エミール・オルリクは、日本の蔵書票の恩人だ!
チェコのプラハで活躍した、エミール・オルリク(1870−1932)は、画家であり版画家でもあった。
1900年から1901年、船で日本の浮世絵を勉強するために来日。1912年に再度来日して、当時の日本の文芸雑誌「明星」「太陽」「白樺」に、自作の蔵書票を発表した。
日本は中国からの影響で、大切にしている本の見返しに蔵書印をおして、自分の所有書物であることをわかるようにした。しかし、欧米には、印鑑を使う風習はないので、版画家に依頼して、自分好みの作品を作ってもらい書物に貼った。
アメリカでは「ブックプレート」と呼び、ヨーロッパでは、「エキス・リブリス」と呼ぶ。ラテン語で「誰々の著書」または「誰々の所有」という意味である。
ドイツが印刷技術が一番進んでいて、羊の皮に書いて本にしていたものが、紙に印刷して本にするようになってきた。500年以上前の話だ。
貴族の家にも書物が増えてきたので、最初はその家の紋章を書物に貼っていたが、時代が下ってきて、版画家に依頼し、それぞれの好みの絵を印刷してもらい、本に貼るようになってきた。
ヨーロッパでは銅版画が多く、その絵の中に「エクス・リブリス」という言葉と、依頼したの人の姓名、年号などを入れるようになってきた。
日本では明治時代、欧米の文化を吸収することに躍起だったが、蔵書票は雑誌に挿絵として使われる程度だった。
それがオルリクが来日し、オルリクの作品4点を「明星」に紹介されるや、日本の芸術家の関心を呼んだ。
日本の若い芸術家たちが、オルリクの紹介した蔵書票に、版画芸術の新しいジャンルとして関心を寄せ、蔵書票を制作するようになった。
大正時代が蔵書票の夜明けといっていいだろう。優れた才能の持ち主が、こぞって蔵書票を制作しだしたのだ。
形も四角のものでなく、いろんな形で個性的な作品が作り出された。
台湾に住む日本人が、大正時代の蔵書票をコレクションしていたのを、その方がなくなり、息子さんがコレクションを売りに出した。
ぼくはラッキーな事に、そのコレクションを全部、手に入れた。作品は木版画が多いから、一つの作品は、50点ほどしか刷られていないだろう。今、大正時代の版画家たちの力作をコレクションしている人は、少ないのでは。
コレクションがばらばらになってしまうのはつらい。財力のある方が、まとめて購入してもらいたいものだ。
大正12年の関東大震災で、東京は焼け野原になってしまった。多くの美術品も消失したに違いない。古いものを保存しておくことって大変なことなのだ。
銀座のヴァニラ画廊に、毎日、顔を出すことは健康上出来ない。7月17日(日)と18日(月)の2日間だけ、12時から2、3時間だけ、画廊にいたいと思っている。ぜひ、声をかけてもらいたいものだ。
| 固定リンク
コメント