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2018年3月17日 (土)

夜がくるのが、恐ろしい!

『薔薇族』№85・1980年2月号、木村べん君の表紙絵だ。「人生薔薇模様」読者の投稿欄につらい話が載っていた。
 
今から38年も前の時代、異性との結婚の問題が読者にとって、大きな問題だった。4頁も使って投稿をよせている。とっても全文は載せられないが、一番言いたいと思われるところを紹介しよう。この人、少年愛の人のようだ。
 
 
 
「大学を出て教師になった。何を隠そう、私は小学校の教師。そして私の同性愛は少年愛というジャンル。学校生活は楽しかった。
 
少年愛の若い青年教師が少年たちに囲まれて毎日を過ごす。それは本当にバラ色の天国であった。この世界を知っていたらば、次々と少年たちを犯したろう。
 
けれど私はなにも知らなかったから、積極的にセックスなんて求めなかった。相撲をとったり、さわっりこしたり、中学生同士が遊ぶのと変わりはなかったのである。それでよかったのだ。
 
 
 
ある年齢がきて親にすすめられて、なんとなく結婚してしまった。それほど悩みはしなかった。本当に無知だったのだ。
 
そして初夜。結婚したからには、男と女がするようなことをしなければならないのだろうと思い、女に抱きついていた。女も初めてであった。けれど私のものは全然エレクトしなかった。それどころか逆に縮こまってしまって……。
 
そのうえ女の鼻息が首のほうにかかるのが気持ち悪く、暗い部屋で何か蛇にからまれているような、熊に抱きつかれているような、たまらない嫌悪感を抱いた。
 
身震いしそうで、じんましんでも出そうな嫌な感じにおそわれたのである。あの男の子たちと抱き合ってじゃれあう時の快感、いつの間にかみんな性器をかたくしてさわりっこしたり、大きいとか小さいとか遊び回った快感とは似ても似つかないいやな感じ。
 
 
 
日が経った。夜が来るのが恐かった。夜が来るのがいやでたまらなかった。一緒に寝るのは寝た。そうすることが義務のように思えたから。
 
妻も初心だったけれど、毎晩私に挑んでくるようになった。妻のほうからキスしてきたり、抱きついたり。もう私は気持ち悪くて逃げ出したかった。
 
 
 
とうとう1年間、セックスできなかった。女にとってこんな不幸はあるだろうか。離婚話が持ち上がっても不思議ではない。けれど私の妻は離婚などとは言わなかった。
 
せめてもの幸せであったのか、あっさりと別れていたほうがいいのか。学校の宿直が待ち遠しかった。一人で寝られる。好きな男の子と抱き合って寝られる。
 
 
 
ある夜、必死の思いで、一所懸命で一番好きな少年のことを思いながら、妻と結合できたのである。私は泣いた。うれしかったのか、安堵したのか、でもきたないと思った。何も快感はなかった。痛かった。ほんと、やっとできたという感じだった。もう2度としたくないと思った。
 
けれど次の晩は妻はいそいそと、ちり紙を用意したり、いかにも満ち足りた女みたいに、化粧をして赤い寝間着に着替えたりしているのを見ると、はき気がするくらい、いやでいやでたまらなかった。
 
2晩めはできなかった。妻は泣いた。よくまあ25年も続いたものだと思う。でも子どもが2人できたのです。
 
 
 
今は妻に対する感情は愛情ではなく、感謝の気持ちと、家庭円満のための奉仕作業のつもりで、妻とのセックスをなんとか一所懸命努力して勤めている」
 
 
 
四国の人で少年愛の教師、脳梗塞で倒れ、奥さんの介護で生きている。
 
ぼくにしても両親が本当に愛し合って生まれたとは思えない。この教師の子どもたちも、そんなこと考えもしないだろう。それでいいのかも。
 
※コメントをぜひ、書いて下さい
 
A

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コメント

お笑いの世界のマイノリティ差別は、差別の当事者が声を挙げる事でしか解決できないと考えます。というのも、それをネタにする芸人は大抵の場合、どこまでやっていいか理解していないからです。しかし彼らとて悪意があってやっているのではありません。どこまでなら傷つかないのか、越えてはならない一線を示すには当事者が声を挙げなければ
当事者でない人々には決して伝わりません。

しかしながら、同性愛・性的少数者をお笑いのネタにするということは、社会に性的少数者が身近に存在するということ、アンタッチャブルな存在でないことを示すことにおいて一定の価値があると私は考えています。ですが、それを良心に欠けた人が明らかに彼らを侮辱して彼らに接することは断じて許されないことです。

マツコ・デラックスさんや著名な性的少数の芸能人が自虐ネタを振うことに上記の投稿者様は日和見主義者であるかのように主張されていますが、彼らは決して偏見や差別との戦いを放棄したのではなく、社会(性的多数の側)から求められたイメージを遂行したに過ぎないと思います。彼らは多くの性的多数の人間から尊重されています。対立を解決するには、闘争だけでなく調和もある程度必要だと考えます。もちろん、理不尽な境遇に遭った時は戦わねばなりません。

投稿: 性的多数の側から | 2018年3月23日 (金) 03時15分

 

 どう生きるのが自分に正直な生き方だろうと考えると、論理的には、「ありのままに」、でしょう。
でも、ゲイであることを弱みとみなして、攻撃やいやがらせをしてくる人もいます。特に対立してる相手方など。また、お笑い芸人でも笑いのネタにしたりします。東北地震の救援をしてた芸人でも。身内と思えるピーコ氏・マツコ氏・ミッツ氏も、最近では戦うのをあきらめて、自分を「オカマ」と自虐で呼び白旗をかかげています。

 記事の教師の感じた肉体的な嫌悪感は、彼ひとりだけのことではなく、全世界の同じ立場の人が全員感じていることです。本来、人々の知性と思いやりで論理的には解決できることとも思えますが、知性や思いやりとは逆の力や悪意があったりしてそれができないのが皆の暗黙の総意でしょう。それでも、その悪意やいやがらせと戦って努力している外国人・日本人もいます。その多大な努力でわずかずつ改善していることもあるのでしょう。

投稿: | 2018年3月17日 (土) 02時32分

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