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2018年3月

2018年3月31日 (土)

喫煙者よ怒れ!

『週刊朝日』の昭和24年2月4日号には、「タバコが嫌いになる薬」と題するコーナーがある。
 
ぼくはまったく煙草を吸ったことがないから、煙草を吸う人がどんなに迫害? されようが関係ないことだが、煙草屋の前で数人の人たちが悪いことをしているわけでないのに、後ろめたいように吸っている姿は、なんともあわれだ。
 
煙草の箱には、煙草の害が印刷されている。そんな商品って煙草しかない。戦前から煙草の害を訴えている学者がいたようだ。
 
「タバコが嫌いになる薬、禁煙薬はあるかしら? 50年ほど前、ロンドンでエー・ジー・ウッドが「C療法」というのを初めて発見した。
 
これは200の錠剤を3日間にのんで、タバコの味を悪くさせる方法だが、特に暗示の効果のある人以外、さほど効き目はなかった。(中略)
 
わが国では、禁煙同盟理事長・岡田道一医博が、昭和15年頃「禁煙水」(硝酸銀溶液)と命名したうがい薬を販売したことがあり、一時はかなり売れたが、すぐにダメになってしまった。
 
一日に二、三度うがいをすればいいわけだが、結局は本人の意志力がモノを言うのだった。
 
 
 
終戦の翌年、東京中野で配給小麦粉による5千人の中毒事件があったとき、中毒患者でタバコをすえなくなった人がいた。
 
小麦粉に混ざっていた毒物に、タバコを嫌いにする成分があるのではないか。それを純粋培養して、ニコチン中毒脱去剤を作れば、人々から感謝されることだろうと考えた推理作家もいた。
 
禁煙論者らの長年の煙煙運動にかかわらず、喫煙者の数は、いよいよ増えていゆく。ことに戦争は喫煙の風をさらに普及させる。
 
戦後の著しい特色は、女性喫煙者が増加したことで、現在、アメリカでは全婦人の3割が喫煙しており、わが国でも次第にその数に近づきつつあるという。
 
「生理上、優生上、育児上、美容上の影響を思うと、女性の喫煙は自殺的行為だ」(岡田道一医博談)と警告される一方、専売公社は「タバコ娘」に「タバコくじ」と、宣伝普及に大わらわ。
 
ご時世は嫌煙薬どころではなさそうである。」
 
 
 
これを記事にした記者も、書いてもどうにもならないと、サジを投げたような書き方だ。
 
若い人は知るよしもないが、「モクひろい」を商売にしていた人がいた。
 
細くて長い竹ざおの先にくぎをみがいてとがらせたものをつけて、線路上に捨てられているタバコの吸いがらを集め、英語の辞書の紙を使い、くるくるとまいて(器具があった)それを売っていた。
 
路上を歩きながら煙草を吸うのは、違反だが、まだまだ歩きながら吸っている人は多い。
 
 
 
さて、オリンピックまでには、レストランや居酒屋でも煙草を吸えなくなるのだろうか。
 
喫煙室を作れない小さな居酒屋で、タバコを吸えなくしてしまったら、お客がへってしまうだろう。
 
わが家にもヘビースモーカーがふたりもいる。ぼくの女房と息子だ。最近、高1の孫がうるさく嫌がるようになったので、テラスで吸うようになった。
 
花粉もとんでいるし、放射能だって目に見えないから、とんでいるかも知れない。
 
 
 
毎日、時代劇を見ているが、「鬼平犯科帳」などは、キセルでタバコを吸うシーンが大事で、なくすことはできない。
 
無理にタバコをやめさせてしまったら、ストレスがたまって、どうにもならなくなってしまう。
 
吸いたい人には吸わせておけばいいのでは。タバコのみがあまりにもかわいそうだ。
 
喫煙者よ、怒れ!
 
 
※コメントを、どうぞよろしくお願いします。

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2018年3月30日 (金)

次回「文ちゃんと語る会」のお知らせ

次回「文ちゃんと語る会」は4月21日(土)開催です。
 
日時・4月21日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
初めての方・女性・話を聞きに来るだけの方、
どなたさまも歓迎です。ぜひ、お気軽にお出かけください。

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2018年3月26日 (月)

天井が焼け落ちた国技館で!

A
 
ボロボロの表紙の『週刊朝日』(昭和24年1949年・表紙絵は小磯良平さんだ)定価なんと20円、現在は420円とは驚きだ。親父が買ったものだろう。
 
戦争が終わったのが、昭和20年の8月15日だから、4年しか経っていない。
 
ぼくは昭和23年の4月に駒沢大学の予科に入学し、24年に新制大学に切り替わって、1年生になった。
 
 
 
その頃はテレビなんてものはなかったからラジオでの大相撲実況中継が戦後初のスポーツ放送だそうだ。
 
東京が焼け野原になってしまったというのに昭和20年11月16日、戦後初の大相撲本場所が天井の焼け落ちた両国国技館で開催されたのだからすごいことだ。優勝したのは横綱の羽黒山だ。
 
力士たちは腹いっぱいにチャンコ鍋を食べていたのだろうか。
 
今の相撲取りのような体型だったのかは、ラジオだから見ることはできない。部屋の食糧を調達している係の人たちは、食糧あつめに苦労したのでは。
 
 
 
『正月と相撲』と題するコーナーがある。
 
「相撲の春場所が蔵前に新しく造った仮設国技館で賑やかに興行されている。
 
正月と相撲はつきもののひとつで、今年などは仮設の国技館が全部出来上がらず、周りの囲いがないので、寒い風が場内に吹き込んでくる始末。
 
控えの力士さえ、ふるえあがっているのに、初日からほとんど満員の盛況。
 
だが、これを見て相撲は復興したとするのは、やや早計である。(中略)
 
 
 
正月は、われわれにとっては、キリスト教徒のクリスマスのように生活と切り離せないものになっているが、この誰にも身近なふたつのものが結びついて、正月の相撲はいつでも景気がいいのだ。
 
下町の商家や会社の人たちは、お客を招待するし、田舎の親類をこの時に招く。
 
正月と相撲はつきものなのだ。相撲の盛衰がなんとなく気になるのも日本人である証拠なのだろう。
 
 
 
相撲は察するに強い力士が2,3人出れば必ず盛んになるのだ。まことにかんたんな話だ。
 
親方も力士も不景気だとこぼすのが多いが、自分たちの中から、2、3人、ものすごく強いのを生み出しさえすれば、きっとお客が入る。
 
いたずらに横綱を作れば、お客が来ると思うのが大間違い。その横綱がころころ転がって格下げしろの議論が起こるようでは、誰でも熱心に見に行かなくなるにきまっている。
 
 
 
協会の役員は、皆力士出身で、よくいえば非常に人がいい。これは想像だが、新聞雑誌で粗製乱造をやめろとやられたから、このくらいの星で以前は大関にしたが、今度はもう1場所見ることにしよう、と自重して、さて翌日の新聞を見たら、小部屋のためにとやられ、眼をパチクリさせたことだろう。
 
立派な議論をしておきながら、いつの間にか人情論のとりこになる。
 
 
 
何といっても相撲の可哀想なのは、国技館を進駐軍に接収されていることだ。
 
あれを返してもらう運動が続けられており、だんだん有望なようであるのはけっこうなことである。
 
ただひとつしかない財産で、あとは文字通り裸一貫なのだから、その日が待たれるわけだ。(富)」
 
 
 
進駐軍って建物など、全部はかいしてまわったら、日本にやってきたときに使える建物を残しておかなければ困る。そこまで考えていたのだ。
 
何年前だったか、お客が入らず、ガラガラだったことがあったが、今は平日でも満員御礼の垂れ幕が。
 
横綱ひとりだけだというのに、ありがたいお客さんだ。
 
それにしても戦後すぐに復活させたのだから、日本人ってすごい。
 
 
※ブログのコメントを募集したら早速、書いてくれた人がいて。ありがたいことです。
 どうぞどんなことでも構いませんから、ぜひコメントをください。

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2018年3月24日 (土)

今の時代、ゲイの人の結婚は?

ぼくが経営していた「伊藤文学の談話室・祭」には、ノートが10冊ばかり置いてあり、このノートには人に言えない悩みごとが書かれている。
 
その中の1冊を読んでいたら、かなり深刻なことが書かれていた。
 
 
 
「あと10日もすれば結婚する俺だ。今、婚約者の女性とデートをして、その帰りにこの「祭」に直行してきた。
 
女とデートをしても、まったくといっても良いくらいに楽しさがない。それどころかすっかり白けきって、やるせなくなって、それの埋めあわせをしに、急いでここへきたのだ。
 
こんな晴れた日の昼下がり、好みの若い男と手をつないで歩いてたほうがよっぽど楽しいよ。
 
新婚旅行も一応はするけど、本当はちっともうれしくない。
 
好きな男と旅行に行くことができれば、どんなにか楽しいだろうにと思うよ。つくづく。
 
 
 
ところであのほうは大丈夫かということになるが、どうにかやれることはやれそうだ。
 
実をいうと以前一度だけ、女とやったことがある。あまり楽しさはなかったけれど、なんとかやることができた。
 
男の体だけが好きで、女の裸を見ても、ぜんぜん感じない俺だけど、暗くして男の裸を抱いているつもりでやったから。
 
結婚したら、いつも男の裸ばかり空想しながら、女を抱かねばならない。つらいな。もう結婚をやめたい気分が支配的だけど、立場上、そうもいかない。
 
 
 
町を歩いているときも、電車に乗っているときも、若い男の顔と尻ばかりおっかけている。
 
そしていい男がみつかると、心のなかでその男を裸にして思いっきり抱きしめている。
 
昨日も結婚前だというのに、押し入れの裏から『薔薇族』をひっぱり出してきて、男性ヌード写真を見ながら、2回も出してしまった。
 
6月号の『薔薇族』にものすごくかわいい顔をした男のヌードがのっているね。石仏の前でとった写真の男。俺はああいうのがたまらなく好きなのだ。
 
 
 
結婚式が終わったら、もう蒸発してしまおうかな。
 
マッサージ師になって、いい男を探しに全国を旅しながら歩く人生なんて、なかなかロマンチックじゃないか」
 
 
 
どこの誰が書いたのか分からないけれど、なんにも知らずに結婚する女性はあまりにもかわいそうではないか。
 
この時代、女性と結婚しないわけにいかなかった。どっちが悪いと言いようなかったのだから……。
 
この間も「祭」にきた一流商社に勤める人の結婚に対する悩みを聞いたし、ある銀行に勤める青年の訴えも聞いた。どうしても立場上、結婚しなければ自分の地位を守ることができなくなるというのだ。
 
 
 
このノートに綴った青年の心情は、『薔薇族』全読者の結婚を前にした心情だと思う。
 
女性とセックスができるという自信がないままに結婚してしまうと、新婚旅行に行ってもなにもできず、帰ってきてもなにもできない。
 
そうなると夜が来るのが恐ろしくて、新婚早々だというのに、会社が終わってから、毎晩パチンコをして時間をつぶし、夜おそくなって、奥さんが寝てしまったころを見はからって帰宅する。
 
そんな青年の悩みを聞いたことがある。それが1ヶ月や2ヶ月ならいざしらず、一生そんな状態が続くわけがない。
 
 
 
お見合いであれば、よく相手をえらぶべきで、さばさばした気性、男っぽく大ざっぱで細かいことに気づかない女性がいい。
 
何人も男と寝た経験のある女性だったら、すぐに気づかれてしまう。
 
難しいな。
 
C

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2018年3月19日 (月)

セックスとは性器だけでするものではない!

『薔薇族』の読者の投稿頁「人生薔薇模様」は、みんな文章力があり、それにロマンティックな人も多く、いろんな人生を見せてくれた。
 
編集部では投稿の文章をなおしたりはしない。そのまま載せるようにしていた。
 
『薔薇族』って読者と一緒に作っているといっていいのでは……。
 
これから紹介する投稿は、あまりにも悲劇的な話だが、悲しい出来事に負けずに生きようとする逞しさを感じる話だ。
 
 
 
「ぼくは42年(昭和)当時、小学6年生のとき、父の酒を買いに出かけて交通事故にあい、背骨を強度に損傷、以来下半身マヒで、もう12年も車椅子使用の生活を送っています。
 
ぼくがホモの傾向に気づいたのは、16歳のころでした。交通事故にあい、完全に寝たきりの状態が2年3ヶ月も続き、当時12歳の幼いぼくにとって、毎日天井を見つめる生活はあまりにも辛く、生きる望みさえ失って、童心ながらにも真剣に自殺を考えたものでした。
 
肉体の傷は未だに治ることはなく、歩くことはできません。
 
心の傷は歳月がたつにつれてやわらぎ、冷静さを取り戻してきました。
 
身障者となった自分の人生を前向きに描き出し、自分の胸に言い聞かせるように、「肉体は不自由であっても、精神は健全なものと同等でなければ」そんなことを肝に銘じて生活をおくるようになりました。(中略)
 
 
 
「悩みでもあるのか?」と医師に言われ、事のすべてを打ち明けました。その医師は36歳、体格のいい優しい人で、常日ごろからぼくは憧れていました。
 
医師S先生は、休日の誰もいない自分の医務室で話をしてくれました。
 
その部屋は12畳ほどで、当直用のベッド1台と、わけの分からぬ医学書が所狭しと本棚に並んでいました。
 
その中の1冊を取り出し、ぼくに見せながら「君の場合は交通事故にあったときに、背骨の中枢神経を損傷したので、Pが勃起不全となり、セックスは不能となった。これは下半身麻痺の難問で、現代の医学ではどうにもならないんだ。でもセックスとは性器だけでするものではなく、体全体を使ってする行為なんだよ」
 
そんな言葉を言われました。
 
そのあとでS先生は外国の医学書を出して、勃起したPの写真が載っているページを開き、見せてくれました。(中略)
 
ぼくの心のなかに好奇心からとんでもないことが浮かんできました。
 
S先生に対して「先生のもこんなに大きいのですか?」と聞くと、苦笑しながら「そんなにないよ」と言って顔を赤らめていました。
 
 
 
ぼくはS先生とふたりきりをいいことに、勇気を出して、先生のふくらみに手をのばし「写真じゃなくて実物を見せて下さい」と言いながらズボンの上からつまみだしました。
 
すると先生は「誰かが来たらどうするんだ。ぼくはまずくなるよ」と言いながらドアの方に行って、ドアをロックしたのです。
 
ぼくの手はいつしか先生のズボンのチャックを下げ、ブリーフに手をさし入れ、Pをつまみ出し握っていました。
 
ズボンを脱ぎ、ブリーフを脱ぎ、下半身裸になり、当直用のベッドに横たわった。
 
ぼくもベッドにのって先生のかたくなったPを握りこすっていました。
 
 
 
「おい尺八できるか?」と言われ迷いましたが、ぼくは先生のPを口に含みました。
 
S先生はその後、アメリカの病院に移り、もう2度と逢うことはできません。ぼくにまったく性欲がないのに、男の人に尺八をするよろこびをおぼえてしまい、どうにも辛い毎日です。
 
文通欄にも出しましたが、ぼくが身障者であるためか、返事はもらえません。」
 
 
 
仙台の方にも身障者で呼びかけている人がいたけど無理だった。
 
今頃どうしていることか。
 
※コメントをぜひ書いて下さい
 
 
B_2

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2018年3月17日 (土)

夜がくるのが、恐ろしい!

『薔薇族』№85・1980年2月号、木村べん君の表紙絵だ。「人生薔薇模様」読者の投稿欄につらい話が載っていた。
 
今から38年も前の時代、異性との結婚の問題が読者にとって、大きな問題だった。4頁も使って投稿をよせている。とっても全文は載せられないが、一番言いたいと思われるところを紹介しよう。この人、少年愛の人のようだ。
 
 
 
「大学を出て教師になった。何を隠そう、私は小学校の教師。そして私の同性愛は少年愛というジャンル。学校生活は楽しかった。
 
少年愛の若い青年教師が少年たちに囲まれて毎日を過ごす。それは本当にバラ色の天国であった。この世界を知っていたらば、次々と少年たちを犯したろう。
 
けれど私はなにも知らなかったから、積極的にセックスなんて求めなかった。相撲をとったり、さわっりこしたり、中学生同士が遊ぶのと変わりはなかったのである。それでよかったのだ。
 
 
 
ある年齢がきて親にすすめられて、なんとなく結婚してしまった。それほど悩みはしなかった。本当に無知だったのだ。
 
そして初夜。結婚したからには、男と女がするようなことをしなければならないのだろうと思い、女に抱きついていた。女も初めてであった。けれど私のものは全然エレクトしなかった。それどころか逆に縮こまってしまって……。
 
そのうえ女の鼻息が首のほうにかかるのが気持ち悪く、暗い部屋で何か蛇にからまれているような、熊に抱きつかれているような、たまらない嫌悪感を抱いた。
 
身震いしそうで、じんましんでも出そうな嫌な感じにおそわれたのである。あの男の子たちと抱き合ってじゃれあう時の快感、いつの間にかみんな性器をかたくしてさわりっこしたり、大きいとか小さいとか遊び回った快感とは似ても似つかないいやな感じ。
 
 
 
日が経った。夜が来るのが恐かった。夜が来るのがいやでたまらなかった。一緒に寝るのは寝た。そうすることが義務のように思えたから。
 
妻も初心だったけれど、毎晩私に挑んでくるようになった。妻のほうからキスしてきたり、抱きついたり。もう私は気持ち悪くて逃げ出したかった。
 
 
 
とうとう1年間、セックスできなかった。女にとってこんな不幸はあるだろうか。離婚話が持ち上がっても不思議ではない。けれど私の妻は離婚などとは言わなかった。
 
せめてもの幸せであったのか、あっさりと別れていたほうがいいのか。学校の宿直が待ち遠しかった。一人で寝られる。好きな男の子と抱き合って寝られる。
 
 
 
ある夜、必死の思いで、一所懸命で一番好きな少年のことを思いながら、妻と結合できたのである。私は泣いた。うれしかったのか、安堵したのか、でもきたないと思った。何も快感はなかった。痛かった。ほんと、やっとできたという感じだった。もう2度としたくないと思った。
 
けれど次の晩は妻はいそいそと、ちり紙を用意したり、いかにも満ち足りた女みたいに、化粧をして赤い寝間着に着替えたりしているのを見ると、はき気がするくらい、いやでいやでたまらなかった。
 
2晩めはできなかった。妻は泣いた。よくまあ25年も続いたものだと思う。でも子どもが2人できたのです。
 
 
 
今は妻に対する感情は愛情ではなく、感謝の気持ちと、家庭円満のための奉仕作業のつもりで、妻とのセックスをなんとか一所懸命努力して勤めている」
 
 
 
四国の人で少年愛の教師、脳梗塞で倒れ、奥さんの介護で生きている。
 
ぼくにしても両親が本当に愛し合って生まれたとは思えない。この教師の子どもたちも、そんなこと考えもしないだろう。それでいいのかも。
 
※コメントをぜひ、書いて下さい
 
A

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2018年3月12日 (月)

「ころばぬ先の杖」とは格言どおりだ!

わが家から下北沢の駅まで、20分から30分はかかる。みんなぼくのことを追い越してゆく。早く歩けなくなってしまった。
 
息子の嫁が父親が使っていた杖をみつけだしてくれた。軽くて丈夫な杖だ。杖がなくても歩けるが、「ころばぬ先の杖」の格言どおりで、杖ってありがたいものだ。
 
若者のまねをして、リサイクルショップで手に入れた、リュックサックをかついで買い物に出かけている。
 
手にさげたらとっても重くて歩けないだろうが、背中に背負うと、かなり重いものでも苦にならない。
 
大根でも、じゃがいも、とまと、なんでも運べる。以前はガラガラをひっぱって買い物に行っていたが、今はリュックサックだ。
 
青空が見えてきたので、下北沢の駅前のスーパーへ買物に行った。その途中でカフエ「「織部」に寄って、朝日新聞と日本経済新聞が置いてあるので、一番安いホットコーヒー400円をのんで新聞に目を通して帰ってくる。
 
歩きながら次のブログに何を書こうかと、考えている。
 
そうだ、「ころぶ」をテーマに書こうかなと。
 
 
 
年をとってころぶと、顔を打ったり、手を骨折してしまうことが多い。
 
入院でもしてしまってベッドの生活が続くと、もう歩けなくなってしまう。
 
ぼくはころんだことがあったっけと思いだしたら、20年以上前か、『薔薇族』を復刊してくれるという、上野にある出版社の営業の人たちと取次店(本の問屋)を車で廻ったことがあった。
 
どこの取次店の雑誌仕入課の人たちも、好意的だった。取次店の名前は忘れてしまったが、駐車場が地下にあった。
 
地下に降りる階段に電気がついていなくて、薄暗かった。最後の段のところで、まだあるのかと、ふみちがえて、すってんころりんところんでしまったが、ころび方がよかったのかどこも痛いところがなかった。
 
最初からころんでしまうなんて、復刊はうまくいくわけがなかった。
 
次にころんだのは、今住んでいるマンションに越してきたばかりだったから、7年ほど前のことだ。
 
なんで玄関の扉をあけて、外に出ようとしたのか忘れてしまったが、底がすりへって平らになっているサンダルをはいて、外にでたとたんに、すべって前のめりにころんでしまった。
 
週に2回、掃除にくる業者がいて、水をまいたばかりだった。そのときも不思議と痛いところはなかった。運がいいとしか言いようがない。
 
 
 
リュックサックにいっぱいになるくらい買い物をしての帰り道、以前はどぶ川だったところが、今は暗渠になって、狭い道だけど、下北沢に行く近道になっている。
 
しゃれたカフエと、居酒屋があり、表通りの茶沢通りに面した入口と、裏通りからも入れるようになっている。
 
淡島幼稚園がすぐそばにあるので、子どもたちを迎えにくるお母さんたちのいこいの場になっている。
 
居酒屋の裏口に、農家から直接仕入れたという野菜や果物がダンボールの箱に入って売られている。
 
夕方から営業の準備をしている料理人が働いている姿が見える。ぼくはスーパーに買物に行っているから、野菜や果物の値段は頭に入っている。
 
扉をあけて声をかけると、料理人のおじさんが出てくる。「りんごもスーパーと同じですね」というと、気前よく安くしてくれる。何度も買っているので、顔をおぼえてくれているのだろう。
 
裏通りって面白い。
 
C
孫の理念が子供のとき書いた絵

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2018年3月10日 (土)

東京女子医大 心臓病棟 401号室

伊藤家の子供は、姉、そしてぼく、その下に妹が2人の4人兄妹だ。ぼくは一番下の末娘の紀子をかわいがっていた。
 
美人だったが頭は悪い。青葉学園という最低の女学校にやっと入れたが、大学には入っていない。
 
高校を卒業してからは、勤めには出ず、姉が子供を生んだので、手伝いに行っていた。昭和36年(1961年)の12月、クリスマスの日だった。
 
紀子は急にめまいがして、2階から階段を降りることができず、畳の上にうつぶせになって胸をかきむしり、のたうち回っている。
 
「胸が苦しい!」
 
すごい動悸だった。洋服の上からわかるぐらい心臓が早鐘のように高鳴っていた。
 
近所の医者がかけつけてくれて、注射をうって応急処置をしてくれた。
 
 
 
年が明けて東京女子医大に診察を受けに行った。
 
「すぐに入院の手続きをして下さい。手術をしなければ、あと、2,3年ももちませんよ。相当心臓も肥大していますから」
 
それからいろいろのことがあって、まずは最初の手術は終わったが、あと10年ぐらいしたらまた悪くなるかもしれませんと。
 
もちろん、結婚など無理と言われていたのに、朝日新聞の販売店に勤めていた、北海道浦河出身のK君が、一番熱心に手紙を寄せ続けてくれていた。
 
 
 
そのK君と結婚することになってしまった。
 
東京女子医大は新宿の河田町にある。そこから歩いて4、5分のところにフジテレビがあった。
 
ぼくと妹との共著『ぼくどうして涙がでるの』は、ベストセラーになり、日活で映画にまでなったので、テレビはいろんな番組に出演させてくれていた。
 
フジテレビには、花王石鹸がスポンサーで「テレビ結婚式」という番組があった。話題の人物をとりあげてくれるのだ。
 
司会は徳川夢声さん、介添役に中村メイコさん。ぼくが作詞した「ぼくどうして涙がでるの」を歌ってくれるジェリー・藤尾さん。お客さまには、親族、友人などを30名ほど招待してくれた。
 
それになによりも花王の製品1年分と、電気洗濯機を贈られ、写真も撮ってくれるというありがたい番組だ。
 
ぼくは「妹に!」という詩を朗読した。
 
 
 
妹に!
 
よっちゃん、早苗ちゃん
 
見ているかい 紀子の晴れ姿を
 
東京女子医大・心臓病棟・401号室
 
苦しみ もだえ あがき
 
それでも必死になってたすけあい
 
はげましあって生きようとしたきみたち
 
そして
 
傷つき たおれていった きみたち
 
よっちゃん 早苗ちゃん 守っておくれ
 
見つめておくれ 1銭の貯金もなく
 
住む家もない みみっちい夫婦の誕生なんだ
 
紀子
 
苦しいときは あの日のことを思いおこすんだ
 
10時間におよぶ あの長い手術に耐えた
 
おまえだったということを
 
そしてよっちゃんのぶんも
 
早苗ちゃんのぶんも 長生きしておくれ
 
死にそうな人のたいまつになっておくれ
 
紀子 涙でぼくはきみをおくる
 
「子供だって産めたじゃない」
 
そういう日が来るように
 
きっと きっとなっておくれ
 
 
 
紀子 昭和48年(1973年)12月20日、32歳で没。
 
もう45年にもなる。
 
A
2人の息子を残して死んだ、妹の紀子
 
 
 
※コメント0はさびしい。どんなことでもいいからコメントをよせてほしい。

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2018年3月 5日 (月)

父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!

ぼくの親父・伊藤祷一(平成3年9月8日86歳で没、今から27年前)が、戦後間もなくの昭和23年に、株式会社第二書房を創立した。
 
昭和23年の4月、ぼくが世田谷中学の4年生から、駒沢大学の予科に入学した年でもある。
 
処女出版は吉田絃二郎の『夜や秋や日記』だ。この作家のことを知っている人はいないだろう。
 
1956年4月21日、69歳でパーキンソン氏病で亡くなっている。
 
62年も前のことだが、吉田さんの死が、わが家にとって大きな問題となった。
 
 
 
ぼくは学生時代から父の出版の仕事を手伝っていて、大学を出てからも、どこにも勤めず、父の仕事を継ぐようなことになってしまった。
 
父は脳軟化症で倒れるまで、ぼくには給料も払わず、小遣いを少しくれるだけだった。明治生まれの人は、そういうものだと不思議に思わなかった。
 
吉田さんが亡くなった年、ぼくは24歳、この年に先妻の君子(芸名・ミカ)と、飯田橋の東京大神宮で、ささやかな結婚式をあげたが、父は一銭もお金を出さなかった。
 
 
 
吉田さんの死後、妹さんなどの親族がいるにもかかわらず、千二百坪の家と土地など莫大な資産は、遺言どおりに、15年も面倒を見続けてきた女中のおはるさんのものになった。
 
新聞や婦人雑誌などに美談として大きく報道された。後見人として4人の方が選ばれたが、みんなお年寄りで実務はできない人ばかりだった。
 
 
 
ぼくの父は50代で元気だったのか、吉田さんの死後のもろもろを片付けてしまった。
 
女中のおはるさん、山形の貧しい農家で育ち、15歳ぐらいのときに世話する人がいて、吉田家の仕事をすることになった。おそらく小学校しか出ていないだろう。
 
ぼくの母とも育ちはよく似ている。
 
岩手県の盛岡の先に沼宮内という駅がある。そこからバスで何時間も山の中に入り、僅かな人しか住んでいない村がある。
 
子供のころ母に連れられて、母が生まれた家に行ったことがあったが、電気はついていたと思うが、飲水は川の水だ。
 
トイレは丸太を輪切りにした板が2本渡してあり、そこで用を足すのだが、紙なんてない。ざるに草の幹をえいりな刃物で、ななめに切って入れてあって、それでお尻をけずりとるようだ。
 
母もまったく身寄りのない東京に、世話する人がいて甲子社という佛教書を出版する社長の家に、柳ごうりひとつを下げて、15歳ぐらいのときに女中さんとして住みついたのだ。
 
そこに勤めていた父と出会い結婚することになったようだ。柳ごうりはぼくのベッドのそばに今でも置いてある。
 
 
 
ぼくは美談というものを信用しない。必ず裏があるからだ。奥さん思いで有名であったが、なんのことはない、奥さんが生きているときから、おはるさんと男と女の関係が続いていたのだ。
 
ただの女中さんだったら、莫大な遺産をあげるわけがない。
 
ところがおはるさんと、ぼくの父が男と女の関係になり、家をあげることが多くなってきた。
 
出版の仕事は、ぼくがひとりで続けることになり、月末になって支払いのお金が足りないと言われるのが嫌だから、がむしゃらに働いた。
 
運もよかったのか、仕事はうまくいった。お金をぼくにくれなかったのは、二子玉川のおはるさんの家まで、タクシーまで通っていたからのようだ。
 
父がまともに出版の仕事をしていたら『薔薇族』は創刊できなかったろう。
 
父の女狂いが『薔薇族』を生んだことになる。
 
B

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2018年3月 3日 (土)

『アドニス』は『薔薇族』の原点だ!

戦後、紙さえ手に入れることができれば、誰でも出版の仕事ができるようになった。B29爆撃機の空爆により、地方都市まで焼け野原になってしまったので、本や、雑誌も燃えてしまった。
 
本や雑誌にすれば、なんでも売れた時代が、2、3年は続いたが、世の中、少しずつ落ち着いてきて、闇成金が始めた出版社は、次々と倒産してしまった。
 
エロ雑誌も次から次へと創刊されたが、警視庁の風紀係が目を光らせているので、雑誌の内容も医者や、学者の文章をのせ、いかにも堅い雑誌のように見せかけていた。
 
 
 
その中の『人間探求』という雑誌の編集者のひとりに上月竜之介さんという、おそらくゲイの人だと思うが、誌上にゲイの記事を載せると、ゲイの読み物に飢えていた読者からの反響は大きく、ひんぱんに舞い込む同性愛者の孤独を訴える投書だった。
 
昭和20年代の同性愛者たちを一般の人から見ても異常な人たちと思い、当事者であるゲイの人たちも自らも異常だと思っていた。
 
上月さんは経営者ではないから、読者からの会費を集めてからでないと、雑誌を出せなかった。
 
『人間探求』の誌上に会員募集の広告を載せることは許された。
 
 
 
「未だ類をみない本会の誕生に当っては、思わぬ反対妨害に直面し、一時は中止のやむなきに至るやも知れざる危機もあり、アドニス創刊が極度に遅延し、会員募集以来、約3ヶ月もかかってしまった。
 
ゲイシーンにとって、『アドニス』がのこしたもっとも重要なアイテムは「文通欄」という出会いのシステムだろう。」
 
 
 
『薔薇族』も文通欄には力を入れたが、その当時は仲間をみつけるためには、その方法は文通欄しかなかった。
 
『アドニス』の編集は創刊当時の上月さんから、15号で田中さんに引き継がれた。田中さんと中井英夫さんは、よきパートナーだった。
 
田中貞夫さんは後に作品社という出版社をおこし、中城ふみ子歌集『乳房喪失』は、田中貞夫さんが発行人だ。
 
 
 
中井英夫さんは『短歌研究』の編集長もやっていて、寺山修司君や、春日井健君を世に出した人だ。
 
中井さんは我が家から歩いてもいけるところに住んでいたので、我が家にも父に会いによくこられていた。(伏見憲明君が中井さんは、角川書店発行の『短歌』の編集長と書いているが、これは間違いである)
 
『アドニス』の増刊号で『アポロ』(1960年刊)に3人の方の小説が載っている。
 
そのひとりは三島由紀夫さんの『愛の処刑』で、三島剛さんがイラストを描いている。
 
もうひとりはNHKの職員で、『薔薇族』に小説を発表してくれ、『薔薇の快楽』の単行本も出している仁科勝さんだ。後に三島剛さんをぼくに紹介してくれた人だ。
 
もうひとりの方がずっとわからなかったが、中井英夫さんが、碧川潭のペンネームで書かれたものだ。(『アドニス』と『アポロ』は早稲田大学の図書館にある)
 
 
 
『アドニス』の創刊は昭和27年(1952年)『薔薇族』が創刊される20年も前のことだ。
 
会員がどのくらいいたのか、4,500人と推定するが、書き手がいなかったのか、いつも同じ、中井さんの仲間たちということになってしまう。
 
中井英夫さんの著書で、平凡社カラー新書13『薔薇幻視』に書かれている、たった1枚の写真と「切手からメダルから薔薇に関するものなら何でも集めた、小ていな薔薇博物館はパリ近郊のライレローズにある。奥に創立者の肖像がこれも薔薇に埋もれて描かれている」
 
ぼくはこれを見て美術館を造ってしまった。

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