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2017年6月 3日 (土)

20万人もの兵士の1割しか帰還しなかった!

祖父、伊藤冨士雄が大正時代に、吉原や洲崎の遊郭のお女郎さんを地獄のような苦界から救い出した話は、何度もブログに書いてきた。それは『地獄の女郎たち=遊郭の中での悲惨な話』と題すべきだろうか。
 
 
 
ぼくは下北沢の南口にある「下北沢整形外科リューマチ科クリニック」の先生にお世話になっているが、午後3時からの診療時間より早く行き過ぎてしまい、ビルの1階にある古書店「DORAMA」の店先の百円均一の古書を見ていた。
 
その中に新潮新書・飯田進著『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』の「ニューギニア戦線」に目が張り付いてしまった。
 
ぼくの親父、祷一は冨士雄の長男で、その下に勤治・和平という弟がいる。長女は15歳ぐらいの時に病死している。
 
父は虚弱なからだだったので、兵隊にとられなかったが、勤治は中国に、一番下の和平は朝鮮の会社で働いていたので、朝鮮にある日本軍の部隊に招集されていた。
 
日本にいる時間は、たったの一週間、その間に結婚し、あわただしく朝鮮に旅立ってしまった。
 
祖父の冨士雄が「和平」と名付けただけあって、心やさしいおじさんだった。たった一週間の結婚生活だったのに嫁は妊娠し、女の子が生まれた。
 
 
 
日本軍は破竹の勢いで、南方の各地を占領していった。ニューギニアへも、朝鮮や、中国にいる兵士たちを南方各地へ送りこんでいた。
 
和平おじさんもニューギニアに運ばれたのだろう。たった一通、はがきがニューギニアあから送られてきたのを見た記憶があるのでニューギニアに無事に着いたのは間違いない。
 
しかし、昭和17年頃からアメリカ軍は攻勢に転じてきて、20万人ものニューギニアにたどり着いた日本軍も、日本本土から武器、弾薬、食料品を積んだ船は、アメリカ軍に撃沈され現地への補給はまったくとざされてしまった。
 
 
 
この本のカバア裏に、こんなことが記されている。
 
「敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士のほうが遥かに多かった―。
 
昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。
 
幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令……。
 
「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。」
 
 
 
ぼくは戦時中、小学校6年制だったから、戦時中から、戦後にかけての食糧難の時代を体験している。
 
道路はコンクリートで舗装されていなかったから、道路脇までたがやして野菜を育てていた。空き地という空き地は、隣組が管理していろんな野菜を植えて育てていた。
 
肥料は人糞を使っていたので、寄生虫には悩まされ、祖母の肛門から出てきた、太いうどんのような寄生虫の気味悪い姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 
母はどのように食料を調達して、4人の子どもたちに食べさせてくれていたのか。その頃の母親の写真を見ると、その痩せ方はみじめだった。
 
配給になる魚は隣組の組長だった母が、世帯別に大きな木の箱を区切って、人数分でくばっていたが、いつも「すけそうだら」ばかりだった。その頃の印象が強烈だったので、今でも「たら」は嫌いなわけではないが食べない。
 
 
 
この本を開くと、どの頁も悲惨な話ばかりでショックを受けてしまった。お女郎さんの地獄とは、比較するような話ではなかった。

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