« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »

2016年10月

2016年10月31日 (月)

甲秀樹さんに出会ったことを誇りに!

親しい、新宿2丁目のゲイバアのマスターから電話があり、お客さんで人形を制作している人がいるので『薔薇族』で使ってもらえないかということだった。
 
早速、その人に2丁目に出向いて会ってみた。
 
ゲイ雑誌に人形では使いようがないので、「絵を描いてみませんか」というと、数日して何枚かの絵をもって訪ねてきた。
 
編集長であるぼくが決断すればいいことで、即座に『薔薇族』に載せることにした。
 
そして「どんどん描いてください」とお願いもした。
 
それがいつの頃なのか覚えていないが、300号を越した頃だったろうか。
 
甲秀樹さんが絵を持参してくるたびに、その作品は急速に上達していった。
 
あれよ、あれよと言う間に『薔薇族』の表紙絵を宇野亜喜良さんのデザインで描くようにまでなっていた。
 
甲さんは、中学1、2年ぐらいの少年を描きたかったのだが、もう少し年上で、筋肉のついたたくましい青年を描くように頼まざるをえなかったことは、今、考えてみるとつらいことだった。
 
かつての男絵師は、人物のバックを描くことはしなかった。
 
ところが甲さんの絵は、動物、鳥、なんでもバックに描いている。
 
数年の間に男絵と人形は進化し、世界一の製作者にまでのぼりつめてしまった。
 
海外にもフアンを増やし続けている甲さんは、美術学校を出たわけではなく、独学でここまで進化したということは、天才としかいいようがない。
 
「甲秀樹・作品集出版記念展」には、なんとしても見に行ってください。
 
『甲秀樹作品集・青い旋律』も、ぜひ、お買い求めを!
 
甲さんを世に出すきっかけを作ったことを誇りに思っている。
 
甲さん、おめでとう!
 
Scan001
Scan002
Scan003
Scan004

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月29日 (土)

「祭」のあとって寂しいな!

1985年の『薔薇族』6月号に、ぼくはこんなことを書いていた。「『祭り』の役目は終わった!」と。
 
「1976年の5月18日、新宿のQフラットビルの2階に伊藤文学の談話室『祭』新宿店をオープンしてから10年になろうとしています。
 
営業時間がひるまの3時から11時までという当時としては画期的なことで、ひるまからお客が集まるかどうかを心配したものでした。
 
1976年の6月号を見てみると、後ろの方の広告ページがなかったころだったのです。
 
「全国男街13番地」というコーナーがあって、そのころぼちぼち地方にも出来はじめていたゲイバアの紹介や、ハッテン場の紹介を記事として載せていたのです。
 
ひるまの3時にシャッターを開けると、同時にお客さんが入ってきてくれたのです。ビルの前を行ったり来たりして、どうしても入ってこれずに帰ってしまった人も、たくさんいたようだ。
 
また、やっとの思いで扉を開けて入ってきてくれた諸君の息遣いが、いまでも聞こえてくるようです。高校生の諸君も来てくれたのです。
 
「僕は大阪の高校生。現在、数学の時間。昨日、4時から5時まで、たったの1時間半だけだったけど、東京の方へ行く用のついでに、仲間に入れてもらったのです。
 
なにしろ日帰りの急用だったから、店の中でも時計を見ることしきりで、まわりの人とあまり言葉をかわすことができなかったみたい。
 
しかし、どんなところにせよ、仲間が集まるところに初めて入るときは勇気のいるものですね。
 
ぼくは3回くらい、ビルの入口と、店の入口まで往復して、ようやく入れたのだから…。
 
でも、迷ったけど、勇気を出して入ってよかったな。すごくいいムードで、正直なところ驚いたのです。
 
明るくて少しも陰気なところがなくて、開放的で周囲を気にしないで、いろんなことを声を大にして語り合えそう。
 
それと、なによりもうれしかったことは、若い人が多かったこと。ぼくの横で話をしていた3人のかたたち。声をかけてくれたけど、もっと時間があれば話もできたかもしれない。
 
羽田の飛行場に着いてから考えてみて、すごく自分が東京の人間でないのが残念だった。
 
ぼくも3人の中に入って話していたかったのに…。」
 
とにかく行動する読者を『祭』は増やしたことはたしかです。初めて『祭』の扉を開けて度胸をつけるというケースが多かったに違いないのです。
 
目を閉じると、『祭』に来てくれた、いろんな人の顔が目に浮かんできます。知らない人に話しかけるということを覚えたのも『祭』のおかげです。
 
土曜、日曜のお客の多かったこと、廊下にまであふれて、入りきれないで帰っていく人も多かったのです。
 
世の中、変わってきました。160軒ものお店の広告がのるようになりました。大資本を投下しての豪華なサウナ、ホテルが次々とできてきました。
 
それに不景気が深刻になりはじめ、少しずつ『祭』の客がへりはじめてきたのです。
 
新宿駅から歩いて30分ぐらいという遠さと新宿2丁目というゲイバアが立ち並ぶ街を通り越してくることも、以前はかえってそれがよかったのですが、遠いことがお客の少なくなる原因かもしれません」
 
ぼくが雑誌づくりに追われて店に顔を出せなかったこともいけなかったのだろう。
 
美輪明宏さんのクラブ「巴里」も店を閉じたが、美輪さんと親しくなれたのも「祭」のお陰だ。いい思い出を残してくれた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年10月24日 (月)

カミングアウトって難しい問題だ!

「1987年1月1日、ついに自分がホモであることを告白しました。相手は僕が高校生のとき愛した親友です。
 
高校生のときはふたりともお互いのことが好きで愛し合っていました。その時は自分がホモだと思っていなくて、ただ彼のことが好きだと思って、彼と一緒にいるだけで幸福な毎日を送っていました。
 
初体験も彼でした。キスから始まって肉体関係と続いて――、でも、それは卒業と共に終わり、普通の男同士の親友関係になり、今現在も続いています。
 
彼は卒業後、大阪に就職し、それからは女性としか関係がないというか、女性を愛する男性だったのです。
 
それじゃ高校時代は何だったのかって、みなさん思うかもしれないけど、高校時代は男女関係なく、ひとりの人間として会いしてくれたんです。それが肉体関係にまでいってしまったに過ぎなかったと思う。
 
俺は卒業後、家の仕事を手伝いながら女の子と付き合ったけど、彼とは違って俺の場合男に興味があって、23歳のとき、初めて『薔薇族』を手にし、自分はホモだと自覚しました。
 
それからというものは、女性には全然目もくれず、男にばかり目がいってしまうという毎日。
 
ホモであることを悩んだりしたけど、今ではなんとも思っていません。彼に自分がホモだって言ったのは、彼にうそついているような気がして……。
 
「俺達は今、26歳で結婚の話とかが話題になるんだよね」
 
そんなとき口からうその言葉がペラペラと出てしまって……。
 
そんな思いをするよりは、本当のことを話して楽になりたかったのです。話したあと嫌われてもいいと思って、正直に本当のことを話しました。
 
彼はびっくりしていました。でも正直に話してくれてありがとう。ホモであろうがなんであろうが、君は親友だよ。って言ってくれました。今、付き合っている人がいることも話しました。
 
俺は今、彼が女性と結婚するのが楽しみです。俺が女性を愛せない分、彼には幸福な家庭を作ってもらいたいと思う。
 
親友に自分がホモであることを打ち明けたことを後悔していません。これからさき、もう二度と彼とホモみたいなことはないと思うけど、本当の男同士として、親友として続くと思います。
 
今でも彼のことは愛しています。でも、それは親友としてです。(佐賀県・ビランデル)」
 
カミングアウトして、彼の場合よかった話だ。みんな、みんな、そうはいかない。友だちに去られてしまった人もいる。
 
ぼくだって『薔薇族』を創刊したことで、友人たちが自然と遠のいていった。わりと早い時期に、警視庁の風紀係に、わいせつ物陳列罪で発売禁止になったことで、NHKのニュースにまで取り上げられたこともあって、なおさら敬遠されてしまったようだ。
 
時代が変わったといっても、カミングアウトすることは、ゲイの人にとってかなりの勇気がいることだろう。
 
まだまだ、ゲイであることを隠している人のほうが多いのでは。
 
同性婚の問題も最近は話題にならなくなっている。時間がかかるということか。
 
ぼくのブログ、400字詰原稿用紙に4枚も書いているが、文字を読むことが、おっくうになっている人が増えて読まなくなっているのでは。
 
カフエ「つゆ艸 」の由美さんが、82歳の老婆が書いているブログを見せてくれた。写真を多く使って一日の出来事を書いているが、人気があるそうだ。
 
しかし、人のまねをすることはないか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年10月22日 (土)

ぼくの悲鳴のような叫び声!

『薔薇族』が廃刊に追いこまれたのは、2004年(平成16年)の11月号だ。その3年前の2001年・9月16日の「朝日新聞」の読者投稿欄「声」に、ぼくの投稿が載っているのを見つけだした。
 
「声」には何度か投稿し、掲載された記憶があるが、今回の投稿は、ぼくの悲鳴のような叫び声だ。
 
世の中、不景気で落ち込むばかりの時代だったのだろう。出版会はネットや、携帯電話の普及で、雑誌や、書籍が売れなくなってきていた。
 
『薔薇族』も3万部も売れていたのに、10分の1の3千部までに落ちこんでいたときのことだ。
 
「小さな会社で解雇はつらい」というタイトルだ。
 
「出版業 伊藤文学(東京都世田谷区69歳)
 
大企業が何百人、何千人、いや、万を超す社員をリストラするという記事が、やたらと目につく昨今だ。
 
リストラされた人たちも、会社が不況なんだからと、あきらめざるを得ないだろう。だれを恨むといったって、特定の個人の責任ではないのだから。
 
ところが、数人しか社員がいない我が社のような企業だったらどうだろう。
 
経営的に苦しいのは、会社の大小には関係がない。
 
生き残るためには数人の社員の1人、2人をリストラしなければならない。
 
リストラされた人間にとり、なぜおれを、と思うのは当然のことだ。すぐに転職先が見つかれば恨んでなんかいないだろうが、60歳にもなる人間を使うところが、すぐに見つかりはしない。
 
わが家でごろごろしていれば、恨みごとのひとつも、リストラした社長に言いたくもなる。立場を逆にして、僕がそうされたら同じことをするだろう。
 
これから「痛み」、とんでもない。小企業には激痛がすでに体中に走っている。
 
ここ数ヶ月の落ち込みはひどい。どうすれば生き残れるのだろうか」
 
なんとも情けない話だが、ひとりやふたりの社員をやめさせたところで、どうにもならない。
 
製本所は女房の兄貴が社長なので、借金を帳消しにしてくれたが、印刷所には迷惑をかけてしまった。
 
10月8日の夜、7時からのブックカフエ「B&B」での「三島SM谷崎」の著者、鈴村和成さんと、ぼくとの対談。40人を越す人が集まってくれた。
 
鈴村さんとは初めての出会いだが、ぼくの著書『ぼくどうして涙がでるの』や『裸の女房』『やらないか』なども読んでくれていた。
 
東大の仏文科出身で、横浜市立大学教授を経て、同名誉教授、とにかく学者というのは頭の構造が違う。
 
自宅は本でうずまっているそうだが、ただただ学者というもののすごさをまざまざと知らされた2時間だった。
 
ぼくのブログを読んでくれている人が5、6人いたのはうれしかった。
 
先妻の舞踊家、伊藤ミカの話も話題になり、同じ彩流社の本なので、興味をもってくれたのか、会場で購入してサインを頼まれた。
 
20代の人は少なく、三島や谷崎の本を愛読している中年の人が多かった。
 
彩流社の林田こずえさんの司会もよかったし、まずまず大成功だった。
 
お車代を頂いたので、毛ガニとうなぎを買って家族をよろこばすことができた。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月17日 (月)

好きです! 先輩に憧れています!

今日は体育の日だそうだ。ぼくは学生時代体育部に入ったことがないから、体育の日といってもぴんとこない。
 
『薔薇族』には体育部での先輩、後輩との関係が投稿にも多い。作り話を書くわけもないから本当の話なのだろう。
 
1992年の3月号に、こんな話が載っていた。
「まさかの『よかちご』」というタイトルで。
 
「俺、今は社会人の23歳。大学1年のとき、サッカー部の先輩にやられたのが初めての経験だ。
 
7月だったかな、部のきびしい練習にやっとなれてきたころだった。練習が終わる頃、3年のある先輩に「用具を片付け終わったらちょっと部室に来い」と言われたんだ。
 
俺の高校の時の経験では、先輩に名指しで「居残り」と言われて部室に呼び出されたら、新人が大勢なら正座で説教される。ひとりかふたりなら数人の先輩に何発か殴られて焼きを入れられる、と相場が決まっていたんで、俺は覚悟したんだ。(中略)
 
他の部室はもうみんな暗かったが、サッカー部だけは電気がついている。
ノックすると「よし、入れ」という先輩の声。
 
「失礼します」と言って思い切って部屋にはいると、先輩ひとりだけ。あれ? と思った。(中略)
 
「よかちご」って何かって? そうか俺、福岡の出身だけど、福岡では先輩と後輩のホモ関係を「よかちご」「よかにせ」っていうんだ。
 
先輩は俺を目の前の椅子に座らせると、「疲れたか」なんて軽口をたたいていたが、ちょっとあらたまって聞いてきた。
 
「お前、俺をどう思っている?
「……」
「好きか、嫌いか?」
「……」
「黙っていたんじゃわからない。嫌いといったって、べつに何もしないさ。どうなんだ、お前の感じているとおりに言ってみろよ」
「……」
 
俺、予想もしない展開に、金縛りにあったみたいで、声も出ないんだ。
 
「じゃあ、もうひとつ聞くけど、お前、ときどき俺を見ているようだが、あれはなぜだ?」
「……」
 
先輩は背が180センチ以上あり、体はがっちりしていて胸が厚い。風呂で見るアソコもでかいし、ズルムケで毛がへそまで上がっている。
 
俺は他人の目を意識しながら、気づかれないように、そっと見つめていたことがたしかに何回かある。
 
俺、とうとう思いきって「好きです。先輩にあこがれています」と、涙声で言ってしまった。
 
しばらくの沈黙のあとで先輩は、「よし、それなら、俺にも覚悟はある。靴を脱げ」
 
俺、シューズと靴下を脱いだら「シャツ脱げ、パンツもだ」
 
「いや、人がきます。今はかんべんしてください」
「よし、来ないようにしよう」
 
先輩は立ち上がると、部屋の内側からカギをかけ、電気を消した。真っ暗闇ではなかった。
 
先輩は俺が全部を脱ぐのを見届けると、しばらくの間、俺の裸をじっと見ていたが、やがてシャツを脱ぎ、パンツも脱いで素っ裸になった。
 
先輩のモノは特大、腹にくっつくほどものすごい勃起を見て、俺はやっと何が始まるかがわかった。
 
期待と不安をもって、先輩が敷いたバスタオルの上に寝て、この日、まさかの「よかちご」にされたんだ。」
 
24年も前の話。今のことは知る由もない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月15日 (土)

三島由紀夫さんの幻の名作を映画化!

 竜超君から数年前に貸した50冊ほどの『薔薇族』が返却されてきた。木村べんさんの表紙絵で、1983年の12月号だ。33年も前の『薔薇族』、その頃、ぼくはすごい仕事をしてしまった。
 
 目次には「三島由紀夫の地下ポルノと伝えられる同性心中小説。『愛の処刑』大特集・薔薇族映画化・名場面集」とあり、映画のスチール写真も、カラーで14頁も入っている。
 
 今は亡き親友の國學院大學教授・阿部正路君が「切腹の美学・『愛の処刑』に寄せて」を書いてくれ、切腹の作法まで教えてくれている。
 
 「有名であるがゆえに・「親友と呼ばせてくれ」と言ったあの声が――」三島さんと出会った男絵師・大川辰次さんの短い文章は素顔の三島さんを知る、貴重なものだ。
 その号の「編集室から」は、2頁に渡っていて老眼鏡をかけ、その上、虫眼鏡で見なけりゃ読めない小さな字で詰めこんである。
 
 「近い将来には、6大都市にローズ劇場が開設されるということになるかもしれません。
 そこで『薔薇族』としても映画を企画・製作することになったのです。
 まず映画を作る上で、予算の問題、大規模のものはのぞめない。いろんな制約がありすぎるほどあるわけだから、制約の中で実現可能のものということになってしまうのです。
 僕は原作に『愛の処刑』(当時は三島由紀夫の作品であるということが不明だった)をえらんだのです。
 
 この作品は『薔薇族』が創刊されるより、10年も前に会員組織で発行されていた『アドニス』(発行数は300〜500部ぐらいと推定される)の別冊で『アポロ』に掲載された、三島由紀夫氏が書いたといわれている幻の名作なのです。
 
 切腹がテーマになっている作品なので、特殊と思われがちですが、僕は決してそうは思わないのです。
 男同士、愛の究極はこうなるであろうという説得力が見るものをひきつけずにはおかない作品です。
 
 監督をひきうけてくれた野上正義さんが、この原作を読んで、身体中がふるえたと言っています。
 脚本も、もちろん専門家に書いてもらったのですが、野上さんは原作に忠実に映画化したのです。そこにはポルノなんていうことは彼の頭の中からまったくなくなっていたのでしょう。
 
 この映画がヒットするとか、そんなことはどうでもよくて、もし、三島さんが書いたものだとしたら、三島さんによろこんでもらえる作品をと、そればかりを考えていたのです。
 
 大川辰次さんが『憂国』の映画を見て感想で、切腹をするそばにいる新妻の女性はいらないとおっしゃっています。それは美少年をそばにおきたかったに違いなのです。
 
 この映画に出て来る少年は三島さん好みではないかもしれないけれど、体育の高校の教師と、その教え子を演じてくれた二人の役者さんが、熱演してくれたことで、この映画が成功したとするならば、功績が大といえるでしょう。
 
 それと千葉県の勝浦の昔、網元だった古い家を使ったこと、スタッフ一丸となって作品に打ち込んでくれたことは、本当にうれしかった。」
 
 版権はぼくのものだが、この映画のフィルムはどこにあるのか分からない。ビデオも手元にない。もう一度、みんなに見てもらいたいものだが、どなたかビデオを持っている方はいないだろうか? お持ちでしたらお知らせください。
 
Img_3306

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年10月10日 (月)

戻ってきた『薔薇族』の中に!

 1960年代に『オー嬢の物語』『愛奴』を舞踊化、赤坂のクラブ「スペース・カプセル」でのショウなどで話題になった、ぼくの先妻ミカとの出会いから、33歳で事故死するまでのことを書いた『裸の女房』を出版してから、もう7年にもなる。
 
 ミカが風呂場で事故死したとき、多くの週刊誌が取り上げてくれた。それを読んだ作家の丸川賀世子さんが、ミカのことを小説にしたいというので、日記、アルバム、週刊誌、新聞などを貼ったアルバムなどを貸していた。
 
 昭和46年8月号の『小説現代』に「被虐の舞踏家」というタイトルで掲載された。
 資料を貸していたことなど忘れていたが、30年以上もたって、丸川さんが古里に帰るので資料をお返ししたいという電話があり、ダンボール2箱もの資料が戻ってきた。それがなければ『裸の女房』は書けなかった。
 
 『薔薇族』の「2代目編集長」を名乗る竜超君に50冊ほどの『薔薇族』を貸してあった。
 もう5、6年もまえのことだったろうか。ぼくの部屋は狭い。引っ越したときに、きちっと創刊号から382号まで、並べておけばよかったが、荷物が多くなってきて、必要な『薔薇族』を取り出せなくなっていた。
 かなりの大仕事だが、整理しようと思い立って、竜君に返却するように頼んでいたのが、やっと語る会の日に持ってきてくれた。
 
 8月8日の夜のカフエ「B&B」での鈴村和成さんとの対談のときに参考にしようと思っていたので、1983年の12月号の「三島由紀夫の地下ポルノ「愛の処刑」の特集号を探していたのだ。
 それと『薔薇族』の大スクープ「エイズ患者に単独会見!!」これはテレビ、新聞、週刊誌、どのマスコミもなしえなかったことで、1985年の8月号だ。
 これが掲載されたとき、その患者を教えろと、マスコミがぼくのところに押し寄せて大変な騒ぎになってしまった。
 
 当時の厚生省が初のエイズ患者、5人を公表したのだが、入院していたり、亡くなっていたりで、ぼくが出会って話を聞き出した男性ひとりだけが、自由の身だった。
 彼はもっと多くのエイズ患者が公表されると思っていたのが、5人だけということで、勤め先に知れてしまうと思ったのだろう。
 もっと長い対談記事になるはずだったが、あそこをけずれ、ここをけずれということでかなり短くなってしまった。
 
 彼の住んでいたマンションは、ぼくの著書『ぼうどうして涙がでるの』に登場する5歳の坊や、芳ちゃんと東京女子医大の病棟の窓から見えた「お城、お城」と呼んでいた料理屋のあとのマンションだ。
 
 何階だか忘れてしまったが、藤田竜君と2人で部屋を訪ねた。かなり広い部屋でひとりで住んでいた。
 佛壇のお線香から、かすかな煙が上がっている。ひと目見て、あの新興宗教に入らされたなと思った。佛にすがるしかなかったのだろう。
 
 かなりのクラシック好きらしく、レコードが棚にずらりと並んでいる。ウィーンにも演奏会を聞きに行ったこともあるとか。
 お茶を出してくれたが、竜君は手をつけなかったが、ぼくは平気でのんだ。
 あの頃のマスコミは異常だった。アメリカのエイズ患者のからだにブツブツができている悲惨な姿をこれでもかとばかり、映しだしていた。
 竜超君に『薔薇族』を貸していたのが戻ってきて、またブログに書く材料が増えたというものだ。
 
 「ラブオイル」の売上が、去年より多かった。まだまだ『薔薇族』を応援してくれている人たちが、沢山いるということだ。本当に感謝している。ありがとう。
 
Img_3304
Img_3305

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年10月 8日 (土)

男で、こんな大失敗を!

 『薔薇族』の編集部から、とんでもない質問を出すと、読者はそれに答えてくれた。その質問は「男でこんな大失敗をした」だ。
 
 「2年間の海外勤務から戻ってきました。向こうでは本当に何もなく、修行僧のような生活でした。
 帰国して着任手続き後、引っ越し整理で一週間の休みの間、これまでの反動で、上野と新宿のサウナに行きまくりました。
 ミックスルームでチンポに手を置かれ、他人の目も気にせず、ひたすら快楽を追い求め……。イク寸前にやってくれたやつが、耳元で「お帰り」と。その顔を見てびっくり。
 4年前まで、2年間付き合ったやつでした。俺のイク直前の動作でわかったのだそうだ。(東京・WIN95/39歳)」
 
 口の中を見て患者を思い出す歯医者のようだとも思えるが、愛していたのかな。
 
 「長瀬智也を小柄にしたような子と、以前付き合っていました。とにかく可愛くて、会う度にその子が失神するくらいに、犯しまくらないと、俺の性欲はおさまりがつきません。
 しばらくしてその子が競馬で140万円を当て、そのとたんに不摂生のため、9キロも太ってしまい、夏だというのに俺の性生活は、木枯らしが吹き荒れています。
 頼む、やらせてくれ! いろいろ試食したけど、昔のお前が一番だ。また、お前をヒイヒイ言わせて、ハメ殺したい。(神奈川/教訓にしたい/22歳)」
 
 競馬で140万円も当てたら、若い男だったら、うまいものをたらふく食べたいと思うのは当然のことだ。
 9キロやせるのは無理だ。デブ専の相手を見つけるしかないのでは。人生狂うね。
 
 「すごくぼくにひたってくれていた職場の後輩(ノンケ)に、思わず告白してしまった。「◯◯さんって良い人だけど、今はできることなら顔を合わせたくない」と、言われてしまった。
 ちょっと期待した自分に大失敗だぜ。これにもこりず、その後もまた同じあやまちを繰り返しているぼく。なさけない!(千葉・光宏LOVE・26歳)」
 
 数撃ちゃ当たるというけれど、ノンケに告白しても、その確率は低い。嫌がられても告白するまでの気持ちが、あとになって考えれば楽しかったのでは。
 
 「インラン宿に行って、その光景にびっくり。ぼくに抱きついてきた若い子に、「こんな暗いところで黙ってセックスするなんて畜生だよ。俺の歳わかる? 60歳だよ」って言ったら、思いっきりチンポを噛まれてしまった。(体育の先公)」
 
 自分からインラン宿なんていうのはどうかな。暗くしているから抱きつけるので、明るかったら、しらけちゃうのでは。快感だけが目的なのだから、暗くなければ、インラン宿はなりたたない。
 
 「公務員時代、勤め先の先輩のホモだちの保証人になったり、ノンケを何とかモノにしたいと思っている矢先、ホモだちに先取りされたり。
 とうとう親子ほどの年の差のヤングマンと同棲し、貢いで大負債を抱えて、退職金も財産もすべてパーに。
 今もこりずに大阪にきて、フリーターをしながら男を求め走り回っています。(大阪・パートナー/45歳)」
 
 ゲイの人の中には、世間知らずのおひとよしの人っている。
 『薔薇族』のぼくのよき相棒だった、藤田竜君(今はこの世にいない)7億ものお金を悪い奴にだましとられてしまった。
 好きなことをして生きたのだから、竜君、幸せだったのでは。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年10月 3日 (月)

夜がくるのが怖い、そんな夫婦って?

 「私は27歳で親にすすめられるままで、否応なしに結婚してしまった。子どもも2人できた。一見幸せそうに見える結婚生活を送ってきた33年、職業のうえでも一応成功し、管理職にまでなり、社会的地位も得た。しかし、この苦渋に満ちた30余年間――、私は思い出しても自分がいとおしい。よくぞ耐えたといたわってやりたい。
 
 定年を1年後にひかえた今、私は悩んでいる。今までも悩みの連続であったが、退職したら家庭に引っ込んでしまうことになる。そうしたらあの妻と毎日、顔を合わせて生活しなければならないのだ。
 それを思っただけでもぞっとする。というのも職についている現在は、単身赴任なのだ。ずっとそうであった。私の場合は単身赴任万々歳であった。
 
 結婚式の夜、いわゆる初夜、私はそのことを思いおびえた。やっぱりできなかった。試みてはみたのである。しかし、まったく役に立たなかった。
 新妻は「今日は気疲れが大きいからね」とじつにあっさりと思いやりの態度を示してくれた。横に女が寝ているというだけで、私は嫌悪感を感じ、体の片側、女の方の側がモゾモゾと気持ち悪く眠れなかった。
 
 それから夜が来るのが怖くて、いやで夕方になると胃の痛みを覚えるようになった。毎晩試みてみるが、どうしてもできなかった。そして、まる1年半、なんとかかんとか、疲れているのだとか、ごまかして日が過ぎた。
 その頃は妻も積極的になり、寝床の中で私に抱きついたり、キスしたり、正常な夫婦なら当然のことだが、それが私はいやでいやでたまらず、まるで動物に抱きつかれているような不快感、身の毛もよだつような……。
 ぞっとして、ジンマシンでも出そうな感触であった。それをじっと耐えた私……。
 私のものを触ってくる妻。ほんとその手を払いのけてやりたくなるのをじっとがまんして、なすがままにまかせた。それでも私のチンポは勃たなかった。
 
 2年目、ふと部屋を暗くして、横に寝ているのはいやな妻ではなく、あのかわいいタカシ少年(当時、私は中3のタカシを愛していた)だと思い、タカシの顔を思い浮かべ、タカシと抱き合ったときのことを想起し、タカシの中3のくせに、もう大人なみのあれを思い……そうしたらなんと、嫌な妻とのセックスが成功したのだ。
 
 それからいつも夜は部屋を暗くし、タカシを頭に描いて、タカシと寝ているのだと思い込み、空想の世界で過ごすことにした。
 妻のよろこびは、ひとしおであったが、1週間に1回ぐらいの交わりであった。
 10年すぎ、20年すぎたころ、年齢も40歳をすぎたころには、性の回数もへり、今はまったく性はしない。妻もあきらめているようだ。
 やはり私は、この妻を捨てるわけにはいかない。なんとしてもよく私につくしてくれた妻である。出来のいい女房殿であった。捨てたらバチが当たるだろう。私が胃の手術をしたときも、本当に献身的によく看病してくれた。
 
 また、いつ病気にならないとも限らない。年とればなおさら助け合う相手が必要だ。
 愛がなくても、セックスがなくても、やはりこの妻は私にとって必要な人間である。もう女性とは思うまい。1人の人間として尊敬の念を持って同居しよう。
 そのことが、この女性にとっても大切なことなのだ。」
 
 長い文章なので、かなりけずってしまったけれど、この方、小学校の校長にまでなった方だ。奥さんにお金の苦労はさせなかっただろう。奥さんはどんな思いで、いたのかを聞いてみたいものだ。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2016年10月 2日 (日)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は10月29日(土)開催です。
テーマは「三島由紀夫の幻の名作『愛の処刑』の映画化を語る」です。
日時・10月29日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年10月 1日 (土)

ヤマジュンとの出会いは、ぼくの運の強さ!

 ヤマジュンの劇画集『ウホッ!! いい男たち』厚さ40ミリ、全作品を完全収録した、驚くべき分厚い本の初版が刊行されたのは、2003年で、10月15日のことだ。
 
 それから、こんな高価な劇画集が、13年の間に増刷を繰り返し、1万部近くも売れたということは、多くの読者の心をとらえ、共感を呼んだからだろう。
 ヤマジュンの劇画が、『薔薇族』の誌上に掲載されたのは、1982年の10月号(34年も前のこと)に掲載された「刑事を犯れ」が最初だ。そして最後は、バラコミ2号に載った「くそみそテクニック」のようだ。
 
その中に登場してくる、ちょっとワルっぽい自動車修理工の阿部高和君、今やその名前を知らない人はいないようだ。
 阿部君といえば、大学時代からの友人の阿部正路君、國學院大學教授で『薔薇族』にも何度も原稿を寄せてくれた。今や親友というべき友人はみんなこの世にいない、なんとも寂しい。
 
 1982年の10月号。その夏の暑い日のこと、山川純一君が初めて原稿を持ち込んできた。
 その頃、わが家のとなりに平屋の一軒家があって、そこに住んでいた老婆が亡くなり代沢小の前の米屋さんが大家さんで、改築したのを事務所兼倉庫として借り受けていた。
 洗いざらしの白い半袖シャツにGパン、玄関先に立った山川純一君の姿は脳裏に残っているが、顔まではよくは覚えていない。
 なにしろ部屋の中に入らないで立ち話だから、そのとき何をしゃべったのかは、まったく覚えていない。
 名刺など持って差し出すわけはなく、どこに住んでいるのか、姓名も教えてくれない。
 彼の作品をまだ見ていないのだから、載せる載せないは、ぼくひとりの判断で決めることだ。
 劇画を誌上に載せると、16頁記事を載せるよりは、2作品載せるほうが楽だ。しかし、16頁の劇画を描ける人は、何人もいるわけではない。ぼくが彼の作品を見て、素晴らしいと思い載せたのは当然のことだ。
 スタッフの二人にも作品を載せることを納得させた。顔が長くて、髪の毛も長いのは気に入らなかったのだろうが、新しい描き手が必要だったので、そのときは反対しなかった。
 
 山川純一のペンネームは、ぼくが考えた。初めて彼が原稿をもちこんできたときに、ぼくが在宅していたからよかった。
 人間の出会いって、運、不運がある。ぼくがいなかったら、他社へ持っていったかもしれないからだ。
 
 それからはいつも現金を用意していて、原稿を持ってくると、即金で渡していた。いくら彼にあげていたのか、領収書なんてもらっていないし、覚えていないが、つつましい生活ならなんとかなったのだろう。
 
 復刊ドットコムが、女性の読者をターゲットにした『ウホッ! ヤマジュン・セレクション・やらないか』(復刊ドットコム刊・本体1800円+税)、13作品をセレクトして女性の有能なデザイナー、虻川貴子さんの装丁で、カバアが金の箔押しという豪華な本になっている。
 誰もが手元に置いておきたくなる本だ。すぐにアマゾンに注文しよう!
 
 有名な作家のよしもとばななさんに、帯に入れる推薦文をお願いしたら、すぐさま書いてくれた。
 「みんなヤマジュンになぜか惹きつけられる。きっとどこかかわいくて清らかだから」
 
Img_3156
Img_3157_2

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »