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2016年12月

2016年12月31日 (土)

新年1発目の「文ちゃんと語る会」は!

新年1回目、「文ちゃんと語る会」は1月28日(土)開催です。
 
日時・1月28日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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2016年12月24日 (土)

三島由紀夫原作「愛の処刑」の映画を!

2016年12月18日(日)下北沢南口のブックカフェ「B &B 」で、15時から「「愛の処刑」上映&禁断のトークイベント」が、開催された。
 
1960年に神山保のペンネームで、地下出版の「アドニス」の別冊「APOLLO」(新書判ぐらいの大きさで、3人の作家の短編小説が掲載されている。僕の手元にあったが、現在は早稲田大学の図書館の特別な部屋に保存されている。)に、三島由紀夫の作ではないかと、噂された作品だ。
 
1973年(昭和48年)の『薔薇族』5月号に「愛の処刑」を載せている。43年も前のことだ。
 
『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君が、作品の解説をしている。
 
「執筆の動機になったと思われる切腹への執着は、時を同じくして発表された「憂国」に共通しており、新かなづかい(最後の「をはり」は気が緩んだせいか)や、いつもの華麗な文章のないことなどが、かえって三島氏ではないかと思わしめる。
 
実際にこれが三島氏の筆になるものだとしても、真実を知るのは、生の原稿を受け取った人だけであり、その人が真実を言うわけがないから、「愛の処刑」は「幻の作品」ということになる。」
 
生の原稿を受け取ったのは「アドニス」の編集長だった、作家の中井英夫さんで、この方のちに「短歌研究」の編集をされていたことがあり、寺山修司君を世に送り出した方だ。
中井英夫さんは、1983年(昭和58年)に亡くなられている。
 
監督の野上正義さんと、ぼくとの出会いは全く記憶にない。「野上組スケジュール表」が「愛の処刑」の台本の間に挟み込まれている。それによると、9月9日AM7時、新宿駅前、安田生命前に集合とあるが、年号が書かれていないが、おそらく1983年(昭和58年)だろう。
 
撮影場所は千葉県勝浦の漁師町に残っていた、かなり古い網元の家。そこを借りられたことがこの映画の重みを生み出したのだ。9月10日の夜に帰京とあるから、4日間で1時間ものの映画を作り出したことになる。
 
脚本は吉本昌弘、撮影・伊藤英男、照明・石部肇。カメラマンの伊藤さんと、照明の石部さんは、映画の全盛時代に活躍された有名な方だそうだ。
 
高校の体育教師を演じられた方は、筋肉隆々で、適役だった。高校生の役の少年は、どうかなと思っていたが、意外と良かった。
 
「B&B」満席の50名の集まってくれた方々も、感動して見てくれた。映画が終わってからの鈴木邦男さんと、ぼくとのトークは、どうだったのか。熱心に聞いてくれたのだから、良かったのだろう。
 
日本で最初のゲイ映画を作り出したことをぼくは誇りに思っている。三島さんがこの映画を観ても、喜んでくれたに違いない。
 
この後に作られた「憂国」、ツール映画祭で受賞され、映画評論家たちに絶賛されたが、SM雑誌「風俗奇譚」に、『薔薇族』でしばりのイラストや小説を寄稿された大川辰次さんが酷評してしまった。
 
大川さんが三島さんと出会った時のことを『薔薇族』に寄せてくれた。
 
「プロの劇評家は金次第で何とでも書きますが、私がほしいのは貴君のような方の批評です。もっと聞かせて欲しいと思い編集長に頼んだのです」と。
 
三島さんは大川さんを料亭に招いて話を聞いてくれた。「今度制作する時は、ぜひスタッフに加わって欲しい。そして今後はあなたを親爺と呼ばせてくれ」と。いい話ではないか。
 
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「愛の処刑」の撮影現場

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2016年12月19日 (月)

「紅白歌合戦」は今年から見ないぞ!

救世軍の軍人として、祖父の伊藤冨士雄が、お女郎さんを救い出した数は、987人にも及ぶ。祖父から生前、沖野岩三郎さんは話を聞き出している。そのひとりひとりの話が長いのが困りものだ。
 
昭和5年6月に「中央公論社」から『娼妓解放哀話』として出版されている。ぼくが古本屋からやっと買い求めた本には、長野県上田市の「ほその書店」の紙が貼ってあり、「一番庵蔵書」との蔵書印が押してある。
 
古書としての値段も高かったから、貴重本といえるだろう。
 
ぼくにとっては、祖父が今でも生きていて話を聞かせてくれているような気がする。
 
ぼくは馬鹿みたいに、3、40年前に制作された時代劇にはまっている。どの作品もじつによくできている。「鬼平犯科帳」など何度も同じ作品を見ているが、昨日のことも忘れてしまっているから、何度同じ作品を見ても新鮮に見れるのだからありがたい。
 
『時代劇専門チャンネルのすべてがわかる情報誌―時代劇専門チャンネルガイド』を1年間の購読料1800円送ると、月末になると送られてくる。
 
朝起きると毎朝かかさず見るのは、杉良太郎主演の「遠山の金さん」。9時からで、そのあとは10時から「新・木枯らし紋次郎」中村敦夫主演で、これが見ごたえがある。
 
映画も見れるが、映画は時間が長すぎる。
時代劇はCMを抜いてあるので、50分ぐらいだ。
 
「原作・池波正太郎「鬼平外伝」シリーズ、最新作にして集大成」(鬼平外伝・四度目の女房)
おこうの役で山本陽子さんが天涯孤独な老女として出演している。
 
長い時間が過ぎ去って、ぼくの原作の「ぼくどうして涙がでるの」昭和40年の秋の日活の芸術祭参加作品となったが、山本陽子さん、セリフもない多数の看護婦さんの役で出演しているではないか。
 
古い時代劇に出演している役者たちもみんなそれなりに年をとっている。すでにこの世にいない役者さんも多い。
 
日本も高齢化社会に突入している。テレビで若い芸人たちが出演している番組、なにがおかしいのか、つまらない話なのにゲラゲラ笑う。不思議としか言いようがない。
 
吉本の芸人さんと知り合うことになって、新宿の南口にあるビルの上の演芸場に招かれて行ったことがあった。
 
あの観客の笑いは、ロックの歌手がわけも分からない歌を歌っているのを立ち上がって一緒に楽しんでいる。芸が面白いわけでもない。
 
野球の応援もそうだ。応援することを楽しんでいるだけのことだ。年寄りが必ず見ているのは、日本テレビの「笑点」だ。
 
すぐに回答がでてくるわけがない。あらかじめ台本を見て回答をしているだけのことで、構成を担当している人が、少しでも笑いをとろうと毎度苦労しているということだ。
 
原作もいいのだろうが、脚本が練りに練られている。
 
京都に松竹の映画村があって、江戸時代の街が再現されている。時代劇って多くの人の力を結集しないとできない。
 
最近、時代劇専門チャンネルが、松竹と手を組んで、時代劇を作り出している。高齢者になってくると、若い人向けの番組は見る気にならない。
 
「紅白歌合戦」も、もう見る気がしない。「時代劇専門チャンネル」は、高齢者が楽しみに見ることによって、商売にもなってきているのではなかろうか。
 
きせるで、きざみ煙草をくゆらすシーンは、遠慮しないで、もっと入れるべきだ。江戸時代の話なんだから。

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2016年12月18日 (日)

心中するしか逃げ場がないとは!

「大正3年9月28日の」ことだった。新吉原江戸町2丁目の中村楼にいる常盤木という娼妓から1通の手紙が伊藤君(ぼくの祖父)のところに届いた。
 
読んでみると、ひらがなと、カタカナとをまぜこぜにした、さっぱり分からないものではあったが、それでも廃業したいから、ぜひ来てくれというのであった。
 
早速行って会ってみたが、形容のできないほど、意志薄弱な女で、どうにも手のつけようがなかった。
 
「とにかく、あなたは今日限りで娼妓をやめたいと思うのですか」
 
「はい、もう一日もこんな稼業はできませんから、やめたいと思います」
 
「では、これから僕と一緒に警察に行きましょう」
 
「だけど、おかみさんに叱られますから」
 
「自分の意志で廃業するんだから、おかみさんだって、誰だってそれを邪魔する権利はないのです」
 
「警察に行ったら、きっと巡査さんに叱られるでしょう」
 
「そんなことはない。僕がそばについていてあげるから」
 
「廃業したあとで、私はどうなるのでしょう」
 
「堅気になって働けばいいのじゃないですか、まだ若いのだから」
 
「だって女郎なんかした者を、やとってくれる人はいないでしょう」
 
「そんなこと言っていては、らちがあかない。早く決心しなさい」
 
「ええ、決心はしているんだけど、私・・・」
 
そんな問答を百万べんとくりかえしても、なんにもならないと思ったので、伊藤君は最後の駄目を押して、一緒に警察に行くだけの勇気が出たらいつでも、救いに来てあげるからと言い置いて帰った。
 
ところが一週間ほどたって、常盤木はなじみ客に頸動脈を切られて死んだ。男も一緒に死んだので、死人に口なし、事情はさっぱりわからないが、伊藤君は面会をしたときの事情から察すれば、やっぱりぐずぐず言っているうちに、男から無理心中をさせられたものであろう。
 
その翌年、9月4日のことであった。同じ新吉原の「一力楼」にいる春駒という娼妓から手紙で自廃の助力を求めてきた。この女性は常盤木よりも学問があって、手紙もひととおり読めるように書いてあった。
 
手紙を読むと、すぐに伊藤君は面会に行ったところが、一力楼はなかなか面会をさせない。
 
とうとう交番の巡査に頼んで、面会をすることはできたが、楼内で面会をされては、他の娼妓たちへ、自廃を伝染してはならないというので、仲の町の写真屋の2階で、おかみ立ち会いのもとで、面会してみると、春駒はかわいそうに、脳梅毒のために髪がすっかりぬけてしまって、かつらをかぶって商売をしているのであった。
 
伊藤君と春駒との間にいろいろな問答があった末に、いよいよ所轄署に出て名簿削除の申請をしようという段になると、そばにいる女将の顔色をうかがって黙り込んでしまう。
 
女将はそこにつけこんで、「ただ今、主人は不在中ですから、帰り次第すぐ立派に廃業させてあげます」と、さもまことしやかに言ったので、すっかりだまされて、春駒は伊藤君にきょうはこのままひきとってほしいと言った。(中略)
 
かつら女だと知ってか知らないでか、なじみでもない客と、刃物心中を企てて二人とも絶命した。」
 
医者の話によると、「遊郭で心中する男も女も、性病からくる麻痺性痴呆症患者ですよ。この患者だけはどうにも手におえない」と。
 
哀しい話ではある。

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2016年12月12日 (月)

火葬場の煙突から立ち上る煙を見ると! 

「この女なんか、体格が丈夫だったから、意地も張り通せたんですが、体の弱い連中には、ずいぶん困らされてましたよ。これはずっと後の話ですが…。
 
伊藤くんは、また一つの憐れな話をした。
 
上野公園の花見客が、騒いでいた頃、年の頃、二十歳ばかりと見える世にも稀な美人が訪ねてきた。
 
会ってみると、秋田県雄勝郡のもので、洲崎弁天町のある座敷で、しん子と名乗っている娼妓だった。
 
なるほど、小野小町の生まれたところですね。と言って伊藤くんは、しん子の顔を見て、重い病気にとりつかれていることを知った。
 
しん子ははたして病気であった。4、5日前から休業して養生していると、楼主から仙台の方へ住み替えするようにとの話が出たので、今、住み替えさせられては命に関わるから、何とかしてくれというのであった。
 
早速、救世軍病院の医師に来てもらって、診察を受けさせると、肺病も肺病、もう第3期だから、婦人ホームのような多人数のいるところへ置くわけにいかないと言った。
 
さて、困ったことだと思っているところへ、楼主がたずねてきて、今朝から本人が見えないので、多分こちらへお邪魔に上がったのだろうと、思っておりました。健康なものならともかく、病院でございますから、いろんな心配をいたしまして、と温厚なものの言いようであった。
 
そこでしん子を引き合わせると、楼主はしきりに帰るようにすすめた。
だがしん子はなかなか承知しない。
 
あなたは私が容易ならぬ病気だということを承知の上で、気管支炎だから、うがいをすればすぐなおると気休めを言って、うまく私を住み替えさせようとなさったのです。そうすればあなたはお損がなくなって、よろしいでしょうが、私は呼吸が苦しくて、もう1日も稼業ができません。
 
あまりしん子の態度が明瞭だったので、楼主もとうとう廃業に同意して、即日、その手続きを済ませた。
 
そこで伊藤くんは、救世軍病院に連れて行って入院させたが、非常に賢い女性で、日曜ごとに熱心に説教を聞き、とうとう救世軍の兵士に入隊式まで済ませたが、その年のクリスマスの朝、病院で感謝のうちに死んでしまった。
 
しん子の本名は芳子というのであった。両親に早く死に別れ、叔父の所で育てられたが3人姉妹とも、叔父に売り飛ばされて、悲惨な境遇にいたのであった。
 
死ぬ三日前に涙で滲んだ手紙が、伊藤君の手に届いたので、早速駆けつけてみると、骨と皮とに痩せ衰えながらも精神だけは実に確かであった。自分が亡くなったら、遺骨は埼玉にいる妹の所へ取りに来るように言ってくれと遺言した。
 
亡くなった時、すぐに電報で妹に知らせてやったが、何の返事もなかった。そこで伊藤君は柳原川岸の助葬会に頼んで火葬にし、遺骨は院長室に保管を頼んでおいたが、翌年の7月に、その妹というのが、5円の金を工面して、ようやく姉の遺骨受け取りに来て持って帰った。
 
火葬場の煙突を見るたびに、ぼくは姉の遺骨を抱えて、泣く泣く病院を出て行った、あの妹の事を思い出す。今頃はもう姉と同じ運命に落ちてるかもしれない。
 
伊藤君は静かに立ち上がった。私も元気なく戸口まで伊藤君を見送った。」
 
この話は中央公論社刊の『娼妓解放哀話』沖野岩三郎著による。
貧乏人を食い物にする悪い奴は、いつの世にもいるものだ。

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2016年12月10日 (土)

鬼平も世の中かわり煙草やめ

ぼくが10数年書き続けているブログの中で、一番関心を持って読まれているのは、祖父・伊藤富士雄が吉原の女郎さんを987人を救い出した話のようだ。
 
ぼくは時代劇専門チャンネルに料金を払って、毎月、3、40年前に制作された、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」「遠山の金さん」「木枯らし紋次郎」などを楽しみに見ている。
 
「鬼平犯科帳」の監督の1人、高瀬昌弘さんと、世田谷文学館で知り合ったので、何度も注目して高瀬さんの作品を見ることにしている。
 
最近、フジテレビが、二夜に渡って、松竹に依頼して「鬼平犯科帳」を制作し、放映した。
 
中村吉右衛門さんにしたって、30年もたてば歳をとる。すでに亡くなっている人も何人かいる。
 
初めてこの作品を見た人は、別に何も感じないだろうが、若い時の作品ばかりを見ているぼくには、何とも言えない不思議な感じがした。
 
以前の作品には、鬼平を演じる吉右衛門がキセルで、きざみ煙草をふかすシーンが随所に出てくる。それは文章の句読点みたいなもので、重要なシーンだった。
 
今の時代、タバコを吸うことが悪とされているから、気を使ってタバコを吸うシーンを全てなくしてしまった。
 
鬼平の時代は江戸時代で、誰もタバコを吸うことなど気にしていない時代だ。馬鹿な話ではないか。
 
ぼくは母親が「煙草を吸うな」と言うものだから、一度も煙草を吸わずに生きてきてしまった。
 
煙草を吸うことが体に良くないことは承知しているが、止められる人はいいが、やめられない人を無理にやめさせたら、ストレスがたまってかえって体に良くないのでは。
 
わが家にも2人ヘビースモーカーがいる。女房と次男だ。いくらやめるように言ってもやめない。もう諦めている。
 
最近では街中で煙草を吸う場所が決められていて、そこで固まって吸っている。何とも哀れな人たちの姿だ。
 
カジノを作る法案を自民党が可決したようだが、博打のほうが煙草よりなお悪い。人間、欲望の前には弱い。はまり込んだら中毒になってやめられない。
 
時代劇には必ずといっていいほど、博打場のシーンが出てくる。それと吉原だ。
 
女性が体を売るということ。本人が望んだわけではないのに、親が貧乏のために、泣く泣く、女郎屋に娘を売る。なんとも悲しい話だ。
 
祖父・富士雄の話を書こうと思ったのに、脱線して煙草の話になってしまった。
 
祖父たちが体を張って、お女郎さんを救い出しても、また元に戻ってしまうのではという質問に、祖父はこう答えている。
 
「世間には自由廃業を面白いやり方ではないと非難する人が多いが、それは娼妓稼業が、どんなに苦しいものだかということを知らない人の言うことです。
 
今、私がある期間に取り扱った300人の廃業者が、どんなところに縁づいているかをお目にかけましょうと言って、伊藤君はノートブックを机の上において、大きな手でそのシワを伸ばした。そのノートブックには、きれいな文字で、その統計が記されていた。
 
工場職工37、会社員16、人力車夫11、日雇い労働10、大工職10、印刷職工9
 
とても書ききれないが、娼妓をした女の結婚は、案外幸福です。
なんといっても人生のどん底見てきた人間ですから、普通の女の知らない苦労を知っているので、自然に亭主に対する心遣いも良いのでしょう」

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大きくても、小さくても気にしない!

大きすぎても悩まし、小さすぎても悩む。
中ぐらいがいいということか。
大きくても小さくても自然に生まれついてしまったのだから、そんなことで悩まないことだ。
 
大きすぎて悩んでいる、東京都の村上まさる君の悩みだ。
 
「僕は小さい頃から、家の風呂に入っていたので、自分のものが人並み以上に大きいことを知らなかった。
 
男はみんなこのくらいのものを持っているとばかり信じていた。
しかし、高3の修学旅行で風呂に入る時、友達はタオルを腰に巻いたり、手で隠したりして湯船まで行ったけれど、自家風呂でいつもブランブランさせていた僕は、その癖がついていて、人前で隠すことを知らなかった。
 
「うわ、でかい!」「すげーなー」「ずる剥けている。これが勃起したら、どのくらいになるんだろうな。素晴らしいもの持っているなあ!」
 
羨望と半分からかい気分も混じって、友達がワイワイ騒いでいるのを見て、友達の股間に目をやってみて、初めて自分の物が大きいことを知ったのだった。
 
勃起した時はかってみたら、長さ19.5センチ、太さは15センチだった。
 
社会人になっても、旅行に行っても、いつも友達と一緒に風呂に入ったことはなかった。
 
風邪をひいているからとか、理由を言って、こっそりと部屋にある風呂に入っていた。
僕はだから、いつも一人ぼっちだった。
 
そんなことから、この道(ゲイ)を知り、映画館でハントされてホテルに行き、相手から褒められたのが、自信を持つきっかけとなった。
 
デカマラは男として何も恥ずべきことではないと、胸を張って生きていこうと決心した。
 
しかし、デートをした時、すべての女に僕の20センチに近いマラを見て、「ダメよ、こわれちゃう」と言って、入れる前に断られるのが常だった。
 
ソープランドに行った時も、「ずいぶん男のモノを見てきたけれど、あんたのようなのは、まれであって、久しぶりよ。こんな大きなのを見るのは」と、驚きとも感嘆ともつかないことを言った。
 
え〜ままよ、そんな男同士で遊んでやる。
そしてこの道に入って、2年が過ぎました。
 
「24会館」「駒込ケンコウ」「鴬谷一条」「千雅」「法師」「童安寺」「横浜クラブ」とありとあらゆる発展場へ出かけていった。
 
そして僕のマラをしゃぶってくれる人々は、みんなそのデカイのを羨ましがってくれた。
しかしバックはさけちゃうと言ってやらせてくれなかった。
でも69スタイルでのフェラは、争って僕のマラを使ってくれた。
 
でも一つ迷いがある。というのはこのデカマラが勃起すると、貧血を起こすことである。それと勃つまでに時間がかかるのが残念だった。
 
デカマラに生んでくれたおふくろや、親父を恨んでいる。
マラなんて並でいいんだ、要は固くなってい用が足りればいいんだから、人並み外れたデカマラを持ったばかりに、人生の春は、僕にはない。」
 
『薔薇族』の読者には、マラが小さくて劣等感を持っている人もいる。
しかし小さいほうが好きだという人もいるし、大きいのが好きだという人もいるのだから、そんなこと気にしないことだ。人間、みんな違うのだから…。
 
僕のブログを読んで、コメントしてくれる人がいる。ありがたいことだ。
カフエ「織部」の店長がいつも見せてくれるので、読んでいる。
反響があるということは嬉しいことだ。
 

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2016年12月 5日 (月)

大阪で「バイロス展」が開かれる!

大阪で「バイロス展」が開かれる!
フランツ・フォン・バイロスという画家の名を知っている人は少ないだろう。
バイロスの研究家であった、神戸に住む山本芳樹さん、何年も前に亡くなられているが、山本さんが残された本から引用させていただく。
『わがバイロス公爵』(山本芳樹著・青森県弘前市の緑の笛豆本の会刊・昭和61年9月1日発行)手のひらに乗ってしまう豆本だ。
 
「19世紀末から20世紀のはじめに、ウィーンとミュンヘンで活躍して、58歳で貧窮のうちにその生涯を閉じたバイロス公爵(1866年〜1924年)は、まだ謎の多い画家である。
 
貴族の家に生まれながら、その経歴や彼が制作した作品の全貌が詳らかではない。
 
あれだけ優雅で艶治で、華麗な蔵書票や、挿絵を残しながら、バイロスの名は一般の美術史から黙殺されている。
 
その理由は彼の絵がエロティックで、富豪や愛書家のための小数限定の特集本の挿絵や、蔵書票が多く、それが個人の書斎の奥深くに収められてしまうと、一般の人々の目に触れる機会が少なかったためと思われる。
 
確かに彼の絵には、ひそやかに愛蔵してひとりで楽しむ官能と快楽の誘惑がある。
 
ロココの優美な装飾性と、アール・ヌーヴォーのデカダンを兼ねそなえたバイロスの耽美的なエロスの両面は、まさに世紀末のひとつの象徴ともいえる絵である。
 
エレガンスで女性的で軽やかな音楽が流れるような画面からは、繊細で甘い官能的なエロスのたわむれが、人々の感覚をくすぐり、それが背徳的で淫靡で、痴戯痴態の限りを尽くす性倒錯的な図柄であっても、バイロスの描く画面は、奇妙にクールにさめていて、感覚による美への耽溺が感ぜられても、生々しい肉の欲情からはほど遠く.罪の意識や、不潔感や、わいせつ感を抱かせない。まことに優れた作品と思わざるを得ない。
 
しかし、バイロスの作品についての評価は、彼の抜群のデッサン力や豊かな構想力を認めながらも、芸術的な力の点では、同時代のピアズレー(1872年〜1897年)やロップス(1833年〜1898年」に匹敵しがたいというのが識者の考えのようである」
 
山本芳樹さんとは親しくなり、神戸に何度も出かけたが、ぼくがバイロスはゲイではと言うと、バイロスは女好きと決め付けていて嫌な顔をされた。
 
バイロスがゲイだったのではという理由は、バイロスは兄と、2人の姉を持つ末っ子で、母親に溺愛されていたということだ。
 
バイロスは30歳で結婚している。相手は当時ウィーン社交界の花形(ワルツ王)ヨハンシュトラウスの娘だ。
ところがこの結婚はわずか1年で破局していて、理由は不明である。
 
蔵書票は本の見返しに貼るものだから、その大きさは、ハガキ大ぐらいのものだ。最初から緻密な絵を描けるわけがない。
 
ぼくがササビーズのオークションで、バイロスの蔵書票の原画を手に入れたことがあるが、新聞ぐらいの大きさだ。薔薇を何百と描いているから、おそらく当時でも、大きい絵を小さく縮小する技術があったのだろう。
 
大阪の堂山町にある「ワイアートギャラリー」が、ぼくのバイロスのコレクションを展示、即売してくれるということになった。
 
とにかくバイロスの絵を見てもらわないことには、バイロスの魅力はわからない。
 
ぼくのブログを大阪に住む人が、どのくらい見てくれているのか分からないが、ぜひ、足を運んでもらいたいものだ。
 
19世紀に描かれた蔵書票も格安で販売する。
 
絵は大きいから優れているわけではない。
小さい絵でも、短歌や俳句のように、作者が小宇宙を作り出していて、蔵書票を「紙の宝石」という人もいる。
 
ぜひ、見てください。
 
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2016年12月 4日 (日)

ぼくは『薔薇族』読者のためにいろんなことを!

知人が経営者の熱海にある小さいホテル、世田谷学園の同期の友人が支配人をしている長野県の「女神湖ホテル」などを使って、参加者を募集し、バス2台でバス旅行を催した。
 
そうだ、金沢のホテルにも行ったことが。これは現地集合だった。
 
参加者はみんな喜んでくれ、またやってもらいたいと、大好評だった。
 
2001年の12月号「編集室から」に、ぼくはこんなことを書いていた。「夢は破れてしまったか?」の見出しでだ。
ぼくは国内旅行だけでなく、海外にも参加者を集めて、行ってみたいと計画したが失敗だった。
 
「憧れのパリに行ったはずなのに。残念!
 
ツアーを募集したのに数人しか集まらず、お流れになってしまいました。
 
パリ在住の八代隆司くんの「巴里の男遊園地」で遊ぶことができたのに、また、しばらくは八代君の楽しいパリからのルポを読むだけで我慢するしかありません。
 
かなり前の『薔薇族』のページをめくっていたら「伊藤編集長と一緒にサンフランシスコに行こう」なんていう広告が載っていたっけ。
これも夢まぼろしに終わってしまった。
 
やはり5日間か、1週間かけて、10人、20人のツアーを組むというのは難しい。
海外旅行となると、たっぷり時間をかけて準備をしなければ無理なのでは。
 
2年ほど前にゲイ専門の旅行会社を立ち上げた人がいましたが、惜しくも失敗していました。
 
中小旅行会社に航空券を卸売りする「ルウエスト」は、同性愛者だけを顧客にする旅行会社を立ち上げる。ゲイ専用ツアーを扱う旅行会社はあるが、専業会社日本では珍しい。
 
新会社は「レインボー」。資本金は1000万円で、ルウエストが全額出資する。
 
東京都内に本社を置き、都に旅行業登録する。
まず数人の従業員でパレード参加ツアーなどを販売する。
 
ゲイのカップルの宿泊に偏見を持たない、ホテルや、リゾート施設を紹介していく。
 
「米国ではゲイの人々の社会的地位は高く、平均収入も高い。
専門会社を設立し、きめ細かなサービスを提供すれば、日本でも高額ツアーの需要を掘り起こすことができる。と社長は判断した。
 
初年度.1億円の売上高を目指す。」
 
確かに社長の言われる通りで、ゲイ専門の旅行会社が、いくつか日本にあったって不思議ではない。
 
しかし、ぼくの勘では、まだまだ無理ではと思ってしまう。
 
ゲイの社会的地位の高い人ほど、こうした旅行会社を敬遠してしまうのでは。
 
むしろ一般の旅行社を使ってしまうと思う。欧米の感覚では、日本の場合、社長の思惑通りにはいかないだろう。
 
しかし、大変良いことなので、会場を立ち上げたら応援したいものだ。まだまだ知恵を絞れば無限に新しい仕事が生まれてくるだろう」
 
ぼく個人では、ロスに10何年も住む日本人と、イタリアから移住したアメリカ人に誘われて、ロスに何度か行くことができた。
 
平屋のアパートで、そう広い部屋ではないが、高いものを飾っているわけではないが部屋は綺麗だった。
 
この2人との最初の出会いは忘れてしまっているが、2人と出会わなければ、アメリカに行くことはなかったろう。
 
ある意味では『薔薇族』編集長、伊藤文学を利用したのだろうが、アメリカのゲイ雑誌『フロンティア』のオーナーとも親しくなれたので、嫌なことは忘れることにしている。
 
トムの館にも読者を連れて行きたかった。夢のような話だった。
 
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パリには行けなかった!

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次回、「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回、「文ちゃんと語る会」は12月24日(土)開催です。
 
日時・12月24日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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