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2017年9月 4日 (月)

戦後の裏面史『女の防波堤』

1945年(昭和20年8月15日・今から70年前)日本は、連合国軍、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどに無条件降伏し、戦争は終わった。
 
父とぼくだけの出版社、第二書房は昭和23年に創業した。ぼくがまだ駒沢大学に入学した年で、そのころは父の企画で地味な本ばかりだった。
 
当時は出版プロダクションなるものはなくて、個人で企画し原稿を出版社に持ち込む出版ブローカーなる人が存在していた。
 
Hさんという人が、わが社に原稿を持ち込んできた。その頃のぼくは大学を出て、どこにも勤めず父の仕事を手伝っていた。
 
その原稿の序文に、元R・A・A・K情報課長さんが、こんなことを書いている。
 
 
 
「売春禁止法が施行される今日、業社出資側5000万円、政府側保証5000万円、あわせて1億円の資本金を持つ、この政府と民間共同出資の赤線会社の創立など、誠に苦笑を禁じ得ない時の流れである。(中略)
 
創立当初における幹部の苦労は大変で、物資の不足はもとより、最大の悩みは、事業目的の第一である前線で働く女性を求めることであった。
 
外国軍隊の占領という前代未聞の事実に直面して、かつて支那大陸、南方方面で我々が犯した行為を想起し、種々の流言が行われた。
 
鬼畜米英と叫んでた日本の男性は皆殺しに、女性は奴隷となり残酷な凌辱を受けるだろうなど、恐怖の流言は巷間にまことしやかに伝えられた。
 
この時に際して、R・A・Aの女性募集に応じた女性は、よほどの覚悟を持って参じた人々である。これら女性の尊い犠牲によって帝都の婦女子は大過なく、その身を守ることができた。
 
 
 
田中貴美子君の手記は、事実その通りよく書かれている。
 
まことに大森小町園、見晴らし開店第一日は、私も早朝より視察に行ったが、あの広い京浜国道に延々と、眼を血走らせ、身震いしながら待つ彼らの姿は、凄絶異常なものを感じさせ、正視するに忍び難かった。」
 
 
 
東京大空襲により、吉原などの遊郭は消失し、女性たちもちりぢりになっていたので、新らたに女性を募集するしかなかった。
 
8月15日の終戦記念日の前後に、NHKはアメリカなどから、戦後の日本の悲惨な映像を手に入れ、生々しい死体の山なども放映された。
 
その中に、R・A・Aの映像も放映され、働く女性たちを募集する新聞広告や、立看板なども知ることができた。
 
出版ブローカーのHさんが持ち込んできた原稿は、その募集広告を見て応募し、「小町園」で、米兵の相手をした田中貴美子さんの手記だ。
 
『女の防波堤』元々付けられていたタイトルか、父がつけたものか覚えていないが、いいタイトルだ。
 
帯にはこんなことが書かれている。
 
 
 
「半官半民の売春会社、R・A・Aに応募し、みずから肉体の防波堤となった、少女の赤裸々な体験手記!」とあり、「小町園」の横文字の看板が載っている。
 
田中貴美子(昭和2年12月23日、東京に生まれる。昭和20年3月某高女卒)とある。名前は仮名だろうし、本人が書いたものでなく、ゴーストライターが話を聞いて書いたものと思われるが、実によく書けている。
 
1刷3000部、2刷3000部とあるが、父のことだから1万部は刷っていただろう。
 
『週刊新潮』が「性のいけにえになった女性群」というタイトルで、5頁も紹介してくれ、注文殺到、大増刷していたときに。(つづく)
 
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