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2016年6月27日 (月)

「花魁道中」その華やかさの影に!

 桜の季節になると、全国各地で観光のために「花魁道中」が華々しく催され、それは年中行事になっている。
 ぼくの女房の古里、弥彦村の近くに燕市があって、川に沿い桜並木が続き、桜の季節には、多くの花見客が訪れる。
 桜の季節の人集めの目玉は、「花魁道中」だ。花魁の役をやる若い女性は、応募者の中から選ばれる。
 大正時代と違って強制的に花魁にさせられるわけではないから、なんら批判する問題ではない。しかし、花魁とはいっても女郎には違いない。その根本を知っていてもいいのでは。
 
 中村民郎著『廃娼運動=廓の女性はどう解放されたか』
 ぼくの祖父の伊藤富士雄の救世軍での活躍がくわしく書かれている。
 
 「花魁に扮した若い女性が高さ約30センチ、重さ4.5帰路もある高下駄を外八文字にふみ、吉原神社まで往復1、2キロをたっぷり2時間かけて練り歩くのである。
 大正の花魁道中は、1914(大正3年)から始まった。この年に開催された大正博覧会を契機として、新吉原は20年ぶりに花魁道中を復活した。
 新吉原は花魁道中の復活に寄って、吉原大火以来の沈滞ムードを一挙に吹き飛ばそうとしたのである。新吉原は翌15年にも花魁道中をふたたび計画した。しかし、このとき角海老楼(一説には稲本楼)の白縫という娼妓が花魁道中にかりだされることを嫌って、救世軍の伊藤大尉(祖父のこと)のもとにかけこみ、花魁道中廃止の動機をつくった。
 
 白縫は花魁道中の太夫を強制されることは自分に対する肉体的・精神的虐待だから、自由廃業したいと伊藤大尉に訴えた。
 その頃、太夫役をつとめる娼妓の肉体的苦痛は大変なものだった。太夫は髪に重いかんざしを何十本も挿し、どてらのような厚ぼったい打ち掛けや、そのほかたくさんの衣装を着用し、そのうえ7.5キロもある重い下駄をはいて、外八文字に歩かねばならなかったのである。
 
 救世軍は廓の女性のデモンストレーションである花魁道中には絶対に反対する立場を表明していた。したがって、大正博覧会当時の花魁道中に対しても、救世軍は率先して即時中止を警視庁に陳情していたのである。救世軍は白縫の訴えを聞いて、勇み立った。
 白縫自身の自由廃業の交渉には、百戦錬磨の勇士、伊藤大尉が側面から援助した。広島高等女学校出身(当時の女郎で、高等女学校出身者は僅かだった。ほとんどが小学校も卒業していないような女郎が多かったので、自分の借金の額もわからない女性が多く、廓の経営者の言うままに働かされていた。)の白縫は立て板に水を流すように言いまくって、楼主をやりこめた。
 
 しぶしぶ楼主は損料貸で彼女の廃業を認めたのである。損料貸とは、娼妓の身柄を馴染みの客にあずけて、前借金を月極で返却させるという月賦身請のことをいう。
 白縫事件が世間に騒がれる過程で、花魁道中の非が各方面で大きな話題となり、白縫自身も一躍吉原の「新しい女」として脚光を浴びた。
 伊沢警視総監は、今回の救世軍の陳情を認めて花魁道中の禁止を発表した。」
 
 今時の花魁道中に応募する女性は体力に自信があり、アルバイトでやるのだから、文句のつけようがないが、少しでも女郎のことを知ってもらいたいものだ。

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