めて、それをはいて学校に通っていた。かばんは祖母の弟が軍需工場に勤めていて、そこでくすねてきたカバンの布を、これも母がどこでみつけて来たのか、カバンをぬう職人に頼んで、立派な肩に下げるカバンを作ってもらった。
 背がクラスでも一番小さかったぼくにはカバンが大きすぎて、カバンが歩いていると見えたかもしれない。
 考古学で有名だった國學院大学教授の樋口清之先生が、世田谷学園の講師だったが、授業中にぼくのカバンを見て、ほめてくれたのを思い出す。
 
 倉本さんは「食うことによって我々は生きている。その食糧は自然が作る。自然と農民の労力が作る。ITも金融も食糧は作れない。にもかかわらず、人はその恩恵を忘れている。」
 
 食物を無駄にして、大量に捨てている日本。戦中、戦後の食糧がなかった時代を体験したものでないと、そのありがたみはわからないだろう。

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2016年3月 5日 (土)

多くの秀れた才能に出会えたぼくは幸せ者だ!

 2006年8月発行の九天社(倒産して今はない)刊『薔薇よ永遠に=薔薇族編集長35年の闘い』の序文はすでに紹介した。
 「あとがき」もどうしても残しておきたい。
 
 「30年、35年前には、FAXもなければ、インターネットなんていうものもなかった。メールで文章を送るなんていうことは、考えもしなかった。
 誰もが原稿用紙や、便箋に一字一字書き綴って封筒に入れ、切手を貼って編集部に送ってきたのだ。
 
 同性愛者であることの悩みや、苦しみを綿々と書き綴って告白してきた。書くことによって少しは心が晴れたのかもしれない。当時の読者は文章力もすばらしいものがあった。
 どの手紙も心を打つものばかりで、かなり頁数の関係で割愛せざるを得なかったのは残念だった。
 
 戦後の昭和20年台、30年台、食物もなく焼け野原から、やっと立ち直ってきた時代、その時代に生きていたゲイの人たち。古い雑誌を読むことによって、少しはその苦悩をうかがい知ることができた。
 
 昭和29年に会員制で発行された『アドニス』写真も2、3枚載っているだけ。それも取締当局の摘発を恐れていたのか、ポルノ度も低い。それでも読者は興奮したのだろう。精液のシミのついた『アドニス』を送ってくれた読者もいた。なんとしても仲間を見つけたいという思いは、短い文章からにじみでているようだった。
 
 「『薔薇族』的三島由紀夫考」これは『薔薇族』でなければ読むことのできないものだ。人間、三島由紀夫と三島文学を知るうえでの貴重な読み物といえるだろう。
 オチンチンが小さい、大きいを論争するなんてえげつないと言われるかもしれないが、そこから三島文学を研究する上で、大事な取っ掛かりになるだろうと考える。その中でも三島さんと知り合った、大川辰次さんの文章は貴重なものだ。
 
 ゲイの人たちの結婚の問題。今の時代でもさけて通らなければならない関所のようなもので、誰しもが悩むところだ。
 古い読者は女性と結婚しないわけにいかなかったから、その生活上の苦しみは大変なものだったろう。女性の読者がこれらの告白を読んだら怒るだろうが、どうしても結婚しなければならなかった、社会的な背景を考えてほしい。
 
 古い読者は自分の性癖を隠し通したのだ。結婚をしないで独身を通した人たちには、どうしても欲望のままに、その日、その日を過ごせばいいという人も多かったようだ。お金をためることもせずに、年をとって生活保護を受けている人も多いようだ。
 なんとか結婚した人は、奥さんがしっかり者が多いから、仕事を成功させている人が多い。しかし、好きなように暮らせない悩みはどうしようもなく、どちらの道をえらぶかは本人が決めるしかない。
 理想的には愛する男同士が結婚し、生活することだろうが、日本の場合は、まだまだでみんなが団結し、声をあげて勝ちとるしかない。
 
 少年愛の問題は、35年の間でぼくが一番悩んできたし、毎号のように取り上げてきた。マイケル・ジャクソンさんは、ご自分では少年愛ではないと否定しているが、子供のための遊園地を造るなんていうことだけでも、少年が好きな人と思えてくる。
 本人が好き好んで少年を好きになったわけでなく、自然にそうなったので、本人の意思で変えることはできない。」
 
 いい読者をもって、ぼくは幸せ者だった。

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2016年3月 4日 (金)

「文ちゃんと語る会」のお知らせ(時間変更有)

次回、「文ちゃんと語る会」は、3月26日(土)開催です。
土曜日の夕方はお客が多くて席が取れないので、午前11時から午後13時までと時間変更します。よろしくお願いいたします。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
日時・3月26日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 
★どんな方でも歓迎します。
 グループで参加されている方々はいませんし、皆さん個人の方ばかりです。
 発言を求めるということも特にありません。お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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