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2017年1月

2017年1月30日 (月)

短歌は万葉集の時代に戻そう!

戦後まもない昭和23年に駒沢大学の文学部国文科に入学し、万葉集の研究者でもあり、歌人で「白路」を主催する森本治吉教授に出会ったことで、ぼくは短歌を作り始めた。
 
学生時代に作った短歌をまとめた「歌集 靴下と女」(1993年4月)の序文に、親友だった阿部正路君(当時は國學院大学生で、後に国学院大学教授)が、「伊藤文学君と初めて会ったのは、昭和25年の5月、東京大学の構内の三四郎池のほとりだった。」と、ある。
 
各大学の短歌を作歌する学生たちを集めて、阿部君と2人で運営した。
 
ぼくが催しを企画し、画期的な催し物を何度も開催した。
 
 
 
大学を卒業して、ぼくは間もなく、短歌とおさらばしてしまい、それから60数年、短歌とは縁がなくなってしまった。
 
大学歌人会の仲間たちで、今もなお作歌を続けている人は、歌壇でもかなりの地位を占めているのは嬉しいことだ。
 
いまさら短歌がどう変わろうが、ぼくには関係のないことだが、2017年1月14日の新聞に.新春恒例の宮中行事である「歌会始めの儀」が13日、皇居宮殿であり、天皇皇后両陛下や皇族方が詠まれた歌が披露された。
 
今年の題は「野」で、一般応募で2万205首から入選した10人の歌も詠み上げられた。
 
5人の選者の作品も出ていた。
 
 
 
その中の1人S 君は、大学歌人会の時の2年ほど後輩だ。
 
60年以上も作歌を続けているのだから、歌集も何冊も出しているのだろうが、目にしたことはない。
 
宮内庁の仕事をするようになってからは、ぼくとのお付き合いは途絶えている。
 
それは当然のことだ。
 
アウトローのぼくのようなものを避けるのは、S 君だけではない。
 
都立高校の校長にまでなった、クリスチャンのA 君にも敬遠されてしまった。
 
そんなことはどうでもいいことだが、選者のS君の作品の酷さを読んで.短歌を作歌している多くの人たちに苦言を呈したいと思ったのだ。
 
 
  書くためにすべての資料揃ふるが慣ひとなりしきまじめ野郎
 
 
これが選者の作品とは情けない。
 
作歌と60数年離れたとはいえ、作品の良い、悪いはわかる。
 
「きまじめ野郎」は、S 君、自分のことを言っているのだろうが「野郎」という言葉は下品な言葉で、「この野郎」と、怒って相手を罵る言葉だ。
 
ぼくがこの作品を添削すると、「きまじめな人」くらいにするだろう。
 
それにしても何の感動も呼ばないつまらない作品ではないか。
 
お題が「野」。下品な言葉の「野郎」。
 
たしかに「野」が入っているが、あまりにもこじつけ、「この野郎!」と、ののしってやりたいぐらいだ。
 
 
 
「俵なんとか」という女性の作品が話題になって、短詩というべき作品が、はんらんしているが、短歌はあくまでも、5・7・5・7・7の定型を守るべきだ。
 
もう一度、万葉時代の作品に戻るべきではないだろうか。
 
規則を守って、その中でいかによく表現するかが大切だ。
 
昔から口語短歌を作る人はいたが、いずれも成功していない。
 
5・7・5・7・7、誰が考えたのか知らないが、リズム感が良く、自然に定着したのだろう。
 
それに文語体のほうが格調がある。
 
絵画でも、その基礎になるデッサンをしっかり学ばなければならない。
 
短歌でも「写生」を勉強すべきだ。
 
これは正岡子規の言葉だったか。
 
文化勲章受章者で大学歌人会の先輩、万葉集研究の権威、中西進君はこの作品をどう評価するだろうか。

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2017年1月28日 (土)

路地のまた路地の奥にある「織部」へ

ぼくの仕事の発想のすべての元はといえば「オナニー」からだ。
 
1966年(昭和41年)に第二書房から出版した.秋山正美著『ひとりぼっちの性生活』、秋山さんは出版社に売り込みに歩いて果たせず、出版社など何社もない、世田谷の代沢にある第二書房に持ち込んできた。
 
それから51年にもなる今、パラパラとページをめくってみたが、こんな七面倒な本を読んでオナニーをしなければならなかったのか。
 
秋山さんは「まえがき」にこんなこと書いている。
 
 
 
「私は自分の意見を全く自分の意思にもとづいて書いた。
 
題も自分でつけた。
 
出版社のほうから依頼して、本書を出版していただいたのである。
 
こういう場合、出版物の内容を自社の出版企画に合わせようとして、原稿の一部を書き換えたり、削ったりする出版社がある。
 
けれども私の著書は、まさしく一字一句原文そのままに印刷され、出版されたのである。
 
したがって、私がこの本の内容のすべてにわたって全責任を取るのは、当然のことである。
 
この本が、孤独に生きるあなたの日々に、ほんの少しでも役立つことを祈りつつ。」
 
 
 
ぼくが51年前、この手書きの原稿を一字一句読んでいるわけがない。
 
「勘」というか、ぼく特有の「感性」で判断して、出版を決めたのだと思う。
 
学生時代にオナニーで悩んだ経験、当時はオナニーが体に害になると言われていた。
 
何かの雑誌に医学博士が書いた「害にならない」という記事を読んで、ほっとした気持ちになった事も覚えていたからだ。
 
 
 
この本がきっかけとなって、「レズビアンテクニック」「ホモテクニック」となり、何十冊かの同性愛の単行本に繋がっていった。
 
そして1971年7月に、日本初の同性愛誌『薔薇族』となった。
 
『薔薇族』は廃刊になってしまったが、30数年前に発売した「愛の潤滑液ラブオイル」は、多くの読者の信頼を得て、今も売れ続けている。ありがたいことだ。
 
 
 
オナニーのやり方を書いたが、「ひとりぼっちの性生活」を読まなくても、「ラブオイル」をぬってしごけば、気持ちよく、ひとりぼっちの性生活を楽しめる。
 
 
 
ぼくは本嫌いで本を読まないのではなく、難しい事を書いた本を理解できないから読まないだけのことだ。
 
「オナニーと日本人」ぼくはこの本を購入した記憶がないから、読者が送ってくれたものだろう。
 
オナニーにも古代ギリシャからの歴史があり、よく調べて書いたものだ。
 
オナニーの発想からいい仕事を生み出すことができたぼくとしては、この本を読んで、勉強すべきだろうが、老眼鏡をかけて、その上、大きな虫眼鏡で、小さな文字を読むのは大変なことなのだ。
 
ネットもいじったことがない、スマホなんてものも持たないぼくは、時代に取り残された人間かもしれない。
 
しかし、戦争の体験もある。
 
戦中、戦後の食物がなかった時代、日本が元気が良かった時代を知っている。
 
男性同性愛の雑誌『薔薇族』を創刊してから30数年の体験は、誰も知ることができないぼくだけのものだ。
 
「文ちゃんと語る会」の会場、カフエ「織部」、路地のまた路地の奥なのに、スマホで難なくこられてしまう。
 
便利なとことか幸せなのか。
 
探し歩いてやっと見つけたときの喜び。
 
感動のない生活って、わびしいのでは。

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2017年1月23日 (月)

弱いものいじめはなくならない!

血の繋がらない子供をいじめる継子いじめの話は昔からある。
 
今は亡き、小沢省一さんが、新潟によく来られて、田んぼを作ったり、女房の古里の隣町の地名を忘れてしまったが、古い消防署の建物を利用して、昔、使った農機具や、日用品を展示している中に、「のぞきからくり」があった。
 
 
 
かなり大きなもので、国内でも珍しく、その「のぞきからくり」を小沢さんが宣伝してくれていた。
 
箱の中に絵がかかれていて、それが紙芝居のように変わるのを女の人が独特のしゃべり方で、講談のように語る。
 
その話が悲しい継子いじめの話だった。
 
 
 
継子いじめは理解できるが、自分のおなかを痛めて産んだ子供をいじめるというのはよくわからない。
 
ぼくは親父や、おふくろからなぐられたりした記憶はない。
 
岩手県の山奥から小さな出版社の社長の家に、女中奉公として出てきた母だ。
 
小学校も冬の間は雪が降り積もり、通えなかったのだろう。
 
その出版社に勤めていた父と、結ばれることになったようだ。
 
無学の母を馬鹿にして、暴力をふるったりするのを見るのは、子供心でもいやだった。
 
 
 
1月11日の夜(この日は、ぼくの先妻の47年目の命日)「日本テレビ・スペシャルドラマ・愛を乞うひと」が放映された。
 
「文部科学省選定」とある。お役所が教育的と見て、制作費を援助したのかもしれない。
 
東京新聞の「視聴室」(番組の解説)に「幼少期に実母から虐待を受けていた女性が過去と向き合うヒューマンドラマ」とある。
 
子役の鈴木梨央の演技は、すさまじい。水を頭からかけられたり、なぐられたり、けられたり、なんで自分の子供をいじめるのか。よくわからない。
 
ぼくは理解力がないので、こみいったストーリーは苦手。
 
コマーシャルばかりが頻繁に長々と入るので、余計わからなくなる。
 
お役所が援助したということは、「児童虐待の根深い問題をあらためて考えさせられる」とあるように、今の世の中、子供を虐待する親が多いので、ドラマ化に手助けしたのだろう。
 
 
 
ぼくが中学生の頃のことだ。
 
戦後間もなくの話で、わが家のとなりの家は、代沢小学校の門前にあったお米屋さんに勤めるご主人と、その奥さん、そしてご主人の母親のおばあさん。小さな男の子と、妹の女の子が住んでいた。
 
 
その中に、どんな境遇で、この家に厄介になっているのかはわからないが、親が戦死したのか、空襲で亡くなったのだろうか。信ちゃんという小学校、4、5年の男の子がいた。
 
 
 
人間お腹が空いてくると、いらいらする。
 
とにかく戦後のことだ。食べるものがなかった。自分の子供に食べさせるのにも大変なのに、信ちゃんに食べさせるだけでも腹立たしかったのだろう。
 
ヒステリックな女で、信ちゃんをいじめまくった。
 
ヒイヒイ泣きわめく信ちゃんの泣き声が聞こえてくる。
 
泣き声を聞いているだけでもやりきれなかった。
 
高校を出てから信ちゃんは、自衛隊に入隊した。
 
 
 
もうひとり記憶に残っているのは、世田谷学園で同期の榊原憲幸君。
 
お父さんは上海陸戦隊の隊長、馬に乗っている写真を見せてもらったことがあったが戦死。
 
おばあさん、お母さん、そして妹は浜松市の空襲で亡くなり、彼だけが助かった。
 
 
 
そして戦後、おじさんの家に厄介になっていた。
 
おじさんはお父さんの弟、奥さんは他人だ。
 
子供がふたりいる。
 
いじめられるのは当然だ。
 
よくわが家に遊びにきたが、母が食べさせていた。
 
 
 
弱いものはいじめられる。
 
いつの世でも変わらない。
 
人間の本能のようなものだから。

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2017年1月21日 (土)

豪華なエルメスのスカーフは!

ぼくは今年の3月19日で、85歳になる。
 
過ぎてみれば、あっという間だ。
 
 
 
下北沢南口「器とコーヒーの店・織部」の店長、奥村君がぼくのコレクションの中から見つけ出した、大正時代の絵ハガキの中のニワトリ2羽を見つめる少年と少女の緩やかに時が流れているような絵ハガキを使って、年賀状を作ってくれた。
 
 
 
300枚の絵ハガキは手書きで、住所、氏名と、それぞれ添え書きをして出した。
 
1日に年賀状は届いたのだろう。
 
慌てて書いたであろう年賀状が、次から次へと戻ってきた。
 
 
 
その中の一通にショックを受けてしまった。
 
息子さんからのもので、「昨年10月に、母 深井美奈子が、79歳にて永眠いたしましたので、年始のご挨拶を失礼させていただきました。」
 
 
 
美奈子さんは、ぼくと、後に国学院大学教授になった故・阿部正路君と、各大学の短歌の愛好者を集めて大学歌人会を結成し、2人で運営していた。
 
美奈子さんは、渋谷の実践女子大学の国文科の学生で、大学歌人会の最後の頃、入会したようで、あまり記憶に残っていない。
 
 
 
ぼくの古いアルバムの中に、大学歌人会の仲間たちと、小田急沿線の柿生の丘(今は民家が立ち並んでいる)の、雑木林を散歩している写真が残っていた。
 
草の上に座って、15人ばかりがひと休みしている写真だ。女性も半分ばかりいるが、男子学生の角帽をとりあげて、ちょこっとかぶっている、ふくよかな笑顔の女性が美奈子さんだ。
 
ぼくはこの少女が美奈子さんだと、ずっと思い続けていて、今もそう信じている。
 
 
 
美奈子さんは母親に勧められて、子供の頃から短歌を作りだし、すでに5冊もの歌集を出版し、2015年にそれらを1冊にまとめて全歌集を出版することになった。
 
美奈子さんの第4歌集『藤の飛瀑』に、著者近影とあって、写真が載っているが、学帽をかぶった、おちゃめな少女とは、どう見てもつながらない。
 
考えてみれば50数年も時を経ているのだから、誰しもが変わってしまうのは当然のことだろう。
 
一緒に写っているぼくにしても、ガリガリにやせていて、今の体重の半分ぐらいしかない。
 
それに髪の毛もふさふさしているが、今は薄くなったというより、無くなってしまっている。
 
それだけ長い時間が過ぎ去ってしまった。
 
 
 
ぼくは現実に恋人ができてしまったら、妄想でつくっていた短歌が馬鹿馬鹿しくなってきて、早々に作歌をやめてしまった。
 
今でも続けている大学歌人会の仲間のひとり早稲田大学国文科卒の篠弘君は、「毎日歌壇」の選者になり、宮中のお歌所の選者にまでのぼりつめている。
 
 
 
美奈子さんが第5歌集『花奮迅』を出版したとき、何か書いたことを覚えている。
 
ぼくがお節介役で、渋谷の中華料理店「白鳳」で出版記念会を開いたが、その時、お会いしたのが最後だった。
 
 
 
おじいさんも、お父さんも、ご主人も、息子さんもお医者さん。
 
めぐまれた家に育っているから、お金に苦労したことはなかったのだろう。
 
作られた歌は、優雅な王朝貴族の作品のようで、華麗な絵巻物を見ているようなものばかりだ。
 
 
 
2015年に5冊の歌集をまとめた『深井美奈子全歌集』豪華な歌集だ。
 
「ぼくの心の中で光り輝いているもの」と題して、ぼくに書かせてくれた、第1歌集『花光珠』粗末な本で、針金綴じ、そのさびた針金が、ぼくの心の中で光り輝いていると。
 
そのときのお礼にと頂いた豪華なエルメスのスカーフ。
 
女房のたんすの中に、しまわれたままだ。

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2017年1月16日 (月)

奇跡はたまねぎ1個から生まれた!

ぼくが通いつめている「器と珈琲・織部下北沢店」のすぐそばの泌尿器科には、7、8年前にオープンした時から、お世話になっていたが、ぼくの前立腺肥大は、一向によくならなかった。
 
一晩に4、5回ぐらいもトイレに行かなければならない。
 
慣れてしまっているから、それほど苦にはならないが、冬は寒いのでこたえる。
 
歌人の斎藤茂吉は、バケツを布団のすぐそばに置いてあったというが、尿瓶も進化していて、こぼれないようになっているものもある。
 
しかし、後で洗ったりするのが面倒だった。
 
医者から睡眠薬を出してもらって、寝る前に1つぶん飲んで寝るが、これもあまり効果はなかった。
 
 
 
ぼくは時代劇専門チャンネルを見ているが、コマーシャルは青汁とか、ノコギリヤシの広告ばかりだ。
 
高齢者が多くなっているから、病気の悩みは、膝、腰の痛み、便がよく出ないとさまざまで、最初だけ安い値段で、それからが高くなる。
 
ノコギリヤシも1社だけでなく、5社ぐらいと広告しているのだから、トイレに通う回数が多い人が、いかに多いかということだ。
 
医者からもらう薬が効果ないので、ノコギリヤシを注文して飲んだことがあったが、効く人もいるのだろうが、ぼくには効果がなかった。
 
 
 
最近、テレビの番組で健康を扱うものが多くなってきている。
 
年寄りが集まると、話題は健康に関する話ばかりだ。
 
どこの局だかわからないが、偶然に見た番組で「それダメ」とかいうのを見たときに、その道の権威の医師が、安眠の方法をしゃべっていた。
 
たまねぎの皮をむいて、枕のそばに置いて寝ると安眠できるというのだ。
 
たまねぎって包丁で切ると涙が出るくらい刺激が強い。
 
あの強烈な匂いが、脳に何らかの刺激を与え、脳が安らぐのだろうか。
 
 
 
テレビを見たその晩から、たまねぎの皮をむいて、匂いプンプンにして、枕元のそばに置いて寝た。
 
奇跡と言うべきだろうか。
 
信じられないような効果があったのだ。
 
 
 
睡眠薬も1粒飲んで寝たが、その効き目もあり、11時頃寝て、4時か、5時頃1回だけ起きるだけで、夢も見ずに安眠できた。
 
ありがたいことだ。
 
10数年続いた悩みを、小さなたまねぎが解消してくれた、うそのような本当の話だ。
 
 
 
正月の2日、3日と、箱根駅伝を見るためにいつもより早起きした。
 
ここ2、3年、青学が優勝して、母校の駒大はかつての力がなくなり、なんと9位になってしまった。
 
10位以下はシード権がなくなるという危ないところだった。
 
野球もかつての栄光はどこにいってしまったのか、2部に落ちて、1部に這い上がってこれない情けない状態だ。
 
数年前に変なものに、120億ものお金を投資して、それがパーになってしまったことがあった。
 
理事長以下、総長、学長も全て入れ替わってしまった。
 
曹洞宗の宗門でも、そんなに優れた人材がいるわけがないから、力の弱まるのは当然のことだ。
 
 
 
国文科の同窓会もずっと続けてきていたが、学校から卒業生に送る郵送費の援助がなくなり、続けられなくなってしまった。
 
ここでひと踏ん張りしないと、ますます落ち目になっていくばかりだ。
 
駒大がんばれ!

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2017年1月14日 (土)

戻されてきた年賀状!

名古屋市に住む榊原克己さん(仮名)、駒沢大学での大先輩だ。
 
1年に1度の駒澤大学の「ホームカミングデイ」という同窓会で出会った方で、ぼくが経営していた、新宿の「伊藤文学の談話室『祭り』」にも、何度か来てくれた。
 
 
 
2、3年前までは、はるばる名古屋から上京して同窓会に出てこられていた。
 
ぼくに会いたいためだったのかもしれない。
 
年賀状出をしたら「あて所に尋ねあたりません」ということで戻ってきてしまった。
 
 
 
榊原さんは、ぼくと出会ったときには、すでに90歳をこえていたが、元気な人だった。
 
高校の先生を定年まで務めていたそうで、教え子には有名人が何人もいると自慢していた。
 
生涯を独身ですごされた方だから、最後はどんなことになったのだろうか。
 
 
 
榊原さん、『薔薇族』の創刊号からの読者で、廃刊になるまでを全部、段ボール箱に入れて保存しているということだ。
 
元気なうちにぼくのところに送りに返してくださいと、頼んでいたが、そんな気力もなかったのだろう。
 
 
 
『薔薇族』廃刊までの382冊が揃っていたとしたらたいへんなお宝だが、ゴミとして処分されてしまったに違いない。
 
このようなことは全国の読者の家庭でも同じだろう。
 
 
 
創刊号からの支援者だった間宮宏さん。
 
どれだけお世話になったかわからない。
 
ゲイのことなら何でも知っている生き字引のような方だったのに、まさか痴呆症になってしまうとは。
 
徘徊するようにまで悪化して遠くの警察に保護されて、木村べんさんのところに電話があり、引き取りに何度も行ったそうだ。
 
病院に入院されて、そこで亡くなってしまったが、自宅は下町のほうにあり、カーテンを取り付ける金具を製造する町工場の社長さんだということが、ずっとあとになってわかった。
 
新宿御苑に面したマンションの一室を仕事場にしていた。
 
まさにゴミ屋敷で、本などが積み上げられていて、座るところがないくらいだった。
 
ゲイに関する貴重な本や、男絵もあっただろう。
 
お兄さんだかがいて、倉庫に運んだそうだが、全部処分されてしまったようだ。
 
 
 
『薔薇族』が廃刊になる少し前のことだったが、東北に住んでいて、不動産の会社に勤めている方が事務所に訪ねてこられた。
 
この方、60歳を過ぎているように思えたが、少年愛の方だった。
 
奥さんも子供さんもいて、自宅の近くにアパートの一室を借り、『薔薇族』や、少年の写真集などを置き、そこに行っては楽しんでいるそうだ。
 
倉庫をくまなく探して、少年に関するものを全て、買い求めてくれた。
 
それから10数年の年月が流れているのだから、病気でもされて寝込んでしまったりしたらどうなるのか。
 
本人はあの世に行ってしまえばいいだろうが、後に残された奥さんや、子供さんが知ったらどんなにびっくりすることか。
 
そういうことが起きることを予想して、「編集室から」のページに、ぼくは読者に注意を呼びかけていた。
 
「ダンボール箱に入れて、「友人の◯◯さんからの預かりもの」と書いておきなさい」と。
 
年に何人かからは、結婚するので家に置いとけないと、ダンボール箱で、いくつも送り返してきた。
 
買ったものを何年もして、出版社に送り返すなんてことをする雑誌は他にはないだろう。
 
買うときも大変、処分するのも大変。
 
不思議な雑誌だった。

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2017年1月 9日 (月)

佐伯彰一さんとの出会い!

Img_9419 東京新聞夕刊の文化欄に「大波小波」という、週に一回載る小さなコーナーがある。
 
おそらくベテランの記者が書いているのだろう。2016年の12月28日「大波小波」に、「点鬼」という筆名で「今年逝った人々」の見出しで書かれている。
 
 
 
太宰治の書いたものなど読んだことはない。その娘さんが津島佑子さんという方で、父と同じ作家になっていて、68歳で亡くなられたが、太宰治より30年も長く生きたことをもって霊を慰むべきか。とある。
 
世田谷学園の大先輩の伊藤桂一さんも、99歳で大往生だと。
 
「今年亡くなった文筆家の名を記し、冥福を祈ろう。
 
長寿化は世の東西を問わず、古希(70歳)はもはや死語となりつつあるかのようだ。藤原てい98歳、佐伯彰一93歳」
 
 
 
佐伯彰一さん。携帯電話を持たない僕にはこの方がどんな方かを確かめられない。
 
その日、カフエ「織部」で、待ち合わせて20代の女性と出会ったので、携帯で調べてもらった。
 
やはりぼくが一度だけ出会ったことのある文芸評論家で、世田谷文学館の初代の館長さんだった。
 
 
 
世田谷文学館がオープンした頃、友の会を作ろうということで、ぼくもその世話役の1人になっていた。
 
その頃、出会ったのが、東宝の映画監督の高瀬昌弘さんで、テレビの時代になって「鬼平犯科帳」などの作品の監督をされている。
 
 
 
2001年の12月に、ぼくは文芸春秋社の子会社の「文春ネスコ」から『編集長「秘話」』を出すことができた。
 
「文春ネスコ」の社長さんは、文藝春秋社の創立者、菊池寛さんのお孫さんで、菊池夏樹さんという方だった。
 
「文春ネスコ」は子会社とはいえ、週刊文春の書評欄にぼくの写真入りで、1ページを使って紹介してくれた。
 
文藝春秋社から刊行されているすべての雑誌に広告を入れてくれたのだから、ありがたかった。
 
世田谷文学館の館長、佐伯彰一さんの目にも触れたのだろう。
 
「本を読みたい」という電話がかかってきた。
 
 
 
佐伯さん78歳ぐらいの時だった。本にサインをして約束の時間に館長室を訪れた。
 
館長室は広い。ソファに座っておられた。
 
館長ってどんな仕事をされているのだろう。文学館の格付けみたいなもので、世間的に名の知れた館長がその役目を果たしている。
 
毎日、文学館に出勤されるわけでなく、週に1、2度、顔を出すだけのお飾りみたいなものだろう。
 
こんな広い部屋に、ぽつんと1人座ってはいられないだろう。
 
 
 
16年も前のことだから、お顔も思い出せないが、温厚な方だった。
 
佐伯さん、著書もたくさん出されているが、同性愛のことに触れるときは、必ずといっていいほど「私は女好きだけど」とことわり、それから同性愛の問題を書かれている。
 
三島由紀夫さんと、親交があったようだが、すべての文芸評論家は、三島さんがゲイだったということは、タブーだったようだ。
 
佐伯さん、耳が少し聞こえないようなので、くっつくようにそばに座って話を始めた。
 
16年も前のことだから、何をしゃべったのか全く忘れているが、佐伯さん、ぼくとしゃべっていることで、本音が出てきて、だんだんに目が輝き、以前からの友人だったようになっていた。
 
時間のことなど忘れて、しゃべり続けた。
 
たった一度しか、お会いしたことはなかったが、文春から本を出すことができたので、この出会いに結びついたのだろう。
 
佐伯彰一さんのご冥福を祈りたい。
 

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2017年1月 7日 (土)

ホモであることが、みじめに!

ませた高校生がいたものだ。さて、どんなことになっていくのか?
 
 
 
「ホモとしての初体験は、中3の時だ。
 
それまでは女としかセックスしたことがなかったけど、修学旅行の時にAのやつとフェラチオでなく、互いにをオナニーをやった。
 
トイレで1回して帰ってくると、布団がない。誰かが隠したんだと思いながら、2人喜んで、一つの布団に入り、またもや一回。
 
30人の大部屋ゆえ、バレないように声を抑え、ザーメンが布団につかないようにするのが、実にしんどかった。
 
 
 
Aとは中学卒業まで7回やった。一度だけアヌスをお互いに使ったけど、痛いとしか感じなかった。
 
巨根好き、アヌス好きのやつほ気が知れない、口がベストだ。
 
 
 
そうそう、Aは実はノンケだ。
 
僕が秘蔵コレクションしているノーカットとのセックスシーンの写真をトイレで見せたら、さかりがついたヒズ・サンが、ジャージでテントをはっていたから、僕が手で慰めてやったら、あいつ突然、マイ・サンに吸いつきやがった。
 
もしかしたらA はホモのベテランかもと思ったが、A は女とセックスを週に3回以上やる絶倫男。僕は単なるザーメンのはけ口だ。
 
 
 
「オレが吸ってやったから、お前も同じようにやれ」
 
喜んでやりましたよ。
 
使い込んだ黒い棒、しゃぶってやったら、とろけるような顔をしていた。
 
 
 
僕は今、水泳部のYとFが好きだ。
 
2人が好きなんて、僕は好色の男なんだろうか。
 
2人の競泳パンツ姿、惚れ惚れする。キュッと引き締まったウエスト、尻、足、逞しい胸と腕。
 
それだけでも感じるのに甘いマスク。
 
今の競泳パンツは薄手で伸び縮み自由。あそこがクッキリ、ハッキリ。大きさはそんなにデカくはないけど、形はいいみたい。
 
2人は大会の時なんか、あそこを大きくして、僕が近くで見るとゼア・サンズの先の割れ目までわかる。
 
でも2人ともノンケでガール・フレンドをもっている。
 
僕みたいなやつを好きになるわけがない。この苦しさ、誰かをおさえてほしいんだ。
 
 
 
Yの着用の競泳パンツ、本当はヤツが履いていたのがほしいけど、スポーツ店で同じものを買ってきてはいてみた。
 
鏡に自分の姿を映して、オナニーをしてみた。
 
それから何枚も同じものを買ってきては、それをはき、オナニーをしたり、下着の代わりにしている。
 
 
 
去年の夏休み、大学模試が博多であったので、この時とばかり僕は喜んで試験を受けに行った。
 
試験を受けた後、その足でホモスナックによってみるつもりだったんだ。
 
ところが僕にはとその扉を開けられなかった。
 
木製の大きな扉、それが常に僕が入ることを拒否しているようだった。
 
店がやっているのか、閉じているのかもわからない。
 
何回も祇園町を回った。そして誰1人、店に入る姿を見ることはなかった。
 
もし誰かが入ろうとする人がいたら、その人についていこうと思ったのに、できなかったんだ。
 
何回も何回も祇園町を回った。
 
周り疲れ、タクシーでもう一軒の店に行ったが、時間切れで、ここにも入れなかった。
 
 
 
なんだか自分が、そしてホモであることがみじめだった。
 
日の当たらない陰気なイメージが目にこびり付いて離れなかった。」
 
 
 
ネットも携帯電話もなかった時代、セックスすることが楽しかった時代だ。
 
草食系なんて言葉もなかった。
 
セックスに興味がない人がいるなんて考えられない。
 
時代が変わってしまった。
 
良いことなのか、悪いことなのか!
 

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2017年1月 2日 (月)

高校生、『薔薇族』『薔薇族』と頭にこびりついて!

「毎日新聞」の朝刊に、おやっと目を引く雑誌の広告が載っていた。
 
新潮社の「芸術新潮」2017年新年号で「大特集 永遠の美少年 深読みアート・ヒストリー」とある。
 
 
 
下北沢駅前のスーパー「オオゼキ」に買い物に行く前に、北口のスーパー「ピーコック」の3Fにある「三省堂書店」に寄ってみた。
 
以前は下北沢の駅周辺には、7、8件の書店があったが、すべて閉店し、残るは三省堂書店だけ。
 
平日だけにお客さんはパラパラ。雑誌の売り上げは落ちるばかりで、今年の書籍はベストセラーが何冊かあって、売り上げは雑誌を抜いたそうだ。
 
 
 
美少年のヌードの絵画や、写真を載せられるのは、「芸術」と名の付く、この雑誌だけだ。
 
古代ギリシャから、現代までの美少年の絵画や写真が載っているのだから、少年愛者だけでなく、女性が見ても楽しいと思うので、ぜひ、買ってもらいたい。
 
 
 
今の時代、ヌードの少年の写真を持っているだけでも犯罪になるという恐ろしい世の中。
 
36年前の『薔薇族』1980年1月号には、「少年の部屋」というページがあって、中学生、高校生の投稿が載っている。
 
 
 
この時代の高校生、文章力があって、長文の投稿が多い。
 
福岡県のナルキッソス君の投稿を紹介しよう。長すぎて全文は載せられないが。
 
 
 
「僕は今、高3。受験に追われている男。勉強に疲れてむしゃくしゃする時は、いつも『薔薇族』を読むんだ。
 
あまり読みすぎるとマイ・サンがおさまらなくなってくるから、ほどほどにしてやめる。
 
みんな『薔薇族』との出会いはいつ? 僕の場合、なんと高校1年の終わりにその存在を知っちゃった。
 
その上、驚くべきことは、平凡社世界大百科事典で知ったんだ。ただし百科事典といっても、その年鑑に載っていただけ。性の100年とか、50年とか、そんな題の付いている記事の最後に薔薇族の表紙と説明がついていた。
 
 
 
喜色満面、本屋駆けずり回って探したけど、なかった。
 
本物に出会ったのは高2の時、修学旅行に行く前の日だった。
 
クラスメイトに誘われて新しくできた、大きなスーパーのブック・コーナーに行った。
 
明日の旅行に備えて、エロ本(当然、女のやつ)を10冊も買った。ふと目を上げると、うれしきことかな『薔薇族』がその種の雑誌とともに、並んどったのでありますわい。
 
クラスメイトと一緒けえ、「ああ、旅行から帰ってきたら売り切れているかもしれない」と思いながらも、手を出すことができなかった。
 
 
 
家に帰っても、『薔薇族』『薔薇族』と頭にこびりついて離れない。
 
心がドキドキ、マイ・サンはコチコチ、息はハアハア、もうだめ!
 
あの店は6時半に閉まる。まだ30分ある。走りましたなあ。ぜーぜー言いながら。
 
「これ、お願いします」
 
震える手で500円。本を受け取り、しっかり握り、また走って家に帰った。
 
 
 
めくるめく快感、エガッタ。
 
ただ旅行中、その本が親に見つからないように隠すのに、夜3時までかかってしまい、行きの新幹線ではよく寝てしまった。
 
 
 
オナニーを始めてやったのは、幼稚園に行っている時。
 
おじいちゃんの電動按摩を腰に当てていると、あそこにもあったってしまい、しばらくくっつけていると快感シ〜ン。
 
まだザーメンは出るわけないけど、感じましたわい。」
 
 
 
これからが面白いのでつぎに。
 
百科事典に『薔薇族』が載っていたなんて、知らなかった。

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2017年1月 1日 (日)

今年もブログを書き続けるぞ!

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2017年、新年おめでとう。
ぼくのブログを読んでくれている人たちには、年賀状が出せないので、コレクションしていた、大正時代の絵葉書の中に、男の子と、女の子がにわとりに餌をやっている年賀状が1枚だけあったので、使わせてもらいブログから新年のご挨拶を。
 
歳を取ると交際範囲が狭くなり、現役で働いている時とは違い、年賀状を出す相手の友人、知人が少なくなってくる。その数が減ってくるそうだが、ぼくは幸せなことに、かえってその数が増え、300通も手書きで出すことができた。
 
「文ちゃんと語る会」の会場になっている下北沢南口のカフエ「織部」の店長、奥村君が、デザインをしてくれ、安い印刷所を探し出し、発注してくれたので、早々に年賀状をポストに入れることができた。
 


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子供の頃のお正月には、3日の日、8畳の座敷に入りきれないくらい、子供たちが集まって、トランプや、カルタ取り、ジェスチャーと、大騒ぎだった。
 
母親が煮物を作り、五目ずしを作ってくれてそれを食べ、楽しい1日を過ごした。我が家の前は、原っぱだったので、タコ揚げをしたり、羽根つきをして遊んだものだ。
 
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Img_8672_2 年賀状を見ていると、テレビもなく、ゲームもない時代だけど、ゆったりと時が過ぎているのを感じさせる。
 
 
 
 
 
 
 
ブログは書き続けますから、読んでくれれば幸いです。
 

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