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2017年7月

2017年7月31日 (月)

江戸時代は褌を締めたまま風呂に!

『薔薇族』の読者には、褌マニアが多かった。「六尺」というバアもあったぐらいだ。
 
芝山はじめさん。90歳になっていると思うが、お元気のようだ。長いこと東急に勤めておられて、「パンテオン」の支配人をされていた頃は、よく入場券をいただいた。
 
『薔薇族』には、コントと「江戸男色考」を連載されていて、「江戸男色考」は、3冊も単行本化されている。
 
 
 
「褌」というタイトルで書かれたものがある。
 
「銭湯に軽重の石三つあり
 
江戸の湯屋(風呂屋)には、踵の垢すり用の軽石と手切り用の石が2つ必ず常備されていた。
 
式亭三馬の『浮世風呂・上』にも、糠洗粉、軽石、糸瓜皮にて垢を落とし、石ころで毛を切るたぐひ」とある。毛切石は主として男湯用のもので、尻端折りをする当時の男たちの風習から、褌の両側からはみ出す毛を除去する必要があった。除草法は、この他、紙燭や線香で焼き切る方法、刃物で剃る方法、蛤貝や毛抜きなどで抜き取る方法などがあった。
 
 
 
ざくろ口蛙鳴くなり毛切り石
 
ざくろ口はご存知のとおり、湯を冷やさないように狭くしてあった当時の風呂屋の出入口のことだが、中で男たちが毛を切っている音が、蛙の鳴くように聞こえるという意味である。
 
褌といえば、宝永2年(1625年)の「御前独狂言」に、酒に酔って入浴した男が、つい褌を解いて入って人々に大笑いされたという記事が見える。当時は褌をつけたまま入るのが常識だった。
 
西鶴の『好色一代男』『三代男』などの絵を見ても、みんな褌を着けたまま入浴している。こういう習慣は、慶安の頃まで続いたらしく、「洗場手引書」(嘉永4年1851年)に、慶安の頃まで男女共、洗場に行くに別の褌を持来りて、これをしめかえて湯に入る。上るときは、底浅き下もたらいにて洗いすまし持帰る」
とある。それ以後、手拭いで前を隠して入るようになったが、下だらいは天保の初め(1830年代)まで、江戸の湯屋に残っていたという。
 
つまり、慶安の頃まで、褌には2種類、風呂ふどし・替ふどしと呼ばれたものがそれだ。
 
ふどしとは、踏通しという語源から発した下帯(ふんどし)のことである。ちなみに風呂といっても、慶安、承応(1654年頃)までは、いわゆる戸棚風呂で、蒸し風呂であった。風呂が現代のように湯を溜めたものになるのは、それ以後のことである。
 
 
 
褌を足場にこいつ慣れた奴
 
という川柳がある。これは夜這いをする男のテクニックで、畳の上を歩いたり、這ったりすると、どうしてもミシミシ、ピタピタなんて音がする。そこでまず褌をとって、それを敷いて行動したわけだ。もっともそういうことをする奴は、相当なベテランである」
 
 
 
時代劇専門チャンネルで、『鬼平犯科帳』や『剣客商売』などばかり見ているぼくにとって、江戸時代は、身近な存在だ。人情味あふれる人々ばかり住んでいる長屋の住人のような気分にさえなっている。
 
あのどぶ板がいいな。どこを見てもコンクリートで固められた街って、息が詰まりそうだ。
 
褌ってしめたこと一度もないが、褌をしめるのが名人だった波賀九郎さんもこの世にいないし、しめたらどんな感じかな。
 
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イラスト・長谷川サダオ

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2017年7月29日 (土)

ルールを守って、いい作品を作り出す!

駒沢大学の学生時代、斎藤茂吉さんのお弟子さんで、歌人の森本治吉さんの教えを受けていた。
 
森本治吉教授は万葉集の研究者であり、『白路』という結社を主宰していた。ぼくは短歌を作歌することを森本先生の指導で『白路』の会員になった。
 
森本先生は熊本の五高から、東大の国文科に入られたが、九州の財閥の息子の太田さんと同期生だった。後に太田さんは東邦生命の社長にまでなられたが、『白路』のスポンサーでもあり、表紙裏に東邦生命の広告が載り、保険のよさを歌った太田さんの作品が添えられていた。太田さんは歌人でもあったのだ。
 
ぼくは学生時代は作歌に夢中になっていたが、今度は恋人に夢中になり、作歌をやめてしまった。それからもう60数年になる。
 
 
 
朝日新聞の週に一度の1ページを使っての「朝日・俳壇・歌壇」は、ちらっとだけ目を通している。
 
大江隆弘(歌人)さんの「短歌時評 歌会こわい」に目がとまった。
 
「先月、ツイッターで、「リアルな歌会はこわい」という意見が、数多く書き込まれる事態が起こった。「歌会こわい事件」とも呼ぶべき異常事態だった。
 
この事態は「歌会は真剣な批評の場であるべきだ」という主張がツイッター上に載せられたことから始まった。ネット上で短歌を始め、リアルな歌会に参加したことが少ない若者にとって、この意見は、短歌会の権威主義的な体質を感じさせられるものだったのだろう。
 
結果「歌会は批評の場である」という発言をした個人は沈黙せざるを得なくなってしまった。私はこの「事件」の背景に、短歌会の大きな地殻変動を感じた。」
 
 
 
昭和の初めから口語短歌を作る人はいたが、いつの間にか消えてしまった。それが1987年(30年前)に、俵万智さんの『サラダ記念日』がベストセラーになり、その新鮮さが口語短歌の勢いを増してしまった。
 
大江隆弘さんは、こう続ける。
 
「自分の歌を歌会に出し、他人の意見を聞く。それによって自分では気づかなかった自作の長所と短所が見えてくる。歌会は、最も効果的な批評の場であったはずだ。が、今、その常識は通じない。
 
現在、短歌は、口語で作られるのが普通になった。」
 
 
 
口語で短歌を作るのは、一向に構わない。しかし、それを「短歌」と呼んでほしくない。それは「短詩」というべきだ。
 
スポーツでもなんでもルール(規則)というものがあり、ルールに従って行われる。短歌は5・7・5・7・7の定型で成り立っている。そして文語体を使う。そのルールの中で、各自が表現し、いい作品をつくり出す。
 
世の中、変わったとはいえ、伝統を守って作歌している人がいるに違いない。
 
ぼくは必ずテレビ東京の「和風総本家」を観ているが、昔からの伝統を守って、昔からの技法でものを作り続けている職人がいる。短歌もそうあってほしいものだ。
 
 
 
「Twitterに自分の歌を載せる。それを見た人々が「いいね」を押してくれる。何もリアルな歌会に出て、他人の批評を受けて傷つく必要はない。「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい。批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない。」
 
大江さんの言うとおりだ。
 
A

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2017年7月24日 (月)

地球の温暖化を防がなければ!

最近の日本は地球温暖化現象によるものだろうか、日本各地で局所的にかつてないくらいの大雨で、川は氾濫し、田畑や、民家を流す。山はくずれ、大量の土砂が家を押しつぶす。
 
これは日本だけの現象でなく、世界の各地で異変が起きている。北極や、南極の氷が溶けはじめているというし、海の水が増えて、島が水浸しになり、住めなくなっている。
 
世界中の人が人事だと思わず、温暖化を少しでも食い止めることを考えないと、今に大変なことになるだろう。
 
 
 
かつての日本の家屋のほとんどが木造で、屋根は瓦で、地震や火災に弱い。
 
ぼくの祖父、伊藤富士雄、父、祷一が残した明治末期の絵はがきが見つかった。
 
今の時代は自衛隊が、人命救助や、後片付けにかけつけているが、当時は軍隊の工兵隊の兵士たちが、被害の現場に駆けつけている。当時はテレビなどのない時代だ。惨状を伝えるために、記録として残しておくために絵はがきが、その役目を果たしている。
 
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今の時代もそうだが、被害を受けた人たちはどうやって立ち直ったのだろうか。
 
東北の各地で津波の被害に遭った人たち、次から次へ、各地で被害に遭う人たちが出てくるので、忘れられてしまっている。
 
世界各地からも援助金が寄せられた。日赤はそのお金をどうしてしまったのだろうか?

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2017年7月22日 (土)

会話だけのSEX『ベント』をもう一度観たい!

アメリカ大統領のトランプさんはゲイの人たちのことを嫌っているようだ。ドイツの独裁者、ヒットラーと、男らしさを必要としたナチス・ドイツにとって、ゲイは必要のないものだった。
 
1986年、7月4日の夜、渋谷の西武劇場で『ベント』の初日にぼくは観に行って「『ベント』は遠い昔の話ではない。現実にわれわれの身近かで起こりうることなのです」と『薔薇族』164号に観劇の感想を書いている。
 
 
 
ナチスはどんな方法で、同性愛者だということを見抜いたのだろうか。この劇中にもこんなシーンがある。ユダヤ人は黄色いワッペン、同性愛者はピンクのワッペンを付けさせられ、ピンクのワッペンを付けた男たちは、最低の人間として扱われた。
 
主人公のマックスが収容所へ送られる護送列車の中で、自分が同性愛者ではなく、ユダヤ人であるということを証明するために、ほんとちょっと前に弾丸で撃たれて息を引き取ったばかりの少女を護衛兵の目の前で犯した。
 
ぼくはいつかの札幌で起こった殺人事件のことを鮮明に思い出した。札幌で小料理店のマスターが殺されたときのことだ。殺されたマスターが同性愛者であることがわかり、犯人もゲイであろうと警察は目星をつけて犯人探しに乗り出した。
 
恐らくナチスもそうだと思うが、ひとり同性愛者を洗い出し、なぐる、けるの拷問をかければ、何人かの仲間の名前を教えざるをえなかった。
 
次から次へとあぶり出していく。今の日本の警察は、そこまではやらないだろうが、それに近いことが行われて、北海道全土でどれだけの仲間たちのリストが作られたことか。
 
事件が解決すれば、そのようなリストは捨ててしまうというが、そのまま信じることはできない。
 
 
 
東京の四谷署管内で起きたプロダクションの社長殺しのときも、四谷署で何百人ものゲイの人たちの写真を見せられたときのショックは忘れられるものではなかった。
 
もし、権力者によって仲間があぶり出されるようなことになり、そうなったら仲間を売るのは仲間でしかない。まさにこの世の地獄だ。
 
『ベント』は遠い昔の話ではない。今、現在、この地球上で行われていることであり、もっとも自由の国だと言われているアメリカで、そうだという現実をわれわれは忘れてはならない。
 
 
 
『ベント』の劇中、主人公のマックスとホルストが、いましめのために石を運ぶ作業をさせられながら、2時間の石を運ぶ作業の合間の休憩のたった3分間。それも直立不動で、2人が向き合ってでなく、2人とも同じ方向に向かせられて、護衛兵の見守る中で、会話だけでセックスするという、クライマックスのシーンがある。
 
マックス:お前が欲しい。
 
ホルスト:感じるか、お前の中に俺を?
 
マックス:入ってきてくれ。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:俺の中だ、お前は。
 
ホルスト:入った……。
 
マックス:強く。
 
ホルスト:感じるか、突いているのを?
 
マックス:ゆっくり。
 
ホルスト:腰を……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ああ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:もうすぐ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:感じるか……? もうすぐだ。
 
マックス:感じる、何もかも。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:そうとも……。
 
ホルスト:そうか……?
 
マックス:ああ、ああ。
 
ホルスト:感じろ…。
 
マックス:ああ、強く……。
 
ホルスト:感じろ……。
 
マックス:もっと……。
 
ホルスト:ううう……。
 
マックス:いいぞ……。
 
ホルスト:いいぞ……。
 
マックス:いい! (あえぐ)うう! あああ!(オルガスムスに達する)
 
ホルスト:ううう……! いいぞ! あああ……!(オルガスムスに達する。沈黙) お前……?
 
マックス:大したタマだぜ。
 
ホルスト:お前こそ。(沈黙)マックス?
 
マックス:何だ?
 
ホルスト:やったな……クソ衛兵に、クソ収容所……やったぜ、俺たち! 俺たちは殺されない。俺たちはやった。生きている。人間だ。愛を交わした。殺すことは出来ない。(沈黙)
 
マックス:俺まさか……。
 
ホルスト:何だ?
 
マックス:信じられない……。
 
ホルスト:どうした?
 
マックス:やっちまった。3分で。
 
(2人、笑う。サイレンが鳴る。2人は下に置いた岩をとり、あちらから、こちらへと運ぶ作業に戻る)(暗転)
 
 
 
2人の股間が一瞬にしてふくらみ、そして濡れたような錯覚にとらわれるほど、素晴らしいシーンだった。会話だけのギリギリの究極の世界でのセックスだった。
 
もう一度観たいものだ。
 
A
イラスト・長谷川サダオ

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2017年7月17日 (月)

女性の味方となって命がけで!

祖父、伊藤富士雄の話を沖野岩三郎著『娼妓解放哀話』から抜き書きしてみよう。
 
 
 
「伊藤富士雄氏は信州松代の真田藩士伊藤録の二男で、測量機器製造の熟練工だったが、若い頃何とかして社会のために尽くしたいものだと思っていた矢先、片山潜氏の労働世界か何かを読んで、同氏と一緒に社会事業団でもやろうかと考えたことがあったようだが、そっちへは行かないで、とうとう救世軍(軍隊組織でキリスト教を布教する団体)に飛び込んできたのだった。
 
「あの男は何かやるよ!」と片山氏は始終言っていたそうだが、明治36年4月に大阪の勧業博覧会が開かれたとき、大阪難波に救世軍第2小隊というのを設けて、そこで盛んに伝道したのを手始めに、淫売窟へ押しかけて行って、随分有益な働きをしたが、気に食わないことがあるというので、明治37年に一時救世軍をとび出して、関西鉄道または大阪砲兵工廠に入り、のちに上京して築地の海軍省工場で工場長を務めていたが、明治43年に長女が若くして死んだので、心機一転して再び救世軍士官となり、大正2年4月から非常なる決心を心に抱いて、社会事業部に転じて婦人救済係となって、大正12年6月2日、下谷救世軍病院で、この世を去らるるまで、満11年3ヶ月間、専心娼妓自由廃業のために努力して、987人の娼妓に自由を与えたのである。」
 
 
 
「伊藤君はおよそ1200人の芸娼妓の面倒を見て、そのうちの987人を無事に廃業させ、それぞれに堅気の生活をさせたのです。
 
伊藤君のことを思うたびに、実に偉大な男であったと、つくづく感心する。何となれば伊藤君があの救済運動をする上には、始終3つの大きな危険をのぞんでいたからです。
 
3つの危険というのは、第1に暴力です。
 
伊藤君は毎日、家を出るとき、いつどこで殺されるかもしれないという覚悟をしていたのです。
 
半死半生の目にあわされたことが2回、けられたり、殴られたり、石を投げられたことは何百回かわかりません。それでも伊藤君は平気なものでした。
 
第2の危険は金力でした。金力でもって人を売買できると考えている楼主たちです。
 
したがってどんな人間でも、金銭で左右できると思うのは当然です。987人の娼妓1人につき、100円ずつ楼主側から出しても9万8700円じゃないですか。それだけで稼業を続けさせたなら、楼主はその幾倍の利益を見ることができるのですから、伊藤君がもし少しでも金に目がくらんだら、どんなことでもできたのですが、じつに潔白に身を保っていたのです。
 
第3には異性の力でした。男子という男子はことごとく、餓鬼のようにして色を漁るものだという実験ばかりもっている婦人の前に、たった1人、伊藤君だけが真実、女の味方となって生命がけで働いてくれるんです。
 
しかも、親切で情が深く、男らしい勇気に充ちているのだから、大きな誘惑の力が、彼の上に襲ってきたことでしょう。
 
けれども伊藤君は、毅然としてその誘惑の上を踏みこえて戦ってくれました。本当に感謝の言葉もありません。」
 
 
 
最後の言葉は、日本の救世軍の最高司令官の山室軍平氏が、伊藤富士雄を評した言葉だ。
 
ぼくの親父、祷一は、貧乏暮らしと、祖父の転勤で住む場所が変わるのが、よほど嫌だったらしく、救世軍嫌いで、祖父に反発するようにを女に狂っていた。
 
ぼくはどうだったのだろうか。祖父の血を継いで、差別や偏見と戦いはしたが、女性には狂ったし、あまりほめられたものではなかったのでは……。
 
B
真田家の家紋。六文銭

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2017年7月14日 (金)

コンクリートの僅かなすき間で生きている!

  線香花火を囲みてかがむ幼等の顔だけが影をつけて明るし
 
  紅く熟れし烏瓜白き壁に垂れ外科医院の窓のかたく閉ざせり
 
  仕事終えし日傭人夫の女たち後向きになりて身づくろせり
 
  ストリップ劇場出でこし夜の街に透きとほる靴下を下げし店あり
 
  掛声がもれくる地下の窓にして路上に吹きくる体臭を含む風
 
 
 
これらの短歌は大学生時代に作歌したものだ。短歌を作ることをやめてしまって、60年もの歳月が流れているが、何でもないような人の仕草や、行動半径は極端に狭くなっているが、街の表情などを感じとる習慣はなんとなく身についている。
 
 
 
家にばかりいては足が弱ってしまうので、1日に1度は買物をかねて、下北沢の商店街を通り過ぎて下北沢駅前のスーパーオオゼキに行くことが多い。
 
杖などいらないが、早くは歩けない。片道2、30分はかかるだろうか。今のところ途中で休まずに、スーパーにたどり着く。
 
帰りはカフエ「織部」か、「つゆ艸」に立ち寄る。「織部」には、朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。日経はいい新聞で文化欄も充実している。世の中の経済状態がよくわかる。
 
今時の大学生は新聞を読まないようだが、日本経済新聞だけは絶対に読むべきだ。
 
 
 
わが家から下北沢に向かうには、竹下元総理の自宅の前の住宅街を通り過ぎる。人の通りはほとんどない静かな住宅街だ。舗道も狭くてぼくが歩いていると、車道によけて通り過ぎる。その舗道のコンクリートの僅かなすき間になんの木かわからないが、5センチほど顔を出している。そのかわいい木をひきぬいてわが家に持ち帰り、小さな鉢に植え替えた。
 
もう1週間ほどになるが、根もついていたので生きているのだろう。どこからか種が飛んできて、コンクリートの僅かなすき間に入り込み生きていたのだ。その生命力の強さには驚くばかりだ。
 
たんぽぽ、小さなかわいいすみれ、なども見つけることがある。どこもかしこもコンクリートになっているのに、少しでも土があれば、そこに住みつく。
 
かつては川だったところが、道路になってその下を下水が流れている。森厳寺の裏手が今は歩道になっていて、そこを通ると駅に行く近道だ。歩道の両側は、つつじや、あじさいなどが植えられ、花の咲くころは目を楽しませてくれる。
 
 
 
とにかく85年も下北沢の街に住んでるのだから、街の変わりようは目まぐるしいばかりだ。
 
最近は外人がめだって多くなってきている。それも観光客でなく、住みついている人のようだ。中国人や、韓国の人はしゃべらない限り見分けがつかない。もう街に溶け込んでいるようだ。
 
 
 
「つゆ艸」のママの由美さんのお父さんが、最近、87歳で亡くなられた。数年前までは、9月のお祭りには必ず九州から出てこられていたので、何度かおめにかかったことがある。
 
最近、急に弱られていたようだ。若いころは製材所をやっておられていたそうで、木に愛着があり、器用にスプーンを作られていた。
 
「つゆ艸」のお店には、由美さんのお父さんが作られたスプーンが壁に飾られている。お父さんはいつまでも生きているようだ。
 
A
小さな木よ、大きくなれ!

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2017年7月10日 (月)

戦争の記憶が薄れてくると!

2017年7月2日の都議会選挙の投票日の東京新聞朝刊の記事だ。この時はまだ自民党が大惨敗するとは、誰も思っていなかった。
 
「戦争の惨めさを知った・満蒙開拓国ソ連兵へ『性接待』」の見出しだ。この記事の最後に「デスクメモ」があり、こんなことが書かれている。
 
 
 
「生きて捕虜の辱めを受けずと威張っていた人物が捕虜になるや、平然と同胞を売ったという話は「昭和」まではよく聞いた。
 
人の浅ましさ。戦争の記憶が薄れるにつれ、またぞろこの種の「愛国者」たちが跋扈している。素性は進行中の政権の醜聞を見る限り、変わらない。(牧)」
 
その日の深夜、自民党は大惨敗した。この記事を書いた、東京新聞の佐藤六さんもスカッとしたに違いない。
 
 
 
「ソ連兵の性接待の被害者だった89歳の女性が、戦後70年を過ぎたところから、つらい記憶を綴り始めた。
 
女性は戦前、岐阜県黒川村(現白川町)の「黒川開拓団の一員として満州に渡った。敗戦直後、ソ連兵への「性接待」を強いられた。
 
当時、17才。「ものすごく恥ずかしく、戦争の惨めさをさんざん知った。(中略)
 
食料の提供を受けるためにも、ソ連兵に女性たちを「差し出す」という。女性は逃げたかったが、開拓団全体の生死が関わる事態に「嫌だ」とは言えなかった。
 
開拓団の共用施設の一室には、ずらりと布団が並べられていた。仕切りも何もない。交代でソ連兵の相手をさせられた。ソ連兵は銃の先で女性たちの体を小突き、丸太のように倒した。
 
「慌てているわ、扱いは恐ろしいわ、物扱い。」
 
ソ連兵が駐留した11月まで「性接待」は続いた。(後略)」
 
 
 
Img_5949 わが第二書房では、昭和31年11月10日発行の三上綾子著の『匪賊と共に―チチハル脱出記』を刊行している(1956年。今から52年前のことだ)。
 
この本が発売されるや、大きな反響を呼び「週刊新潮」が「性のいけにえになった女性群」という見出しで、5ページほど使って記事にしてくれ、その年のベストセラーになった。
 
その本の内容はすさまじく、戦争を経験した者でなければ理解できないだろう。
 
「満州における日本人開拓団は、未開の曠野に鍬を入れて、開墾の土地を切り開いていったのではなかった。
 
内地農家の満州移住を楽土建設をうたって、笛と太鼓で奨励した日本政府は、満州国政府に指令して、満人農家の人たちが祖先伝来営々として経営してきた豊穣な土地を、安く、タダみたいな金で強制的に買い上げると、そこへ日本開拓団を送り込んだのである。
 
こうした好条件で迎え入れられた開拓団の人の中には、それが全部とはむろん言わないけれど、次第と開拓の精神を忘れて、安逸をむさぼる者も当然出てきた。
 
正直な話、内地の豪農でいたものが、土地を捨てて満州へ移住なぞしなかったであろう。たいていが貧農なるがゆえの満州移住であったのだ。
 
「そう言っちゃなんだけど、比較的教養の低い人が多いように思うんだ。それで……」
 
満州へ来て、一躍、膨大な土地の主となった彼らの中には、満人を小作人として酷使したものもあった。
 
「畜生!いつかは……と思っていた。積もりに積もっていた満人の憤懣が、日本の敗北で爆発したんだ。ともかく開拓団に対する満人の反感は根が深いからね。」
 
 
 
稲田朋美防衛相、東京新聞の記事を読んでもらいたい。こんな防衛相のために生命を投げ出す自衛隊員がいるのだろうか?
 
 
 携帯を孫に教わる情けなさ

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2017年7月 8日 (土)

ぼくにスマホを使いこなせる日が?

デザイナーであり、イラストレーターでもある、80歳を過ぎても大活躍している宇野亜喜良さん。携帯電話など持たないし、事務所には、FAXもなければ、コピーもない。
 
今は亡き澁澤龍彦さんは、テレビもご自分で操作できなかったと聞いている。偉大なお二人の真似をしたわけではなく、ぼくの場合は頭が悪くて覚えられないから、文明の利器を使えないということだ。
 
そんなぼくが、なんと最新式の携帯電話を息子や、息子の嫁(一緒に同居している)に何の相談もなく、買い求めてしまったのだ。
 
 
 
我が家のすぐ近くにコジマがある。東急バスが渋谷と若林折返所を走っているが、わが家すぐ近くの「淡島」から乗ると、10分足らずでコジマのある若林折返所に着く。そこから歩いてコジマまで5分ほどだ。
 
ソニーの小さなカメラに充電できなったので、電池を買いにコジマに行ったのだ(それがトンマな話で、充電する機械?が二通りあって間違って使っていたの)。
 
「JCOM」と背中に書いてある制服を着た若者が、電池を探してくれた。この人、コジマの社員でなく、JCOMから派遣されている人で、自社の製品を売っている人だった。
 
我が家には、女房の部屋と、リビングにソニー製のテレビがあるが、リビングにあるテレビしか、BSとか時代劇を見れない。その話をしたら、すぐに担当の者を我が家に寄こして、2台とも時代劇でも映画でも見れるようにしてくれるという。ありがたいことだ。
 
その若者は『薔薇族』のことをよく知っていた。その若者に勧められたのでは買わないわけにはいかない。
 
今、ぼくの口座から落ちている金額が今より安くなるという。携帯の使用料も月に1000円足らずで、今、落ちている金額と同じくらいで、5分間以内の通話が、どこにかけても無料というからありがたい。
 
年寄りが使う携帯電話と、スマホとかいう新しいものと値段は同じだというから、新しいものにしてもらった。
 
 
 
携帯電話が送られてきて、手に持ったが、果たして使いこなせるかどうか。
 
昔なら孫に教わるなんてことはなかったが、携帯の使い方を教わるなんて、なんとも情けない。
 
カフエ「織部」の店長に、ブログを見る方法を教わったが、すぐに忘れてしまう。それでも自分が書いたブログを自分の力で見れた時の感動は忘れることはできない。
 
バスの中でも、電車の中でも、人々は携帯電話をいじっている。何を見ているのだろうか。ぼくにそのようなことができる日が訪れるのだろうか。生きているうちに。
 
 
 
都議会議員選挙、自民惨敗に終わった。
 
ぼくは世田谷学園には、大きな三つの恩があるので、愛校心は人一倍強いつもりだ。世田谷学園の同窓会の副会長の大場康宣君を世田谷区議会の議員だったころから、都議になってからもずっと支持してきた。
 
しかし、今回は大場さんに投票しなかった。世田谷区は18人も立候補者がいて、当選するのは8人。大場さん最下位の8人目でかろうじて当選した。
 
世田谷区には、世田谷学園の卒業生は多いのでは。同窓会がもっと機能していれば大場君は楽々当選できただろう。
 
同窓会の会長が無能で、同窓会は活発ではない。これから子供が少なくなっていく。同窓会を盛り上げないといけないのでは。

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2017年7月 3日 (月)

「ああ、あのオカマさんの店」とニヤニヤと!

1955年7月号の『あまとりあ』今から62年も前の雑誌で、ぼくが23歳、駒大に通っていた頃のものだ。
 
敗戦後、数年の昭和24年には、早くも「シルバー・ドラゴン」というゲイ・バアが誕生している。
 
「ゲイ・バアの生態」と題して、かびや・かずひこさんがルポし、神田・銀座・新橋界隈のお店が紹介されている。
 
 
 
「神田のゲイ・バアでは、「シルバー・ドラゴン」が、まずあげられる。24年に開店し、約2年ほどは少数の外人客相手にひっそりと商売していたが、26年ごろからようやく衆道愛好者の間に、その名を知られてきて忙しくなったという。(中略)
 
シルバー・ドラゴンの名を言ったところ、酌の女が「ああ、あのオカマさんの店」と、ニヤニヤと薄笑いした。ただに飲み屋の女と限らず、一般世間人は男色に対してこの程度のアタマしかなく、この程度の理解しかないのが通例なのである。こんなところにゲイ・バアが向こう三軒両隣と調和しがたい悩みがあったのだろう。(中略)
 
男子同性愛に対して、一家言を持っていることでは、このママさんは恐らく都下ゲイ・バアのマスター中で随一であろう。借り物でない、自分の意見を持っているのだ。それだけにボーイに対する薫陶も、なかなか当を得ているようだ。
 
このように割りきっている彼にも、若いころには、社会との調和を考え、母親のすすめに、意に染まぬ異性との結婚をしたこともあったというが、同棲何ヶ月かにして、妻には指一本触れることなく、ついに離婚したのである。
 
母親とは現在も同居している。親孝行なのである。母親コンプレックスが、彼の同性愛の要因かもしれない。(中略)
 
「シルバー・ドラゴン」のボーイさんは、現在5人、年齢は20歳から25歳。ここのボーイもほとんどが、昼間は他の職業に従事しているか、あるいは職業の師について勉強している。
 
ママさんは店に新規のボーイが入ってくると、いつも次のように話すのだそうだ。
 
「お前さんたちは、今は若いからお客さんにチヤホヤされているが、いつまでもそうだと思っていたら大間違いだ。
25、6過ぎにでもなったら、誰も相手にしなくなる。ゲイ・バアのボーイなんて、若いうちだけが花なのよ。
 
だから年をとった時の用心に、今のうちから何か職を身につけておかなきゃいけない。その職もこういう店のボーイというと、誰も彼もがバレエをやりたいとか、日舞で身を立てたいとかいうが、それがお前さんたちのいけないところさ。怠けぐせの現れさね。そんなことに憧れるより、もっと地道なしっかりした職を習うようにするがいい。」
 
このような「薫陶」が、ボーイの処世術に影響しているわけである。
 
ソドミアが同性の相手を求める情は、普通人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強いものであることは事実である。それは何に所以するのか。
 
容易に愛の対象をもとに得られそうに見えるゲイ・バアのボーイにおいても、この念は同様だということだ。」
 
 
 
かなり話をカットしてしまったが、敗戦後いち早くゲイ・バアを開店させた、ゲイ・バアの黎明期のママさんたちは、しっかりした考え方をしていた人が多かったようだ。
 
「ゲイの人が同性の相手を求める情は、普通の人が異性の相手を求める情よりも、はるかに強い」と、ママさんは言っているが、それはゲイの人たちが子供の頃から抑圧され続けてきたからだろう。それはこの時代と、今の時代でも変わりはないのでは……。

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2017年7月 1日 (土)

ドクターと呼ばれる顔にホモの?

川柳って、その時代の庶民の生活を反映させている。
 
1955年7月号(今から62年前)の『AMATORIA・あまとりあ』(あまとりあ社刊)が、書棚の中から見つかった。
 
この雑誌、第5巻とあるから、1950年・昭和25年頃に創刊されたのだろう。この時代、多くのエロ雑誌が創刊された。敗戦後、まだ5年しか経っていない頃だったからひどい時代だった。
 
ぼくは小さい出版社が生き残るにはエロ本しかないと「ナイト・ブックス」を出した第1号が、武野藤介さんの『わいだん読本』だった。昭和37年12月のことだ。まったく面識のない武野藤介さんを吉祥寺に訪ね、出版をお願いした。
 
その後、武野さんの本を何冊か出し、親しくなり、息子さんにお嫁さんを紹介したこともあった。
 
西荻窪駅のレストラン「こけし屋」で催される中央線沿線に居住する文化人が集まり、「カルヴァドスの会」の年末に開かれる宴会に先妻の舞踊家、ミカを余興に会員である武野さんが推薦してくれて、踊りを見せたことがあるから、武野さんは忘れられないお方だ。
 
『あまとりあ』の裏表紙に、武野さんの著書の広告が3冊も載っている。人との出会いって不思議なものだ。
 
 
 
『あまとりあ』の誌上に「現代風俗川柳傑作選」という投稿ページがあり、選者は岡田甫(はじめ)さんだ。
 
「天」に選ばれた句は、徳島の杉原芳水さん。
 
  男娼に頼まれて買う女下駄
 
「新奇な思いつきを採る」と、選者は書いているが、男が女下駄を買うのは恥ずかしい。女性に頼んだというところが面白い。
 
「地」は、これは驚き。『薔薇族』の読者は、肛門にいろんなものを入れて楽しんでいたが、入れたはいいが出せなくなってしまって、電話をかけてくる人がいたが、女性がオナニーをするのに、電球を使ったとは。割れたらケガをしてしまう。にんじんとか、きゅうり、なすぐらいにしてもらいたいものだ。
 
  電球(たま)割った話が彼の腑に落ちず
 
神戸市の田中富美子さんの句だ。選者はこんなことを書いている。
 
「女性のオナニーは、男性の想像もつかぬものを使用するとか。昔女学生が電球を使用し、それが割れて大ケガをした話は有名だ。」
 
この時代は「ラブオイル」もないし、オナニー用の用具も進化していない時代だから仕方がなかったのだろう。
 
 
 
秀逸欄には、こんな句も。
 
  ドクターと呼ばれる顔にホモの影
 
『薔薇族』の顧問ドクターだった、三原橋の医院の先生の顔がまず頭に浮かぶ。お医者さんも読者に多かった。
 
  男娼のハンドバックに脱毛剤
 
今なら「ラブオイル」も入っているのでは。
 
  間違えた電車のように鶏(とり)に下りる
 
北海道の比沙婆さんの句。鶏の交合って、そんなに早いのか。見たことないな。せせらぎの桜並木を散歩していて、初めて雀の交合を目撃したけど、メスのあとを何度もしつこく追い回していたっけ。
 
  こんなにも簡単なものオロシて来
 
東京の山北残月さんの句。女性が妊娠して堕胎するという大変なことを、こうも簡単に句にされてはやりきれない。
 
下北沢の北口にあった木造の汚い医院。母も堕胎したこともあり、親類の人、知人も紹介していたっけ。当時は法律で禁止されていたのでは。暗い話だ。
 
  珍毛がたまって頭薄くなり
 
芦屋の楠南坊さんの句。珍毛蒐集癖の男の話。長い時間をかけて珍毛を集めているうちに、自分の頭が薄くなってしまう。人生の悲哀を感じさせる。川柳って面白い。

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