いつの間にか「古老」と呼ばれるように!
「消えゆく街の歴史を残そう」という会が、主催・北沢川文化遺産保存の会、共催・グリーライン下北沢、後援・世田谷区教育委員会、協力・世田谷ワイズメンズクラブで開かれる。
2016年8月6日(土)、北沢タウンホール12階、スカイホール。会費500円。
第1部でぼくがおしゃべりをする。
「シモキタの昔を語る(古老)」
午前10〜12時
司会・山本裕
「下北沢の戦前を語る」三十尾生彦(93歳)
「下北沢の戦中を語る」伊藤文学(84歳)
年を取れば肩が「ころう」、「古老」と言われても仕方がないが、ぼくはまだ、青年だと思っているし、若い20代の女性とも恋をしている。
ブログを見てくれている人、下北沢の南口を出て、「タウンホール」と言えば、すぐわかるから、ぜひ、ご参加下さい。
下北沢から三軒茶屋へ通じる茶沢通り。ぼくが駒沢大学に入学したのが、昭和23年敗戦から3年後のことだから、食物はないしひどい時代だった。
道路はじゃり道で、バスなんて走っていない。我が家から三軒茶屋まで歩いて30分はかかった。
三軒茶屋から玉電に乗って駒沢へ。4年間も通ったのだから、思い出はいっぱいある。
下北沢の昔の話を書いてみよう。
「閉じたままの扉」
「下北沢の南口。3、4軒しか店がなかったころ、いつも扉が閉じたままの『ロリガン』というバアがあった。
大人しか入れない店だということは、子供心にわかっていたが、その中にどんな世界があるのかと、なぞめいた扉の中を想像していた。
昔の子供は、夜は外に出ないから、見ているのは昼間の閉じたままの扉。
大人になったら入ってみたい。神秘の扉を開いてみたい。そう、いつも、いつも思い続けて眺めていただけの扉。
それがいつの間にか大人になってしまったが、その時にはもう『ロリガン』は消えていた。
あの扉の向こうにどんな世界があったのだろう。記憶の底に、閉じたままの扉だけが、今も頭の片隅に残っている。」
我が家の前の通りは、茶沢通りへの通り道で、子どもたちの遊び場だった。
「最初で最後の出来事」
「我が家の前の道も、じゃり道。
その頃、荷物を運ぶのは馬だった。重い荷物を運んだ車を馬が引く。汗に光った馬の背中。手綱をひいて、たくましい男が歩く。
我が家の前で、荷物をひく馬が、くずれるように倒れてしまった。
手綱をひいていた男が、馬のおしりに太い腕を突っ込んで、糞をつまみだしたではないか。出てくるわ、出てくるわ、山のように糞をつかみ出した。
それを見ていた子どもたちはびっくり。
まもなく馬は立ち上がって歩き出し、どの子もよかった、よかったと顔を見合わせてにっこり。
最初で最後の70年以上も前の話だけど、へんなことだけは覚えているものだ。」
我が家の前は畠だった。馬の糞って、野菜の肥やしになる。おそらくその大量の馬の糞も、肥やしに大人たちが使ったに違いない。
茶沢通りに面して、のんき屋という和菓子屋があった。その家にすみちゃんという元気な女の子がいた。
ぼくはその子のことが好きだった。これがぼくの初恋だったかも知れない。どこかへ引っ越してしまったが、すみちゃんどうしているかな。走り回っているすみちゃんの姿が今でも脳裏に残っている。
| 固定リンク
コメント
北沢川文化遺産保存の会の主幹、きむらけんです。8月6日の当会の研究会の宣伝をどうもありがとうございます。
この日、「シモキタらしさのDNA」を遺そうということで会を設定しました。
第一部、伊藤文学さんをはじめとする古老の話
第二部、研究会 下北沢交通史の変遷など
シモキタの古写真を見て参加者に街を語ってもら
います。
第三部は懇親会です。弁当や飲み物たっぷり出ます。子細については、アドレスにあげたページに詳しく書いています。お弁当の用意があるので、懇親会参加は今日、一日までとなっています。みなさん文学さんの話をはじめとしてシモキタがどう形成されたかを知る機会です。おいでください。
投稿: きむらけん | 2016年8月 1日 (月) 08時53分