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2016年5月

2016年5月28日 (土)

レトニアの花が送られてくるなんて!

 「花泥棒は罪にならない」という記事をブログに書いたら、「とんでもない罪になる」と、コメントを書いてくれた人がいる。
 批判でもなんでもコメントを寄せてくれる人がいると嬉しい。ぼくのブログを読んでくれているから、コメントを書いてくれたのだからありがたいことだ。
 
 とにかく年をとって歩かなくなったらおしまいなので、我が家から下北沢駅前のスーパーオオゼキに、ガラガラを引っ張って買い物に行っている。
 息子の嫁が休みの日は、嫁が夕食を用意してくれるので、買い物には行けないが、カフエつゆ艸か、カフエ織部に立ち寄っている。
 
 織部は路地の奥にあるので、好奇心の強い人でないと入ってこない。店長がひまなので、ぼくのブログを見せてくれる。調べてみたいことがあると、見せてくれていた。
 ところが開店して2年、最近はゆったりとりたお店が口コミで人気で、お客さんが増えてきて、土曜日の夕方5時からの「文ちゃんと語る会」は午前11時から13時までに変えざるをえなくなってしまった。
 
 花泥棒といっても、花瓶に活けるほどの花を無断でいただいて来るなんてことをしているわけはない。それは常識というものだ。
 道端に咲いているどくだみの白い花だって、一輪挿しに活けたら、結構楽しめる。たんぽぽだっていい。ぼくの場合は、沢山咲いている中から、一輪だけいただいてきているということだ。
 
 マンションの大家さんは、かつては花屋さんをやっていたことがあり、人を何人も使って、四季の花を植えているので、目の保養になっている。
 高い家賃を毎月払っているのだから、一輪ぐらいいただいてもいいのかなと思ったりして。
 
 下北沢に通う通り道の家で、路地にシクラメンとか、いろんな花を並べている。ところが植木鉢ごと持ち去る人がいたようだ。
 その家のご主人は、ユーモアのある人で、こんな張り紙をしていた。「五右衛門も植木にまでは手を出さず」とある。
 
 五右衛門ってどんな盗人なのか、織部の店長に調べてもらおうと思っていたが、お店が忙しくて調べてもらえずにいる。
 江戸時代の大泥棒であることは間違いない。石川五右衛門は捕らえられて、最後は釜ゆでの刑に処せられたようだ。
 熱湯の中に飛び込む芸人がいるが、すぐにとびだすからいいものの、この五右衛門さんは命をなくしてしまった。しかし、五右衛門風呂に名を残している。
 
 近所の眼科医の診断で、ぼくの左目が白内障の疑いがあるというので、東京医大(新宿にあり、ぼくのひざに人口膝を入れてくれた病院だ)の眼科に紹介状を書いてもらって診察を受けた。
 予約してあるというのに、患者が多く2時間以上も待たされてしまった。
 医師の診察で、手術する必要なしということだ。午後の2時過ぎになっていて、おなかがすいたので、小田急デパート12階のレストラン街の「福助」という寿司屋に入った。
 テーブル席は満席なのでカウンター席でランチの一番安いお寿司を注文した。となりに座っていた男性がぼくのベレー帽に興味をもったのか、話しかけてきた。
 
 鹿児島で、らんや、レトニアの栽培をしている社長さんだ。すぐに話がはずんで、鹿児島に帰ったら、レトニアの鉢を送ってくれるという。ぼくは花には縁があるというものだ。 

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2016年5月26日 (木)

6月の「文ちゃんと語る会」について

6月の「文ちゃんと語る会」は、6月18日(土)開催です。
 
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
日時・6月18日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年5月23日 (月)

みんな忘れてしまっているけれど!

 エイズがアメリカから日本に入ってくるというので、日本中がおののいていたころの話だ。
 23歳の大学生からの手紙を『薔薇族』に載せた時の反響は大きかった。しばらくぶりに新潟の弥彦村の別荘に行き、積み重ねたダンボールの中から、その手紙を見つけ出した。
 
「僕は大学4年生で、今年、社会人になる予定です。しかし、今日、エイズのキャリアと分かりました。というのは社会人になる前にすべての検査を受けておこうと思って、性病の検査と一緒にエイズ検査をしたら、陽性とわかりました。
 
 今まで若さと、ちょっと顔の良さで、遊び歩いていた罰が出てしまった。最初にどうしてこの僕が、こんなだいそれたものに感染したかを話します。
 
 僕がこの世界を覚えたのは、高校の2年生からだ。少し顔がジャニーズ顔に似ているということで、2丁目でよくモテたので、少しかっこいいやつとなら誰とでも寝る男でした。
 今までにもう200人ぐらいの男と寝ていると思う。週末にはよく2丁目にも出ていたし、ホテルやその手のサウナにもよく行った。
 
 ここ数年は伝言ダイヤルを聞いたり、いれたりもしていた。どんなセックスをするかというと、バックを中心に握ったり、掘られたり、しゃぶったりするセックスでした。しかし、外人とはセックスしていません。すべて日本人だけだ。
 僕はこの東京にいるほんの身近の人から移されたということだ。この病気は目の前のことであるということだ。ぜひ検査を受けてください。いまとなりで呑んでいるカッコいいやつは、実はエイズのキャリアかもしれないと。
 
 僕はまだ23歳だ。まだまだやりたいことがいっぱいある。セックスもしたい。でもエイズだからセックスするなんて、もうできない。若いから性的処理はどうすればいいの?
 今はショックで少し頭が混乱している。これからの僕みたいなエイズキャリアの男は、どんな生活を送ったらいいのだろうか?
 
 医者からは「規則正しい生活と、十分な睡眠と、野菜を多く食べなさい」と言われました。僕の知りたいのは、そんなことではなく、一度、男の世界を知ってしまった男が、しかもあれだけ遊んでいた男が、すべて性欲を失くすなんてことができるのだろうか。
 僕はこのままだったら、また数日したら、サウナかなんかに行ってしまいそうな気持ちだ。だってなんかやりきれない気持ちというのか、モヤモヤした気持ちというのか、今、とても変な気持ちだ。
 かといって誰かれとなく伝染させてしまおうなんて思ってはいません。だってそんなことをしたら、立派な犯罪だ。
 
 とにかく変なことをずらずらと書いてしまったけど、僕の知りたいことは、とりあえず僕は、これからどのように生きていけばいいのかということを知りたい。
 僕は一生懸命に、このエイズとともに、逃げないでがんばっていくつもりだ。僕みたいな奴がきっとこの世界にいるはずだ。一緒に頑張って生きていこうと伝えたい気分だ。」
 
 郵便局の消印を見ると、1992年とあるから、今から24年前の話だ。この手紙を誌上で紹介したら、その反響は大きかった。
 今はマスコミもエイズのことは、まったくとりあげないが、いったん流行してしまった性病はなくなるということはない。
 医学も進んでいるから、感染したとしても病気が悪化しないようにする薬はあるようだ。しかし、一生飲み続けなければならない。
 エイズという病気は、静かに静かに、日本中に広まっているに違いない。感染しないように注意することが必要だ。

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2016年5月21日 (土)

同性愛者は、まじでキモい!

 ぼくは現在、東京新聞と毎日新聞を購読している。本当は東京新聞だけにしたいが、毎日新聞が一番経営状態が悪いと思われる。
 販売店の拡張員のおじさんに同情してとりつづけている。「酒に唄えば」という連載を書いていた毎日新聞の鈴木琢磨さんが、ぼくの著書『裸の女房』をとりあげてくれた。
 取材のあとで新宿2丁目のゲイバアに連れて行ってくれた。なんという名のゲイバアだったか忘れてしまったが、マスターが『薔薇族』の愛読者だったので、よろこんでくれた。鈴木さんは朝日新聞の社会部の小泉信一さんと、飲み友達だ。
 鈴木琢磨さんの記事を読むために、毎日新聞を購読しているといっても過言ではない。すばらしい記事を書く人だ。
 
 ぼくが通いつめている、カフエ織部には朝日新聞と日本経済新聞が置いてあるお客さんで新聞を読む人は少ない。
 若者同士で来ても、おしゃべりしないで、お互いにネットを見ている時代だから……。
 
 2016年5月13日の朝日新聞に、気になる記事が載っていた。
 「LGBTの子 学校がつらい 暴言「まじでキモい」「風紀乱すな」…教師も」という見出しで。
 
 先日のゲイパレードには、数千人の人が参加し、アメリカの大使も参加したという。
 かつての5月1日のメーデーは、労働者の祭典で、数万人が集まり、新聞の一面で報じられたものだが、今は小さな記事しか載っていない。
 アメリカのゲイパレードのように、何十万人もの人が参加するようになるには、あと何年かかるだろうか。そうなればこんな情けない記事はなくなるだろう。
 
 「「同性愛はキモい」「近づかない方がいい」――。性的少数者に関する発言が、学校現場で少なからず出ていることが、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチの調査で浮き彫りになった。教師が発言したり、生徒らの発言を黙認したりする例もあった。専門家は「まずは教師が研修で理解を深める必要がある」と指摘する。」
 
 教師が研修でというが、LGBTに精通した教師になるような人が果たしているだろうか。
 一昨年、東大教養学部の生徒たちの前で、話をしたことがあった。その生徒たちの感想文を読ませてもらった。
 
 「これまで講演されてきた方は若い活動家が多かったと思うのですが、伊藤さんは戦後の偏見の強い時代において、35年も続けてこられたという点で、お話にも最も説得力がありました。
 活動家にしても当事者(ゲイ)の方が圧倒的多数であるので、かなり自身の経験に即した主張をなされていたのですが、伊藤さんは真に客観的にゲイの世界を観察され、理解されていたことに敬服しました。」
 
 男性からの感想文だが、ぼくの場合、雑誌を出しているという強みがあった。今の活動家は、ネットという武器から情報を得ているのだろう。
 オナニーをしているところを電話で聞かせることによって、興奮していた読者。今のネット時代にはありえないことだ。
 もう、この時代の経験は、ぼくだけで今の活動家には理解できないだろう。
 
 「同性愛者は、マジでキモい」そう思うのは生理的なもので、この人たちにゲイを理解させることは、短い時間では難しい。
 週刊朝日に、ぼくを取材した記事が2ページのるそうだ。少しずつゲイを理解してもらう努力を続けなければ。

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2016年5月16日 (月)

再婚した夫と20年以上、夫婦関係が!

 今から39年前の薔薇族「伊藤文学のひとりごと」に、ぼくは「一流新聞の名解答?」と題して書いている。
 この話は、すでにブログに書いていると思うので、要旨だけを書く。当時の同性愛に対する世間の理解度は、一流の精神科医でも、この程度のひどいものだった。
 読売新聞「人生案内」の主婦からの投稿だ。
 
 「48歳の会社員の夫を持つ主婦です。夫は大変、仕事に真面目ですが、家庭では無口でがんこな面があり、しかし子供だけはよくかわいがっています。
 ところが、そんな夫が数年前より同性愛の趣味(当時は誰もが趣味だと思っていた)を持っていることを一年ほど前に知りました。(後略)」
 
 その質問に対する精神科医の平井富雄先生の答え。
 
 「このごろ、同性愛の男性、女性が増えいています。また、そういうグループの秘密会(?)あるいは組織があって、それぞれ熱烈な情報交換を行っているのも現実です。(中略)
 もし、それ(同性愛)がわかったら、このさい良妻賢母型のなりふりふるまいをやめることです。
 その方法ですが、できるだけ男っぽい髪型や服装をすること、そして平気で男っぽい科白で家庭内の会話をリードすること。男女の性愛には、男の側に女性的、女の側に男性的要素がかくれていることも付け加えておきましょう。しかし、変化は徐々になさることです。ご主人の「彼」より数段まさった男性的な女性に化身したら、とおすすめしたら酷でしょうか。」
 
 平井先生を批判するのは酷というものだ。みんなこんな考えを持っていた時代だから。
 時が流れて2016年5月2日の毎日新聞朝刊「人生相談」の「再婚した夫と20年以上夫婦関係がない」という相談だ。
 回答者は高橋源一郎という作家の方だ。その回答は見事だった。同性愛に対する理解度は良くなってきていることを知ってうれしかった。
 
 「再婚した夫のことで相談です。主人は真面目で優しく温厚な人柄。感謝して生きてきました。ただひとつの不満は20年以上も夫婦関係がないこと。主人にはある性癖があります。
 意志が強く世間に対しては何の心配もありませんが私には迷惑です。私は病弱ですが、女性の部分が強く、それが不幸でなりません。このまま人生が終わってしまうと思うと、女として寂しいのです。(59歳・女性)」
 
 高橋さんは、この女性の悩みをよく理解して答えている。
 
 「この相談は、こんな公開の場所ではなく、もっと内密なところでお答えすべきものだと思います。(中略)
 あなたにとれる手段は2つしかないように思います。
 ひとつ目は、離婚して、新しい人生を歩むことです。(中略)
 ふたつ目はすべて諦めて、この日々を受け入れることです。今のご主人は、あなたの「愛や欲望」を満たすことは出来なくても「真面目でやさしく温厚」なのですから。あなたの内側で燃え盛る炎も、年とともに薄れてゆくでしょう。
 みっつ目は、家にあっては良き妻でありながら、もう一つ別の顔を持つことです。そのもう一つの顔のあなたは、誰にも知られぬように、あなただけの秘密を抱えて、自分の欲望に忠実に生きればいいのだと思います。」
 
 ぼくは二つ目を選ぶべきだと思う。もう二、三年がまんすべきだ。ほんとうの意味での趣味をもって発散させ欲望を抑えて生きてゆくことだ。

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2016年5月14日 (土)

死ぬときは手を握っていてほしい!

 「初めてT公園へ出かけた私は、入り口のベンチに座っていたTさんに会った。公園に人は多かったが、Tさんのベンチには他に誰もいなかった。
 Tさんは私のために席を広げてくれた。一目見て好感をもった私だったが、Tさんを愛の対象にできるとは思いもしなかった。
 夕焼けの空を見ながら、しばらく話し合ったあとで、私はそっとTさんの手に触れた。Tさんは私の手を外そうとはしなかった。私は思いきってTさんをホテルに誘った。
 
 Tさんは喘息で入院中とのことだった。退屈をまぎらわすために公園にきていて、物陰での遊びを知ったということだった。奥さんを亡くしたあとの老年の楽しみになっていたのかもしれない。
 ホテルでの一時間は私にとって最高の喜びだった。
 約束の日、Tさんは改札口で待っていてくれた。私の顔を見つけると、Tさんは顔中に笑みを浮かべた。私も同じだった。
 それから二人は週に二回、会うことになった。Tさんは60歳、私は35歳だった。Tさんの人柄の良さは、会うたびにあたしの心に確実に伝わった。
 
 昭和39年、67歳の年の暮れに、Tさんは気管の病気で体が弱り切っていた(中略)。
 気がかりになって私はTさんを訪れた。Tさんの部屋には酸素ボンベが置かれ、医師が診察していた。親族の人たちが集まっていた。
 私が声をかけると、Tさんはうなずいていくれた。よろこんで小さな声で応えてくれた。
 
 「死ぬときには手を握っていてほしい」と、Tさんは私によく言っていた。しかし親族の人たちがいては、長居はできなかった。「元気を出してください」と、耳元に叫んで、私はTさんから離れた。
 次の日も訪れた。もうTさんに意識はなかった。食物も薬も受け入れないということだった。
 私はアンプル入りの栄養剤を買ってきていた。Tさんの枕元にそれを置いた。Tさんが亡くなった後でTさんの次男から「親父は死ぬ前に何も口に入れなかったのに、あなたからもらったアンプルだけを飲んだ。不思議だった」と、聞かされた。この世でTさんが口にした、最後の滋養を私は贈ることができたのだ。
 
 Tさんの家に向かうとき、50米ほど手間で私はTさんの家の前の異常に気づいた。花輪が並んでいるのを見た時、足がすくんだ。開けっ放しになった奥の部屋の柩が目に入った。私は棺の前に座った。
 「夕べ親父は死にました。見てやってください」
 長男の声を聞きながら、私はTさんの顔に見入った。いつしかTさんの死に顔をなぜていた。涙があふれた。こらえきれず、喉が鳴った。
 
 火葬場へ向かう車の一台に同乗した私は、Tさんに従う従者のような心だった。
 Tさんの白骨を目の前にしたとき、私の心は冷え冷えとしていた。悲しみの極みにありながら、生けるがごときTさんが心のなかに、はっきりとあり続けた。
 その夜、私は床の中で嗚咽をこらえていた。数ヶ月、私の心は悲しみに沈んでいた。
 
 Tさんの墓は、生まれ故郷のある町の外れにある。3年間ほど命日のたびに、その墓を訪れた。Tさんは私の心の奥底に今も生き続けている。(京都府・I・A)」
 
 40年も前の時代では、ゲイの人たちは結婚しないわけにはいかなかった。息子さんたちも父親がゲイだということは知らない。
 Tさんはいい人と出会えて幸せだったのでは。ぼくがこの世を去るとき、ぼくの手を握りしめてくれる人っているのだろうか。」

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2016年5月 9日 (月)

やったぜ! 花田紀凱さん!

 ぼくと古いお付き合いの『WiLL』編集長・花田紀凱さん。発行元のワック出版局社長さんと、いざこざがあったのか、やめられてしまった。
 どうなることかと心配して、ブログにも書いたが、4月26日、誌名だけは変わってしまったが、6月創刊号が、手紙付きで送られてきた。
 
 「このたびの件では、いろいろご心配かけて申し訳ありませんでした。この1年、いろんなことがありました。消耗しました。
 特に今年に入ってからは本を読んでも頭に入らず、映画も楽しく見られませんでした。
 眠れない夜も(こんなことは長い人生で初めてでした)。いつもWiLLのことが頭にちらついていました。
 
 しかし、もう吹っ切れました。編集部4人、DTP担当者とともに新しい職場、飛鳥新社に移って、新しい気持ちで雑誌づくりに励んでいます。
 プランも続出、部員たちもパワーアップして、やる気になっています。
 
 これが初めての号です。全員で一生懸命作りました。タイトルはちょっと図々しくて照れますが、なかなかいい出来です(自画自賛体質は変わりませんね)。
 これからもおもしろくて、ためになる雑誌を作っていきます。今後とも、ご愛読、ご批判のほどよろしくお願いいたします。」
 
 他人さまに使われて働いたことが、一度もないぼくには組織の中で働くいざこざはまったく分からないが、眠れない夜があったというから、飛び出してよかったのだろう。
 それにしても受け入れた飛鳥新社の社長さんも太っ腹の人では。
 
 姓名の『Hanada』を誌名にしたのは前代未聞だが、「民主党」を「民進党」に変えたのよりはずっといい誌名だ。タイトルの文字が変わっただけで、表紙は『WiLL』のときとまったく同じ。かわいいお猫さんのイラストもちゃんと入っている。
 書店で『WiLL』の読者が見たとき、すぐに気づくのでは。
 
 毎日新聞4月26日の朝刊に、『Hanada』の全5段の広告が。飛鳥新社のこの雑誌に意気込みが感じられる。
 編集部員が全員、飛鳥新社に移ってしまったのだから、『WiLL』は廃刊になったのではと思ったら、驚いたことに毎日新聞に、同じ全5段で広告を出しているではないか。
 「おかげさまで創刊12年 ますます充実! 本日発売!」
 
 『薔薇族』が廃刊になった年に、『WiLL』は創刊、よくぞ12年続いたものだ。
 どっちの雑誌も売れてくれることをぼくは願っているが、花田さん、73歳、ぼくが『薔薇族』を廃刊になって編集長をやめたときの年齢が73歳、そして現在が84歳、まだまだ元気だから、花田さんもあと10年は編集長として頑張ってもらいたい。
 
 花田さん、タイミングよく、4月24日の昼、「たけしのテレビタックル」に出演していた。
 『Hanada』編集長と、何度も画面に出してくれていたから、これは効果があったと思う。
 花田さんの頭の毛も薄くなってきている。雑誌は毎号締切の日には、徹夜になってしまうことが多い。
 花田さん、からだに気をつけて、あまり無理せず、雑誌を出し続けてほしいものだ。
 
 編集陣がまったく変わった『WiLL』も広告を見る限りでは、読んでみたい記事がある。「豊かな国のこころ貧しき人々・日本人よ、「おしん」を忘れて何処へ行く?」
 曽野綾子さんと渡部昇一さんの対談だ。

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2016年5月 7日 (土)

警察官に呼び止められた!

 自衛隊の話の次は、警察官の話。以前、元署長さんの話を書いて、反響が大きかったが、『薔薇族』の読者は、いろんな分野の人がいた。
 東京都のMさんからの投稿だ。
 
 「ある6月の雨上がりの夜、知人の家から帰る途中の人通りの途絶えた郊外の道で、気持よく放尿をしていた私に「きみ、きみ、困りますな」と声をかけた者がいた。
 ふりむくと恰幅のいいからだを制服に包み制帽を目深にかぶり、ゴムの雨合羽と深いゴム長靴に身を固めた、50歳ぐらいの警察官だった。
 彼は私の横で放尿をするところを見ていたが、「ふむ、なかなか見事なものをお持ちですな」と言いながら、手を伸ばし私の亀頭をつまんだ。
 
 「きも、ちょっと取り調べたいことがあるから本官と駐在所まで来なさい」と、彼は言ってピタリと私に寄り添って歩き出したが、雨合羽の間から大きく膨れ上がった、制服のズボンが見えた。
 駐在所の明るいところで見るその警官は、濃い眉毛と太い鼻柱を持つ、堂々たる恰幅の男で、血色の良い丸顔には温厚なうちにも侵しがたい威厳があった。
 机の端に腰を乗せ、私の住所や行先などを簡単に聴き終えた彼は私をうながして、奥の控室の土間に入った。
 
 彼はドアを締めた後、ゴムの雨合羽をかきわけ、膨らんでいる制服のズボンの前を私に示した。
 私が彼のズボンの前ボタンを外し、ズボン下の割目から手を差し入れて、湿っているふんどしの下に手をやると、弾力のある暖かい一物が陰毛の中で息づいているのが感じられた。
 彼はふんどしの脇から半ば勃起している陰茎を自ら引き出し、「しごけ」と言った。それはわずかに皮をかぶり、先端はすでに粘液でぬめっている見事に成熟した茶褐色の亀頭を持つ一物であった。
 
 私が我を忘れて見とれていると、それはむくむくと大きくなり始めた。たまらず私はそれを手に取りしごきあげると、一物は包皮を残すことなくむくれ返って、巨大で雄々しい全容を現し、私の掌から溢れんばかりになって反り返り、脈打ち、見事な形のはじけそうな亀頭の先端は、透明な重い粘液を湧出して、赤紫色に照り輝いた。
 雄器に顔を寄せると、チーズに似たなつかしいような恥垢の匂い、尿の淡い匂い、汗の匂い、ゴムの雨合羽の匂いとかが混然となって私を興奮させた。
 
 その巨根をくわえて、亀頭の裏や、尿道口をなめ、こすっていると微かに塩気のある粘液が口の中に充満し、一物はさらに力強く脈打ち、反り返ろうとした。
 彼は足を踏みしめて、ぐっと反り身になり、時折微かに震えながら、押し寄せる快感をじっとこらえている様子であったが、やがて私の口から巨根を引き抜くと、私を控室の畳の上に押し倒し、私の上に反対向きに馬乗りになった。
 
 電灯の下で光うごめくゴムの雨合羽は粘液で濡れている亀頭のようであり、黒光りする長靴は彼の太く長い陰茎そのものと思われた。
 私の快感は彼の快感でもあった。やがて彼はまたがったままの巨体をずらして私の上におおいかぶさった。
 二人は一人になったかのように思えたが、制服を通じて私に伝わってくる彼の巨体の動き、体温、量感は私の快感をしびれるばかりに強めた。」
 
 まだまだ続いてクライマックスに。その晩は駐在所にとまり翌日帰った。彼との交際はずっと続いているそうだ。良い時代の話だ。

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2016年5月 2日 (月)

自衛隊のなかでの男同士の恋!

 強いものが、弱いものをいじめる。いつの世にもあり、なくならないものだ。
 太平洋戦争の末期に、ぼくは世田谷学園に入学したが、この時代、軍隊と同じで、上級生には絶対服従だった。
 授業が終わると、2年生の命令で意味もわからずお説教だ。ひどい仕打ちは向い合って並ばされ、対向ビンタをさせられる。力いっぱい相手を殴らないと、どやしつけられる。
 なんでそんなことをするのか。2年生に聞いてみないとわからない。
 
 この話は1980年1月号に載ったものだ。36年前の自衛隊の中での話。作り話ではなく、真実の話だと思う。
 
「私は32歳で解体を仕事としています。私が高校を出たばかりのとき、仕事がなかったので、自衛隊に入隊し、3年たったころでしょうか。年下のやつに好きな奴がいて、まだマスのことも知らないらしいという話をなんとか聞き出し、正月休暇のとき、隊内の整備工場に連れ込み、無理やり奪ったものですが、以来それがツーカーの仲になり、そばに相手がいると、べつに何の事はない、しかし1日の訓練の間、一度でも逢わないものなら、もう心配でたまらない。
 
 また誰かにいじめられてはいないだろうか。へまをやって叱られてはいないかとか、ひどくなると殴りでもした奴がいたら、ああもしてやろう、こうもしてやろうと、もう悪いことばかり浮かんできて、仕事も上の空です。
 演習でおいてけぼりを食ったときなど、連日、地獄もいいところで、クラブでやけ酒ばかりのんでいました。
 ぽつんと空いたベッドの上の毛布に頬ずりをして、相手を思うこともしばしば。もうひとりではどうにもならない状態でした。
 しかし、相手もいまだ幼いところもあったせいか、そのころはそれほどまでではなかったようです。
 
 除隊一ヶ月前、急に相手のやつが営内班の古参連中から暴行を受けました。急にというより、突然といったほうがいいのかも知れません。
 給食班で勤務していた私は、戦友の一報で中隊に駆けつけました。ベッドの脇に紫色に膨れ上がった顔をしたあいつがころがっていたとき、私の想いは現実となり、殴った相手につかみかかりました。
 
 私はケンカはダメな方で、あまり強い方ではありません。しかし、完全に逆上していた私は、相手の士長を見境なく蹴りまわし、そばにあったコーラ瓶で額を割ってしまいました。今思えばずいぶん無茶なことをやったと反省していますが、当時はそれくらいしか考える余裕がなかったのです。
 そのあとは当直がくる、救急隊はくる、中隊のほとんどが集まるで、もう大騒ぎでした。私は刑事処分こそありませんでしたが、即退職させられました。
 
 退職金ももらえず、見送りもありませんでした。何の未練もなかったけど、残してきたその年下の隊員のことが、長い間、頭のなかにあって、どうしようもありませんでした。
 半年たって彼も依願退職をして、私のところへ帰ってきてくれたのです。初めて大分市のホテルで一緒に寝ました。
 私がやめたあと、中隊長がやはり私と同じように心配してくれて、臨時勤務につけてもらったということでした。
 
 それからの私達の逢瀬は今も同じですが、近くどうしても女性と結婚をしないといけないとこぼすのです。
 私も彼が好きです。できることなら一生、とも悩みましたが、それは私自身のエゴだと思い、後ろ髪を引かれるつらさで、じゃあ結婚してからも友達としてつきあってくれるよう頼んだのです。」
 
 福岡県の男性からの投書。今の自衛隊にも、このような話はあるのだろうか?

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