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2017年6月26日 (月)

「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」で大当たり!

「渋谷千雅」は、ホモホテルの東京での草分けではない。すでに「大番会館」「24会館」などがあって渋谷では最初ということだ。
 
渋谷道玄坂を登りつめて、その頃はふとん屋があり、その路地の突き当たりにあった。その近辺は男女の連れ込みホテルが軒を連ねていて、「千雅」の前は連れ込みホテルだった。
 
男女の連れ込みホテルが廃業したので、そこを借りて、男性同性愛者のホテルにしたのだ。だから間違えて、アベックが扉を開けて入ってくるので、最初の頃は、断るのに苦労したと、聞いたことがある。
 
開業した頃は、渋谷の駅から歩いて20分ぐらいあるから、お客は少なかったようだ。親父さんと若いマネージャーが、我が家に訪ねてきて、なんとか誌上で宣伝してくれと、頼みに来たので、竜さんが考えて後の胡桃沢耕史さんにお願いして「ノンケ紳士ホモホテル潜入記」となった。
 
さすがエロ作家として名を売った清水正二郎さん(後に直木賞を受賞して改名)の潜入記は、迫真の手記となり、これで「千雅」は大繁盛となった。
 
「サロンが高くつくのではないかとおじけづいた人(ふつうのホモバーとほとんど同じ低料金だったのに)派手めなのは敬遠する人はいたのだ。彼らは真っ暗な部屋で排泄してさっさと帰る。心と心の触れ合いなどには目をつぶったのだ。早く家庭に帰らねばならない人もいるだろう。事後のシャワーを浴びるのさえ避けたりして。
 
じつは「千雅」の真価、すばらしさは、このサロンにこそあったのだ。一流紳士とまではいかぬにしろ、ここの客筋はかなり良かったようで、下品にならず、なごやかなムードで楽しかった。
 
サロンに来る人は、まず乱交室には行かなかったそうだ。ハダシになり、浴衣に着替えて飲み、しゃべり、歌い、踊った。それだけで充分だったのだ。昼の社会生活のニガさを忘れられた。飲みすぎても部屋があるから安心でもあった。
 
乱交部屋のほうはふだんと同じだったが、サロンの方はさすがにラスト・ナイトがあって、入れ替わり、立ち替わり歌い、ここのショーの中心人物「夕霧」さんが大奮闘した。
 
この人、ここでのショーを変化づけるために、10年間いろんな衣裳をごっそり買い込んだ。「千雅」の楽屋に置いてあった山のようなそれらを、これから家庭のどこに隠すのだろう。
 
男っぽい顔のオジサンで、バレリーナもやるけど、本領は太鼓のバチを振り上げて、見栄を切ったりする男振りなのだ。こんなこと他の店ではやらせてくれないだろう。
 
その他、人の歌にあわせて、浴衣を踊りながら脱ぎ、六尺ふんどし1本でポーズをとって、六尺をはずして飛び跳ねる、男くさい顔でいいからだをしたスーパーのオジさんなんかもいたが、これから彼らはどうするのだろう。
 
「千雅」がなくなったことで、多くの男の人生に、また、苦みがもどってしまうのではなかろうか。
 
長い間、「千雅」さん、どうもありがとう!」
 
 
 
「千雅」が廃館になったのは、今から28年も前のことだ。
 
「千雅」の親父さん、胡桃沢耕史さん、そしてこの原稿を書いた藤田竜さんも、みんなこの世にいない。
 
その後の「千雅」の親父さんのことはブログに書いた記憶はある。ゲイホテルも進化しているから、竜さん心配することはない。どこも大繁盛で、日本のゲイたちは幸せだ。

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コメント

記事は読んでませんが、興味あります。
千雅の開業は昭和50年頃だと、胡桃沢氏は50歳くらいでしょう。
千雅の他の客に胡桃沢氏がノンケとわかってしまえば、もてたのではないかと思います。ノンケは人気がありますから。
胡桃沢氏という人間にも興味があります。戦後に20歳くらいで抑留されたことやその後の生き方など。

投稿: | 2017年7月 1日 (土) 03時23分

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