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2018年1月20日 (土)

話が古すぎるかな?

『本の周辺』(1979年11月・季刊第14号・新生社刊)今から39年前に本好きの人たちに読んでもらうための64ページの薄っぺらな雑誌だ。
 
「聞き書き・第一書房のこと・語り手=伊藤祷一。聞き手=大久保久雄」6ページにわたる対談だ。
 
昭和4年4月1日に入社、昭和19年に第1書房が廃業するまで、ぼくの父、祷一が勤めていた出版社だ。
 
ぼくのブログを読んでくれている人で、第一書房のことを知っている人はいないと思うが、記録として残しておきたいものだ。
 
 
 
「――第一書房は大正の終わりから昭和19年(終戦の1年前)まで、約20年間にわたり、フランス文学をはじめ、海外文学、国文学、音楽、山の本にいたるまで、主に人文系の図書を発行、内容装幀ともに良心的出版社として著名だったのですが、伊藤さんはいつ頃入社され、どういうお仕事をなさっておられたのですか。
 
伊藤 私は早稲田文学を中退して、甲子社書房という出版社へ勤めました(岩手県の山奥からお手伝いさんとして働いていた、ぼくの母と結婚する)。
 
甲子社書房は宇井伯寿の『印度哲学研究』など仏教書を発行していました。
 
早稲田では下級生に「紺碧の空」を作詞した住治男がいました。私は住治男と一緒に石原健生(俳人・萬戸)のもとで俳句をやっておりまして、この石原健生さんの紹介で、昭和4年4月1日付で、第一書房へ入社しました。
 
 
 
――第一書房は大正12年高輪南町で創業し、伊藤さん大分あとに入社なさったのですが、高輪時代の第一書房についてご存知のことがありましたらお教えください。
 
伊藤 私が第一書房に入ったのは円本のさかんの頃で、麹町へ社屋を移した後のことなのであまりわかりませんが、高輪南町の第一書房は木造2階建てで、奥さんと二人ではじめられたそうです。
 
松岡譲の『法城を護る人々』を処女出版として、創立者、長谷川巳之吉氏が文学者なので、海外文学や詩集を多く出版するようになりました。
 
私は営業主任として入社したのですが、社員はたしか4、5人で、奥さんが会計をやり、三浦逸雄(三浦朱門氏のご尊父)氏と、長谷川巳之吉氏が編集をしていました。
 
少したってから東大を出た福田清人氏が入社『セルパン』の編集をやりました。」
 
 
 
福田清人さんはのちに実践女子大学の教授になり、ぼくの息子の嫁が講義を聞いたそうだ。
 
戦後、第一書房を復活させたいという動きがあったそうだが、長谷川さんの息子の出来が悪く果たせなかったようだ。
 
 
 
『本の周辺』の間に挟まれていた、紳士服の「英國屋」の領収書を見てびっくり。
 
昭和47年11月18日の発行で、7万円。昭和47年11月27日の発行で、5万円。
 
背広を英國屋であつらえていたとは。
 
今なら4、50万はするのでは。
 
ぼくに給料をくれないで、ぜいたくしていたとは許せない。
 
 
 
戦後の昭和23年に資本金25万円で、株式会社、第二書房を創立したが、本当は第一書房としたかったのだろうが、遠慮して第二書房とした。
 
九州の画家、坂本繁二郎、馬の絵を描くことで有名な方だが、『坂本繁二郎画談』という本を出したときに、父が何を思ってのことか、第一書房としてしまった。
 
長谷川巳之吉さんから書留郵便が送られてきて、「無断で第一書房の名を使うとは言語道断。壱百万円を要求する」という。
 
父は新潟の人間は嫌いとよく言っていたが(長谷川氏のことなのか)、新潟の女性をぼくは嫁にしてしまった。
 
勤続15年の記念に贈られた大理石の仏像安物なら、長谷川巳之吉という男は尊敬できない。嫌味な男だ。
 
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