ホモの人に見栄坊が多い?
「まゆにつばをつけて」というタイトルで、『薔薇族』の投稿欄「人生薔薇模様」に『薔薇族』の投稿欄「人生薔薇模様」に「ジャポネ・コルネイユ」のペンネームで、恐ろしい内容の投稿を載せている。
「酒飲みとホモは信用しないと、あるすぐれた作家が私に言ったことがある。すかさず生意気盛りの私は、その愛煙家を前にして「煙草のみも信用出来ない」と、やりかえした。
バアナード・ショウの「禁煙はやさしい」という逆説的なせりふを思い浮かべたからだ。性の考察領域を広げた西洋人も言っている。「ホモには虚言癖が多い」と。すべて一面の真理である。
ところで割腹した作家もうそつきであった。少なくも私個人にとってはそう思われる。黒いTシャツと白いズボンに白い靴という、初対面のいでたちからして、インチキくさかったが、こちらは正反対の白いシャツと黒いズボンに黒い靴という、さえない学生の姿をしていた。
彼は本当のことをたくさん語ったが、当たり前ながら嘘もついた。ほめたり、けなしたり、よろこんだり、ぐちをこぼしたり、不平を言ったり、虚勢を張ったりするうちに、どうしても肝心のところで、どことなく信用がおけないぞと感じさせるものが、初めからあった。
勘の働きというやつだ。後から思い当たるふしは、会ったのは5、6回にすぎないけれども約束を守らなかった。そして、そのために前後相矛盾することをいった点につきる。
ホモセクシャルには見栄坊が多い。それに真実の姿を知られたくない、という警戒心が働く。
「かわいいと言われます。」「××(タレント名)に似ていると言われます。」こんな下手な自己PRに嘘が萌芽している。」
鏡は真実をうつし、時は公平に経過する。ほとんど無意識のうちに嘘をついているのではないかと思われる。言い方もうまい。ただ言葉の結果や、影響を考えずに、自分のご都合主義でしゃべられるのは閉口だ。
嘘をつかなければならないときもあるだろうが、本音とたてまえは、人によって場所によって使い分けてほしい。
いつもごまかしていては、いつまでたっても真のホモだちができるはずがない。くよくよすることなんかあるものか。卑屈にならず他人に迷惑をかけずに、己の性癖に忠実であればよい。嘘の演技に疲れ果てて、みずからの墓穴を掘ることにもなりかねまい。
『一粒の麦もし死なずば』を書いた作家と切腹した作家とでは、文学的な根本姿勢においてまったく異なるものがあるようだ。
最初会った時、彼がサングラスをかけていたか、手に持っていたかなんぞは、もう記憶がはっきりしない。ただ、次のように言ったのを、本当かどうかあやしんでみることはある。ちなみに私は彼の作品をほとんど読んでいない。読みたいと食指も動かない。
「トオマス・マンの『ファウスト博士』からルディという名前を借りて、ニックネームに使ってみたよ。どうだったかな。」」
読者からの投稿にタイトルはつけてこない。「まゆにつばをつけて」は、ぼくがつけたものだろう。
三島由紀夫さんは、『薔薇族』創刊の前の年に亡くなられている。美輪明宏さんのリサイタルの会場で、ちらっとお姿を見ただけだ。
この投稿者、5、6回、三島さんと出会って話をしているとあるが、具体的な話は出てこない。三島さん、好みじゃない学生と何度も会うわけがない。
見栄坊の人が、ホモの人に多い。虚言癖の人も。一面にそういうひとがいるかもしれないが、それはどうだろうか。
多磨霊園に平岡家の立派なお墓がある。
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