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2018年1月

2018年1月29日 (月)

白馬富士も式守さんもかわいそう!

A
 
女房の古里、弥彦村(人口8000人ぐらい)弥彦神社のある村だ。
 
この年賀状の元横綱、白馬富士と笑顔の人は、弥彦温泉の「お宿  だいろく」のご主人、神田睦雄さんだ。
 
弥彦村の観光協会の会長さんでもある。
 
2人ともいい笑顔ではないか。
 
こんなやさしい笑顔の人が悪い人間であるはずがない。
 
弥彦神社の境内に立派な相撲の土俵があって、白馬富士とその弟子たちが毎年、弥彦村を訪れている。
 
白馬富士と弥彦村とのお付き合いの詳しいことは、「三條新聞」で読んだ記憶はあるが忘れてしまっている。
 
 
 
今度の事件でがっかりしているのは、弥彦村の人たちではないか。
 
モンゴル出身の白馬富士が仲立ちをしたのかはわからないが、弥彦村の小学生たちがモンゴルを訪れている。
 
モンゴルの小学生たちも弥彦村を訪れている。
 
白馬富士の今度の事件があったからといって、モンゴルとの友好関係は続けてほしいものだ。
 
 
 
お酒って飲みすぎると恐ろしい。
 
ぼくは酒を飲まないので、泥酔状態になったときのことはよくわからないが、暴力をふるう人がいるのは困ったものだ。
 
先輩の白鵬も同席していたのだから、平手打ちをしたくらいの時に、やめさせるべきだった。
 
白馬富士は絵を描くのも上手だそうだ。
 
怪我をさせた罪も罰金刑で済んだことだから、前科にもならない。
 
本人も反省しているのだから、日本にいて若い力士を育ててほしいものだ。
 
 
 
行司の現役最高位の式守伊之助さんのこれもお酒の飲みすぎの若手行司へのセクハラ行為。
 
この人もお酒の飲みすぎでの泥酔状態で、キスをしたり、胸を触ったとか。
 
こんなことくらいで、3場所出場停止で、辞職願も相撲協会が預かったままだとか。
 
若い行司とのセクハラ。この程度のことは酒を飲みすぎれば、誰もがよくやることではないか。
 
 
 
式守さん、絶対にゲイではない。
 
ゲイの人って飲みすぎると、隠している本性が出てしまうから、正体をなくすほど飲むことはない。
 
白馬富士のことがあったからって、大騒ぎするほどのことではない。
 
伊之助さん、酒癖が悪いことは角界で知られていたことだそうだが、理事長が厳重注意すれば済むことだったのではなかろうか。
 
ぼくは両国の国技館には行ったことはない。
 
テレビで見るだけで、応援している相撲取りがいるわけでもない。
 
それにしてもマスコミが騒ぎすぎる。
 
国技館、何年も前みたいに客席ががらがらになるのかと思ったら、連日、大入り御礼だ。
 
すでにチケットは売れてしまっているからだそうだが、すべての力士たちが全力で闘っている。
 
それを見に行くのだから、ゴタゴタは関係がないのかも。
 
 
 
ぼくはスポーツはやらない。
 
小学校時代は土俵があって、クラスを2つに分けて、小さいもの順に相撲を取らされる。
 
一度も勝ったことがなかった。
 
運動会の徒競走もビリばかりだ。
 
雨が降ればいいなと、そればかりを願っていた。
 
そんなぼくだけど、ボクシングの試合は必ず見ている。
 
サッカーは応援しているチームはない。
 
野球はDeNAだ。駒大出身の中畑が監督になってからだ。
 
女房は巨人、孫はヤクルト、息子と息子の嫁は阪神フアン。今年はどうなることやら。
 
 
 
運動をしなくても、自然に生きていれば、長生きするものだ。
 
よく食べ、よく寝ることだ。
 

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2018年1月27日 (土)

年寄りばかりになる日本、どうなるの?

「一人暮らし2040年4割」2018年1月13日(土)の東京新聞朝刊に、ショッキングな見出しで、「晩婚・未婚・離婚増え」とある。
 
「40年は1970年代前半に生まれた「団塊ジュニア世代」が高齢者になる時期。
 
今後、高齢で独居の人を支える社会保障制度や、地域の取り組みが求められそうだ。
 
 
 
推計によると、15年に5333万の世帯総数は、23年にピークの5419万世帯となった後は減少に転じ、40年は5106万世帯になる。
 
一人暮らしは15年の1842万世帯から増え、30年に2025万世帯に。
 
40年に1904万世帯まで減るが、人口全体は減少することから、全体に占める割合は、39.3%に高まる。
 
うち高齢者は896万世帯と半数近い。
 
65歳以上で1人暮らしの割合は、男性で5人に1人の20.8%、女性で4人に1人の24.5%まで上昇する。」
『薔薇族』の「伊藤文学のひとりごと」のページに「若者よ、老後のことも考えよう」の見出しで書いている。
 
 
 
「ついに年金をもらう年になってしまった。
 
銀行の口座に2ヶ月に1回、振り込まれてくる金額が18万となにがしのお金だ。
 
月にすると9万円ちょっとということになる(現在は徐々に減らされて、14万円になっている)。
 
『薔薇族』に挿絵を描き、小説も書き、映画評も毎号書いてくれた松下良雄さん(ペンネーム)
 
松下さん自己破産してしまい、お国に生活保護をお願いした時のことを記事にしてくれた。
 
「面接の係員があれこれ質問する。
 
生年月日から始まって現在の経済状況。なけなしの銀行通帳まで調べられる。
 
当然といえば当然だけれど、警察で尋問を受けるような気分だ。
 
紹介者のフォローといってもさほどのものではなかったが、とにかく区内の顔役であるらしい。
 
尋問は20分ほどで終わり、ケースワーカーと民生委員の名を知らされ、後日、自宅を訪問して、なお確認をした上で保護決定の許諾が通知されるというものだ。
 
決定まで1週間くらいかかるとも聞かされた。
 
すでにガスは止められているし、電気は2ヶ月遅れ。電話は1ヶ月遅れで、かろうじて払い続けているし、家賃の支払いも迫っている。
 
1日遅れればその分、寿命が縮まることになりそうだが、妙に気持ちは落ちついている。
 
落ちるところまで落ちれば、かえってクソ度胸がつくというやつかもしれない。
 
数日を経てケースワーカーの女性の訪問を受けた。
 
育ちの良さそうな、まだ女子大生みたいな若い姿に、招き入れるのに戸惑いすら感じてくる。
 
次から次へと聞かれた。
 
今日、このような有様になった経緯を繰り返さねばならない。
 
そこまではいいが、家族のいないわけ、生まれ育った環境にまで至ると、なんでそこまで言わなければならないのかと思う。
 
日ならずして「保護決定」の通知書が届いた。
 
月額10万円の記載があった。
 
ため息が出た。
 
私が住んでるアパートの部屋代は、4万5000円。6畳と4畳の2Kだから、現在の東京23区内では例外的と言えるほどに安い。
 
長く住んでいるということ、大家さんが私の困窮ぶりを知っていて、値上げを抑えてくれている好意のおかげである。
 
しかし、それでも今日の保護費のおよそ半分近いものとなる。」」
 
 
 
松下さん、身寄りはいない。
 
妾の子として生まれ、その生涯を何度も手を入れなおし数年かけて書いた原稿が僕の手元にあるが、今の時代、本にすることは難しい。
 
この世にいない松下さん。どうにもならない。つらい話だ。
 

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2018年1月22日 (月)

「スクールセクハラ」いやな言葉だ!

2018年1月13日(土)10時からのNHKの再放送「金曜イチカラ・防ぐスクールセクハラ」という番組を偶然見てしまった。
 
教師と関係をもってしまった女性が、いつまでも心の傷として残り、悩んでいる話を何人かの女性が訴えている。
 
事件になって退職させられた教師が、2年前の統計のようだが、226人もいたという。
 
泣き寝入りしてしまった女性もいるだろうから、その数はもっと、もっと多いのでは。
 
 
 
男性教師と、少年との話は『薔薇族』の読者の投稿が多く、そう珍しい話ではなかった。
 
男性教師と女生徒となると、あっさりと忘れてしまうような事はなく、男性不信になってしまうこともある。
 
問題は未成年の女性が好き、男性が好きだから教師になる人が多いということだ。
 
アメリカで男性の牧師さんが、少年に手を出してしまった事件が、次から次へと明るみに出たことがあった。これは今でもなくならないだろう。
 
ぼくの大恩人ともいうべき先輩が、大学を卒業して高校の教師になったが、教え子と結婚している。
 
生徒だった時代に、男女の関係があって結婚したのか、卒業してからのことかは分からないが、年の差がかなりあった。
 
「小説の世界のような教師との恋」という読者からの投稿を載せたことがあった。
 
 
 
「僕は関西の某有名大学に在籍する学生です。
 
現在、僕はつきあっている人がいます。
 
その人は僕の大学で教鞭をとる教授です。
 
英文学を教えている48歳になる米国人です。
 
僕の友人たち(もちろん、この世界の)はみんな驚きます。
 
「小説の世界やんけえ」とか、「よう親父クラスの男と付き合えるわ」と。
 
僕はみんなの言うように変でしょうか。
 
僕は自分で言うのもなんですが、同年代から比較的若い人には結構もてます。
 
それでも僕は全くと言っていいほど彼らには興味がありません。
 
スーツをビシッと決めたインテリ階級の中年に惹かれます。
 
 
 
僕は講義の合間によくパパ(いつもこう呼んでいます)のオフィスへ仕事の邪魔をしに行きます。
 
そこでは口では言えないような情事が繰り広げられています。
 
あ〜、赤面。夜の方も盛んです。
 
外国人だからムードは大切にします。
 
アレがたくましいのは言うまでもありませんね。
 
パパは僕の黒光りしたコックを握りしめ、まるで洋物ビデオに出演しているような興奮を覚えます。
 
僕より早くカムしてしまうのが少し不満かな。
 
ふだんはインテリ風にキャンパスを甘いマスクで闊歩しているくせに、真夜中は別の顔というこのことを考えるだけで、僕は興奮してしまいます。
 
本当のパパを知っているのは僕だけなんだなあ〜と。
 
外国人のいいところは、その問題が納得いくまで議論することです。
 
僕らはつきあい始めて、1年と8ヶ月が過ぎますが、これまで長くつきあってこられたのも、パパのおかげだと感謝しています」
 
 
 
ゲイの仲間に教授とのことを自慢げにしゃべっているようだけど、大丈夫だったのかな。
 
男性の教師とのことは、少年もオナニーをしていることだから、教師に触れられてもそれほど心の傷にならないのでは。
 
女性の場合は、そのへんが違うのでは。
 
長い時間をかけて、愛しあってのことなら、女性も傷つかないだろうが、これは難しい問題だ。
 
「スクールセクハラ」これはいつまでもなくならないのでは……。

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2018年1月21日 (日)

『そして“カワイイ”が生まれた~内藤ルネ 光と影~』出演情報

NHK名古屋局・取材の放送日が決まりました。

 
『そして“カワイイ”が生まれた~内藤ルネ 光と影~』
 
1月26日(金)19:56〜20:39
 
観れる地域は、愛知県・岐阜県・三重県・福井県・石川県。
 
再放送は、27日(土)10:05〜10:48
 
富山県も観れるそうです。
 
ぼくのおしゃべりは少しだと思いますが、ぜひ、観てください。

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2018年1月20日 (土)

話が古すぎるかな?

『本の周辺』(1979年11月・季刊第14号・新生社刊)今から39年前に本好きの人たちに読んでもらうための64ページの薄っぺらな雑誌だ。
 
「聞き書き・第一書房のこと・語り手=伊藤祷一。聞き手=大久保久雄」6ページにわたる対談だ。
 
昭和4年4月1日に入社、昭和19年に第1書房が廃業するまで、ぼくの父、祷一が勤めていた出版社だ。
 
ぼくのブログを読んでくれている人で、第一書房のことを知っている人はいないと思うが、記録として残しておきたいものだ。
 
 
 
「――第一書房は大正の終わりから昭和19年(終戦の1年前)まで、約20年間にわたり、フランス文学をはじめ、海外文学、国文学、音楽、山の本にいたるまで、主に人文系の図書を発行、内容装幀ともに良心的出版社として著名だったのですが、伊藤さんはいつ頃入社され、どういうお仕事をなさっておられたのですか。
 
伊藤 私は早稲田文学を中退して、甲子社書房という出版社へ勤めました(岩手県の山奥からお手伝いさんとして働いていた、ぼくの母と結婚する)。
 
甲子社書房は宇井伯寿の『印度哲学研究』など仏教書を発行していました。
 
早稲田では下級生に「紺碧の空」を作詞した住治男がいました。私は住治男と一緒に石原健生(俳人・萬戸)のもとで俳句をやっておりまして、この石原健生さんの紹介で、昭和4年4月1日付で、第一書房へ入社しました。
 
 
 
――第一書房は大正12年高輪南町で創業し、伊藤さん大分あとに入社なさったのですが、高輪時代の第一書房についてご存知のことがありましたらお教えください。
 
伊藤 私が第一書房に入ったのは円本のさかんの頃で、麹町へ社屋を移した後のことなのであまりわかりませんが、高輪南町の第一書房は木造2階建てで、奥さんと二人ではじめられたそうです。
 
松岡譲の『法城を護る人々』を処女出版として、創立者、長谷川巳之吉氏が文学者なので、海外文学や詩集を多く出版するようになりました。
 
私は営業主任として入社したのですが、社員はたしか4、5人で、奥さんが会計をやり、三浦逸雄(三浦朱門氏のご尊父)氏と、長谷川巳之吉氏が編集をしていました。
 
少したってから東大を出た福田清人氏が入社『セルパン』の編集をやりました。」
 
 
 
福田清人さんはのちに実践女子大学の教授になり、ぼくの息子の嫁が講義を聞いたそうだ。
 
戦後、第一書房を復活させたいという動きがあったそうだが、長谷川さんの息子の出来が悪く果たせなかったようだ。
 
 
 
『本の周辺』の間に挟まれていた、紳士服の「英國屋」の領収書を見てびっくり。
 
昭和47年11月18日の発行で、7万円。昭和47年11月27日の発行で、5万円。
 
背広を英國屋であつらえていたとは。
 
今なら4、50万はするのでは。
 
ぼくに給料をくれないで、ぜいたくしていたとは許せない。
 
 
 
戦後の昭和23年に資本金25万円で、株式会社、第二書房を創立したが、本当は第一書房としたかったのだろうが、遠慮して第二書房とした。
 
九州の画家、坂本繁二郎、馬の絵を描くことで有名な方だが、『坂本繁二郎画談』という本を出したときに、父が何を思ってのことか、第一書房としてしまった。
 
長谷川巳之吉さんから書留郵便が送られてきて、「無断で第一書房の名を使うとは言語道断。壱百万円を要求する」という。
 
父は新潟の人間は嫌いとよく言っていたが(長谷川氏のことなのか)、新潟の女性をぼくは嫁にしてしまった。
 
勤続15年の記念に贈られた大理石の仏像安物なら、長谷川巳之吉という男は尊敬できない。嫌味な男だ。
 
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2018年1月15日 (月)

年をとって、己を知る!

2006年の7月に、河出書房新社から『『薔薇族』の人々=その素顔と舞台裏』という本を出版することができた。
 
『薔薇族』を支えてくれた14人の人たちのことをどうしても書き残しておきたかったからだ。
 
「ゲイ雑誌にゲイの文化をとり入れた」と題して、ぼくのよき相棒だった藤田竜さんのことを巻頭にもってきた。
 
「『薔薇族』黄金時代の表紙絵を描く」内藤ルネさんを最後にしている。
 
 
 
316ページもの厚い上製本で、写真も多く入っていて、自分で言うのもおこがましいが、今読んでも読みごたえのある本だ。
 
この本に当然入れるべき人だったのに、入れそこなってしまった人がいた。
 
年賀状を出したら、その人からうれしい手紙が返ってきた。
 
 
 
紹介した14人の中で、元気な人は少年愛の稲垣征次君だけで、あとの方はすでにこの世にいない。
 
手紙をくれた方は、京都に住む鞍嶽三馬さんだ。86歳のぼくと同じ年のようだ。
 
力のないヨタヨタの文字で読み取るのが大変だ。
 
 
 
「賀状の正月、それらの大袋から文学さんの過去の手紙が多数出てまいりました。
 
読むうちに涙がにじみ出て、俺も若かったし、文学さんも若かったのだと、今年86歳になった小生は涙を流して、おのれの年齢を考えさせられました。
 
息子さんの京都大学時代に、なぜ会う機会を持たなかったのか、残念至極、今となってはもう過去の出来事と憂うしかありません。
 
 
 
賀状が毎年少なくなってきました。死が横たわっているのでしょう。
 
京都に来て一番友情を保った彼(明治大学野球部のOB)も、一昨年前からこの世を去りました。
 
毎日近くの公園のグランドで、キャッチボールをしたことが、小生の人生の一番の幸福な時でした。
 
 
 
今年の正月、本願寺に参りました。家族の兄弟、そして彼の想い出を胸にたたんで、頭を深く涙をおさえてしまいました。
 
今はもう発展場など夢の夢、あんな世界に俺も生きていたのかと思うとぞっとします。
 
 
 
年齢は悲しいものです。弱いものです。年をとっておのれを知る。人生はなんとも厳しいものなのでしょうか。
 
文学さん、今年も元気で、メシをうまく感じてください。小生も今年中は、まだ大丈夫でしょう、と思います。お元気で文学さん」
 
 
 
鞍嶽さんは東京でレコード店を経営していたが、店をたたんで京都のネクタイで有名な「菱屋」でデザイナーとして働きだした。
 
東京にいた頃、「祭」で何度か出会ったと思うが、どんな方だったのか思い出せない。
 
鞍嶽さんが薔薇族に寄せてくれた原稿は、ものすごく多かった。彼の原稿が載った『薔薇族』を探したが、3冊しか見つからない。
 
1985年8月号「スクープ!! 日本人エイズ患者に単独会見!!」の151号の114ページに「京の男だより・9 この道はうちの生命どす」9ページもの長い文章だ。連載してくれていたのだろう。
 
33年も前のことだから、53歳の時のことで、お互いに若かった。
 
1980年の10月号には、稲垣足穂のことをやはり9ページも書いている。1978年の4月号には、「わが風物詩・11 阿呆物語」を12ページも書いている。
 
 
 
ああ、年は取りたくないものだ。
 
鞍嶽さん「菱屋」が造ったネクタイの美術館の館長もされていた。
 
「年齢は悲しいものです。弱いものです。」
 
ずっしりと胸にひびく。弱気にならずに元気を出そう。人生はこれからだ。
 
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イラスト・木村べん

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2018年1月13日 (土)

ミサイルを撃ち合う戦争はしない!

グアム島に北朝鮮のミサイルが打ち込まれるのではという心配からか、観光客が何割か減ったという記事が新聞に出ていた。
 
今にもアメリカと北朝鮮が戦争になるのではという記事が新聞や週刊誌に載っている。
 
北朝鮮のミサイルが発射され、警報が鳴った時の訓練で、子供たちが腹ばいになって頭を両手で抱えている映像をテレビで見たことがある。
 
戦争を体験したことのある80歳以上の人がこの子供たちの訓練をみたら「何をやっているの」と、笑いたくもなる。
 
70年も前のアメリカのB29爆撃機による空襲のことを思い出せば、こんな訓練がバカバカしくなってくる。
 
 
 
1月3日の東京新聞一面の「正恩氏「平昌成功願う=米には核ボタン机上に」の見出しで「北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、1日、2018年の施政方針を盛り込んだ「新年の辞」を発表し、「米本土全域が核攻撃の射程圏内にあり、核のボタンが私の事務室の机の上に常にある」として、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実戦配備を事実上宣言した。」
 
 
 
これはトランプ米政権に対する威嚇であって、お互いにミサイルを撃ち合ったらどういうことになるのか、人類の滅亡になってしまう。アメリカも北朝鮮も戦争はしないだろう。
 
 
 
戦前の軍隊生活を描いた絵はがきを見つけ出した。
 
新年早々、戦争のことなど考えずにのんびりした軍隊生活を見てもらいたい。
 
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C
D
E

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2018年1月 8日 (月)

オカマなんていう言葉は、もう使われない!

今、テレビで「オカマ」なんて言う人はいないと思うけど、36年前(1982年)はオカマという言葉は、よく使われていた。
 
1982年の『薔薇族』8月号の「伊藤文学のひとりごと」のコーナーに「マスコミの世界からオカマという言葉を追放しよう!」というタイトルで書いている。
 
 
 
「5月21日(金)朝日新聞の夕刊文化欄のつかこうへい氏の「狂気横行の時代」を読んだでしょうか。
 
「臭いものには蓋をしてこその日本文化は、その住宅事情のせいで「あかずの間」「座敷牢」といった餓鬼を封じ込める空間を作る余裕を失い、百鬼夜行の時代に突入しつつある。
 
その顕著な例が「ワルガマ」の横行である。
 
本来ひかれものとしての身の不幸を嘆き、人知れず生き、そして滅びてゆくべきカマどもが、まるで市民権を得たとばかりに陽の高いうちからテレビや街角にしゃしゃり出てきては能書きをタレるようになり、困ったものである。
 
先日など、偶然に入った寿司屋で、意気と気っぷで売る板前にまで、性悪ガマが進出しているのを知り、唖然とした。
 
カウンターに座るなり、角刈りで鼻の横にホクロのある妙にクネクネした板前に、「よして小柱は今日のはイキが良くないの。トロが絶対おすすめよ」と、ウインクされたときは、さすがの私も、気色悪くて背筋が寒くなった。
 
とてもカマの手で握られた寿司を食う勇気はなく、ひたすらタマゴばかり注文していたら、言うに事欠いて、「あ~ら、こちらさんタマゴばっかり、いやらしいわね」と満座で笑いものにされた。
 
いったいタマゴのどこがいやらしいというのだ。
 
自尊心の異常に高い私は、あまりの屈辱に、その日以来、夜寝ていつも「カマから笑われた」と、うなされ続けている。
 
並の人以上に税金も払っている健全市民のこの私が、なにゆえ、カマふぜいに笑われなければならないのか。
 
私は別にカマが料理をしてはいけないと言ってるのではない。
 
そりゃなかには、料理好きのカマだっているだろう。
 
が、そういうカマには、レストランのようにキッチンの見えないところでやるモラルをもってもらいたい。
 
それが節度というものだ。
 
恥を知るカマ道というものだ。
 
しかし、こう無作法なカマが多くなっては、私も文化人の端くれとして本格的にカマ撲滅キャンペーンを始めなくてはと思う。
 
「放し飼い」にしてはならない前衛的な人間どもが横行し、私たち時代の先端をゆくべき演劇人の存在感のない時代になってきた。」
 
 
 
どうです、この文章。偏見と悪意に満ちた文書。なんとも感じませんか。
 
オカマと言われたって腹が立つのに、性悪ガマとは一体どういうことなのですか。
 
たしかにこの部分だけを読んだら、なんとひどいことを言うと、にえくりかえるぐらい腹が立つけど、最後まで読んでいけば、つかこうへい氏のジョークだということがわかり、腹も立たなくなるのです。
 
 
 
しかしです。
 
つかこうへい氏が悪いのではないのですが、オカマという言葉は、そのものが『薔薇族』に対する侮蔑の言葉ではないでしょうか。
 
ただ言葉を変えたからって、心の中で馬鹿にしていたのでは何もなりません。
 
意気と気っぷのいい人に見えたからって、そういう人にこそ、オカマなる人がいるのです。
 
ぼくはくねくねしている、この板前さんこそ、愛すべき正直な人だと思うのです。」
 
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2018年1月 6日 (土)

内藤ルネさん、『薔薇族』の表紙絵を描き続けたかった!

『薔薇族』の表紙絵を一番長く描いてくれた内藤ルネさん、恩人というべき人で忘れることのできない人だ。
 
藤田竜さんと、内藤ルネさんは、千駄ヶ谷の駅近くの部屋が何室もあるマンションに長いこと住んでいて、一緒に仕事をしていた。
 
竜さんとぼくが出会うことになり、マンションに足しげくスクーターに乗って訪れていたが、竜さんがルネさんをぼくに紹介してくれたのは、3年も過ぎてからのことだ。
 
それから長い月日が流れ、考えつかないようなことがあり、大変なことになってしまった。
 
 
 
ルネさんは思いついた時に、ノートに書くことが好きだったようで、その残されたノートを見ることができた時は、ショックだった。
 
 
 
「人生ってとんでもないことが突然おこるんですね。
 
1990年代の初頭、バブルのときに全く信じられない事件が私の上に降ってきて、今の金額にして約7億円以上を5人の男と、1人の女に次々に持っていかれて、その上にマンションまで持っていかれ、すっかり疲れきって、自殺も3回、考えました。
 
もう生きていくことに、すっかり絶望していた時、信じられないことに、いろんな関係のあった私の大切な会社たちも、すっかりバブルに巻き込まれて、すっかり仕事もなくなってしまったのです。
 
それまでの少女の絵や、陶器のマスコット人形の会社などの縁も切れてしまったのですよ。
 
もともと生活するために、食するために始まった私の絵の生活が、人生で初めてストップして、何もどこからも仕事がこなくなってしまった時、『薔薇族』の表紙の仕事を、伊藤文學氏から頼まれたときの驚き、それもセクシイこの上もない男の子たちの絵、驚きましたね。しかし、まったくありがたく、嬉しかったですよ。
 
 
 
そして我が人生で初めてのセクシイボーイズを描くことのこの上ない楽しさと、嬉しさをこのとき知りました。
 
ホモマガジンの性質上、とにかくセクシイにしなくてはならず、しかし、どんなに怪しくてセクシイでも、そこに清潔感をだして、店頭に並んでも、男性はもちろん女性たちにも愛されるボーイズを描こうと、心に決めました。
 
それからの楽しさ、恐ろしい事件も、『薔薇族』の表紙を描くことで、まったく忘れることができたのですよ。
 
毎回、毎月、しっかりとかえて、おもわずほほずりするような男の子たちを描くことの楽しさ、嬉しさを初めて知り、幸いなことに読者の好評を得ることができ、長く長く描き続けられたことの嬉しさとありがたさ!
 
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今ふりかえって伊藤さんと、夫人の久美子さんに心よりの大感謝を捧げます。
 
時の流れで『薔薇族』の表紙をやめることになった時の淋しさは、まったく当時、もっともっと描き続けたかったので、残念でくやしかったですよ。ですから今だって私は『薔薇族』の表紙をすぐにでも描きたいのです。
 
幸いなことにあれだけたくさん描いたルネ・ボーイズの表紙の男の子たちは色あせず、年を加えるごとに、自分でいうのもおかしいですが、輝きを増していますよ。
 
まったく見ているだけで、嬉しくなってくる男の子たち、それが『薔薇族』のルネ・ボーイズなのです。それが私のホモ男性に捧げた少年たちなのです。
 
不幸な時間を忘れさせてくれた『薔薇族』の表紙のルネ・ボーイたち、ありがとう、そして伊藤さんの幸運を今はなによりも心深く祈っていますよ。」
 
 
 
ルネさん、ありがとう。
 

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2018年1月 2日 (火)

新年早々から臭う話とは!

新年あけましておめでとう。
 
ぼくのブログを読んでくれている皆さんには感謝の言葉もありません。
 
 
 
「伊藤文学のひとりごと」を書き始めて、12、3年になる。ネットをさわったこともないぼくのために、4人の協力者がいて、原稿用紙4枚に書いた原稿を郵送すると、土曜と月曜に更新してくれている。
 
今はS君という協力者が、ぼくのためにボランティアで更新してくれていて、本当にありがたいことで、ぼくの生きがいになっている。
 
 
 
80歳を過ぎると、個人差はあるだろうが、耳が遠くなり、歯も悪くなり、目も白内障と、あちこちが衰えてくるのは、どうしようもないことだ。
 
2017年の8月頃から坐骨神経痛で、左足が痛み出し「下北沢整形外科リウマチ科クリニック」の植田先生が、お尻に10回ほど痛みどめの注射を打ってくれてやっと痛みがなくなった。ところが、今度は痔が痛み出し、肛門専門の医師に診察してもらったら、三宿病院の外科に紹介状を書いてくれた。
 
12月の11日に入院、12日に手術ということで慌ただしく入院することに。痔の痛みって経験したことのない人にはわからないだろうが座っていても、歩いていても痛みどおしだ。
 
年賀状を300枚も印刷してしまったので痛みをこらえながら、入院するまでに半分は書き終えた。
 
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手術をする前にレントゲンを撮り、あらゆる検査をして、異常がないということを確認して、医師が手術をすることに。
 
手術は下半身だけに麻酔をしての手術。医師がお尻をいじっていることは、わかるけれど、どんなことをしているのか、全くわからない。
 
1時間ほどで手術は終わり、元のベットに戻ってきた。オムツをしていて、中に便をするけど、トイレの便器に座ると出ない。
 
若い看護婦さんが浣腸をしてくれるのだから大変な仕事だ。三宿病院は自衛隊の病院のとなりにあって、半分ぐらいの医師は自衛官だそうだ。
 
1週間ほどで退院することができたが、オムツはつけたままだ。家に帰ってから、どのくらい過ぎたころか、便器に座って自分の力で便を出すことができたときは嬉しかった。
 
家に帰ってからも、便を床に落としてしまったことが何度もあったが、女房はぶつぶつ言いながらも始末してくれた。女房のありがたさを知ることができた。
 
一緒に住んでいる息子の嫁にも感謝だ。今の病院は手落ちがないようにいろんな書類を書かされる。息子の嫁がそれをやってくれた。冷たくされても仕方がないのに、すべてを片付けてくれた。ありがたい嫁だ。
 
 
 
カフエ「織部」に置いてある、朝日新聞と日本経済新聞のどっちにあった記事か忘れてしまったが、ひきこもりの人って若い人だけかと思ったら、40代、50代の人でひきこもりをしている人がいるようだ。
 
その面倒を見ている親は、70代、80代だから、ひきこもりが長く続くと、共倒れになってしまうと。
 
今度入院してみて、ぼくの嫁、息子の嫁が面倒を見てくれたのだからありがたいことだ。
 
姑と嫁と仲良く暮らしている家族って珍しいのでは。
 
今年もブログを書き続けるので、読んでください。
 

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