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2017年2月

2017年2月27日 (月)

三島由紀夫は、近代日本文学史に残る偉大なゲイ文学者だ!

「でも、「よしだ」から連れ去った若者とは、まるで違ったタイプで、知的で爽やかな洗練された青年だった。
 
そこへ歌舞伎の中村芝翫の一家が入ってきた。
 
福助がまだ児太郎、橋之助は幸ニだった、まだ小学生の少年時代だ。
 
偶然に三島と逢った様子で、三島と同伴の青年が恥じらいの風情を見せていたのが、私には魅力ある光景だった。
 
 
 
三島さんは、「禁色」が、もし映像化されるなら、主人公の悠一は、松竹にいた大木実しかいないと書いている。
 
三島さんの「純白の夜」で、大木実は、木暮実千代の相手役をしている。
 
「禁色」の悠一のモデルと言われた、三島さんの当時の愛人だったIさんは、現在もときおり2丁目で遊んでいる。
 
老いてしまわれたけど、若いときは大木実似の美青年だった。
 
「仮面の告白」で、主人公が憧れる上級生、近江は、きっと大木実に似た面影の人だろう。
 
 
 
三島さんが自決して多くの人が、死についてさまざまな発言をした。
 
「森田必勝との男の心中だ」そう考えた人も多い。
 
遺体を解剖したら、三島さんの体から精液が検出されて、死を決したふたりが、決行の直前に情交したという風説もあった。
 
それが確かな事実であるなら、三島さんは受身のホモということにもなろう。
 
この噂は、ホモの人たちでなく、ノンケの人でも信じ込んでいる人もいる。
 
 
 
森田必勝は、りりしい美しさを持った、三島さん好みの青年だ。
 
着衣の写真しかみたことはないが、裸身も鍛えられた彫像の如き肢体であろうと思われる。
 
行動を共にしたが、生き残った3名の青年も、森田に劣らぬ美しさを持っている。
 
事件の公判を傍聴した人は、被告席に座った3人の信念の強さ、礼儀正しさ、目の清らかさなど、稀なる美しさを持った青年たちであると評している。
 
三島さんは、彼らを深く愛していたであろうが、彼らが三島さんの愛人として、ベッドを共にすることはなかったと思う。
 
まことしやかに伝えられる、三島さんの体に、男の欲望の果てが発見されたのが、事実であるとしたら、それは森田のではなく、まったく別の男、もしかしたら一夜限りの男であったかも知れない。
 
三島さんには、ホモとして、そうした暗い影の部分があったとは、考えられるのだ。
 
 
 
三島さんを論じる人の中には、ホモであることを否定しているのが、かなり沢山あって驚く。
 
その論拠としているのは、結婚している。子供もいる。女性に恋文を書いている。三島自身が否定している。「禁色」を書くために、エセホモを気どった一時期があったなどだが、同じ要素を持ったホモの人は数多くいるのだ。
 
 
 
作家は小説の登場人物に、自身を反映させる部分も多いものだが、三島作品「愛の渇き」とか、「鏡子の家」とかの女主人公は、三島さんを色濃く映し出している。
 
彼女たちが愛する青年像は、三島さんが心に描く男の像であるわけだ。
 
作家にしても、作品にしても、さまざまな面を持ち、あらゆる面から照射して論じることは大切だけれど、三島さんはホモとして論じなければ、、実像は浮かび上がらない。
 
私は三島さんは、近代日本文学史上に残る、偉大なゲイ文学者であったと思っている。」
 
 
 
こんなに長い文章を割愛しないで書き続けたことはない。
 
桂たかしさん、どんな方かまったく分からないが、必ずや三島文学を研究する人たちにとって、大いなる参考になることは間違いない。
 
三島由紀夫さんは、ゲイの人にとっての誇りではないか。

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2017年2月25日 (土)

三島由紀夫さん、「よしだ」に現れた!

「マスターは50代後半、妻帯していて、奥さんと娘がいた。
 
マスター不在の時には、奥さんが代わりをしていたから、事情をのみこんでいたのだろう。
 
マスターは話し好きで楽しい人柄だが、奥さんは無愛想だった。
 
 
 
客はふたりできて、ホテル代わりに使用する人が多い。
 
かわいい高校生を、それもくるたびに違う子を連れてくる教師とか、トイレなどで若い子をハントするのがうまいセールスマンとか、多い日は10組くらいの男たちが利用していた。
 
 
 
2つの部屋が利用中だと、ボックス席で終るのを待つわけだが、そんなとき、マスターは棒で天上をたたき、「そろそろ時間だよ」と、催促したりした。
 
 
 
ひとりでくる客もいる。
 
地元でない人が、誰かに聞いてやってくる。
 
マスターは好みを聞いては、電話で客を呼び出し、相手を見つけることもするが、そんなときは、わずかだが紹介料のようなものを取る。
 
しかし、飲み物にしろ、2階の部屋の利用料にしろ、じつに安いのだ。
 
 
 
マスターは若いノンケの子で相手をしてくれる子も何人かキープしてあり、そういう若者の場合は、その子にもいくらかの報酬を与えなければならないが、売り専などない頃だから、そうした利用客も多かった。
 
 
 
店は昼、11時頃から営業していたが、夜は遅くても10時には閉店する。
 
 
 
私は半年くらい、週に2、3回「よしだ」へ通った。
 
マスターと話をするのが楽しくて、飲んでしゃべって帰るのがほとんどだったが、4、5人は若い子を紹介してもらい、セックスの欲望を満足させてもらった。
 
でも2階の部屋を利用したのは、1回だけで、どうも落ち着かず、うす汚いのも嫌だったから、自分のアパートへ連れ帰っていた。
 
 
 
その店に三島由紀夫さんが現れたのである。
 
黒い革ジャンで、ぬっと入ってきた。
 
夜の8時頃だったと思う。私はカウンターで、常連客のひとりと飲んでいたが、三島さんはボックスに座り、そこへ出ていったマスターと話をした。
 
 
 
カウンターに戻ると、マスターは電話をして、お客さんがきたから、早くこいと、誰かに言った。
 
三島さんは無口で、マスターが大事にしている熱帯魚の水槽をのぞいたりしていた。
 
30分くらいそうしていたろうか。
 
 
 
そこへ背の高い若者が入ってきた。
 
工場へ勤めている24、5歳の青年で、ノンケの子、「よしだ」では人気のある、肉体が美しいと評判の子で、私も他の客に紹介されるのを何回もみていた。
 
三島さんは料金を支払い、その青年と連れ立って出ていった。
 
マスターは読書などしない人で、三島由紀夫と言っても名前すら知らない。
 
 
 
「へえ、小説書いてんのかね。
 
3、4回きたよ。
 
あの子がお気に入りで、今回も昼に電話で予約してからきたんだよ。
 
あの人、私には運送会社で働いていると言ってたと思うけど」
 
たしかに、その日の三島さんは、暗く革ジャンに身を包んだ、男っぽくしているホモ、そんな感じしか受けなかった。
 
 
 
私はまもなく恋人を得て、「よしだ」へも出入りしなくなったが、東京に戻ってからも、名古屋の恋人との仲は続き、3、4年後の夏に、彼と鳥羽国際ホテルに行ったとき、朝食のレストランで三島さんと逢った。
 
テーブルは離れていたけれど、三島さんは眉目秀麗な青年と同席していた。
 
「よしだ」でみて以来のことだし、朝食を共にしているからには、ふたりともホテルに宿泊していたと思われるから、ふたりはホモの付き合いだと、ゲスなもう妄想をめぐらしてしまった。」
 
 
 
これは三島さん、結婚する前の話では。

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2017年2月20日 (月)

三島由紀夫さんは、鍛えられた肉体を賛美されることが快楽!

「「黒蜥蜴」は三谷八重子、明智探偵は芥川比呂志、他に大空真弓、田宮二郎・賀原夏子など、ぜいたくな配役だった。
 
明智探偵の手下の役で、私のホモの友人も出演したので、私は初日に観に行った。
 
この手下役には、石坂浩二も出演していた。
 
 
 
ロビーには三島さんもいて、その時の服装は、白いなめし革で作ったシャツ、胸もとが大きく開き、ヒモで綾に結ばれているのだが、ボディビルで鍛えた筋肉の盛り上がりと、胸毛を強調するデザインのものだった。
 
その時も、私は挨拶をしたけど、三島さんは、ニコッと笑っただけで、何の言葉もかけてはくれなかった。
 
 
 
初めてお目にかかったときの三島さんは、気品のある美青年という印象だったが、ボディビルや剣道で、男らしさを強調する容姿作りをされ、すっかりイメージチェンジした。
 
ホモとして私の好むタイプでなくなり失望したが、そういう三島さんを好きなホモの友人もいた。
 
 
 
彼は三島さんに、ファンレターというより、ラブレター染みた手紙を出した。
 
しばらくすると、三島さんから巻紙に筆で書かれた返事が、細江英公撮影の『薔薇刑』という、三島さんの裸身をモデルにした豪華な写真集と共に、彼の所へ送られてきた。
 
彼は有頂天になり、私たちに見せびらかしたが、その後、一度だけ三島さんと会食したようだけれど、彼は三島さんの好むタイプではなかったらしく、あっけなく終わってしまった。
 
 
 
三島さんの死後、2丁目あたりで、三島さんからの手紙を持っているという人を何人か見かけたが、実物をみたわけではないから、真実かどうかわからないけれど、筆まめな人だったし、古書展などに、三島さんの手紙は、かなり出回っているから、熱心なファンには対応していたのだろう。
 
自分できびしい鍛錬を課して作り上げた肉体だから、それを賛美されることは、三島さんには限りない快楽だったのだろう。
 
 
 
私は20代の後半から、2年ほど名古屋に居住していた。その頃、大須観音の参道に「よしだ」という喫茶店があった。
 
古びた小さな店で、当時すでに大須観音は、さびれた盛り場だった。
 
戦前までは、見世物小屋など立ち並び、浅草のような感じの街だったらしい。
 
 
 
「よしだ」は、ホモの溜まり場だった。
 
男同士で、気軽に入れるホテルなどない時代だから、ホモのセックスをやれる場所でもあった。
 
1Fはカウンターに4席ぐらい、あとはボックスで、そちらも6、7人座れるスペースがあるだけだが、カウンター裏の急な階段を上がると、2階には3畳くらいの小部屋がふたつある。
 
そこにはせんべい布団が敷かれていて、枕もとにチリ紙が置いてあるだけ。
 
むろんシャワーも、トイレもない。
 
トイレは1階にあるだけだ。
 
その部屋で男たちは、セックスするわけだけれど、廊下もないし、部屋と部屋は、ふすまで仕切られているだけだ。
 
 
 
2組のカップルが、それぞれの部屋でセックスしたとすれば、お互いのよがり声などいやでも聞こえてくる。
 
奥の部屋の人が終わって帰るには、手前の部屋を通らなければ、階段を降りられないのだ。
 
 
 
シーツなども、客が入れ替わって交換することもなく、しみや体臭のついた布団でやるしかないが、常連客の中には、それがいいんだと言っていた人もいた。」
 
 
 
今のゲイホテルの清潔さは完璧だ。
 
「よしだ」の話は、あまり知られていないので、貴重な話と言えよう。

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2017年2月18日 (土)

三島由紀夫さんは、若い私たちに優しかった!

「両先輩は、すでに面識があり、くだけた会話をしていたが、私は初めて三島さんを見るわけで、何も言えず、話を聴いただけである。
 
まだ独身で、ボディビルをはじめていない頃だったと思うが、三島さんは、白い和服姿で、色白く細身、それほど大きな目ではないが、眼光の鋭い人で、目があったりすると、怖い感じもした。
 
動作などもキビキビとしていて貴公子風な青年、同行してくださった、樫村、寺山達の薄汚れたボヘミアン風なムードとは、まるで違った人間に見えた。
 
それまでに梅崎春生とか坂口安吾のところへも、樫村さんに連れられて行ったことがあるのだが、その二人の文学者とも、イメージは異なり、三島さんの対応は、若い私達に実に優しく、言葉遣いもていねいだった。
 
 
 
紅茶とエクレアを供され、二時間ぐらい相手をしてくださった。
 
その後、樫村さんと、再度訪れたが、その時は、岸田今日子さんなど、文学座の若い役者さんが来ていて、私たちはあまり話もできなかったけど、三島さんの対応は変わらず、親切だった。
 
その折に拝見させて頂いた書架に、私の好きな谷崎や、鏡花の本が、かなり多くあったのを覚えている。
 
 
 
次に三島さんに逢ったのは、5、6年後。
 
私は才能のないことに見切りをつけ、『青銅文学』からも脱退して、映画を観ることに夢中になった。
 
前記した『禁色』が話題となり、私は三島さんを、文学者としてより、ホモの先輩と考えるようになっていた。
 
 
 
夏のことだった。
 
熱海伊豆山にあった父の会社の寮に、付き合っていた三つ年下の高校生と、私は何日か滞在していた。
 
伊豆山には、谷崎潤一郎が住んでいた。
 
私たちは、前日、熱海の映画館で、初めて映画化された、轟夕起子や、高峰秀子が演じた『細雪』を観たので、谷崎さんの家を見物しようということになり、朝食を済ませて、高台にある谷崎邸に向かって、坂道を登った。
 
 
 
湯河原方面の海が見える絶景の地にあり、瀟洒な門の近くには、一台のタクシーが停車していた。
 
朝早いのに、文豪谷崎はお出かけにでもなるのだろうか。
 
実物を見たことがなかったから、何か心騒ぐものがあった。
 
ただ家を見たいと思っただけで、谷崎邸を訪問する気持ちなどなかったから、門前を徘徊し、庭をのぞいたりして、門を背景に写真を写したりした。
 
谷崎邸は、音ひとつせず静寂だったが、しばらくすると、玄関が開き、あいさつの声など聞こえ、出てきたのは、文豪ではなく三島さんだった。
 
 
 
白い麻のスーツで、キチンとネクタイを着用していた。
 
ウロウロしていた私たちふたりを見ると、明るい笑顔を見せ、私はかつてお目にかかったことがあるから、ていねいに頭を下げた。
 
「よう・・・。先生は今日はごきげんななめだよ」と言い、待たせていた車に乗り、あっという間に去っていった。
 
三島さんが、私に気づいたのではないだろう。
 
谷崎フアンの若者と映じたにすぎない。
 
 
 
『禁色』の俊輪は、谷崎をモデルとしたと言われていたし、熱海ホテルに宿泊の折にはよく谷崎邸を訪れたことを三島さんは書いている。
 
それから間もなく、サンケイホールで『黒蜥蜴』が初演された。」
 
 
 
まだまだ続くが、三島さんの人となりがよく分かる。
 
三島フアンや、これから三島さんの作品を読もうと思っている人たちには、参考になるのでは。
 
ぼくもなんとしても『禁色』を読もうと思う。

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2017年2月13日 (月)

「禁色」って何? それどういう意味?

桂たかしさんの三島由紀夫さんの話、いよいよ面白くなってゆく。
 
桂さんってどんな人物だったのか?
 
 
 
「河田社長という中年男と悠一の、いま流行の援助交際もあるし、行きずりの学生と、ラブホテルで激しい情事を愉しみ、帰宅すると学生のコロンの匂いを妻からとがめられたりする。
 
いくつか拾い出してみたが、『禁色』は、古めかしさもないし、ホモとして読んで面白い作品と思うのだが、現在、30歳前半くらい迄の若いホモの仲間に訊ねてみると、読んでいないものが圧倒的に多い。
 
『禁色』という作品名すら知らない。
 
「何? それ……。どういう意味なの……」
 
なんて返事をされる。
 
三島由紀夫という作家の存在すら知らない子も多いのには、いささか驚いた。
 
 
 
三島文学を少しでもかじったことがあれば、いかにも三島らしい題名と思うだろうが、よく判るようで、判らぬ題名ともいえる。
 
三島の作品は、華麗な修辞が、あまりにも多くちりばめられ、スノヒズム風なアフォリズムに彩られ、文章が装飾過多な鎧で固められていて、難解でとりつきにくい。
 
大部な作品は、読み進むのに難渋するのだ。
 
 
 
三島は、『永すぎた春』『美徳のよろめき』『夏子の冒険』など、数多くの読みやすい作品もあるが、読者から、そうした作品は高い評価を得られない。
 
『肉体の学校』など、ゲイ風俗を点描させて、愉しさにあふれた小説と思うが、どうして評価されないのか。
 
難解、重厚な作品群に、押しつぶされ、埋もれている作品が惜しまれる。
 
作者にとっても不幸なのではあるまいか・・・。
 
 
 
遺作の『豊饒の海』も、空疎な大作で、文学者としての衰えさえ感じる。
 
この作品だけで判断するなら、書くことがなくなって死んだとする説も、納得できよう。
 
しかし、書きたいと発言していた『新古今』の藤原定家については、筆を染めずして終止符は打たれた。
 
死を準備していたのは事実であるが、一時的な精神の弱まり、もしくは高まり、病んでいたと言えるのではあるまいか。
 
 
 
私は小学生のころから読書が好きで、父の書架から、そっと抜き出して乱読していた。
 
好きだったのは、泉鏡花と谷崎潤一郎だったから、ませたガキだったと思う。
 
母が大切にしていた、吉屋信子や川端康成の少女小説とか、久米正雄や菊池寛の恋愛小説も読みふけった。
 
甘ったるい小説を書いたり、キザな詩を綴ったりするようになり、中学時代に参加したのが、『青銅文学』という同人誌だ。
 
そこには寺山修司とか、渡辺淳一など、実力ある先輩がたくさんいた。
 
主催者は樫村幹夫で、中学生は私一人だったから、同人達からかわいがってもらった。
 
 
 
当時の文学少年にとっては、三島由紀夫は神の如き存在で、同人の集まりの折には、三島さんの作品は話題の中心であり、新しい作品が発表されると、すぐ読み、単行本になると購入した。
 
だから『青の時代』など、初版本を何冊か持っているけど、正直に言えば、私には三島作品を理解できなかった。
 
代表作の『仮面の告白』も、聖セバスチャン殉教図を見ながら自慰する場面や、近江という不良の上級生に惹かれる主人公の様子など、ホモムードの箇所ばかりを何度も読んだのだった。
 
 
 
そんな私が三島邸を訪ねたのは『青銅文学』の新しい号を届けに、樫村、寺山先輩に連れられて行った時だ。」
 
 
 
さあ、これからだ。
 
やめるわけにはいかない。
 
次もお楽しみに。

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2017年2月11日 (土)

三島由紀夫の『禁色』は、ゲイ文学の最高峰!

『薔薇族』の読者は、知識人が多かった。
 
大学の教授などには、何人もお会いしたことがある。
 
 
 
1997年11月号に偶然見つけた「三島由紀夫と名古屋大須の「あいまい」屋」と題する桂たかしさんの3段組み6ページにも及ぶ一文は、三島さんを研究されている方には、ぜひ読んでもらいたい。
 
桂さんという方、いったい何者だろうか?
 
全文を紹介したいが、このブログを5・6回書き続けても書ききれない。
 
 
 
「三島由紀夫が壮烈な死を遂げて、この11月で17年になる。
 
昨年は17回忌ということで、いくつかの催しがあり、三島について書かれたものも、短い文章を加えると、30種以上のものが、新しく刊行された。
 
猪瀬直樹の『ペルソナ』が、新しい視点から三島像を描いて話題となったが、それもこれまでの論評をくつがえすほどのものではなく、17回忌を期して、三島作品を再評価させ、現代の若者にアッピールしようと図ったようだが、全集など、全く売れず、盛り上がらなかった。
 
 
 
三島の作品で刊行数のもっとも多いのは、文庫本を含めてだが『潮騒』である。
 
何回も映画化され、テレビドラマ化され、そのたびに川端康成の『伊豆の踊子』と同じように発行数を増やしている。
 
多くの人に読まれたナンバーワンの作品と言えるだろう。
 
 
 
『禁色』という作品がある。
 
昨今、よく出版されるゲイ文学作品とも言えるだろう。
 
しかし作者三島が、ゲイであるとカミングアウトして、発表された作品ではない。
 
たくみに装色された小説であって、作者がゲイであると断定はできない。
 
ゲイ文学として考えれば、『禁色』をしのぐ作品は、残念ながら日本には出現していないと思う。
 
私は『禁色』を、ゲイ文学として俗な読み方で読む。
 
 
 
美に固執する老作家と、主人公のアポロンの如き肉体と、ギリシャ彫像の美形を持つ悠一との、海辺での出逢いは、三島も意図したことだろうが、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』のヴァリエーションであり、その悠一をめぐる男たちの愛は、男同士の愛欲を、さまざまなパターンで描いて、興味深いものだ。
 
 
 
当時ハッテン場として男たちがよく集まっていた。
 
日比谷公園で知り合った少年とも言える若者との情事、上野動物園で親しくなる稔少年との付き合い、これは稔を愛し犯していた養父により、悠一の妻に密告され、波紋を広げるのだが、これも当時、養父に犯されて自殺未遂をした少年の事件が、三面記事で報道されて、ホモバアの話題となったものを、作者がアレンジしたものだろう。(蛇足を付け加えるなら、羽仁進監督の『初恋地獄編』という映画でも、この事件はとりいれられている。)
 
悠一のナルシズムを利用して、鈴木男爵の言葉たくみな誘惑で犯されてしまう白眉といえるシーン。
 
悠一を自由にしてみせると、ホモバア『ルドン』のマスター、ルディと賭けをして勝つという仕掛けまで用意されている。
 
『ルドン』は、三島がよく出入りしていた、銀座小野ピアノビル横にあった『ブランズウィック』をモデルにしたものだろうし、マスターのひげのケリーが、ルディであろう。
 
その店には、野坂昭如や、美輪明宏が、若き日に、ボーイとして働いていたが、火災で消失してしまった。
 
客とマスターやボーイ、客同士の会話などホモバアの描写は、実にうまくスケッチされている」
 
 
 
これから面白くなっていく。
 
あと何回か続けよう。
 
それにしても手元に『禁色』はあるが読んでいない。
 
なんということだ。

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2017年2月 6日 (月)

死は我々全員の行き先です!

「kotoba」(集英社・クオータリー・コトバ)2012年、春号で「死を想う・現代人にとって「死」とは何か?」という特集号だ。
 
この豪華な雑誌、たしか渋谷の画廊で知り合った女性の編集者が、送ってくれたものだと思う。
 
ぼくはこの3月19日で満85歳、男性の平均死亡年齢を何年か越すことになっている。
 
末の妹の紀子が、2度目の心臓手術の甲斐なく、32歳で亡くなったのが、昭和48年12月20日のことだ。
 
東京女子医大の心臓病棟での長い闘病生活の間に多くの人々の死に直面した。
 
 
 
それからというもの、本を出版するたびに、新宿の京王プラザホテルなどで、多くの友人、知人を集めて、盛大な出版を祝う会を催すようになった。
 
下北沢にあったカフエ「イカール館」、そして新潟県の弥彦村の「ロマンの泉美術館」でも、どれだけパーティを開いたことか。
 
それはぼくが死んでしまって、人々が集まってくれたところで、どうなるものではない。
 
生きているうちに、友人、知人と出会うチャンスを作りたいと思っての催物だ。
 
 
 
古いアルバムをめくって見ると、すでにこの世にいない人が多いのには、がくぜんとしてしまう。
 
あのとき会っておいてよかったではないか。
 
もう銀座のキャバレー「白いばら」での3回もの出版を祝う会のような豪華な会はできないが、20、30人いや50人ぐらいの友人、知人を集めての会ならまだまだできそうだ。
 
 
 
そろそろあの世へ旅立つ準備をはじめていて、とにかく買い集めた、さまざまのコレクションを、手放している。
 
ぼくは物に対する執着心のようなものは、まったくない。
 
親父が残した家や、土地も失ってしまったが、がっかりもしていない。
 
多摩墓地にお墓だけはあるから、年間、2500縁を都の公園科に払えば、そこにお骨は収められる。
 
 
 
人間、どんな人でも死ななければならない。
 
ぼくは宗教心もないし、死んだら地に戻るだけだと思っているから、死をまったく恐れない。
 
「kotoba」の中に、有名人が残した「死を想う言葉」が載っている。
 
アメリカ人のスティーブ・ジョブズさんの残した言葉が、わかりやすく、そのとおりだ。
 
 
 
「誰も死にたくない。
 
天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいと思わないでしょう。
 
死は我々全員の行き先です。
 
死から逃れた人間は一人もいない。
 
それはあるべき姿なのです。
 
死はたぶん、生命の最高の発明です。
 
それは生物を進化させる担い手。
 
古いものを取り去り、新しいものを生み出す。
 
今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。
 
深刻な話で申し訳ないですが、真実です」
 
 
 
ジョブズさんが考えだした「Apple Ⅰ」なんて、ぼくは触りもしていないが、どれだけ世の中の役に立っていることか。
 
小説家の山田風太郎さんの残した言葉。
 
 
 
「性の快楽と死の苦痛は、万人平等である。
 
しからば、なぜ、それ以上の平等を求める必要があるのだろうか」
 
 
 
「性の快楽」なんてものを、まったく知らずに死んでしまう人がいることを山田風太郎さんは知らなかった。
 
さて、ぼくは死が近づいたときに、どんな言葉を残して死ぬだろうか。
 
まだ時間があるようだから、誰もがその通りだと、感心してくれる言葉を残すから、それまでぼくのブログは読み続けてほしいものだ。

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2017年2月 4日 (土)

1通の手紙がこなければ『薔薇族』は!

昭和46年7月30日印刷発行/編集発行人・伊藤文学/組版・金子印刷所/刷版・大曲印刷所/発行所・株式会社第二書房/定価230円
 
『薔薇族』第1号は、刷り部数1万部で、雑誌コード7581、トーハン・日販・栗田書店・大阪屋・中央社などの取次店(本の問屋)から、北は北海道から南は沖縄までの書店に配本された。
 
日本で最初のゲイ雑誌の誕生だ。
 
誕生に至った貴重な手紙をゲイ雑誌の歴史として残しておきたいと思う。
 
昭和46年(1971年)3月1日とある。
 
 
 
「前略 貴社益々ご隆盛の様子に、一読者としておよろこび申し上げます。
 
そしてホモ文学出版の旗頭(『薔薇族』を創刊する前は、ゲイの人向けの単行本を数十冊出していた)として、話題を投げかけて、その性向者の間に感謝されていることは間違いありません。
 
小生もそのひとりです。
 
私もかつて『風俗奇譚』という雑誌に連載、そして短編と掲載した経験もあります。
 
『薔薇ひらく』(第二書房刊)のあとがきに知らないことがあるので、ぜひ、手紙をください。(ぼくの呼びかけ)の一文を拝見して、お手紙を書いている次第です。
 
 
 
すでにご存知のように、ホモとひと口にいっても、種々多々とあるわけで、文面にて細々と書いても限りのないことは、ご存知と思います。
 
小生の住んでいるビルは、新宿御苑からすぐ近くです。
 
お電話でも前もってくだされば、貴社にお邪魔してもよろしいです。
 
もちろん、私なりの意見しか申し上げられませんが、それなりの参考になると思います。
 
雑誌が発刊になるということのうれしさに、ついお手紙を書いてしまった次第です。
 
ご発展をお祈りしています。」
 
 
 
この手紙は、ぼくの呼びかけに応えるようにくれた手紙ではなく、二度目の手紙のようだ。
 
間宮浩さんが手紙をくれ、ゲイ雑誌創刊に協力したいと言ってくれなければ、創刊号は出せなかったろう。
 
間宮さんと同じように、『風俗奇譚』の執筆者だった、雑誌づくりの名人 藤田竜さんとの出会いがなければ、3月にふたりと出会って、7月には創刊号を出すなんてことは出来なかったろう。
 
人との出会いって、運みたいなものだ。
 
ふたりとの出会いは、ぼくの運の強さだった。
 
第二書房には社員は、ぼくしかいない。
 
親父はぼくにまかせっきりだったから、ぼくが決断し、実行すればいいことで、会議なんか開くことがなかったから、ゲイ雑誌を創刊できたということだ。
 
『週刊文春』がすぐに取材してくれて、記事にしてくれたのはありがたかったが、まあ、当時としては、若い記者がゲイのことを知らずに書いているのだから、間違いだらけでも仕方がないことだ。
 
「ホモでない男が創刊したホモ雑誌『薔薇族』は世の中をよくするためにあるの?」という見出しだから、変なことを書かれても感謝しなければ。
 
 
 
先妻の舞踊家、ミカのことを「金粉ダンサーとして名を売った」とあるが、これはミカの名誉のために訂正しておかなければ。
 
ミカは「裸」で踊り、皮膚という衣装をつけて踊った。
 
金粉ショーは、土方巽さんのお弟子さんたちがアルバイトで、キャバレーで踊るときに体に金粉を塗っていた。
 
 
 
「それにしても、この雑誌の売れ行きは、ホモ族の数がふえるかどうか、にかかっているのだが、その点はどうか」と、心配してくれている。
 
今まで隠れていていた人が、表に出てきただけのことで、いつの世でもその率はかわらない。
 
廃刊になったときも、文春さんが。
 
文春さん何度もとりあげてくれてありがとう。

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2017年2月 2日 (木)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」は2月18日(土)開催です。
 
日時・2月18日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
★お話を聞きに来るだけでも大歓迎です。どうぞお気軽にご参加下さい。

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