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2018年3月 5日 (月)

父の女狂いが『薔薇族』を生んだ!

ぼくの親父・伊藤祷一(平成3年9月8日86歳で没、今から27年前)が、戦後間もなくの昭和23年に、株式会社第二書房を創立した。
 
昭和23年の4月、ぼくが世田谷中学の4年生から、駒沢大学の予科に入学した年でもある。
 
処女出版は吉田絃二郎の『夜や秋や日記』だ。この作家のことを知っている人はいないだろう。
 
1956年4月21日、69歳でパーキンソン氏病で亡くなっている。
 
62年も前のことだが、吉田さんの死が、わが家にとって大きな問題となった。
 
 
 
ぼくは学生時代から父の出版の仕事を手伝っていて、大学を出てからも、どこにも勤めず、父の仕事を継ぐようなことになってしまった。
 
父は脳軟化症で倒れるまで、ぼくには給料も払わず、小遣いを少しくれるだけだった。明治生まれの人は、そういうものだと不思議に思わなかった。
 
吉田さんが亡くなった年、ぼくは24歳、この年に先妻の君子(芸名・ミカ)と、飯田橋の東京大神宮で、ささやかな結婚式をあげたが、父は一銭もお金を出さなかった。
 
 
 
吉田さんの死後、妹さんなどの親族がいるにもかかわらず、千二百坪の家と土地など莫大な資産は、遺言どおりに、15年も面倒を見続けてきた女中のおはるさんのものになった。
 
新聞や婦人雑誌などに美談として大きく報道された。後見人として4人の方が選ばれたが、みんなお年寄りで実務はできない人ばかりだった。
 
 
 
ぼくの父は50代で元気だったのか、吉田さんの死後のもろもろを片付けてしまった。
 
女中のおはるさん、山形の貧しい農家で育ち、15歳ぐらいのときに世話する人がいて、吉田家の仕事をすることになった。おそらく小学校しか出ていないだろう。
 
ぼくの母とも育ちはよく似ている。
 
岩手県の盛岡の先に沼宮内という駅がある。そこからバスで何時間も山の中に入り、僅かな人しか住んでいない村がある。
 
子供のころ母に連れられて、母が生まれた家に行ったことがあったが、電気はついていたと思うが、飲水は川の水だ。
 
トイレは丸太を輪切りにした板が2本渡してあり、そこで用を足すのだが、紙なんてない。ざるに草の幹をえいりな刃物で、ななめに切って入れてあって、それでお尻をけずりとるようだ。
 
母もまったく身寄りのない東京に、世話する人がいて甲子社という佛教書を出版する社長の家に、柳ごうりひとつを下げて、15歳ぐらいのときに女中さんとして住みついたのだ。
 
そこに勤めていた父と出会い結婚することになったようだ。柳ごうりはぼくのベッドのそばに今でも置いてある。
 
 
 
ぼくは美談というものを信用しない。必ず裏があるからだ。奥さん思いで有名であったが、なんのことはない、奥さんが生きているときから、おはるさんと男と女の関係が続いていたのだ。
 
ただの女中さんだったら、莫大な遺産をあげるわけがない。
 
ところがおはるさんと、ぼくの父が男と女の関係になり、家をあげることが多くなってきた。
 
出版の仕事は、ぼくがひとりで続けることになり、月末になって支払いのお金が足りないと言われるのが嫌だから、がむしゃらに働いた。
 
運もよかったのか、仕事はうまくいった。お金をぼくにくれなかったのは、二子玉川のおはるさんの家まで、タクシーまで通っていたからのようだ。
 
父がまともに出版の仕事をしていたら『薔薇族』は創刊できなかったろう。
 
父の女狂いが『薔薇族』を生んだことになる。
 
B

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コメント

文学先生のお話は当時の事が生々しく伝わってきて面白いです。(当時のご苦労もあったと思いますが)
時代のおおらかさやダイナミックさ、それに付随するアレやコレヤの問題など、現在では感じ取り難いのを垣間見えて興味深いです。

投稿: メタボ兵 | 2018年4月21日 (土) 15時31分

このおしゃしんは、お父様とでしょうか?

投稿: さくら組 | 2018年4月15日 (日) 15時55分

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