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2016年4月

2016年4月30日 (土)

花泥棒は罪にならない!

もう、数年は時が流れているだろうか。今年も桜が散ってしまい、葉桜になり、せせらぎが流れる緑道は、犬を散歩させている人、走っている人と、いつもの緑道に戻っている。緑道に面する家の玄関先に、ダンボールに入れられた植物が置かれていた。庭のほうを見ると、温室らしきものが。その中で育てていたものだろう。
 
 蘭だなと思い、葉っぱだけが付いているものを頂いてきて、マンションの狭いテラスに鉢に入れて置いた。
 葉っぱが2枚ついていて、水だけはかかさずやっていたが、冬も何とか越したが、あまり成長する様子も見えなかった。
 
 それが驚いたことに、かわいい白い花が2輪咲いたではないか。寒い冬も、暑い夏も生き抜いて、見事に花を咲かせた。
 今のぼくのどん底生活も、耐え忍んで生きていれば、きっと花を咲かせることができる。名前もわからない、蘭の花。ぼくに勇気を与えてくれた。
 
 4月、たけのこがスーパーに山積みにされている。たけのこごはんにしようと思ってたけのこを買ってきた。
 たけのこごはんには、つきものの香りのいい山椒の葉も見つけて買った。なんと小さな葉っぱが数枚しか入っていなくて、400円。以前住んでいた我家の庭には、大きな山椒の木があって、買わずにすんだものだ。
 
 マンションのテラスにも、山椒の木が植えてある。それが芽が出てこないので、枯れてしまったとあきらめていたら、かわいい芽が出てきたではないか。
 植物って強い。時が来れば芽を出し、花を咲かせる。今年はたけのこごはんに間に合わないが、2、3年したら葉っぱがいっぱい出てくるだろう。楽しみだ。
 
 年の暮れになると、玄関先にダンボールを置いて、「ご自由にお持ちください」と買いてカレンダーや、手帳が置いてある。そのカレンダーを頂いて毎年助かっている。この間は黒い布製のかばんが置いてあったことがあった。これも持ち帰り使っている。
 
 「持ち帰る」と言えば、聞こえは良いが、ぼくは部屋の中に、緑の小さな植物をいくつか置いている。これは100円ショップダイソーで買ってきたものだが、食事をする机の上には1輪ざしの小さな花瓶に、よそさまの垣根に手を伸ばして、咲いている花を折っていただいてきた花がさしてある。
 
 「花泥棒は罪にならない」と聞いているのでかかさず頂いてきて机の上に置いている。
 カフエ「つゆ艸 」の笑顔が可愛いママにネットで調べてもらった。携帯でもわかるようだ。
 
 「日本では結構古く、明治初年までは、京都の保昌山は「花盗入山」と呼ばれていたそうです。
 たぶん由来は「花盗人」からだと思います。桜の花を折って捕まった僧が、桜の木に縛り付けられたまま「この春は花のもとにて縄つきぬ烏帽子桜と人や見るらん」という歌を詠んだそうです。
 
 その歌に感動した花見の衆が、罪を許して花見の宴に加えたことから、花盗人は罪にならないと言われるようになったのではないでしょうか。」
 
 広辞苑には、「花泥棒」は載っていない。それが携帯電話でわかるのだから、辞書だって売れないわけだ。
 他人様の庭に咲く椿の花、手を伸ばして1輪頂いてきて、食卓の上に飾る。どんなにか心がなごんだことか。
 
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2016年4月28日 (木)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は、5月28日(土)開催です。
 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
日時・5月28日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年4月23日 (土)

『薔薇族』創刊号の表紙絵は歴史に残る!

 『薔薇族』編集長奮戦記・心ある人にはわかってほしい。
 創刊15周年記念『薔薇族』増刊号として、昭和61年8月に刊行し、1万部を印刷したが千部しか売れず、返本の山となってしまった。『薔薇族』50号に寄せる読者へのオマージュ・世界はおとうとのために・寺山修司の詩・書かなくともそれはたしかに存在している
 『薔薇族』の宝物というべき詩だ。
 親友だった今は亡き國學院大學教授、阿部正路君の友情あふれる、いくつかの原稿、今読んでもじい〜んとしてくる。
 
 すべて『薔薇族』に載せられた原稿を集めたものだから、千部売れたということはすごいことなのかもしれない。
 100冊の創刊号から100号記念号までの『薔薇族』を床の上にずらっと並べて、ぼくとサングラスの藤田竜君が、感慨深そうに見つめている写真。
 「明るいところへ出ようと歩いてきました。『薔薇族』10年の編集裏話=気長と気短かのコンビで作り続けた『薔薇族』の歴史」
 12年前に『薔薇族』は廃刊になってしまったのだから、20代、30代前半の人は、『薔薇族』ってどんな雑誌だったのか知らないだろう。18ページにも及ぶ対談記事、若い人に読んでもらいたいが、とても長くて紹介しきれない。
 
伊藤 100冊の本を年代別にズラッと並べて見ていると、ほんとうにいろんな顔が書いてある。やはり10年というと長いような短いような。この表紙を見ただけでも、100人の人の顔が出ているわけですから、いろんな人に会ったし、いろんなことがあって、いろんなことが思い出されますね。
 
 藤田 いちばんの苦労って何ですか?
 
 伊藤 ウーン、いちばんの苦労ね。
 
 藤田 やっぱり、ぼくに悩まされたことでしょうか(笑)」
 
 考えてみたらゲイの人と出会って、一緒に仕事をするなんてことは、初めての経験だから、その気苦労は大変なものだった。
 ぼくはのんびりして、感情の起伏はあまりないけれど、藤田君は短気で、お天気屋、お互いに気心が知れるようになったのには、5年はかかったろうか。
 
「藤田 ともかく表紙にホモだとか、男だとかいうことは何も書けないわけですよ。それでどうしたらわからせることができるかというので、あの図柄になってきたんです。
 下半身裸でTシャツ1枚という。あの絵でどういう雑誌かというのは、ほとんどの人がわかったみたいですね。
 
 伊藤 見ただけでね。創刊号は1万部ぐらい刷ったと思うんです。実際に売れたのは、6千部から、7千部ぐらいだったと思うんだけど。
 それで『週刊文春』『週刊朝日』『週刊ポスト』『プレイボーイ』とか、『平凡パンチ』とかが、一斉に記事にしてくれたのは、幸運だったですね。だから知られるということでは、早く知られちゃったという感じはあったのですね。」
 
 今、考えてみても、創刊号の藤田竜君の表紙絵は、健康的で、いんびな感じもしないし、彼の才能が一流の週刊誌の目にとまり、記事にしてくれたのでは。
 廃刊の時もマスコミが一斉にとりあげてくれたし、創刊号でこんなにマスコミに取り上げられたということはないのでは。
 
伊藤 いちばん大変だったというか、創刊2号で桜田門のほうへ呼びだされましたからね。
 
 藤田 風紀係の扱いは、とっても紳士的。
 
 伊藤 取調室でなく、ちゃんと応接間で調書をとってくれましたからね。」
 
 とても100号までの出来事を紹介できないが、藤田竜君の雑誌作りの才能に感謝するばかりだ。
 
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2016年4月18日 (月)

たった1冊の本を届けたときのこと!

 1990年の1月号の「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いている。2ページを使って、それも老眼鏡をかけて見ても読めないぐらいの小さな文字で、原稿用紙(400字詰)で10枚近くはありそうだ。
 
「わざわざ1冊の本を届けるために、1時間もかけて東販(本の問屋)まで行ってきました。
 それは本郷の東大生協から『薔薇族編集長奮戦記』の電話注文があったからです。
 1万部印刷して千部しか売れなかった本だから、その中の1冊が売れて読んでくれるということが、言葉では言い表せられないうれしさなのです。それも東大生が読んでくれるということで……。
 84歳の親父と、80歳のおふくろを車の後ろに乗せて、秋晴れの東京を東販まで走ってきました。
 
 30年ぐらい前に紙を買っていた紙屋さんに、しばらくぶりに訪ねてみました。先代の社長さんはとうに亡くなっていて、ぼくと同じ年の息子さんがでてきて、なつかしいひとときでした。
 『薔薇族』を最初の頃、活字を1本1本拾って組んでいた印刷屋さんも、いつの間にか大きなビルに変わっていました。
 1冊の本を届けるために、ちょっとばかり親孝行をして、過ぎ去った昔を思い出すことができました。」
 
 今は亡きぼくの相棒だった藤田竜君が、この本に「傍らで仕事を見てきた者として」というありがたい「あとがき」を書いてくれている。
 
 「決して大げさではなく雑誌『薔薇族』の出現は、日本のホモにとっての夜明けだったと言える。
 それまで出版物にホモが取り上げられるとき、その扱いはきまって猟奇であり、変態であり嘲笑だった。
 『薔薇族』を出す1年前、伊藤さんは持ち込み原稿のホモものを出版した。その頃、同性愛関係の本は売れないと言われていたという。けれどもその本は、ホモを面白半分に扱ったものではなかったので、そう悪い成績ではなく、また読者の反響も良質で、ここで初めて伊藤文学さんは、ホモの存在に注目することになる。
 と言っても伊藤さんも、当時の世間のほとんどの人と同じく、まるでホモについては知らなかった。しかし、多くの悲痛な反響を見て、ホモの人をどうにかしなければならない、という思いに突き動かされ、ホモの専門誌を創刊したいと考えるようになった。
 
(中略)
 
 自分がいわば震源地であるその男たちの動きを、ホモではないから冷静に、しかし、温かく見守り続けてきたのが編集長の伊藤文学さんなのだ。(中略)
 全国の読者から切れ目なく相談の電話がかかり、伊藤さんはそれのひとつずつに誠実に接する。我々のしている会議らしきものが、それで長々と中断することは一再ならず、出席者は自分はとてもああは出来ないと、嘆息するのだ。(中略)
 夢見続けてきた同性との同衾は果たせないにしても、同性を恋うるのは自分だけではない、自分だけがおかしいのではない、みんなが同じ悩みを持っている、『薔薇族』でそれを知って、多くの隠れたホモは自分を解放できた」
 
 しばらくぶりに藤田竜さんのぼくに対する好意的な文章を読ませてもらったが、いい人に出会ったぼくのウンの強さを感じることができた。
 藤田竜さん、ありがとう。
 

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2016年4月16日 (土)

こんな光景は、もう見られない!

 ぼくにとっては地獄のような銭湯の話だったが28年も前の『薔薇族』に、こんなほほえましい投稿が載っている。
 オチンチンを触ったりする初体験は、兄弟が多かった。大阪の堤二郎さんからの投稿だ。
 
 「ある日の夕方、銭湯へ行った。客が少なくてがっかり。大勢いる方が眺めがよろしくて楽しいのに。
 ところが極上の玉がいた。中学1年ぐらいの兄と、小学3年くらいの弟、顔がよく似ていて、確かに兄弟らしい。
 
 ふたりは浴槽のふちに腰掛けていた。兄が弟を抱いている。これはいいところへ来たものだ。さて、どこで観察しようか。
 兄のほうが私の顔を見て恥ずかしがるどころか、何か親しみのある笑顔を向けるのだ。うん、これは近くに寄ってとくと見せてもらおう、そう決めてふたりのすぐそばによっこらしょと腰掛けた。
 
 兄が弟を膝の上に乗せて、弟を向こう向きに抱いているから、弟の背中に顔をすりつけてうっとりしている。
 弟はお尻をぐいぐいと動かし続けている。もう知れたこと、兄のチンポは弟のお尻に密着しているのだ。まさか突っ込んではいまいが。さらに兄の手は弟をぎっちりと抱きしめて、弟の下腹部に置いているのだ。つまり弟のチンポをぐっと握っているわけ。
 
 すると兄も腰を動かし始めるではないか。うわっー、たまらない。私のチンポも勃ってきた。ふたりの横でタオルもかぶせず、ピ〜ンと勃ったものを見せつけるようにして座っている。
 しばらくそんな状態が続いてから、弟が離れようとした。さて、兄のチンポを見なくちゃ。なんとピ〜ンと勃っているじゃないか。
 
 中学1年というと、毛が少し生えかけて、チンポはもうかなり太くなっている。大人になりかけというところ。私はそのくらいの時期の少年が、いちばん好きなのだ。
 ピ〜ンと勃っているチンポを隠しもせず、弟を離したくなさそうに、それでも弟のするがままにしてやっている。
 弟のは、うん、さすがにまだ小さい朝顔のつぼみのようなのが、でも、やっぱり勃っているのだ。かわいらしいな。
 
 今度は弟は兄の方へ向き直って、抱かれるではないか。ふたりかたく抱き合って、もちろんチンポとチンポが、つつきあいをしているのだろう。
 ふたりで腰を使うんだから、もうたまらん。ホッペとホッペをすり寄せて、あ、キスするのかな?
 もういや、目の前でこんなことされちゃ、たまらんじゃないか。男の子同士の兄弟っていいな。
 
 5分ぐらい続いたか。兄の方はもう射精する能力はある成長ぶりだが、どうだろう。射精した様子はなかった。
 それからふたりは離れて体を洗い始めた。私の堅くなったチンポを兄のほうがチラチラと見ている。もう性的な心は芽生えているのだ。こんな子と、こんな事、思う存分してみたい……」
 
 大阪の星二郎さん、兄弟のしぐさを見ているだけでよかった。かわいい兄弟も人に見られていることで、興奮が高まったのだろう。
 
 四国の愛媛に住む、小学校の校長先生、奥さんが留守の時によく電話をかけてくれた。山の中の小学校に単身赴任しているときが、いちばん楽しかったようだ。
 宿直室に好きな少年を呼んでとまらせても親は先生だから何もあやしむことはなかった。この先生、校長にまでなって退職されたが、ぼくより何歳も年上で、脳梗塞で倒れ、奥さんの介護で生きていた。
 少年愛の人のことを考えると、いつもこの人のことを思い出す。もう、この世にいないのでは……。
 

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2016年4月11日 (月)

小さな幸せって、こんなことなのか?

 今年の冬の出来事だ。給湯器が突然、故障して、お湯が全く出なくなってしまった。ぼくが住んでいるマンションは、かつては床暖房だったようで、でっかい給湯器が取り付けられている。
 お湯を使うと大きな唸り声をあげるので、心配だったが、20数年使っているので、寿命が尽きてしまったのだろう。
 すぐにマンションの家主にお願いして業者を呼んでもらったが、工事をするのは10日後だという。
 
 お湯が使えないということが、毎日の生活で、こんなに不便だとは思わなかった。
 銭湯ってみんなつぶれてしまって、遠くまで行かなければ入ることができない。ありがたいことに、4、5分歩けば行ける所に「淡島湯」という銭湯がある。
 ここは天然温泉を使っているということは知っていた。銭湯って考えてみたら、子供のころ行った記憶しかない。
 女房と一緒にバスタオルなどをもって、3時の開店にあわせてでかけた。ヒット曲「神田川」を思い出し、しばらくぶりに新婚気分を味わうことができた。
 
 460円払って入ると、早い時間なのでお客は数人しかいない。温泉だから硫黄の匂いがするのかと思ったら、匂いはなく、お湯の色は茶褐色で底が見えない。
 しばらくぶりに足を伸ばせる湯船に浸かって温泉気分を味わうことができた。ここまではよかったが、洗い場のお尻の下に敷く台の高さが10センチぐらい。
 不吉な予感が頭をよぎった。からだを洗って立ち上がろうとしたが、つかまるものがない。もがいているうちに、台が外れてお尻がタイルの上に。
 亀がひっくりかえって、甲羅を下にして、もがいている。なんとも情けない姿になってしまった。
 
 親切な人っているものだ。ぼくも老人だがぼくよりは少し若い老人が手を貸してくれてなんとか立ち上がることができた。こんなにありがたいと思ったことはなかった。
 ぼくの左膝には10年ほど前に、東京医大で手術して金属の人工膝が取り付けられている。椅子やベッドの生活では困ることはないが、畳の上にベッタリ座ったとしたら、立ち上がることは出来ない。
 
 神田川の甘い世界は、地獄の世界になってしまった。息子の嫁がタオルを水に浸してレンジに入れて温め、体を拭けばと教えてくれたので、体を拭いてなんとか10日間我慢してしまった。
 新しい給湯器が取り付けられて、今までできなかった追い焚きができるようになり、せってした温度で湯船に入れるようになった。
 足を丸めて入るぐらいの、小さな湯船だけど、今の貧しい生活では、温泉などとっても行けないが、小さな幸せってこんなことだろうなと……。
 
 テレビ東京だったか、「なんで日本人がこんなところに?」という番組はよく見るが、水道もないような僻地での生活、女性ってたくましいなと思う。
 年金って2ヶ月ごとに、お国から振り込まれる。18万ぐらいだったのが、だんだんへらされて、今では15万ぐらい。
 お小遣いとして使うのなら、このくらいで十分だが、家族5人の夕食のおかず代にほとんど使っている。
 お金のありがたさをつくづくと感じてしまう。いつの間にか84歳になってしまったが、ブログを見てくれている人もいるし、「文ちゃんと語る会」にも、人が来てくれる。ありがたいことだ。くよくよしても始まらない。
 前向きに歩き続けよう!
 

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2016年4月 9日 (土)

趣味や、好奇心で少年が好きになったわけではない!

 少年愛の人の悩みが率直に伝わってくる22歳大学生からの投稿だ。
 
 「性の悩みをこれまで誰にも打ち明けることができず、ひとりで悩み続けてきたのです。
 私が初めて恋をしたのは、小学校1年生のときでした。相手は同じクラスのかわいい男の子でした。なんとなく彼の手を握ってみたくなり、1度だけ偶然を装って彼の手を握りしめたこともありました。
 
 それからしばらくは好きな相手ができることもなかったのですが、2度めは4年生の終わりごろでした。私はぼちぼち発毛が始まっていたと思います。相手は同じクラスのスポーツが得意な活発な少年でした。かっこいいと憧れ、今度は彼の裸をみてみたいという気持ちになりました。
 
 そして5年生になり、クラス替えがあったら別の男の子が好きになりました。やはりスポーツが得意で活発な少年でした。
 そのころは相手に対する肉体的興味も表面化してきました。ただし相手の肉体に直接向かうのではありませんでした。自分の体の底から突き上げてくるその衝動が何であるのか、それもさっぱりとわかりませんでした。
 
 中学校に上がっても、活発な少年に対して同じような気持ちを持ち続けました。しかし中2になって、同級生たちが少年から青年へと変貌し始めると、私の頭に疑問が湧いてきました。それまで私は同級生が好きだったのだけれど、彼らが大人になるにつれて私も大人の男が好きになることもありえるのか、それなら自分の父親に対して恋することもあるのかと。
 
 しかし、その疑問はすぐに解けました。初めて夢精を経験するのと時を同じくして、同級としての小学生を愛するのではなく、年少者としての小学生を愛しているのだと、突然気づいたのです。
 中2の夏休み、私にとって最初で最後の過ちを犯してしまいました。当時、小6だった親戚の男の子と田舎に行った時のことです。ちょっとしたことがきっかけになり、彼とペッティングすることになったのです。
 
 そのことは後日、親に発覚し、彼との交際は禁止されました。もっとも親としてもいたずら程度にしか考えていないようでしたが。
 このようにして私の少年愛は形成されていきました。私は少年しか愛せないのです。大人の男は女性と同様、全く愛することはできません。
 
 もちろん少年に手を出してしまうようなことがあれば、私の人生は破滅してしまうこともわかっていますし、中2以来、直接、少年の肉体を求めたことはありません。
 けれどもそれならそれで、私はどうすればいいのでしょう。趣味や好奇心で少年愛者になったわけではないし、私という人間が存在し続ける限りは、少年愛をやめることはできません。今後、60年は生きると考えて、自分の恋愛は、自分の人生は、とても今は考えられません。
 
 もし私が無害な存在であろうとするなら、一生、小学生を遠くから眺め、溜息をつくばかりでいなければならないのでしょうか。私は、どうにかなってしまいそうです。」
 
 28年も前の『薔薇族』に投稿されたものだから、今、元気なら51歳、ぼくの息子と同じ年だ。この大学生、大学を卒業し、どんな人生を送っているだろうか。
 
 趣味や、好奇心から少年が好きになったわけではない、死ぬまで少年が好きだということは変えられないということを誰もが理解してもらいたいのだ。
 少年の写真を持っていることが罪になるなんて、少年愛の人たち、みんなどうやって生きているのだろうか。

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2016年4月 2日 (土)

「WiLL」の花田紀凱編集長どこへ行く!

 なんとも不思議な因縁と言わざるをえない。ぼくが1971年9月に創刊号を出してから33年、11月号(№382)で廃刊に追いこまれてしまった。
 その年に創刊された『月刊WiLL』は長いお付き合いの花田紀凱さんが編集長だ。
 
 花田さんは文藝春秋社の社員で、ぼくが知りあったときは週刊文春の記者の時代、たしか田中角栄総理が、ロッキード事件で大騒ぎになっていた時代だから、ずいぶん古い話だ。
 
 ぼくが日本で初の同性愛誌『薔薇族』を創刊して話題になっていた頃のことだ。花田さんから「薔薇族編集長奮戦記」を書けと依頼され、どんなことを書いたのか記憶があまりないが、その原稿はボツになってしまった。
 
 花田さんとはそれからのお付き合いだ。それから週刊文春の編集長に出世し、大活躍し、部数5割アップを達成した。
 94年にマルコポーロの編集長に就任。翌年ホロコーストを否定する記事を掲載し、雑誌は廃刊に。その翌年に退社し、かつての天敵朝日新聞社や角川書店を経て、04年から「WiLL」の編集長に。
 
 雑誌不況の時代にスリ部数は10万部前後を維持してきた。それは韓国の大統領を批判したり、中国を批判したりする記事が読者に受けたのだろう。それが韓国の大統領がおとなしくなってきたので、批判できなくなってしまい、中国も同様で批判する材料がないので、売れ行きも落ちてきたのだろう。
 
 花田さんはぼくが開く、出版を祝う会にはいつも出席して、スピーチをしてくれた。80歳の誕生日を祝う会にも出席してくれた。
 なによりもWiLLの創刊号に、「ザ・タイムスなど外誌も報じた・同性愛者のバイブル『薔薇族』と僕の青春」と題して記事を書かせてくれた。
 
 9月22日の朝日新聞夕刊に「雑誌『薔薇族』が廃刊」という小さな記事が載った。さあ、それからが大変。共同通信社、時事通信社、読売、毎日、東京新聞、フランスの新聞社と夜まで取材の電話が鳴りっぱなし。その夜のラジオの生番組にも電話で出演したりもした。
 その後の一週間は、週刊誌、イギリスのザ・タイムズやスイスの新聞まで取材にこられ、取材ぜめでしゃべりどうし。
 WiLLに書いた記事のお陰で、あの日のことを思い出すことができた。
 『薔薇族』のあとから出てきたいくつかの雑誌も廃刊になったが、記事にはならない。
 
 「悩み苦しんでいた当時、何度、カミソリを手に当てたことでしょう。伊藤さんに救われた幼い子供は、今、ある会社の社長として、しっかり生きています。本当にありがとうございました。」
 
 多くの読者からの廃刊を惜しむ、メールや手紙、忘れることはできない。こんなに廃刊が話題になったことは、かつてなかったのでは。
 
 そのときですっきりとやめるべきだった。そのあとずるずると『薔薇族』の名で、雑誌が出ていることを後悔している。
 
 心臓病で亡くなった妹の闘病記録を本にした昭和40年に、日活で映画にまでなった『ぼくどうして涙がでるの』をスペースシャワーネットワークが、2013年12月、復刻してくれた。そのときもWiLLが記事を書かせてくれた。そのぼくが書いた記事を編集部員が涙を流して読んでくれたと、花田さんから聞いてうれしかった。
 
 それからもう一度、WiLLに記事を書かせてもらったが、何を書いたのか思い出せない。週刊新潮3月31日号の、花田さんが編集長の職を解任されたという記事。花田さん、どうなるのか心配だ。
 
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『薔薇族』廃刊の年に創刊した『WiLL』
 
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ぼくの出版を祝う会でスピーチしてくれた花田さん

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