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2016年6月

2016年6月27日 (月)

「花魁道中」その華やかさの影に!

 桜の季節になると、全国各地で観光のために「花魁道中」が華々しく催され、それは年中行事になっている。
 ぼくの女房の古里、弥彦村の近くに燕市があって、川に沿い桜並木が続き、桜の季節には、多くの花見客が訪れる。
 桜の季節の人集めの目玉は、「花魁道中」だ。花魁の役をやる若い女性は、応募者の中から選ばれる。
 大正時代と違って強制的に花魁にさせられるわけではないから、なんら批判する問題ではない。しかし、花魁とはいっても女郎には違いない。その根本を知っていてもいいのでは。
 
 中村民郎著『廃娼運動=廓の女性はどう解放されたか』
 ぼくの祖父の伊藤富士雄の救世軍での活躍がくわしく書かれている。
 
 「花魁に扮した若い女性が高さ約30センチ、重さ4.5帰路もある高下駄を外八文字にふみ、吉原神社まで往復1、2キロをたっぷり2時間かけて練り歩くのである。
 大正の花魁道中は、1914(大正3年)から始まった。この年に開催された大正博覧会を契機として、新吉原は20年ぶりに花魁道中を復活した。
 新吉原は花魁道中の復活に寄って、吉原大火以来の沈滞ムードを一挙に吹き飛ばそうとしたのである。新吉原は翌15年にも花魁道中をふたたび計画した。しかし、このとき角海老楼(一説には稲本楼)の白縫という娼妓が花魁道中にかりだされることを嫌って、救世軍の伊藤大尉(祖父のこと)のもとにかけこみ、花魁道中廃止の動機をつくった。
 
 白縫は花魁道中の太夫を強制されることは自分に対する肉体的・精神的虐待だから、自由廃業したいと伊藤大尉に訴えた。
 その頃、太夫役をつとめる娼妓の肉体的苦痛は大変なものだった。太夫は髪に重いかんざしを何十本も挿し、どてらのような厚ぼったい打ち掛けや、そのほかたくさんの衣装を着用し、そのうえ7.5キロもある重い下駄をはいて、外八文字に歩かねばならなかったのである。
 
 救世軍は廓の女性のデモンストレーションである花魁道中には絶対に反対する立場を表明していた。したがって、大正博覧会当時の花魁道中に対しても、救世軍は率先して即時中止を警視庁に陳情していたのである。救世軍は白縫の訴えを聞いて、勇み立った。
 白縫自身の自由廃業の交渉には、百戦錬磨の勇士、伊藤大尉が側面から援助した。広島高等女学校出身(当時の女郎で、高等女学校出身者は僅かだった。ほとんどが小学校も卒業していないような女郎が多かったので、自分の借金の額もわからない女性が多く、廓の経営者の言うままに働かされていた。)の白縫は立て板に水を流すように言いまくって、楼主をやりこめた。
 
 しぶしぶ楼主は損料貸で彼女の廃業を認めたのである。損料貸とは、娼妓の身柄を馴染みの客にあずけて、前借金を月極で返却させるという月賦身請のことをいう。
 白縫事件が世間に騒がれる過程で、花魁道中の非が各方面で大きな話題となり、白縫自身も一躍吉原の「新しい女」として脚光を浴びた。
 伊沢警視総監は、今回の救世軍の陳情を認めて花魁道中の禁止を発表した。」
 
 今時の花魁道中に応募する女性は体力に自信があり、アルバイトでやるのだから、文句のつけようがないが、少しでも女郎のことを知ってもらいたいものだ。

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2016年6月25日 (土)

『薔薇族』を万引きまでして読んでくれた!

 朝日新聞の夕刊、社会面のトップに、こんな興味のある記事が載っていた。
 「いまは人生を語らず=新宿・夜の顔・昨今事情=ゴールデン街=若者いらっしゃい」という見出しでだ。
 
 「文化人たちが愛し、1960・70年台に一世を風靡した東京のバラック酒場、新宿ゴールデン街で、歴史を捨てて若い客層向けに、イメージチェンジする店が増えている。
 
 バブル期の地上げによる後遺症と長引く不況で客足は減る一方。待っているだけではだめと、スタンプラリーが催されるまでになり、20代の客で賑わい始めた。
 街の最盛期を知る店主や、常連客からはもう人生を語る場所ではなくなったのかという嘆きが聞こえてくる。」
 
 1960年、70年代は新宿が熱く燃えていた時代だ。いろんなジャンルの若い芸術家が新宿に集まり、それぞれ活躍していた。
 あの頃の熱気はどこに消えてしまったのか。だれも人生論を闘わす人などいない。希望もなければ、なんにも悩まない。今日がなんとなく楽しく過ぎていけばいい。そういう人間ばかりになってしまった。
 
 『薔薇族』への若者からの投稿の一篇、一篇は長かった。それだけ文章力があった。大学入試の受験戦争が大変な頃だったから、どの投稿にも受験勉強で大変だと書いている。
 1980年4月号の「少年の部屋」に石川県の高校2年生T・M君がこんなことを書いている。
 
 「僕は高校2年生。『薔薇族』と初めて出会ったのは、去年のことでした。金沢のある本屋でみつけたのです。
 『薔薇族』のことは、だいぶ前に『週刊平凡』で知りました。
 
 僕がホモに目覚めたのは中学生のとき。それ以来、自分をおさえきれなくなってきたときに出会ったのが『薔薇族』でした。
 学生服だった僕は、レジで買ってしまうと、どこの学校か覚えられてしまうと、そっと自分のカバンの中に入れたのです。
 万引きは初めてだし、もう気が狂いそうでした。家に持ち帰っても、いつ家族に見られないとも限りません。
 
 読んだのはみんなが寝てしまってからの午前3時。初めて見るホモの雑誌。1ページめくったら、予想もつかず男のヌードがあり、もう心臓がハレツしそうになったほどでした。
 一字一句が、しっかりと頭のなかで動いています。全部読み切れず母が起こしに来る時間が迫ってきました。
 今まで考えてもいなかった大事なことがあったのです。それは、この雑誌をどこへ隠せばいいか、母はもうすぐ起こしに来るころだし、あせるだけでした。一応その日はプラモデルの箱のなかにしまいました。
 
 一日を終え、自由な夜がやってきました。昨日の続きを読むことを考え、一日がとても長いのです。箱のなかの本をそっと出して、昨日の続きを読み始めました。活字に目の釘を刺すように、しっかりと読みました。知らなかったことがたくさんありすぎて、頭のなかがいっぱいになってきます。しかし、全部を読み終えた時、ホモとはすばらしい愛だということがわかったのです。(後略)」
 
 万引きまでして『薔薇族』を読んでくれた。そんな雑誌ってなかったのでは。
 「『薔薇族』は僕にとってホモの教科書」と書いてくれたT・M君。きっとその後、いい人生をおくってくれたに違いない。
 

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2016年6月23日 (木)

「文ちゃんと語る会」7月30日(土)開催です

日時・7月30日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年6月20日 (月)

泣きながら、亭主がホモだと!

 『薔薇族』を創刊して5年めのことだから、1970年代のことだ。
 
 「泣きながら、自分の亭主がホモだということを訴えてきた奥さんがいた。それにしてもご亭主たちはうまくやっているのか、奥さんの側から直接訴えを聞くということは、今まで一度もなかった。
 
 ある奥さんから電話がかかってきた。ご主人が大事に押入の奥深くに、ダンボールの箱のなかに入れてある『薔薇族』や、写真集などを偶然にも見つけ出してしまったという。
 小さな子供が二人いる、30歳ぐらいの奥さんだった。ご亭主は教職にあるということだ。その奥さんと電話で長いこと話し合った。子どもが遊んでいる声が受話器の向こうから聞こえている。
 
 ぼくは絶対に別れるなんていってはいけないということ、子供にとって両親が仲良くしていることが、一番幸せなんだということを力説した。そして、ご亭主はあなたをだまして結婚したのではないということも。
 
 日本テレビの「お昼のワイドショウ」で、「夫の秘密を見た! もう愛せない私、30歳」という、電話の奥さんによく似たケースの話がもちこまれて、ぼくも出演して話をすることになった。
 青島幸男、中山千夏、古今亭志ん馬、八代英太の司会で、討論は作家の寺内大吉氏と、下重暁子さん、それに弁護士の丸山雅也氏、映画評論家の小森和子さん、増田豊さんも加わった。(そうそうたる人たちだが、すでにこの世にいない人が多い)
 
 「夫は本当に女性が好きじゃないのに、私と結婚したのは、自分をカクレミノに使ったんじゃないか」というのが奥さんの言い分だった。ご主人を問い詰めれば離婚に追い込まれるだろうし、秘密を知ってしまって、それを自分の胸の中にしまっておくということは苦しいことだろう。
 大方の意見は、別れたほうがいいということだった。
 
 ぼくに電話をかけてきた奥さんもテレビを見たようだ。あくる日、奥さんから電話がかかってきた。ぜひぼくと会いたいという。
 ちょうど、横浜のポルノショップに『薔薇族』を届ける用があったので、そのお店の前に来てもらうことにした。
 本を車からおろしていると、奥さんがやってきた。お店の親父さんが、けげんそうな顔をしているので、にやっとしたら、さも分かったように、親父さんもにやっとした。
 
 30歳そこそこだというのに、ちょっとふけた感じの女性だった。それになによりも気になったのは、顔にケンがあることだ。欲求不満が顔にあらわれている。
 にこっと笑ったときに、とってもかわいい顔をする。海が見える丘の上の公園で話を聞いた。まるっきりのお嬢さん育ちで、ご主人が初めてだという奥さんにとって、性生活ってそんなものだと思っていたそうだ。
 ホルモンのバランスが崩れて入院したこともあったそうだが、自然の摂理の不思議さを感じずにはいられなかった。
 
 トイレの中に『薔薇族』をもちこんで読んでいるというご亭主。電気をつけずに、真っ暗ななかでしか、セックスをしないという。
 10年間の結婚生活の中で、一度も満足したことがなかったという奥さんの言葉に、自然にきざまれたであろう眉間のしわの深さを感じずにはいられなかった。
 もう知ってしまったのだから、本当のことをご亭主がうちあけてほしい。だからといって嫌いになってしまうことはないと思うから。
 そういう奥さんは、ご亭主のことを理解してくれたようだ。」
 
 奥さんの方からの訴えは、ぼくにとってはつらいことだった。ご亭主の味方にならなければならない立場だから……。

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2016年6月18日 (土)

カマキリ(弱者)が全身で大きな権力に!

 渋谷の東急本店裏の方にある松濤美術館で、「絵はがき芸術の楽しみ展=忘れられていた小さ絵」を見に行ったのは、1993年のことだ。今から23年前、それも日本人のコレクターでなく、フランス人のフィリップ・バロスさんのコレクションで、日本初の展示だ。フランス大使館が後援している。
 
 初めて蔵書票を見たときも、その素晴らしさに感動したが、明治、大正時代の絵はがきを見たときは、こんな素晴らしいものを日本人が忘れてしまっていることに、ショックを受けた。
 1869年10月1日のオーストリア・ハンガリー帝国郵便による「通信葉書」の発行が、葉書の歴史の幕開けだった。
 まもなくこの新しい経済的な通信方法は、あらゆる国で採用されることになった。日本は、絵の入ってない葉書を、2年おくれで「郵便葉書」として発行した。
 
 日本に本当の意味で葉書の黄金期がくるには、ひとつの政令の公布と、ひとつの戦争の集結を待たねばならなかった。1900年の政令によって、逓信省はそれまでの官製葉書のほかに、民間で葉書を印刷し、商品化することを許可した。
 また1904〜1905の日露戦争は、日本が勝利することによって愛国的な絵柄の絵葉書が数多く出回ることを促すことになった。
 一般に認められているように、ヨーロッパの絵葉書の黄金時代は、1900〜1920年の時期にあった。ところが日本ではそれは1906年まで、本格的に始まらず、しかも1930年まで続いているのである。
 
 日本が日露戦争で勝利して、その翌年、海軍記念日に発行された、葉書を買おうとする人々の行列はすさまじいものがあった、その行列の光景が絵葉書になっているが、子供までがまじっている異様な光景だ。
 明治の末から昭和の初期にかけて、ヨーロッパ各地ばかりでなく、日本でも起こった絵葉書の大流行だ。
 ブームの加熱はす相当なもので、絵葉書の専門誌が発行され、専門店が生まれ、人々は新作を買い求めようと、早朝から列をなした。
 発売元はより新奇なもの、人気のあるものを求めて工夫をこらし、多彩な絵葉書がつくられた。
 
 現在より情報の伝達手段に乏しかったこの時代、安価で大量に出回る絵葉書には、たんに通信手段である以上の意味を担わされていた。
 観光地・旅行の記念品としてばかりでなく、プロマイド様のもの、名画の複製、風刺や、漫画といった見て愉しむもの、デザイン性、芸術性を追求したもの、広告宣伝用、事件、出来事の記録、はてはかなりグロテスクなものまで、ありとあらゆるものが登場する。
 こうした絵葉書の流行は、写真や印刷というメディアを通して、複製文化の浸透、情報社会の発展、美術の広範な大衆化を促していった時代と軌を一にした。
 
 松濤美術館で絵葉書の展示をぼくが見たのは23年前。まだ、ネットがそれほど普及していなかった。電話もかけずにメールを送る時代、かえって今の時代を生きている人たちが、この絵葉書を見たらどんな思いがするだろうか。
 ぼくの絵葉書のコレクションは、中途半端なものだが、忘れ去られてしまっている明治大正の小さな絵、カマキリが全身で、大きな権力に抵抗している。今の時代でも同じではないか。
 
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(絵はがき芸術の愉しみ展カタログから引用させてもらった)

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2016年6月13日 (月)

エミール・オルリクは、日本の蔵書票の恩人だ!

 チェコのプラハで活躍した、エミール・オルリク(1870−1932)は、画家であり版画家でもあった。
 1900年から1901年、船で日本の浮世絵を勉強するために来日。1912年に再度来日して、当時の日本の文芸雑誌「明星」「太陽」「白樺」に、自作の蔵書票を発表した。
 
 日本は中国からの影響で、大切にしている本の見返しに蔵書印をおして、自分の所有書物であることをわかるようにした。しかし、欧米には、印鑑を使う風習はないので、版画家に依頼して、自分好みの作品を作ってもらい書物に貼った。
 アメリカでは「ブックプレート」と呼び、ヨーロッパでは、「エキス・リブリス」と呼ぶ。ラテン語で「誰々の著書」または「誰々の所有」という意味である。
 ドイツが印刷技術が一番進んでいて、羊の皮に書いて本にしていたものが、紙に印刷して本にするようになってきた。500年以上前の話だ。
 貴族の家にも書物が増えてきたので、最初はその家の紋章を書物に貼っていたが、時代が下ってきて、版画家に依頼し、それぞれの好みの絵を印刷してもらい、本に貼るようになってきた。
 
 ヨーロッパでは銅版画が多く、その絵の中に「エクス・リブリス」という言葉と、依頼したの人の姓名、年号などを入れるようになってきた。
 日本では明治時代、欧米の文化を吸収することに躍起だったが、蔵書票は雑誌に挿絵として使われる程度だった。
 それがオルリクが来日し、オルリクの作品4点を「明星」に紹介されるや、日本の芸術家の関心を呼んだ。
 
 日本の若い芸術家たちが、オルリクの紹介した蔵書票に、版画芸術の新しいジャンルとして関心を寄せ、蔵書票を制作するようになった。
 大正時代が蔵書票の夜明けといっていいだろう。優れた才能の持ち主が、こぞって蔵書票を制作しだしたのだ。
 形も四角のものでなく、いろんな形で個性的な作品が作り出された。
 
 台湾に住む日本人が、大正時代の蔵書票をコレクションしていたのを、その方がなくなり、息子さんがコレクションを売りに出した。
 ぼくはラッキーな事に、そのコレクションを全部、手に入れた。作品は木版画が多いから、一つの作品は、50点ほどしか刷られていないだろう。今、大正時代の版画家たちの力作をコレクションしている人は、少ないのでは。
 
 コレクションがばらばらになってしまうのはつらい。財力のある方が、まとめて購入してもらいたいものだ。
 大正12年の関東大震災で、東京は焼け野原になってしまった。多くの美術品も消失したに違いない。古いものを保存しておくことって大変なことなのだ。
 
 銀座のヴァニラ画廊に、毎日、顔を出すことは健康上出来ない。7月17日(日)と18日(月)の2日間だけ、12時から2、3時間だけ、画廊にいたいと思っている。ぜひ、声をかけてもらいたいものだ。
 
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2016年6月11日 (土)

ぼくは90歳以上生きられる!

 下北沢駅前のスーパーオオゼキ、スーパーはピーコック、イオンと3軒あるが、オオゼキが一人勝ちだ。
 レジだって10人ぐらいで対応しているが、それでもオオゼキはお客が並んでしまう。
 ピーコック、イオンは、ガラガラでレジもふたりで間に合っている。
 
 女房が外に出たがらないので、買い物はぼくが引き受けている。自宅からオオゼキまで25分ぐらいはかかる。
 杖はつかないものの、早くは歩けない。みんなぼくを追い越してしまう。買い物に行けない日でも健康のためにと思って、駅の方まで歩くようにしている。
 
 オオゼキに買い物に行こうと、以前住んでいた茶沢通りに面した下北沢マンションのそばを歩いていたら、へんなおばさんがぼくのそばに寄ってきて、いきなり足蹴りをした。と言っても70歳ぐらいのおばさん、蹴られてもそう痛いわけではない。
 
 「どうしてそんなことするの?」と聞いたら、「健康のためよ」と言う。少し頭がおかしい人だと思い、そのまま通り過ぎたら、今度は若い男のそばに寄って足蹴りした。
 若者は顔色を変えて、おばさんの腕を掴んで、「なにするんだ。警察を呼ぶぞ!」と叫んだ。
 「このおばさん、頭がおかしい人だからかんべんしてあげて」と、ぼくは若者に声をかけたが、まだ腕をつかんだままだ。
 おばさんも謝ったので、事なきを得たが、今の若者のほうが恐い。どう考えたって、他人様のそばによって、足蹴りしたら、少しおかしい人だと気がつくだろう。それなのに、怒り出すとは情けない。
 毎日のように同じ道を歩いているが、この変なおばさんと出会ったのは初めてだ。このおばさんの健康法、若者にどなられたからってやめられるものだろうか。
 
 下北沢の駅前、井の頭線のガード下に、最近、占い師のおじさんが店(?)を開いている。オオゼキに行く道だから、いやでも目に入ってしまう。「500円」と張り紙をしている。
 ぼくは占いって信じないから、みてもらったことは一度もない。すでに84歳まで生きている。あと何年ぐらい、元気で生きられるのかは気になる。
 
 20数年も世田谷学園の同期会のおせっかい役を毎年、会場を決めたり、往復はがきを印刷したりとやってきたが、80歳を超えると亡くなってしまったり、歩けなくなってしまう友人が多くなってきた。
 ぼくが開くパーティには必ず来てくれていた、ゴリちゃんこと、木村くんが痴呆症になってしまったと、奥さんから聞いてショックだった。
 世田谷学園の教員を長くしていた田中くんも出られないとは。今年の同期会は、6月25日に大庄水産下北沢店で開くが、5、6人しか集まらないのでは。
 
 この占い師にみてもらっている女の人がいるのを見たこともある。ブログのネタになるかなと思って声をかけてみた。
「本当に500円でいいのですか?」と。「そうですよ」と言うので、椅子に座って手相をみてもらった。なんと「90歳以上生きられますよ」と。よろこんでいいのか、悲しんでいいのかわからないが、長生きはするらしい。
 いろいろとしゃべってくれたが、当たっているなと思うこともあるが、的外れのこともある。しゃべっていることをメモするか、録音しておけばよかった。すぐに忘れてしまった。
 とにかく「大吉」だそうだ。

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2016年6月 6日 (月)

花泥棒のぼくにカトレアの鉢が!

 5月20日、近所の「ひじかた眼科」の診察で、白内障の疑いがあり、東京医大の眼科を紹介してくれたので、診察に行った。
 予約の時間が午前11時から、11時半ということだが、たくさんのお客さんが待っていて、医師の診察を受けたのは、午後1時ごろ。
 医師の診察では、手術の必要なしということだった。時計を見たら午後の2時。ほっとした気持ちもあって、小田急デパート12階のレストラン街「福助」という寿司店に入る。
 
 テーブル席は満席。カウンターのあいている席に座る。ぼくはベレー帽をいつも人口膝を入れた左膝に、冷えないようにと掛けている。 
 それをとなりに座って、昼間っからお酒を呑んでいる、60歳前後の男性が、ベレー帽が気になるのか、チラチラ見ていて、声をかけてきた。
 このベレー帽は、下北沢南口商店街のフリーマーケットで買った手作りだ。
 お互いに名刺を交換して、話が弾んだ。胡蝶蘭とか、レとニアを栽培している会社の社長さんだった。ぼくも学生時代の四年間、大輪朝顔づくりの名人と言われた、尾崎哲之助さんの朝顔園にアルバイトで夏休み中、働いていたことがあったので、お花は大好きだ。
 
 今日は6月1日、寿司屋のカウンターで出会っただけなのに、大きな箱に入れられた、見事なカトレアが送られてきたではないか。鼻を近づけると、なんとも言えない、いい香りがする。
 花泥棒のぼくにこんな立派なカトレアが。
 
 ぼくはお酒を飲まないので、酒飲みの心理はよくわからないが、お酒をのんでいる時って、気持ちが大きくなって、「カトレア送るよ」なんて気軽に言ったものの、自宅に帰ればそんなこと忘れてしまうのでは。
 
 「先日は楽しいひとときをありがとうございました。また週刊誌(週刊朝日・6月3日号)まで送って頂きお礼を申し上げます。
 私の方といえば約束をしていながら、大変遅くなってしまいましたことをお許しください。気に入っていただければ嬉しく思います」とカトレアの花が印刷された、一筆箋に書かれていた。
 
 (有)みさと洋蘭園の代表取締役・柏木和夫さん、誠実な方だ。栽培されているレトニアもすばらしいできばえだ。
 「難しいと思っていませんか? カトレアの咲かせ方」という、花が咲き終わってまた来年咲かせる方法を印刷したチラシが添えられていた。
 そのチラシには「当園では、カトレアの鉢物、アレンジ、ブーケ、コサージュ、ご自分でアレンジされる方の切り花も、ご予算に応じて、宅配便でお届けしております。」
 
 (有)みさと洋蘭園 〒367-0108 埼玉県児玉郡美里町下児玉613−1 TEL/0495-76-4394
 http://www.misato.orchids.co.jp
 
 柏木和夫さん、信頼できる人なので、お花の注文をしてあげてください。
 
 お寿司のカウンターといえば、忘れられない人は、高平哲郎さん、ご夫婦、今は代替わりしてお弟子さんが「小笹寿司」を継いでいるが、先代の親父さんが元気な頃、偶然、隣り合わせになった高平さんと親しくなった。
 
 高平さんは毎年7月に催されるNHKホールでの「巴里祭」の演出をされている。もう20年近くになるだろうか。「巴里祭」のチケットを忘れずに送ってくれる。
 最近は寿司屋のカウンターで、お寿司を食べるなんてことはできない。たまたまランチの時間で、カウンターに座っただけだったのに。
 
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2016年6月 4日 (土)

パパに首ったけのぼく!

 ゲイの人は末っ子に多いということは間違いない。しかし、全部が全部そうなってしまうわけではないが、その確率は高い。どうしても母親がかわいがりすぎてしまうかわらだ。
 この人も7人兄弟の末っ子のため、甘えて育ったことを自覚している。
 
 「僕がパパと知り合ったのは、年の瀬も近い昭和51年12月でした。それ以来、今もなお楽しく付き合っています。
 僕のパパは40代ですが、とても40代とは思えないくらい若く見えます。精力もまだまだ20代の人と負けないくらい強く、ハンサムパパで、やさしく、体格もちょうどいいくらいで、少しお腹が出てるかな。
 
 僕の仕事はサービス業で、毎日、日本各地を北に南に、東へ西へと走り回っています。パパも僕も、岡山県に住んでいるのですが、市が違います。でも二週間ごとに会って、楽しく過ごしています。
 
 今年の8月中頃、パパは自転車で転び、顔に二週間の傷を負いました。電話で聞いた時はびっくりしました。
 「俺、顔に傷ができ、ひどくはれてお岩様のようになってしまった。恐らくお前はパパを嫌いになってしまうだろう」と、パパは言った。
 そんなパパになってしまったら、なおのこと、一刻も早くパパのところへとんでいってあげたいくらいだ。
 
 心配でその夜から眠ることができなかった。早速パパのところへ行ってみると、パパが言ったほどでなく、軽い傷だったので、やれやれと一安心した。
 顔に傷を負ってもパパは仕事を休まず、働き続けていた。そんな働き者のパパ。ハンサムなパパ大好き。僕のパパは二谷英明にそっくりです。
 笑い顔、口元、目元、やさしさ、全体がそっくり。そんなパパがいる、僕は人生薔薇色です。でも二回ほど悲しく涙を流したこともありました。ちょっとしたことで、僕とパパの恋が、奥さんに見つかりそうになったこともあります。でも今はまた元にもどり楽しく付き合っています。
 
 残念なことにふたりきりで、旅行や、昼間のデートはできません。パパに会いに行くのはいつも僕のほうからです。
 一晩、パパの部屋に泊まって、パパにおもいっきり抱かれ、愛されて、いつも一緒に風呂に入り、パパのからだをすみからすみまで、きれいに洗ってあげます。
 パパの男根は、とってもすばらしいです。初めて会ったとき、びっくりしました。長く、太く、かりも大きく、本当に松茸そっくりなので、日本一だと僕は思っています。だから天然記念物だと言っています。
 
 寝るときはパパに抱かれ、僕の手はパパの天然記念物を離さず、いつも握って寝ています。パパは服装も若々しく、僕が古臭い田舎風な格好をしていると、もっと若々しくしなさいと服を買ってくれました。
 僕よりパパのセンスがとってもいいのです。僕のパパはタバコも酒ものみません。だからパパのところへ行くときは、いつもパパの好きな果物を買っていってあげます。
 
 僕は7人兄弟の末っ子のため、甘えて育ってきました。そのため今、パパに甘えて暮らしています。パパありがとう。
 血のつながりはないが、僕の本当のパパだと思って、パパの言うことは何でも聞いています。今、一番好きなものはパパ、そして、パパの天然記念物。二週間たつと会えるので仕事も頑張っています。パパに抱かれて寝るときが幸福だと思っています。(岡山県・ビーチボーイ)」
 
 やれやれ、こんなにのろけられたらたまらない。いつまでも幸せにというしか……。

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2016年6月 1日 (水)

初めて行った発展場で!

 「ぼくは来春、大学を卒業し、新しい希望に燃えて生きていこうと、張り切っているときでした。
 ぼくも一度、発展場とやらに行ってみたくなり、さる映画館へ行きました。シートの方はたくさん空席があるのに、立見席にはそれらしき人たちであふれるばかりでした。
 
 ぼくは立見席に立っているには気恥ずかしくて、シートに座って見ていました。なにしろ初めてのことで、とうとうぼくも発展場にきてしまったかと思うと、胸はドキドキでした。
 ふと、となりの席を見ると、同年輩ぐらいの人のズボンの間から、シンボルが上を向いて、張り切っていました。
 そのシンボルを、彼の隣の人が、やさしく愛撫していました。ますますぼくの胸は早鐘のようにドキドキでした。
 
 見まいと思えば思うほど、そこに釘付けにされる自分の目をどうすることもできませんでした。そのうちに自分でも思いもよらないことが、行動としておきてしまいました。
 隣の人が、何度も何度もぼくを見るにつけ、ぼくの手もその人のシンボルに、つられるように愛撫をくりかえしていました。
 そうこうするうちに、彼の手によって、ぼくのファスナーを開かれ、下着の上から強く握られていました。
 
 やめればよかったのに、そう思ったときはあとのまつり。脇に立っていた警官に発見されてしまいました。
 ふたりとも警察署に連行され、ぼくも自分のしたことを全部話してしまいました。直接ズボンから出ているシンボルをさすってしまったこと、また、彼も下着の上からですが、同じようなことをしたことも。
 
 口では表せないような汚い言葉をあびせられました。家族に知らせるなどと、おどされ、ぼくの前歴があるかどうかも調べているようでした。
 自分がこのようなことをしてしまったので、ぼくには返す言葉もありません。警察で初めてということがわかり、今回だけはかんべんすると言い、家の人にも知られずにすみました。しかし、最後に本籍地、現住所、氏名、年齢、指紋もとられ、始末書も書かされました。
 
 長い長い、30分が過ぎ、表に出たときは、恐ろしさで涙があふれ、どのように家に帰ったか、今でもわかりません。
 もう二度と発展場などには行きたくもありません。今は反省することだけで、勉強も手つかない日々が続いています。
 
 今、ぼくの心配なことは、学校を卒業したら、友人の紹介でアメリカに行くことになっています。長い年月、アメリカに住むつもりで、できれば永住したいと考えています。
 今、その手続きをしなければならないのに、ビザをとるとき、このことがわかってしまったらと考えると、手続きもできずにいます。
 お願いです。たった一回のことで、始末書を書いた場合、全部、明るみに出てしまい、ぼくはアメリカに行くことができないのでしょうか。
 また、結婚などのとき、調べられたら全部明るみに出てしまうのでしょうか。心配で夜も寝られない日々が続いています。(愛知県S・K)」
 
 デパートの中の書店で、『薔薇族』を万引きした高校生が、女店員にみつかり親を呼ばれ、ゲイだということを知られてしまったショックで、屋上から飛び降り自殺したことがあり、まじめで気の弱い青年が、親に知られなかったことは幸いだった。
 この青年、果たしてアメリカに行けたのだろうか。強く生きてほしいものだ。

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