« 2017年5月 | トップページ

2017年6月

2017年6月26日 (月)

「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」で大当たり!

「渋谷千雅」は、ホモホテルの東京での草分けではない。すでに「大番会館」「24会館」などがあって渋谷では最初ということだ。
 
渋谷道玄坂を登りつめて、その頃はふとん屋があり、その路地の突き当たりにあった。その近辺は男女の連れ込みホテルが軒を連ねていて、「千雅」の前は連れ込みホテルだった。
 
男女の連れ込みホテルが廃業したので、そこを借りて、男性同性愛者のホテルにしたのだ。だから間違えて、アベックが扉を開けて入ってくるので、最初の頃は、断るのに苦労したと、聞いたことがある。
 
開業した頃は、渋谷の駅から歩いて20分ぐらいあるから、お客は少なかったようだ。親父さんと若いマネージャーが、我が家に訪ねてきて、なんとか誌上で宣伝してくれと、頼みに来たので、竜さんが考えて後の胡桃沢耕史さんにお願いして「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」となった。
 
さすがエロ作家として名を売った清水正二郎さん(後に直木賞を受賞して改名)の潜入記は、迫真の手記となり、これで「千雅」は大繁盛となった。
 
「サロンが高くつくのではないかとおじけづいた人(ふつうのホモバーとほとんど同じ低料金だったのに)派手めなのは敬遠する人はいたのだ。彼らは真っ暗な部屋で排泄してさっさと帰る。心と心の触れ合いなどには目をつぶったのだ。早く家庭に帰らねばならない人もいるだろう。事後のシャワーを浴びるのさえ避けたりして。
 
じつは「千雅」の真価、すばらしさは、このサロンにこそあったのだ。一流紳士とまではいかぬにしろ、ここの客筋はかなり良かったようで、下品にならず、なごやかなムードで楽しかった。
 
サロンに来る人は、まず乱交室には行かなかったそうだ。ハダシになり、浴衣に着替えて飲み、しゃべり、歌い、踊った。それだけで充分だったのだ。昼の社会生活のニガさを忘れられた。飲みすぎても部屋があるから安心でもあった。
 
乱交部屋のほうはふだんと同じだったが、サロンの方はさすがにラスト・ナイトがあって、入れ替わり、立ち替わり歌い、ここのショーの中心人物「夕霧」さんが大奮闘した。
 
この人、ここでのショーを変化づけるために、10年間いろんな衣裳をごっそり買い込んだ。「千雅」の楽屋に置いてあった山のようなそれらを、これから家庭のどこに隠すのだろう。
 
男っぽい顔のオジサンで、バレリーナもやるけど、本領は太鼓のバチを振り上げて、見栄を切ったりする男振りなのだ。こんなこと他の店ではやらせてくれないだろう。
 
その他、人の歌にあわせて、浴衣を踊りながら脱ぎ、六尺ふんどし1本でポーズをとって、六尺をはずして飛び跳ねる、男くさい顔でいいからだをしたスーパーのオジさんなんかもいたが、これから彼らはどうするのだろう。
 
「千雅」がなくなったことで、多くの男の人生に、また、苦みがもどってしまうのではなかろうか。
 
長い間、「千雅」さん、どうもありがとう!」
 
 
 
「千雅」が廃館になったのは、今から28年も前のことだ。
 
「千雅」の親父さん、胡桃沢耕史さん、そしてこの原稿を書いた藤田竜さんも、みんなこの世にいない。
 
その後の「千雅」の親父さんのことはブログに書いた記憶はある。ゲイホテルも進化しているから、竜さん心配することはない。どこも大繁盛で、日本のゲイたちは幸せだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月24日 (土)

どれだけのザーメンが噴出したのか!―渋谷ホモ旅館「千雅」物語―

これはどうしても、ゲイホテルの歴史として残しておきたい話だ。
 
1989年9月号創刊200号18周年記念特大号に、ぼくの良き相棒だった藤田竜くんが「旅館「千雅」満14年で終業。のべ100万人の客だから売上15億円?」と題して書いている。
 
 
 
「東京のホモ旅館「千雅」が6月末でついに閉館してしまった。
 
創業者の名物社長、K さんの手から離れてからも4年間、営業を続けていたのだが、最近、付近の土地がまとまったので、大がかりなプロジェクトを開始することになり、ついでに「千雅」も跡かたもなくなることになったわけ。
 
「千雅」出現以前も東京には、同好者の集まるサウナや旅館はあったけれど、大がかりで大っぴらに『薔薇族』に広告を打って始めたのは「千雅」が最初だった。
 
時は『薔薇族』が創刊して4年後、つまりひっそりホモ、地味ホモがそろそろ世間に出て、楽しまねばと決心しだした頃だったから、そりゃもう、スタートしてしばらくは立錐の余地もないってくらいの大混雑だった。
 
やがて隣のビル(会社の社員寮だった)も買い、ドでかくなったところへ、全国から客が押し寄せ、男ではちきれそうだったのだ。今にして思えば、東京では史上空前絶後の乱交場であった。
 
 
 
今は直木賞作家となった胡桃沢耕史先生に、僕のアイデアで「ノンケ紳士」となってもらい、「潜入記」を『薔薇族』に書いてもらったのも、かなりの宣伝効果になったようだ。
 
先生、がっちりデブだから、えらくモテたようだけど、残念ながら男好きに転向することはなかった。
 
旧マスターは客筋の良さを誇った。確か「世界一流紳士が……」なんてコピーが広告によく使われていたっけ。
 
僕は開店当初、一度だけ行ったが、知り合いの子たちに何人も会って、ハレンチできなかったけど、前に一度見かけて好感を持っていた青年にしゃぶりついたのだけが、たったひとつラッキーだったなあ。
 
さて、今年6月30日(金)ラストの夜に行ってみたら、なに、乱交ルームはとりたてて満員でもなく、どうってことなかった。今夜でおしまいってことさえ知らない人も結構いたりして―。
 
ただ異様に外人が多いの。「千雅」は外人OK だったのだ。他の店はガイは入れないから、彼らには天国だったろう。
 
ガイ同士がバックしてるのを隣にしゃがんでしっかり見学した。日本のフトンの上でしてる姿って面白かった。
 
旧主人が引退した段階で少し客層は変わり、エイズ騒ぎで客数もやや減ったというが、ざっと換算すると、なんと入館料で15億円にもなる計算だ。ザーメンも勝手に流させて、このもうけだもん、すごいねえ。他に会員料、飲食料もあるんだよ。
 
何事も新しい仕事を早く大きく始めた人の勝ちなのだ。それにしてもどれだけの量のザーメンが、ここで噴出したのだろうか。
 
「千雅」拡大後は、広々としたドリンク・サロンができ、ここが一大社交場、ストレス発散所となった。
 
カラオケのステージがあり、踊れるスペースが広く、ボックスシートもたっぷりあって、他にちょっとない豪勢さなのだった。
 
乱交部屋のある4階の棟と、サロンは1階でつながっているとはいえ、サロンと乱交場は、客層がまるで別になってしまったのが計算外だったろう。」(つづく)
 
 
 
ひばりさんの歌を歌ったら、ずば抜けて上手い人もいた。夢のあとと言っていいだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月19日 (月)

いじめられても、親や先生には言わなかった!

2017年6月4日の東京新聞の朝刊に「いじめ加害6人停学・山形の高校、男子バレー部」という小さな記事が載っている。
 
 
 
「いじめは昨秋ごろ、部内でのトレーニング方法をめぐるトラブルをきっかけに始まった。本年度に新入部員が加入してからも、暴行したり、飲食物をおごらせたりしていたという。5月22日、2年生の部員が鼻血を出しているのに気付いた部外の生徒が学校に伝え発覚した。」
 
 
 
1997年11月号の『薔薇族』(今から20年前)の「少年の部屋」のコーナーに山口県・パパゲーノ君が、「小説のような初体験」と題して、こんな投稿をしている。
 
 
 
「僕は北九州市内の私立高校に通う2年生です。僕がホモに目覚めたのは、中1の時に部活の先輩にいじめか(?)られたからです。
 
僕は中学の3年間、テニス部にいました。入部してすぐに先輩2人から、ズボンの上から揉まれたり、パンツを下ろされたり、ということを毎日されました。
 
ある日、その時のひとりにトイレでH本を見せられてしごかれ、初めてオナニーを知りました。それからはその先輩2人に、もう1人加わって3人に、もっとHなことをされました。ザーメンを飲まされたこともありました。
 
 
 
でも、そんなことをされながらも、そのうちのひとり(あとから入ってきた)Y先輩を好きになりました。
 
他の2人はブサイクだけど、Y先輩はとてもかっこよくて、頭はあまりよくなかったみたいだけど、部活もバリバリで背もまあまあ高かったのです。
 
そして夏の合宿のとき、合宿所のトイレに夜2人で行って、そこで初めてY先輩のアレを見ました。他の2人は僕に舐めさせたりしていたので見たことがあったけれど、Y先輩はずっとその行為を見てるだけで、自分からは何もしないので見ることも、ましてや触ることもできませんでした。
 
Y先輩のあれは仮性ホウケイで(自分も)、真っ黒で毛もボウボウで男らしいなと思いました。
 
B 僕は先輩の目の前でオナニーをしたあと、Y先輩のをしごいてあげました。Y先輩は1分もしないうちに、僕の口の中で発射しました。溜まっていたみたいで、たくさん出たので口だけでなく、Tジャケットにも飛び散りました。
 
Y先輩とは、それが最後のHな思い出になりました。それ以来、Y先輩は僕を避けるようになり、一言も口をきいてくれなくなりました。
 
そしてY先輩は卒業していきました。これは推測ですが、僕が他の2人の先輩にY先輩が仮性ホウケイだということをバラしたのが原因ではないかと思います。
 
このことがあって、僕はホモに目ざめたのでした。」
 
 
 
これに対して、編集部の竜さんか、もう1人のスタッフがコメントしている。ぼくじゃないことは間違いない。
 
 
 
「まるで小説みたいな初体験だね。後ろめたさや、苦しみみたいなものがなさそうなのもすごい。
 
少数派である僕らだけど、ホモだからこその楽しい人生は送れると僕は考えているんだ。諦めたり居直ったりの裏返しでゴーマンに生きるのではなくて、笑いながら自然に生きられるようになる道はあるんだ。
 
まず自分をきちんと見て、どんな自分になりたいかをよく考える。そのヒントは『薔薇族』のあちこちにこめてあるんだよ。」
 
 
 
『薔薇族』時代の少年たちは、このようなことがあっても、親や先生に絶対に言わなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月17日 (土)

燃えきらない、くすぶったままの青春時代!

「昭和16年(太平洋戦争の始まった年)当時の高等小学校を出ると近くの会社に入りました。
来る日も、来る日も、使い走りや雑用ばかりの仕事に夢破れて、嫌気のさしていた私に必要以上に陰になってかばってくれた上司のA さんがいたのです。
 
今思えば少年の私が同性への憧れに芽生えたのは、この頃だったようです。でもA さんは少年の私にそれ以上のことは何もせず、単なる同情でしかなかったようです。片思いのままの毎日でした。
 
 
 
A 戦局がだんだんきびしくなった昭和18年、遠く離れた軍港の町へ徴用になり、それからの2年間の生活のなかで、色々な人たちの出会いがありましたが、工場の組長だったB さんと、寮の室長のKさんとのことが、今でも忘れられないのです。今思えば2人ともずいぶん年上だったようです。
 
その頃の私は、青年期に入ろうとする年代です。望郷の念にかられながらも懸命に働いたものです。そんな中で2人とも、食べ物のない時代に、貴重なお菓子や、煙草を人に隠れてこっそりとくれたり、休日に町の映画館に連れて行ってくれるのです。
 
戦時映画のスクリーンを見ながら、手を握ってくれたことが一度だけありました。それ以上はいくら待ってても、その手が進んで来ないのです。
 
意気地なし、いえ、私が意気地なしだったのです。40年も経った今でもその時のことを思い出すのです。
 
そしてまた、別れの時が来ました。私に出征令状が来て軍隊に入ることになったのです。
 
 
 
軍隊生活は、わずか3か月間でしたが、私の班長だったDさんとの出会いがありました。今思えば厳しい軍隊生活の中で、どうしてあのような厚意を私に示してくれたのだろうかと、不思議に思うのです。
 
夜の不寝番の順番がきても、何かと理由をつけてはずしてくれたり、ひそかに連れ出して飯を腹一杯食わせてくれ、そしてたまに入浴時には必ず私の近くにいたような気がするのです。わざと指名して背中をこすれと言ったことです。でも、それ以上のことは何もなく、終戦になったのです。
 
 
 
今、私は当時のことを振り返ってみて思うのです。過去の青春期に出会った方たちが、他人の私になぜ特別に人への情を示して、人にわけへだてまでして優しくかばい、そして励ましてくれたのか、よくわかるのです。
 
人間、誰しも同性を愛する気持ちを、大なり小なり心の底に秘めているのではないでしょうか。
 
きびしい戦時下のあの頃では、どんなに好意を持ったとしても、最後のそのことだけは言い出せなかったのだろうか? 2人きりの機会がいくらでもあったのに、互いにその言葉を待っていたかもしれないのに……。
 
私の青春時代は燃えきらない、くすぶったままで終わり、それが今現在まで続いてるのです。
 
性向を隠し通して、それぞれの職業を持ち、健全な社会人として、善き家庭を持ちながら人に打ち明けることができない、この悩みを持っている中高年の方たちがたくさんいると思うのです。私もその1人なのです。(石川県・純)」
 
 
 
『薔薇族』は、1971年の創刊なので、軍隊生活から戻ってきた人たちの投稿手記も多く、それは貴重なものだと思う。
 
近くの本屋で『薔薇族』を買うことができず、離れた所でまで買いに行く。その後、この人の人生はどうなったのだろうか。ほのぼのとしたいい話だが……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月12日 (月)

蛇、蛙、とかげ、バッタ、なんでも食べて!

戦時中から戦後の食糧難の時代、何を食べて生き抜いてきたのか、あまり記憶がないが、野草でも、芋の茎でも食べた記憶はある。
 
ニューギニアの兵士たち、本土からの物資の補給を絶たれ、戦友の死んだ肉まで食べたのは事実だったようだ。
 
 
 
「蛇、蛙、とかげ、バッタは言うまでもなく、ヒル、かたつむり、ムカデ、毛虫、蝶々、アリ、クモ、ミミズも食べた。まともにのどを通らないことはわかっていても、見つけるとすぐに食指が動くのだ。
 
蝶々は羽についている粉を指で掻き落とした上で食べる。クモは一旦舌の上に乗せると、歯と舌にガサガサという食感が伝わって、不思議と脳神経を刺激する気がした。
 
とかげは昔から焼いて食べると下痢に効くと聞いていたが、ただ蟻だけは一度苦い思いをして、あとは捕まえないことにした。
 
とにかく大抵のものは焼くか煮るかすれば、何とか食べられることがわかった。そして保存できるものは、ほんの少しでも蓄えるように心がけた。
 
きのこを採りに行った日の真夜中、もとの小屋の方角に銃声を聞いて目が覚めた。翌朝行ってみると、例のとなり部隊の患者が殺され、持っていた澱粉なども全部盗みとられていた。
 
この患者グループは7名ぐらいだったが、夜間はつたに空き缶を吊るし、鳴子を二重に張りめぐらした上、めいめいが小銃を抱えたまま寝るという用心深さだったのに、どうしてこういう結果を招いたのだろう。私は暗然として、彼の屍にひざまずいた」
 
「翌日の朝、隣の小屋の患者グループ6名が再び襲われた。小銃、食料はもちろん持ち物全部が奪われたうえ、6名全部が犠牲者となった。私はあまりにも無残な6名の遺体の前に立ったまま、もはやそれを片付ける気力もなく、呆然としていた。
 
やがて遺体から悪臭が漂いはじめ、幾日かの後、白骨に変わっていった。そんな悪夢のすぎたある日、2、3人の原住民を連れた1人の日本兵が、近づいてくるのがはっきりと目に映った。夢かと思った。私は夢中で日本兵のほうに向かって走り出したが、すぐにつまずいて転んでしまった。
 
私は隣の患者グループの累々たる白骨に向かって敬礼した後、救援の人たちに抱きかかえられるようにして、ブーツを離れた。」(石塚卓三『ニューギニア東部最前線』)
 
 
 
日本兵が同胞を襲撃する話を、私は戦争中は聞いたことがありませんでした。まがりなりにも軍の秩序が守られている地域では、そんなことをすればたちまち銃殺です。しかし軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中で、それに類した話を私は何回も耳にしました。
 
「あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ。」
 
兵士たちが朝晩復唱させられ、金科玉条のごとく叩きこまれた軍人勅諭の精神、「一つ軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし。一つ軍人は礼儀を正しくすべし」という精神はもはやカケラもありません。あるのは原始時代の動物の掟だけです。これらの手記が何よりも雄弁にその事実を語っています。」
 
 
 
もうこの辺で悲惨な話はよそう。しかし最近になって、戦争の匂いが立ち込めてきている。若い人たちに戦争の悲惨さを少しでも知ってもらいたかった。そんな話知りたくはないだろうが。
 
 
 
(コメントを書いてくれる人が増えてきたような。カフエ「織部」の店長に見せてもらっています。コメントを書いてくれると励みになります。よろしく。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月10日 (土)

母に会いたい!日本に帰りたい!

『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』(飯田進著・新潮社新書)どのページを開いてもアメリカ軍や、オーストラリア軍に追われて奥地へと敗退する日本兵の悲惨な姿が描かれている。
 
ぼくの伯父さん、和平おじさんの死、戦わずして、飢えとマラリアによって死んでいった兵士たちの死を無駄死にだったとは思いたくない。
 
敗戦後、72年間、日本が平和で復興・繁栄できたのも、戦場で命を落とした多くの兵士たちの思いがつながったからと考えたい。戦後送られてきた和平おじさんの骨壷に石ころが1こ入っていただけだとしても。
 
大湿地帯の行進がいかに大変だったかというくだりを記してみよう。
 
 
 
「果てしなく続く湿地と、湿地を覆い尽くすような密林の中に、戦友が知らぬ間に黙って倒れてゆく。病人や、自決したものの遺体が前進するに従い増えていった。担架に乗せられた人はもちろん、重症患者だが、乗せられない同じ程度の患者はそれより多かった。そしてその中でも比較的病状の軽いものは、担架をかつがねばならないが、それが原因で自分自身が再び動けない重病人に追いやってしまう。
 
1人の重病人の命を救うため、自分自身を再び動けない重病人に追いやってしまう。1人の重病人の命を救うため4人がその犠牲になるというケースが次第に増え始めたため、ついに『担送はしない。自力で動けないものは自分で始末せよ』という残酷な命令が出された。要するにどんな重病人でも、4人がかりの担送はやめよ。自分1人の力で自分の体を動かせないものは、その場で自決せよ、というのである。」
 
 
 
「それからさらに幾日行軍が続いたか分からぬが隊の先頭と後尾との距離は離れるばかりで、誰がどの辺りを歩いてるか見当もつかない状態になっていた。
 
私は再びしんがりを歩いていた。なんとか隊本部の所属グループに追いつこうとするが、足がいうことをきかぬ。はじめ背負子や小銃で受けた両肩と背中の擦り傷の痛みや、両腕と脛のかき傷の化膿の痛みはまだ辛抱できたが、肝心の足の痛みには堪えきれなくなった。
 
馬皮の靴はすでに先端が口をあけ、靴底は半分が外れそうになっていた。ふやけた足は小石や泥土で皮がむけ、爪先は血がにじんでいた。
 
靴を何度脱ぎ捨てようと思ったか分からぬ。しかし、かかとと甲の皮がくっついているだけで、足の保護には十分役立つので、どうしても捨てる気になれない。歩き出すと靴の先がパクパク開くため、泥ねいの中ではどうしてもうまく進めない。
 
その中の夕方近く、再びサゴ椰子やマングローブの両側に密生する深い泥沼に差しかかった。そのあたりは深いだけでなく、底の方ほど、粘土質のため両足を交互に抜くことさえ難しく、泥沼に突っ立ったまま、立ち往生のような格好になった。私は右足を泥沼から抜くべく、まず左足に力を入れ、次に半歩前のやや固いここぞと思うところを踏みつけ、どうにか右足を抜き終わった。
 
するとそのとたん、今度は左足がずるずると深い年度の中に滑り込み、膝まで浸かってそのまま後ろ向きに倒れそうになった。
 
瞬間、頭がクラックラッとして全身の力が抜けていくような感じになった。もうだめかと観念しそうになった時、突然、母の顔が目の前をかすめた。紛れもないおでこの広い顔である。やさしい目でじっと私を見つめて何かを言いたそうである。
 
「母に会いたい」「日本に帰りたい」という気持ちが、忽然と体中に湧き始めると、不思議な力が出てきた。」

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2017年6月 5日 (月)

多くの餓え死にしていった兵士たちの死は?

『地獄の日本兵』の著者の飯田進さんは、この本の序文にこんなことを記している。
 
「多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。
 
その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。それは映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。2百数10万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。」
 
 
 
著者の飯田さんは、ニューギニアの戦線から生還した人だ。その体験から怒りをもってこの本を書かれたのだ。
 
ガダルカナル戦は、太平洋戦争においての日米両軍の初の本格的な戦いで、その敗北が決定的なものになってしまった。
 
「昨日、上陸地点をすぎてから、ときおり異様な臭気が鼻をつく。屍臭である。上陸当初に、生きのこりの設営部隊から、あの地点に日本兵の千人を超える屍体が雨ざらしになっているというのを、半信半疑で聞いたのであったが、まんざら嘘でもないらしい。
 
前線への強行軍の途中、落伍して本隊から離脱し、人里のないジャングルや椰子林を彷徨し、飢えと悪疫に倒れたわが友軍の屍体が、しぜんに腐敗していく臭気である。幸いに臭気だけで、屍体は雑草か木陰に隠れて目に入らないので、多少救われたような気もするのだが―。
 
ところが、今朝は進むにつれて、そのいやな臭いが非常に多く、連続的にやってくる。道程は右は椰子林から白砂につづく波打ち際、青い海原、水平線―と、まったく絵に描きたいようなのんびりとしたよい景色であるが、行く先々でこの臭気におそわれるのでは、感興もへちまもあったものではない。
 
「むっ、まただ」と鼻をおさえ、よそ見をしていないで行き過ぎるが、すぐに次の臭気が鼻をつく。」
 
 
 
激しい論議の末に、大本営はガダルカナルからの撤退を決定した。それは危険な賭けだったが、昭和18年2月、夜の闇の中で生き残った1万名の兵士が駆逐艦隊により救出され、撤収作戦は終了した。
 
3万1千人の兵力を投入したうち、2万8百人、実に67%が死亡したことになる。その大多数は飢えで命を落としたのだ。
大本営というのは東京にあり、現地の現状が分からずモールス信号で指示していて、その命令を守っていたのだから、軍隊というところは恐ろしい。
 
日本に住む日本国民は、大本営の発表でこのように報じられていた。負けたことは知らされなかったのだ。
 
「ソロモン群島ガダルカナル島において作戦中の部隊は、昨年8月以降、引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘敵戦力を激挫しつつありが、その目的を達成するに依り、2月上旬同島を撤し他に転進せしめられたり」
 
日本の国民は神国日本だから、最期はかならず勝つと信じていた。うその報道にも疑いを持たなかったのだから恐ろしい。
 
原爆を広島、長崎に落とされ多くの人が死んだというのに、軍部はまだ戦おうとしていた。武器もなく竹槍でだ。
 
 
 
敗戦から70数年が経ち、戦争の仕方も変わってきている。北朝鮮はミサイルを何発も打ち上げている。今にも戦争が起こりそうな気配が立ち込めている今、飢え死にしていった兵士たちは無駄死にだったのか、よく考えるべきではなかろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 3日 (土)

20万人もの兵士の1割しか帰還しなかった!

祖父、伊藤冨士雄が大正時代に、吉原や洲崎の遊郭のお女郎さんを地獄のような苦界から救い出した話は、何度もブログに書いてきた。それは『地獄の女郎たち=遊郭の中での悲惨な話』と題すべきだろうか。
 
 
 
ぼくは下北沢の南口にある「下北沢整形外科リューマチ科クリニック」の先生にお世話になっているが、午後3時からの診療時間より早く行き過ぎてしまい、ビルの1階にある古書店「DORAMA」の店先の百円均一の古書を見ていた。
 
その中に新潮新書・飯田進著『地獄の日本兵=ニューギニア戦線の真相』の「ニューギニア戦線」に目が張り付いてしまった。
 
ぼくの親父、祷一は冨士雄の長男で、その下に勤治・和平という弟がいる。長女は15歳ぐらいの時に病死している。
 
父は虚弱なからだだったので、兵隊にとられなかったが、勤治は中国に、一番下の和平は朝鮮の会社で働いていたので、朝鮮にある日本軍の部隊に招集されていた。
 
日本にいる時間は、たったの一週間、その間に結婚し、あわただしく朝鮮に旅立ってしまった。
 
祖父の冨士雄が「和平」と名付けただけあって、心やさしいおじさんだった。たった一週間の結婚生活だったのに嫁は妊娠し、女の子が生まれた。
 
 
 
日本軍は破竹の勢いで、南方の各地を占領していった。ニューギニアへも、朝鮮や、中国にいる兵士たちを南方各地へ送りこんでいた。
 
和平おじさんもニューギニアに運ばれたのだろう。たった一通、はがきがニューギニアあから送られてきたのを見た記憶があるのでニューギニアに無事に着いたのは間違いない。
 
しかし、昭和17年頃からアメリカ軍は攻勢に転じてきて、20万人ものニューギニアにたどり着いた日本軍も、日本本土から武器、弾薬、食料品を積んだ船は、アメリカ軍に撃沈され現地への補給はまったくとざされてしまった。
 
 
 
この本のカバア裏に、こんなことが記されている。
 
「敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士のほうが遥かに多かった―。
 
昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。
 
幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令……。
 
「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。」
 
 
 
ぼくは戦時中、小学校6年制だったから、戦時中から、戦後にかけての食糧難の時代を体験している。
 
道路はコンクリートで舗装されていなかったから、道路脇までたがやして野菜を育てていた。空き地という空き地は、隣組が管理していろんな野菜を植えて育てていた。
 
肥料は人糞を使っていたので、寄生虫には悩まされ、祖母の肛門から出てきた、太いうどんのような寄生虫の気味悪い姿が今でも脳裏に焼き付いている。
 
母はどのように食料を調達して、4人の子どもたちに食べさせてくれていたのか。その頃の母親の写真を見ると、その痩せ方はみじめだった。
 
配給になる魚は隣組の組長だった母が、世帯別に大きな木の箱を区切って、人数分でくばっていたが、いつも「すけそうだら」ばかりだった。その頃の印象が強烈だったので、今でも「たら」は嫌いなわけではないが食べない。
 
 
 
この本を開くと、どの頁も悲惨な話ばかりでショックを受けてしまった。お女郎さんの地獄とは、比較するような話ではなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年5月 | トップページ