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2017年9月

2017年9月18日 (月)

縁側は子どもたちの社交場?

昔はどこの家にも縁側(えんがわ。座敷の外の庭に面した板敷き)があった。わが家にも縁側があり、狭い庭だが椿や柿の木や草花が植えてあり、木戸を開けて入ってくると、ガラス戸が開けてある縁側には何人も座れ、近所の子どもたちの社交場になっていた。
 
 
 
学校から帰ってくると、近所の子どもたちがやってくる。お目あては積み重ねてある講談社の絵本だ。
 
近所の子どもたちは、親が商人であったり職人や大工の子どもだから、親が本など買ってくれないのだろう。
 
わが家の父は出版社に勤めていたから、毎月何冊も発売される講談社の絵本を買ってくれていた。
 
講談社の絵本は一流の画家にイラストを描かせていた。戦争ものもあるが、日本の民話や外国の有名な物語、イソップなどもある。
 
ぼくにしても講談社の絵本から学んだものが多かった。近所の子どもたちも夢中になって絵本を読んでいた。
 
 
 
縁側にやってくるのは、子どもたちだけではない、ご用聞きの洗濯屋さん、炭屋さん、魚屋さんなどが木戸を開けて気軽に入ってきて縁側に座り込む。
 
母はお茶や、お菓子などを出すと、彼らは世間話をして帰っていく。のんびりとした時代だった。
 
 
 
わが家の前の通りは、道幅が5、6メートルぐらいだから、車はすれ違えないから、今は一方通行になっている。
 
戦前は車など通らない。代沢小学校前の四つ角からわが家まで50メートルほど。当時は表通りも横丁も舗装などされていない、砂利道だ。
 
たまに通るとしても、荷物を積んだ馬車ぐらいだから、わが家の前の路地は子どもたちの遊び場だ。その頃はどこの家でも子どもが4、5人はいたから、学校が終わって子どもたちが集まってくると、3、40人になるのだから賑やかなことだ。
 
みんなで二手に別れて遊ぶのは、兵隊のくらいをつけて取り合う遊びで、ルールなどは忘れてしまっている。
 
男の子はべえごま、メンコ、釘たおしなどだ。女の子はゴムとび、石けり、これもよくは覚えていない。
 
現在は代沢小学校の筋向かいの角は「丸長」という中華そば屋だが、戦前は「のんき屋」という餅菓子屋だった。そこに長女と長男の2人の子どもがいた。長女はすみちゃんという女の子で、美少女とはいえないが、活発な少女だった。
 
ぼくはすみちゃんが初恋の少女だったと思う。小学校は共学ではないし、わが家には姉と姉と妹ふたり、あまり乱暴な遊びなどしない大人しい子どもだった。
 
 
 
その頃、地下を流れる下水道などなく、蓋をされていないコンクリートの下水道が道の両側にあった。台所の使用した水や、風呂の水などもそこに流れ込む。
 
そこに乱暴な近所の子どもにつき落とされて、コンクリートの角に頭をぶつけ、切って血だらけになり、医者に運ばれたことがあった。今でも後頭部を指で触ると、へこんでいるところがあり、傷痕が残っている。
 
ぼくが頭が悪いのは、その時、頭を打ったからではないか?
 
 
 
その頃からもう60数年の歳月が。
近所の幼友達は、みんなあの世に行ってしまって、いない。ひとりだけクラスが違ったが大工の息子のとしちゃんだけはまだ元気だろうと思って、何年ぶりかで訪ねてみた。釣りが好きで多摩川であゆを釣るといつもくれていた。
 
としちゃん、生きていた。嬉しかった。握手する力は強かった。幼なじみっていいものだ。
 
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幼き日の姉とぼく
 
A2
木戸のあるわが家の庭
姉とニューギニヤで戦死した叔父

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2017年9月16日 (土)

読者に対する思いやりと心の温かさが!

1998年『薔薇族』10月号309号から、表紙絵が内藤ルネさんから、若い野原くろさんに変わった。
 
「伊藤文学のひとりごと・連載282」に、ぼくはこんなことを書いてる。「『薔薇族』は変わるぞ!」と題して。
 
 
 
「内藤ルネさん、本当に永いこと、お疲れさまでした。1984年の2月号(132号)から、木村べんさんと代わって『薔薇族』の顔というべき表紙絵を描き続けてくれました。
 
14年という長い年月が流れていました。若い読者の多くがルネさんの表紙絵を見てくれていたということになるでしょう。
 
今、バックナンバーを1冊、1冊と見ていくと、実に工夫をして読者を飽きさせないように、マンネリにならないようにと、描き続けてきたということがよくわかります。
 
昨年の6月、アメリカのロサンゼルスでのゲイ・パレードに、ルネさんの描いた『薔薇族』の表紙絵を拡大して、オープンカーの横っ腹に貼って行進したのを想い出します。
 
今年は残念ながら参加できませんでしたが、ロスの『薔薇族』応援団のスティーブン君が単身、『薔薇族』の表紙絵をかかげて行進してくれました。
 
オープンカーに乗っていても疲れるのに、歩いて長い道のりを行進するのは大変なことで彼らの『薔薇族』への熱い応援には、ぼくも頑張らねばという気持ちにさせられます。
 
内藤ルネ、藤田竜の両君に出会ったのは、昭和46年(1971年)の春頃だったと思う。彼に出会わなければ、今日の『薔薇族』はなかったし、いろんなゲイの人たちへの商売も、今のような隆盛を迎えることは出来なかったでしょう。
 
ルネさんと、竜さんのセンスのよさは抜群で、どちらがどちらということがわからない二人三脚で、素晴らしい仕事をこなしてきました。頭が悪くて、才能のまったくないぼくが、永いこと二人とお付き合いできたことによって、多少は美意識を養うことができました。本当に二人のおかげというしかありません。
 
『薔薇族』のいい所をあげるとすれば、「あたたかさがある」ということでしょうか。読者を思いやる心のあたたかさがあるのではと自負しています。
 
それは表紙絵にもあって、ルネさんの描く表紙絵は、ロマンティックで、ほのぼのとした心のあたたかさと、抒情性を感じる。それがぼくの好きだった要因といえます。
 
ルネさんも、ぼくも昭和7年生まれの同じ歳、もっと、もっと続けてほしかった。
 
しかし、世の中、がらりと変わってしまいました。このへんで思いきって気分を変えようと決断したのです。それはそれは悩みに悩みましたが、決断を下しました。」
 
 
 
この号の裏表紙には、キリンシーグラムさんがなんと広告を出してくれている。ゲイ雑誌に一般企業が広告を出してくれたのは、『薔薇族』だけで、これは快挙といえるだろう。
 
ルネさん、一般の仕事がなくなってしまって、『薔薇族』の表紙絵を描くだけになってしまったこともあったようだ。ルネさん、もっと、もっと描き続けたかったに違いない。『薔薇族』は、他誌のゲイ雑誌と比べてみて、品格というか、気品がにじみ出ているように思う。
 
中野にある「まんだらけ」という、古本やいろんなものを売っているお店の担当者の話によると、今でもルネさんが表紙絵を描いた『薔薇族』は、ルネさんフアンがいて、高価で売れているそうだ。
 
ルネさん、あの世でいい仕事を残したと喜んでくれているに違いない。
 
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2017年9月11日 (月)

自分の道は、自分できりひらくしかない!

ゲイの人たちが異性と結婚しないわけにいかなかった時代のこと、つらい別れがあったようだ。
 
埼玉県のA・Yさん。
 
 
 
「小生、『薔薇族』を購入するのは、世帯を持っていた関係上、20年ぶり以上のことです。
 
一応結婚して、子供たちを大学に入れて休みもなく働いてきて、定年前に離婚、その際にほとんどのものを失ってしまい、現在は年金だけのひとり暮らし。
 
また定年直後に狭心症をわずらい、約2年の闘病でよくなり、まあ、いろんなことを経験しての現在は、ようやく落ち着きを取り戻し、まあまあの生活を送っています。(年金生活なので多少さびしくはありますが)
 
しかし、こうした気兼ねなしのひとり暮らしも、寂しい面もありますが、ある程度は自分の好きな生活ができるので、一応は満足しております。
 
とにかく残された時間がだんだん少なくなりつつあるので、その残された時間を好きになれる人、好きになってくれる人と一緒に過ごしたいものと念じております。」
 
 
 
定年前に離婚、どんな夫婦生活を送ってきたのだろうか。A・Yさんも大変だったろうが奥さんもどんな思いで過ごしたのだろうか。
 
どっちが悪いわけではないのに、ゲイとして生まれた以上、どうにもならない宿命としか言いようがない。
 
結婚しない独身のゲイといえば、30歳過ぎの人の告白。
 
 
 
「ひさしぶりに『薔薇族』を開きました。
 
なんとなく30歳を越えて、急にしんどくなってきました。やっぱり自分なりに割り切っているとはいっても、男が結婚しないということは、社会に対する一つの挑戦だと思います。
 
20代で使っていた言いわけが通用しなくなりはじめて、家庭を持たないということは、けじめがないとか、だらしがないとか思われても仕方がないような状況に、今いると思います。
 
それができないなら、とことん男の人にのめりこんでいるかというと、そうでもなし、なんか宙ぶらりんです。
 
どうしてももっと要領よく、スマートに立ち回れないのかと、いつも自問自答の繰り返しです。
 
自分が40歳になった時、50歳になった時、そのときの青写真も全く描けません。
 
ただ、今は自分の食べる分だけ働けばいいとか、自分のほしいもののために、働いているという感じで、その日が平穏であれば、それはそれでいいか、という無気力、無感動な世界の中にいます。」
 
 
 
ゲイでなくても、今の世の中、4人に1人は結婚しないというから、一度しかない人生をいかに生きるかということだろう。
 
もうひとりの投稿。
 
 
 
「先月、30年間、一緒に過ごしてきた女房と別れました。むろんゲイであることが原因です。
 
子供たち(社会人になっています)に、カミングアウトしました。やはりショックだったようです。
 
女房にはとうに知られてはいましたが、子供たちには話すべきではなかったと後悔しています。
 
でも、「夫婦は別れても親子は親子」と言ってくれた時は、さすがに目頭が熱くなりました。
 
これから終生、男を好きになることを続けて、ひとり生きていきたいと思っています。」
 
 
30年も一緒に住んでいて、女房もゲイであること知っていたというのだから、離婚することもなかったと思うけれど。
 
夫婦が愛し合って生まれた子供。そうでない子供。この世に生まれてしまえば、そんなこと関係ないのでは。ひとり、ひとりがどう生きるかということだ。
 
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イラスト・長谷川サダオ

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2017年9月 9日 (土)

私は昭和の唐人お吉だった!

『女の防波堤』、『週刊新潮』の記事のおかげで注文殺到、ふだんは威張っている取次店(本の問屋)の仕入れ課の人たちが、わが家まで来て、増刷ができたら何部仕入れさせてくれと頼み込んでくるのだから驚きだ。
 
ところがありがたくないお客さんが、黒塗りの車、4、5台でやってきて、帳簿や残っていた本を持っていかれてしまった。
 
『女の防波堤』が、わが社、第二書房の初めての発禁処分だ。
 
今、読み返してみて、セックス描写もえげつないところはなく、何ら猥褻という箇所はない。『女の防波堤』は、猥褻だから発禁になったのではなく、警視庁と売春業者が資金を出し合って、半官半民の売春会社を作ったということを、これ以上世間に知られたくなかったのだろう。
 
 
 
「焼け残った牛肉店松喜本店と書いた店の前に、大看板が張り出されています。
 
 
 
  芸者、ダンサー多数求む!!
 
  進駐軍接待婦大募集!! 昭和の唐人お吉よ来れ!!
 
  日本女性の防波堤たらんとする、女性を求む!!
 
  衣食住は当協会負担・面談即決!!
 
  特殊慰安施設協会
 
 
 
と大きく書かれてありました。
 
大森海岸の小町園、見晴らしに乗り込んだ昭和のお吉たちは全員167名の大部隊でありました。私たちのお店である小町園は、18室もある大きな料亭で、93人。見晴らしには74人だ。
 
桧造りの豪華な建物ですから、私たち焼け出されの女たちは、「あらすごいわね。こんな家に住めるんなら、少々つらくても辛抱するわ」と、みんな上機嫌です。(中略)
 
トイレに行って廊下から表のほうを見ると、これはどうでしょう。薄暗い京浜国道の広い通りにアメリカの兵隊が、一杯黒山の行列をつくって、彼らは何事か叫びわめいています。こんな暗いうちから、彼らはもう押し寄せて来たのです。(中略)
 
大きな毛むくじゃらの右手を、私の胸の中にさしこんで乳房を握ったり、そっと撫ぜたりしながら、その間も唇を離さないので、私は息が詰まりそうで、思わず「ウムッ!」たまらず顔を背けると、男はようやく離れてズボンを脱ぎ始めました。
 
私は乱れた胸をかき合わせながら、床の上に横たわりました。
 
男が裸になる間、琴子さんの方に耳をそばだてると、琴子さんの方は、もう次の男が来たらしく、先刻の男と違った声が、何か話をしています。そして何か女の荒い鼻息が、カーテン越しに聞こえてきました。
 
その時、私の上に胸毛のたくましい男が、おいかぶさってきました。無我夢中の一瞬が過ぎると、男は私に再び熱い接吻をして出て行きました。
 
外人の熱い血を全身に浴びせられた私は、しばし呆然としてきました。(中略)
 
 
 
外人にしては、あまり大きくない日本人ぐらいの男で、青い目が澄んだかわいい、まだ若い兵隊です。何だかホッとした気持ちで私はその若い男を抱きました。
 
次から次へと送り込まれてくる兵隊を私たちは慌ただしく抱いては送り、好悪の感情などさしはさむ余地もなく時を過ごしてきました。(中略)
 
 
 
朝7時から午後3時過ぎまで、わずか8時間ぐらいの間に、23人も相手をしたのかと思うと、われながらびっくりしてしまいました。」
 
 
 
日本の兵隊も、韓国の兵隊も同じようなことをしたのでは。
 
戦争は人間を異常にしてしまう。
 
『女の防波堤』今こそ復刻すべき本かもしれない。
 
人間の欲望って恐ろしい。自分のことも反省しなければ……。
 
(『女の防波堤』は、新東宝で映画化された。)
 
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2017年9月 4日 (月)

戦後の裏面史『女の防波堤』

1945年(昭和20年8月15日・今から70年前)日本は、連合国軍、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどに無条件降伏し、戦争は終わった。
 
父とぼくだけの出版社、第二書房は昭和23年に創業した。ぼくがまだ駒沢大学に入学した年で、そのころは父の企画で地味な本ばかりだった。
 
当時は出版プロダクションなるものはなくて、個人で企画し原稿を出版社に持ち込む出版ブローカーなる人が存在していた。
 
Hさんという人が、わが社に原稿を持ち込んできた。その頃のぼくは大学を出て、どこにも勤めず父の仕事を手伝っていた。
 
その原稿の序文に、元R・A・A・K情報課長さんが、こんなことを書いている。
 
 
 
「売春禁止法が施行される今日、業社出資側5000万円、政府側保証5000万円、あわせて1億円の資本金を持つ、この政府と民間共同出資の赤線会社の創立など、誠に苦笑を禁じ得ない時の流れである。(中略)
 
創立当初における幹部の苦労は大変で、物資の不足はもとより、最大の悩みは、事業目的の第一である前線で働く女性を求めることであった。
 
外国軍隊の占領という前代未聞の事実に直面して、かつて支那大陸、南方方面で我々が犯した行為を想起し、種々の流言が行われた。
 
鬼畜米英と叫んでた日本の男性は皆殺しに、女性は奴隷となり残酷な凌辱を受けるだろうなど、恐怖の流言は巷間にまことしやかに伝えられた。
 
この時に際して、R・A・Aの女性募集に応じた女性は、よほどの覚悟を持って参じた人々である。これら女性の尊い犠牲によって帝都の婦女子は大過なく、その身を守ることができた。
 
 
 
田中貴美子君の手記は、事実その通りよく書かれている。
 
まことに大森小町園、見晴らし開店第一日は、私も早朝より視察に行ったが、あの広い京浜国道に延々と、眼を血走らせ、身震いしながら待つ彼らの姿は、凄絶異常なものを感じさせ、正視するに忍び難かった。」
 
 
 
東京大空襲により、吉原などの遊郭は消失し、女性たちもちりぢりになっていたので、新らたに女性を募集するしかなかった。
 
8月15日の終戦記念日の前後に、NHKはアメリカなどから、戦後の日本の悲惨な映像を手に入れ、生々しい死体の山なども放映された。
 
その中に、R・A・Aの映像も放映され、働く女性たちを募集する新聞広告や、立看板なども知ることができた。
 
出版ブローカーのHさんが持ち込んできた原稿は、その募集広告を見て応募し、「小町園」で、米兵の相手をした田中貴美子さんの手記だ。
 
『女の防波堤』元々付けられていたタイトルか、父がつけたものか覚えていないが、いいタイトルだ。
 
帯にはこんなことが書かれている。
 
 
 
「半官半民の売春会社、R・A・Aに応募し、みずから肉体の防波堤となった、少女の赤裸々な体験手記!」とあり、「小町園」の横文字の看板が載っている。
 
田中貴美子(昭和2年12月23日、東京に生まれる。昭和20年3月某高女卒)とある。名前は仮名だろうし、本人が書いたものでなく、ゴーストライターが話を聞いて書いたものと思われるが、実によく書けている。
 
1刷3000部、2刷3000部とあるが、父のことだから1万部は刷っていただろう。
 
『週刊新潮』が「性のいけにえになった女性群」というタイトルで、5頁も紹介してくれ、注文殺到、大増刷していたときに。(つづく)
 
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2017年9月 2日 (土)

大きい愛をいつまでも持ち続けたい!

「語る―人生の贈りもの」(朝日新聞朝刊)に、作家の佐藤愛子さんが登場して、連載されている。《詩人サトウハチローは、1973年(40年前)、おかあさんの詩をたくさん残して、この世を去った。70歳。佐藤愛子さんにとって20歳年上の異母兄だった》と冒頭にある。
 
今の若い人は知らないだろうけど、サトウハチローの「おかあさん」の詩集は、感動的でベストセラーだった。
 
佐藤愛子さんは、こんなことを語っている。
 
 
 
「私は兄の詩を読み返しました。そして兄の中にある繊細さ、優しさ、涙もろさが自然と流れ出している詩に感動する一方で、例えば一連の「おかあさん」の詩の中には、作りものや、わざとらしい大衆うけがあることに失望しました」と。
 
ぼくが末の妹、紀子の長い東京女子医大心臓病棟401号室(6人部屋)での出来事を書いた『ぼくどうして涙がでるの』の初版は、昭和40年(1965年・今から52年前)1月20日発行とある。
 
昭和40年、秋の芸術祭参加作品となった日活映画・十朱幸代、佐藤英夫主演の『ぼくどうして涙がでるの』の主題歌を制作してくれた、駒沢大学での同期生、長田暁二君が、キングレコードのディレクターをしていた。
 
長田君をキングレコードに訪ねて、『ぼくどうして涙がでるの』の序文を当時、売れっ子だったサトウハチローさんに書いてもらいたいので紹介してくれとお願いした。
 
昭和39年(1968年)のことだと思う。長田君は駒大時代、文化部では部員も多く、一番活躍していた児童教育部の部長をしていた。釈迦の教えを子供を通して布教しようというクラブで、禅学部の学生が中心だった。
 
長田君は子供に縁のある童謡のレコードを多く制作して賞もとっていたが、倍賞千恵子の「下町の太陽」などもヒットさせ、著作も100点を越す。歌謡曲の生き字引みたいな人だ。
 
長田君に連れられて、サトウハチローさんの自宅を訪ねたことがある。序文を書いてもらおうと思ったからだ。
 
確か本郷の東大の近くの家だったと思う。部屋に通されたが、サトウハチローさん、まったくぼくのことなど無視で、ぼくの顔など一度も見もしなかった。
 
長田君と仕事の話ばかりしていて、序文の話などきりだすどころではなかった。長田君、帰り道で、ぼくにどう弁解したのか、まったく覚えていないが、『ぼくどうして涙がでるの』の主題歌を制作してくれたのだから、友情には感謝している。
 
 
 
佐藤愛子さんは、「私たちはしょっちゅう行き来するような仲の良い兄妹ではありませんでした。私もわがままですが、兄は輪をかけたわがままでした。」とあるから、ぼくを無視したのは当然のことだったのだろう。
 
ぼくの父が勤めていた第一書房から処女詩集を戦前、出版している詩人の竹内てるよさんに序文をお願いすることにした。
 
竹内てるよさんは、一生、病気と闘い続けながら詩を書き続けた方なので、病気を持つ人の気持ちをよく理解している方だ。
 
「伊藤文學さんとの長い年月のお付き合いでは、私はいつも信じていました。この人が学生服のときから、人との交友には、一つはしっかりとした、その人のポイントというものがあります。つまり、文學さんのすることはどんなことでも、一つの大きい愛につながっている場面があるのだという信念です。いいかえれば、文學さんのすることは、たとえ、どんな小さいことでも、人間のためにするのだと、信じられているからです。」
 
サトウさんも、竹内さんもこの世にいないけれど、生き残っているぼくは、大きい愛を持ち続けたい。
 
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長男の入園式の日。やせた妹。

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2017年9月 1日 (金)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」は9月30日(土)開催です。
 
日時・9月30日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
初めての方・女性・話を聞きに来るだけの方、
どなたさまも歓迎です。ぜひ、お気軽にお出かけください。

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