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2016年11月

2016年11月28日 (月)

弱いものいじめは、今も昔も!

「今の世の中でもいじめは存在し、いじめられた子が自殺にまで追いやられることもある。
 
「宇野鴻一郎の小説に『縄目の快楽』(講談社刊)がある。
 
旧制中学時代「解剖の恥辱」に何度も泣いたおとなしい少年が、長じて自由を束縛されて辱めを受けることに快楽を覚えるようになっていくのである。
 
少年は解剖によってはじめての精通を迎え、全てが終わったあと、ショックに1人机に顔伏せ、忍び泣きに泣くのである。
 
しかし、大抵そうであるように、嫌がれば、嫌がるほど面白がって仕掛けるものである。
 
彼もその後、教室で校庭の隅で、備品倉庫の中でと、所構わずしかけられる。
 
押さえつけられ組み伏せられて目的を達せられる。
 
ただ顔真っ赤にして、気の遠くなるような凌辱に耐えるだけなのである。
 
確かに昔、旧制中学ではよくあったことだという。
 
今、社会問題になっている学校における「弱い者いじめ」で、小学生から高校生まで、平均していじめの20%を占めるまであり、特に中学生では30.6%もあるというのです。
 
一番恥ずかしい年頃だけに大変なことです。
 
特に昔と違って、男女共学であり、女子も見ている教室でもやるというのです。
 
発毛しかけの性器を女子にまで見られたり、それどころか木の枝のようになったところを見られたりといった、赤面では済まないようなはめにあっている子も少なくないのです。
 
今『網目の快楽』の主人公そのままの生徒が確実にいるはずです。
 
観衆が去った後、自らの体から出た物を拭ってパンツをつけ、机にもたれてシクシク泣いている子が。
 
今のいじめは特定の1人か2人に集中して、繰り返され、しつこく行われています。
 
いじめにも段階があるようで、最初は何気ない事から始まり、「シカト」(無視)とかの意地悪程度だが、だんだん物隠しとか暴力的なこととなります。
 
弱い子同士をけんかさせたり、使いパシリをさせたりします。
 
このへんで強く出れば、それでやむのだが、いいなりになり、ベソをかいたりすると、さらに次のいじめをされる。
 
雑巾の水を飲めとか、便器をなめろとか、おしっこを飲ませる。いじめっ子のチンポコを舐めさせるなどの、生理的、恥辱的、屈辱的であって、とても出来そうにないことを強要する。
 
それでも拒否できないで、その場逃れにベソをかきながらしてしまうものもいるのです。
 
そういう子はもうからかいおもちゃです。次なるいじめは、いじめの最終形態ともいえる「辱め」なのです。
 
男なら男子として耐えられない恥辱、つまり、異性の前で性器を見られる、解剖、ストリップ、そして秘密の行為(オナニー)の公開などです。
 
「くじびき」というのもあります。クジを引かされ、これから自分がされることを自分で選ばされるというおもちゃみたいな扱いです。
 
クジには何が当たっても、みないやなことばかり。
 
「マジック化粧」(顔にマジックで落書きされ、ピエロのようにされる)はまだいいほうで、「ハンスト」(下半身裸)「オカマ」(肛門にコーラ瓶などを仕込まれる)、それに解剖まであるのです。(中略)
 
反撃できないのが、そもそもいじめられっ子。問題は大きいようです。
 
とにかく教室はもう聖なる場ではなく、恥辱の場でもあるのです。」(埼玉県・少年愛)
 
この投稿者、教師ではなかろうか。
 

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2016年11月25日 (金)

三島由紀夫原作「愛の処刑」が見れるなんて!

日本最初のホモビデオは、ぼくが世に出したが、なんと映画まで製作してしまった。
 
社員が何人もいる会社では、会議を開いてやるか、やらないかを決めるのに時間がかかってしまうが、わが第二書房は、父とぼくだけの出版社、父は女性に夢中になっていて、仕事はぼくに任せっきり。
 
ぼくが決断すれば、何でも実現してしまうことができた。
 
1983年『薔薇族』12月号は三島由紀夫の地下ポルノ「愛の処刑」の特集号になっている。
 
三島由紀夫が書いたのではないかと、言われていた「愛の処刑」は、それよりも10年も前に『薔薇族』に掲載してしまった。
 
その予告を誌上に載せていたら、三島由紀夫のお父さんからだと思うが、「のせないでほしい」という電話があった。
 
この作品は『薔薇族』が創刊された1971年よりも20年も前に非合法で、会員制で出されていた『アドニス』の別冊「アポロ」に載った作品だ。
 
3人の方の短編小説が載っていて、もう1人の方は、NHKの職員で、音楽関係の仕事をされていた方だ。
 
仁科勝のペンネームで、小説を『薔薇族』誌上に何編も寄せられている。
 
男性同士の関係を描いた映画は、かつてなかったから、この映画が日本で最初ということだ。
 
映画が落ち目になってきて、東宝、松竹、日活などで活躍した監督たちは、テレビのほうへ仕事を移していたが、三流の映画会社の監督は仕事がなかった。
 
「愛の処刑」の監督の野上正義さんとの出会いは全く記憶にない。
 
最上さんから持ち込まれた話に、ぼくは映画化を即座に決断した。
 
千葉県の勝浦の江戸時代に建てられた、網元の家が残っていた。そこを借りれたことが、この映画に重みを増すことができた。
 
カメラマンは有名な方だときいたが、 撮影風景をぼくは二度ほど見に行っている。
 
たった4、5日で1時間の作品を撮り終えた。
 
映画の配給会社の「ENKプロモーション」の社長の駒田達郎さんは、ぼくの原作で映画化された日活の昭和40年度の秋の芸術祭参加作品になった「ぼくどうして涙がでるの」の宣伝のために、主役の十朱幸代さんと大阪を訪れた時に、お世話になった方だ。
 
その頃は日活の関西支社に勤めておられた。不思議なご縁だった。
 
駒田達郎さんは亡くなられて、息子さんが跡を継いでいる。
 
「愛の処刑」33年も前に製作された映画を今見られるなんて夢のようだ。
 
「愛の処刑」上映&禁断のトークイベントを企画された方々に感謝するばかりだ。
 
この機会にぜひ、下北沢の南口のカフェ「B&B」にお出かけください。
 
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2016年11月21日 (月)

「薔薇族編集長奮戦記」売れなかったが!

昭和61年(1986年)8月20日発売.『薔薇族』増刊号として出版した「『薔薇族』編集長奮戦記―心ある人にはわかってほしい」
 
ぼくの良き、頼りがいのある藤田竜くんが、あとがきに「傍らで仕事を見てきた者として」というタイトルで、ありがたい言葉を残してくれている。
 
「自分がいわば震源地であるその男たちの動きを、ホモではないから冷静に、しかし、温かく見守り続けてきたのが、編集長の伊藤文學さんなのだ。
 
編集長といっても小さな会社だから営業もする。なかなか理解されない、世界でも珍しいホモ専門誌を書店をまわって置いてくれているように頼み、書店以外の売り場を開拓し、少しずつ世間に広めていった。」
 
寺山修司くんが『薔薇族』に寄せてくれた、「世界は、おとうとのために」の詩。
今は亡き親友の国学院大学教授の阿部正路くんの「終わりのない友情の証として」と「薔薇族考」と「若葉の風」、藤田竜くんとの対談「明るいところへ出ようと歩いてきました=『薔薇族』10年の編集うら話」と、盛りだくさんだ。
 
あとは連載を続けてきた「伊藤文学のひとりごと」が、メインになっている。
 
何部印刷したか覚えていないが、八割ぐらいが返本になってしまった。
 
タイトルがズバリすぎたのか、一度読んだものは、また読みたくないということか。
 
しかし、読んでくれた人は少なかったが、中にはうれしい手紙を寄せてくれた人もいた。
 
山形市の加藤秀雄さんからの長い手紙だ。
 
「友人の結婚式のために上京した僕は、生まれて初めて新宿2丁目へ足を踏み入れ、「ブックスローズ」へ行きました。
 
そこで1冊の本の表紙が目に留まりました。
 
夕暮れの街を並んで歩く2人の青年の絵だったのですが、なぜかとても寂しそうなのが印象的でした。
 
「『薔薇族』編集長奮戦記―心ある人にはわかってほしい 伊藤文学」なんだろう、この本?
 
その一瞬のほんのわずかな心の動きでした。
 
僕は何十冊と積み上げてあった.その本の1冊を手に取ったのです。
 
それが自分の生き方を変えるまでの本になろうとは、思ってもいませんでした。
 
帰りの電車の中で早速広げてみた僕は、初めの数章を読むうちに、どんどん引き込まれていきました。
 
「結婚のこと」「家出した高校生」「風の中をひとりで」どの章も、なんと自分に身につまされた話だったことでしょう。
 
それにしても今まで何度も『薔薇族』を買いながら、一度もその「伊藤文学のひとりごと」というページを読んだことがなかったとは!
 
僕は家に帰ってからも、2、3日、時間のある限り夢中で読み続けました。
 
それはまさに15年間の『薔薇族』を全部読むような思いでした。
 
その時、初めて『薔薇族』という本が、何のためにこの世に出され続けてきたのかを理解したのです。
 
僕が何も気づかず押し入れの中に打ちやっていた本が、本当は僕の人生を照らし出そうとしてくれていたのです。
 
1冊の本を読み終えるまでに、僕はこれからどう生きるべきか、一つの道を見出していました。
 
「ホモを恥じぬこと、一度きりの人生を自分らしく堂々と生きること」
 
心の中に、今までなかった希望と勇気が沸き起こってきました。」
 
「薔薇族編集長奮戦記」は返本の山を築いてしまったが、1人でも加藤秀雄さんのような人がいてくれたということは、1冊の本にまとめて良かった。
 
ブログも心を込めて書き続けていきたい。誰かの心に触れるような。

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2016年11月19日 (土)

日本最初のホモビデオ製作秘話!

1981年の『薔薇族』11月号に、今は亡き『薔薇族』誕生の立役者だった、間宮浩さんと、ぼくとが対談をしている。
 
「ノンケのモデルって、大胆なのだ! 撮りも撮ったり、150人! ホモビデオ製作うらばなし」と題して。
 
ぼくも忘れてしまっているが、日本最初のホモビデオのことを記録に残しておきたい。
 
『薔薇族』でフェスタ・ビデオおとして、最初に製作したのが「薔薇と海と太陽と」だ。
 
これは映画としても作られ、映画館でも上映されたが、主役の青年の長友達也という人、この人がすごく人気があって、初めてのビデオということで、とぶように売れた。
 
そのときの値段が、30分ものでなんと3万2千円、昭和56年の9月発売で、それがいちばん最初だった。
 
じつはそのひと月前に、ある有名な映画監督と、女優さんとの間に生まれた人というのが、ホモビデオを作りたいということで、ぼくのところに訪ねてきた。
 
昭和56年に春頃だった。その人が作ったのが「純の夏」(どんな内容だったか、まったく覚えていない)というタイトルで、純という男の子の海辺での出来事のようだ。
 
この人は中野に事務所があって、訪ねて行ったら、ちょっと美しい、助手みたいな女の人がいて、その監督がちょっと席を立ったときに、この人は有名ななんとか監督の息子ですよと、ぼくに耳打ちした。
 
なにかおかしいなと思ったが、契約、契約といって、すごく契約を迫るのだ。どんどん作品を作るから、作品を売ってお金をくれということだが、そんなことできるわけがない。
 
一本だけ作ったが、お金に困っていたのか、その後、なんと夜逃げしてしまった。
 
そんなことがあって、大変なスタートをしたわけだが、その後に現れた人が「薔薇と海と太陽と」を作った人だ。
 
この人はワールド映画といって、男女のポルノ映画を作っていた人で、ご自分も最初は役者だった。
 
大蔵映画で役者をやっていて、後に監督もやり、作ったのがこの映画だった。
 
これはちゃんとした劇映画で、ストーリーもあり、よく出来た作品だった。評判もよく、売れ行きも良かった。
 
そのあとの「白い牝鹿たちと「薔薇の星座」も、3本とも同じ監督だった。
 
新宿の東映の映画館でも上映されたが、大盛況だった。
 
その後、ビデオカメラが普及し、素人の人がホモビデオを作り出すようになってきた。
 
『薔薇族』の表紙絵を描いたり、イラストも描いていた木村べんさんが、ビデオの製作に乗り出した。
 
べんさんは若いころから映画が好きで、映画を作りたいという願望を持ち続けていた人で、「ちょっといい休日」と「誘惑がいっぱい」の2本を製作した。カメラは間宮浩さんだ。
 
間宮さんの話だと、製作の費用がかかりすぎてしまったそうだ。
 
「ちょっといい休日」は、水兵さんと青年将校のラブ・ロマンスだが、将校の制服だけでも7万円もかかってしまった。ズボンは別で―。
 
横須賀ロケに3、4回行っているから、大変な費用がかかってしまった。全部で150万円以上もかかって、それとは別に編集の費用もあり、大変だったようだ。
 
お客さんの求めているものは、何かというと、だんだんに露骨なものを要求するようになってきた。
 
見えるか、見えないかが問題で製作する人も増えてきて、それからホモビデオの戦国時代になっていった。
 
最初にホモビデオを出したということは、少しは自慢してもいいことなのか!

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2016年11月14日 (月)

コンビニより多い、歯科医院のあがき!

人間の歯って、上下合わせて28本あるのだそうだ。84歳になるまで、自分の歯が何本残っているのかって、数えたことなどなかったが、かかりつけの歯科医が推薦してくれて10月28日、世田谷区の歯科医師会から認定証をもらうことになった。
 
「あなたは平成28年度の8020運動の達成者であることを認定いたします」という認定証を頂いた。
 
8020ってなんのことかと思ったら、80歳を過ぎても自分の歯が20本以上残っている人のことだそうだ。ぼくの歯は24本残っていると歯科医が推薦してくれたそうだ。
 
三軒茶屋にある世田谷区内で一番高い建物のキャロットタワー5階で、認定証をいただく催しがあった。
 
世田谷区歯科医師会会長、多摩川医師会会長、世田谷区長・保坂展人さんも出席し、認定証をいただく人は40人ほどだった。
 
世田谷区内では650人もいるそうだが、年の順で選ばれたようだ。出席者の中で知っている人は、世田谷学園で2年ほど後輩の牛島君だけだった。
 
区長の話は面白くない、それに迫力がない。80万人以上も区民がいるというのに、こんな人が区長とは情けない。
 
医師会の会長の話も、もう少し内容のある話をしてもらいたいものだ。これでは「はなし」にもならない。
 
認定者のひとりの老婆が代表で挨拶をしたが、声も小さいし、2,3分で終わってしまった。
 
午後1時から始まり、次に2時から講演会があるというのに、なんと25分くらいで終わってしまった。せっかく出席したのだから、もっと多くの人にインタビューして、長生きしている健康法とか、食べ物の話とか、趣味の話とかを聞き出してもらいたかった。
 
前々からぼくが不安に思っていたことだが、11月4日の「毎日新聞」朝刊の社会面トップに大きな記事が載っていた。
 
「偽装指南 微に細に・コーヒーに浸して古さ装う レントゲンを色鉛筆で修正 歯科報酬資料改ざん」の見出しでだ。
 
「元厚生官僚が歯科医に指南した「偽装工作」の手口が、内部資料や関係者の証言でわかった。」
 
最新式のレントゲンと、器具を消毒する器具をそなえて開業した医院に、今まで長いことお世話になった医院から変えてしまった。
 
レントゲンがどのくらいの値段か分からないが、どう考えても元をとるのは大変だ。
 
1度ですむところを何度も通わせなければならないことは理解できる。どこの歯科医もやっていることだから。
 
厚生労働省の調査(2015年)では、歯科医院は全国に約6万8700か所で、20年前より約1万か所増えた。コンビニエンスストア(今年の9月時点で5万4400店余)より多く、経営はどこも厳しいという。
 
確かにわが家の周りを見渡しても、歯医者だらけだ。これでは歯科医院も生き残ることは大変だ。
 
75歳以上は保険で1割負担だから、何百円かですむが、お国が9割も負担している。年間で40兆円を越すそうだから、いつまで続くのだろうか心配だ。
 
区長ってこの程度の会には代理人ですませてしまうのだろうが、歯科医師会は無視できない。選挙となれば応援してもらわなければならないだろうから。
 
おみやげに頂いたのは、小さな虫メガネだった。眼科の医師会なら虫メガネでいいだろうが、歯科医師会なのだから、歯ブラシをおみやげにすべきだったのでは。
 
なんのことはない。歯が24本も残っているということは、それだけ歯科医院に長いことご奉公したというハナシ。

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2016年11月12日 (土)

ぼくのご先祖は幸田家の用人だった!

世田谷学園の卒業生で、一番活躍していて有名なのは、NHKの大河ドラマ「真田丸」の脚本を書いている三谷幸喜君だろう。
 
今朝の毎日新聞で報じられていたが、『蛍の河』で61年、直木賞を受賞された、大先輩の伊藤桂一さんが、99歳で死去された。
 
「真田丸」は12月で終わってしまう。ぼくのご先祖は長野県の松代に住み、真田幸民の家臣であったので、どうしても書いておきたかった。
 
「真田丸」の1回目は見たが、いろんな人物が登場してきてよくわからず、それからは1度も見ていない。
 
父が残してくれた、虫食いだらけの「安政武鑑」(今でいうなら神士録みたいなもので全国の各藩主、そして主だった家臣の名が記されている)その中で祖父のまた祖父の名があり、「用人」とある。
 
石川新八とあるのがご先祖のようだ。なんで「伊藤」になったのかは分からない。
 
真田幸民は信州松代藩の第10代(最後)の藩主で、嘉永3年に生まれ、明治36年に亡くなっている。
 
ぼくの祖父、富士雄の末娘・宇佐美マサの長男、三郎さん(中学の校長)が、ご先祖のことを調べてくれている。
 
祖父、富士雄の父は、禄といい、真田藩表御用人とある。禄さんは松代で漢学塾を開いていて、毎夜一里も遠いところから通ってくる門人に、小林みつるがいた。小林は後に府立第3高女(現・都立駒場高校)の校長を長く勤めた方だ。
 
今も駒場高校の校庭に、小林校長の胸像が建っている。ぼくの『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君は、駒場高校の卒業生だから、なにかのえんかもしれない。
 
三郎さんは松代の菩提寺に行き、また小学校校長をした古老にも、祖父のことを聞いたが何も得られなかった。菩提寺に祖父の碑があるという話だったが、見つけることはできず、長野県の図書館にも行ったが、手がかりはつかめなかった。
 
ぼくも松代の菩提寺に行けば、過去帳が残っていて、わかるかもしれないと思ったが、三郎さんが調べてくれていたのだ。
 
赤坂に盛徳寺というお寺があり、そこは真田家の江戸での菩提寺でもあった。お寺の屋根には、真田家の六文銭のマークが屋根瓦についていた。
 
子供のころ母によく連れられて墓参りに行ったが、途中、乃木神社のガラス越しに、明治天皇の大葬当日、自邸で妻、静子と共に殉死した、乃木希典大将の血に染まった白い着物が飾られていたのをこわごわ見たのを覚えている。
 
盛徳寺の先代の住職は、まともな方だったが、後を継いだ坊さんは駒大の何年か前の先輩で柔道部出身のなまぐさ坊主、お寺の近所にあったでっかいキャバレー「ミカド」の女性に入れあげてか、それだけではないと思うが、手形を乱発し、サギのようなことをしたりで、お寺が倒産してしまった。
 
幸いなことに父の友人が多摩墓地の権利をゆずってくれたので、ご先祖のお骨を掘り出して多摩墓地に移してしまった。大きなかめにお骨が入っていた。
 
背の高い石柱に何か記されていたのだろうが、それはそのままになってしまった。もしかしたら松代の菩提寺にあった石柱かもしれない。
 
六文銭が掘られた屋根瓦が、ぼくの手許に残っている。盛徳寺がこわされたときに、もってきたものだろうが、記憶にない。
 
救世軍でお女郎さんを千人近くも救い出した富士雄さん、その父の禄さんまではわかるが、その前のご先祖のことは知りようがない。
 
わが家で佛壇に手を合わすのは、ぼくしかいない。お墓も草ぼうぼうになってしまうのか。

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2016年11月10日 (木)

次回、「文ちゃんと語る会」は11月26日(土)開催です。
 
日時・11月26日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年11月 7日 (月)

中村敦夫さん「戦場で散歩をしているような」

ぼくは月曜から金曜までの午前10時と、午後4時、時代劇専門チャンネルで、中村敦夫さん主演の「木枯し紋次郎」を見ている。
 
「木枯し紋次郎」は、1972年(今から44年前)テレビで放映され、中村敦夫さんの俳優としての出世作となった。
 
その当時、ぼくが見ていたかは記憶にない。
 
監督は市川崑さんだ。
 
下北沢のカフエ「織部」の店長の奥村さんが、ネットで見せてくれたが、アニメから劇映画まで多くの作品を残している方だ。
 
奥さまも有名な方だが、おふたりともこの世にいない。
 
1964年の東京オリンピックの記録映画を担当したのは、確か市川崑さんだ。
 
記録映画としてでなく、その映像が個性的で、芸術的すぎたので批判があったことは、なんとなく覚えている。
 
女房の古里は新潟の弥彦村(人口8千人ぐらい)だが、どんな田舎道でも舗装されていて、じゃり道などない。田中角栄さんのおかげだ。
 
いつだったか、本の問屋の仕入れ係の北原夫妻と、ぼくの女房とで、北原くんの古里、長野に車で行ったことがある。
 
「木枯し紋次郎」は、どこで撮影されたのかわからないが、電柱、送電線のようなものはまったく視野にない、昔のままの景色だ。
 
北原くんの古里、長野の山奥は、ひどい道だった。ぼくはあまり旅行をしないから分からないが、江戸時代のままで残っている風景は探せばまだまだあるのかもしれない。
 
「木枯し紋次郎」の描き方は、「東京オリンピック」の描き方だと思う。
 
中村敦夫さんが「木枯し紋次郎」のあとどんな仕事をされてきたのか、まったく覚えていないが、76歳になった中村敦夫さんの記事が、大きな写真入りで、毎日新聞2016年10月21日に載っていた。
 
この記事を読まなければ、毎日、テレビで「木枯し紋次郎」を見て、その映像の美しさ、中村さんの迫力ある縁起に圧倒されるだけで終わっていただろうが、突然、44年ぶりの中村さんの写真を見て、長い年月が経ったことを思い知らされた。
 
ぼくと同じ年の84歳の元都知事・石原慎太郎さん、最近、よくテレビで拝見するが、顔を見ても、よたよた歩いている姿を見ると、ああ、年をとったんだなと思う。
 
ぼくにしたって、下北沢の駅までわが家から30分はかかるが、早く歩いているつもりでも、誰もがぼくを追い抜いていく。
 
他人さまがぼくの姿を見たらどう思うのだろうか。
 
「僧籍に入った76歳。法名は中村忍舟。現在の心境を「戦場の散歩」にたとえる。
 
事故、病気などで身近な人がばたばたと倒れていく。
 
いつ自分に『弾』が当たってもおかしくない。
 
しかも合理的な説明がないまま『弾』は突然、飛んでくる。
 
戦場で散歩をしているようなものです。
 
この感覚は若いときにはわからなかった。
 
年齢を重ねて、身体能力や記憶力は衰えてきたと感じる。
 
「過去のみずみずしい体験を思い出そうとしても再現できない。
 
一生懸命勉強したこともほとんど忘れてしまう。
 
そうすると、一番重要なのは『たった今』ということになります。」
 
ぼくよりも8歳も年下の中村敦夫さんが、こんなことを語っているのを読むと、「戦場で散歩」の言葉が、ずっしりと胸を打つ。
 
こんな記事など読まないほうがよかった。
 
紋次郎がバッタ、バッタ切り倒す剣法は、道場で修行したものではない。そこが面白い。
 
何人も、何十人も切り倒して覚えたものだ。
 
ぜひ、見てほしい作品だ。
 
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2016年11月 5日 (土)

今も昔も、トイレはゲイのハッテン場!

トイレとゲイは、切っても切れない「えん」がある。
 
これは日本だけでなく世界中でだ。いまの話ではなく、20年も前の話だ。
 
読者アンケート・幸運べったり編で「トイレ事件」「幸運べったり編」とは、なんとも嫌らしい。
 
「ハッテントイレ。いつものように真夜中の散歩としゃれこんで、一夜のアバンチュールを求めていたところ、短髪の渋いおじさま(45歳ぐらい?)が誘ってきて、ちょっとタイプとしては年齢的に上だったけど、OKしてトイレの個室へ。
 
いざ始まったんですが、誰かが入ってきた気配をかんじるたびに、その方は腕に口をおしあてて、ブビブゥ〜とオナラのような音をしたり、のどを絞り大きく鳴らして吐いているふうを装ったり。
 
そのたびにわたしのアソコはシュンと萎えてしまいまして。
 
その方、ひとりで盛り上がって、いろんな音を出しながら、かってにイッて、自分はイカずに早々に、その場を離れましたワ。
 
あんな時間、お仲間しか来やしないのに。(埼玉県・M・アントワネット・37歳)」
 
ゲイの人って、ゲイ人さんが多いから、猫八さんのお弟子さんだったかも。
 
「早朝発のため、ある空港で徹夜したとき、トイレですっごい肛門性交の音と声。
 
掃除のオバさんと、ア然として聞いていた。
 
ことが終わった後も、個室でふたりは大声で話していた。
 
出てくるのをオバさんがずっと待っていたけど、1時間くらい出てこず、オバさんが声をかけると、堂々と出てきた。
 
ふたりは空港関係者でした。(福井県・中年)」
 
飛行機の乗務員には、ゲイの人が多いそうだ。
 
女性よりも神経が繊細で、よく気がつくから、お客さんのサービスには向いているのかも。
 
「デパートのトイレで、大をしていたら隙間からスゥーと手がのびてきてびっくり。
 
「そっちに移ってもいい? 俺は32歳です」と書かれたメモがスルスルと。
 
一瞬、迷ったけれど、OKのサインを出すと移ってきた。
 
顔を見た瞬間「いや〜、タイプで」、もう超うれしくて、俺のチンポを彼の尻へズボズボ、声を殺しながらのHはスリル満点。
 
今は自分の彼氏になって、一緒に住んでいます。(大分県・35歳)」
 
こういう出会いもあるのかな。ウンがよかったのだ。
 
「高級デパートのメンズフロアのトイレで、保安員が巡回中、人の気配があって、扉が少し開いているので不審に思い、ノックしても反応がないので開けたら、20代なかばの男性のものをギンギンに勃て、扉に向かい立っていたそうだ。
 
罪にはならないが、一応、保安室に連れて行かれて注意されたらしい。
 
以前、トイレでプレイしたことがあったとか。
 
安全とサービスのため、各フロアの主任は客用のトイレを使っても良いことになっている。
 
日曜祝日には何百人もが使用するのだから。
 
ビニ本でオナった跡など、さまざまだが。
 
私も一度、本番中に遭遇したことがある。
 
個室からするのは便秘でも、体調が悪いのでもなく、あきらかによがっている声だった。
 
ごくろうさんと、つぶやいて出てきたが、ノンケの社員だったら「お客さま、大丈夫ですか?」と声をかけ、ノックして確かめようとするだろう。
 
デパートのトイレは要注意。(大阪・ポログラフ・36歳)」
 
この人、ひょっとしたらデパートの保安員かも?
 
トイレがハッテン場だった。さて、今はどうかは分からない。
 
ウンがよければ、いい人と出会えるのだから、今も昔も変わらないかも。
 
トイレに行って確かめてみるか。
 

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