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2018年4月

2018年4月23日 (月)

「暗黒大陸への熱い視線」は過去のこと!

そろそろ先が見えてきているので、身辺の整理をし始めている。
 
書棚の中の本も、まともに読み終わった本はないが、いらないなと思ったら古本屋に運んでいる。
 
新書版で薄い本なので目にとまらなかったのか、自分で購入した覚えが全くない『邱永漢の「予見力」』という、2009年11月7日刊行の集英社新書で、玉村豊男さんという方の著書が目に留まった。
 
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邱さんが亡くなられた年は、2012年だ。
 
この本には、2009年、邱さん85歳の年譜までが載っている。
 
邱さんに出会ったのは、新宿の厚生年金会館(今はない)の手前にQフラットビル(7階建)の2階に美輪明宏さんが、クラブ「巴里」を開業し、そのあと、ぼくが「伊藤文学の談話室「祭」」をオープンさせたときのことだ。
 
1971年に『薔薇族』を創刊してから4、5年経った頃だと思うが、その時代はオイルショックの後の、日本が不景気な時代で、ビルの2階は通路の両側ともお店に貸すべく用意されていたが、借り手が全くなかった。
 
渋谷に邱さんがオーナーのシャンソン喫茶があって、そこでぼくの女房と一緒にお会いし、家賃などの交渉をしたのが最初だった。
 
玉村さんの本の帯に、にこやかな邱さんの写真と、「「株の神様」邱永漢が予見する中国ビジネスの近未来像・過去にこだわるより日本人も太っ腹になって新しいアジアの扉を開け」とあるが、その予見が当たり、中国や、アジアに日本の企業は進出している。
 
カフエ「織部」で読んだ日経新聞にはユニクロが国内の売り上げより、海外での売上が多くなっていると。
 
 
 
書きたいことはこれからだ。親しくなった邱さんには『薔薇族』を毎号送っていた。
 
創刊150号の記念号には、お金儲けの神様でもあり、直木賞作家でもある邱さんがお祝いの言葉を寄せている。
 
それは『薔薇族』とぼくへの予見で、見事に当たっていた。
 
「暗黒大陸への熱い視線」と題して。
 
 
 
「まだ社会的偏見に包まれているのは、同性愛と近親相関くらいなものですから、小説のテーマとして残された暗黒大陸といってよいかもしれません。私の仲間の小説家の中にもホモセックスを取り上げたいと、常々言っている人がいますが、いまだに実現していません。
 
ジャン・ジュネの『泥棒日記』から、デュヴェールの『薔薇日記』に至るまで、私もひととおりは目を通していますが、やたら衒学的だったり、やたら即物的だったりして、まだこれこそ傑作中の傑作だという作品には出会っていません。というのもホモセックスを、ごく普通の人間の恋愛感情として扱う人が少なく、ひどく誇張してみたり、あるいは自分は局外者だという立場を強調した作品に終始しているからです。
 
もう少し時間が経ったら、人間は男と女という性別だけで人間を見分けることをやめて、人間の心理の中にひそむMとWだけでなくて、M、Mとか、W、Wといった因子の複合体としての人間心理を分析するようになるだろうと、私は予想しています。
 
その時がきたら、ホモセックスも今よりもう少しは正当な位置づけが行われるようになるでしょう。そこに至るまでは、まだまだ多くの人々の心の中で、さまざまの葛藤が繰り返されるはずであり、伊藤文学さんに活躍してもらわなければならない修羅場もまだたくさん残っていると思います。」
 
 
 
邱さん、本当のことを言えずに書いた苦しい文章だ。
 
邱さん、もう少し生きていてほしかった。
 
日本のゲイたちも、ゲイの人たちを見る目も少しずつ変わってきましたよ。
ぼくも長生きして頑張ります。NHKが取り上げるようになってきたのだから。
 
 
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2018年4月21日 (土)

父の女狂いで『薔薇族』は誕生した!

ぼくはネットをいじれないので、いろんな昭和の出来事を調べることはできない。頼りにしてるのは、毎日新聞社刊の『毎日ムック戦後50年』(1995年3月25日刊)だ。
 
何度も何度も見ているので、カバアはボロボロになっている。
 
嬉しいことに、『薔薇族』創刊が載っていて、創刊号の写真までも。どれだけ雑誌が創刊されたか知らないが、載っているのは超有名な雑誌だけだ。
 
1971年には、新宿の京王プラザホテルが開業し、日本マクドナルド第1号が銀座三越の1階にオープンしている。
 
今から47年も前のことで、僕が39歳の時だ。
 
『薔薇族』が創刊される20年も前に、会員制の雑誌『アドニス』が、大阪では『同好』などで出版されていたが、発行元の住所、発行者の氏名なども載っていない非合法の部数の少ない雑誌だった。
 
ここから書くことは、あまり公にしたくない話だが、後世の研究者のために、嘘、偽りのない本当のことを書き残しておきたい。
 
その前に今の若い人たちは知らない、戦後日本の時代背景を書かなければならないが、とても短い文章では表現できない。
 
 
 
昭和41年(1966年)に、秋山正美さんの『ひとりぼっちの性生活』を刊行してからわが第二書房(社員は給料なしのぼくだけ)の刊行物は、ガラッと変わってしまった。
 
日本の時代背景は、毎日ムックを時代ごとに見てきても、とっても同性愛の人たちのことなど、マスコミでもタブーだし、隠花植物と言われていたように、世間の人たちも同性愛の人たちのことを異常性愛(辞書にもそう記されていた)だと思い、自らも異常だと思っていた。
 
第一書房は軍部の圧力で、自由に出版活動ができなくなってきたことを理由に、終戦の前の年に、社長が会社を解散してしまった。
 
その後、父は何社かの出版社で働いていたが、昭和23年に株式会社第二書房を設立した。
 
ぼくが駒沢大学に入学した年だが、姉1人と妹2人で、男はぼく1人。
 
父の出版の仕事を手伝わされるのは当然のことだ。
 
そのまま大学を出ても、どこにも勤めず、ずっと出版の仕事を続けることになってしまった。
 
 
 
処女出版に、吉田絃二郎という戦前から戦後にかけて、流行作家で女学校の教科書にまで載っている作家の妻の看病にあけてくれた手記を『夜や秋や日記』と題して出版した。
 
吉田さんは1956年4月21日(昭和31年)にパーキンソン氏病の手術を受けたが失敗し亡くなってしまった。
 
吉田さんには、2人の女中さんがいた。山形の貧しい農家の娘で、おはるさんが15歳の頃に紹介する人がいて、吉田さんの家の女中さんになった。
 
吉田さんは妻思いの人ということだったが、奥さんの生存中から、おはるさんと男と女の関係になっていた。
 
吉田さんには妹さんなどもいたのにかかわらず遺言を残して全ての財産が、おはるさんのものになってしまった。
 
美談としてマスコミは書き立てたが、実際はそうではなかった。亡くなったあとの諸々の仕事を父がやったようだが、驚くべきことに、今度は父と女中のおはるさんが男と女の関係になってしまった。
 
父は出版の仕事をぼくに任せて、女のところに通い続けるようになったので、ぼくひとりの決断で、本を出せた。
 
父がもし仕事を続けていたら、『薔薇族』は出せなかった。
 
父の女狂いが『薔薇族』を誕生させたということだ。
 
 
 
『風俗奇譚』『奇譚クラブ』などは、取次店(本の問屋)が扱わなかった。
 
社員がぼく1人ということと、昭和23年に創業し、実績があったから、『薔薇族』を全国の書店に並べることができたのだ。
 
これはぼくの大きな功績だった。
 
親父さん、女狂いしてくれてありがとう。
 
同性愛の雑誌は、ぼくが出さなかったら、あと5年、10年は出なかったろう。
 
 
★コメント書いてくれてありがとう。
 
A
姉とぼく。かわいかった

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2018年4月16日 (月)

『文藝春秋』より厚くなった『薔薇族』

1998年(平成10年)1月号が創刊300号になる。
 
特別寄稿として、井沢満さん、宇野亜喜良さん、花田紀凱さんが、お祝いの言葉を寄せている。
 
なんと584ページの分厚い『薔薇族』だ。そのうち広告ページが220ページにもなる。表紙絵は内藤ルネさんだ。
 
 
 
この原稿を書き始めたときに電話が鳴って、大阪のアメリカ屋梅田店から、「ラブオイル」50本の注文だ。
 
雑誌は廃刊になってしまったけど、「ラブオイル」は今でも売れている。ありがたいことだ。
 
 
 
花田紀凱旋さん。随分と長いお付き合いだ。
 
現在は株式会社飛鳥新社から『月刊Hanada』の編集長、70歳をとうに過ぎているのに頑張っている。
 
「『薔薇族』を記事にして同性愛者の多さを実感」と題して、お祝いの言葉を寄せてくれた。
 
 
 
「3号雑誌という言葉がある。創刊後3号くらいで廃刊になる雑誌という意味だが、それくらい雑誌の経営は難しいという意を含んでいる。
 
300号、ざっと25年。
 
『薔薇族』がこんなに続くとは、正直、思っていなかった。
 
 
 
「今度『薔薇族』という雑誌を創刊するんですよ」
 
伊藤さんが、例のシャイな笑顔で、そう言ったとき、まさか、同性愛の雑誌とは思わなかった。
 
イカール(フランスの美女を描いた画家)を愛し、エクスリブリス(蔵書票のこと。自分の所有物だと、本の見返しに画家に頼んで、好みの絵を書いてもらい貼った)を愛する伊藤さんのことだから、美しい少女たちを対象にした雑誌、たとえば戦後まもないころ、中原淳一さんのsenseで圧倒的な人気を呼んだ『ひまわり』や『それいゆ』のような雑誌を連想した。
 
 
 
ところが伊藤さんは、同性愛の雑誌だという。
 
「そんなもの売れるんですか?」
 
今、思えばずいぶん失礼な質問をしたものだ。
 
その頃、ぼくは『週刊文春』の編集部にいたので、早速翌週号で短い記事にした。
 
その短い記事にたくさんの問い合わせがあった。
 
そうか、同性愛の人って、こんなにたくさんいるんだ。こんなに悩んでいるのか。
 
伊藤さんはいいところに目をつけたのかもしれないな。
 
 
 
ぼく自身は、皆目、そのケはないので、毎号『薔薇族』が送られてきても、人前では封を切りにくかったことを覚えている。
 
「伊藤さんも妙な雑誌を出すよね」
 
とか言いつつ、ハダカの男たちをチラチラ見る。
 
編集部の大机の上に置いておくと、みんな一度は手に取った。そしていつの間にか消えていた。
 
あの頃、編集部に、その趣味(趣味じゃないよ)の人間がきっといたのだろう。
 
 
 
いつの間にか『薔薇族』という言葉がそういう人たちの代名詞になった。
 
ひとつの雑誌が代名詞になるというのは大変なことである。『クロワッサン症候群』『ハナコ族』……。
 
後続の雑誌も何誌か出、200号記念号は「弁当箱」と呼ばれた『文藝春秋』より厚い雑誌を作った。
 
「とうとう日本一厚い雑誌を作りましたよ」
 
伊藤さんは嬉しそうだった。
 
今でも本屋の店頭で『薔薇族』を目にすると、ぼくはいつも伊藤さんの優しい笑顔を思い浮かべる。『薔薇族』は伊藤文学さんそのものである。」
 
 
 
先日、新宿から小田急線に乗ったら、初老の紳士がカバンの中から取り出して読み始めたのは『Hanada』ではないか。うれしかった。

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2018年4月14日 (土)

藤田竜君のしんみり話から、ルネさんの偉大さが!

『薔薇族』の良き相棒だった藤田竜君が、こんなしんみりとした話を書いているとは知らなかった。
 
今から31年前、1987年(昭和62年8月号・№175号)一番後ろのほうのページに、藤田竜君が書いている。
 
 
 
「僕の母が5月の末、87歳で死にました。今回は私事を交えて書かせてもらいます。
 
うちは男ばかりの3人兄弟で、父は戦後早く死に、母は力仕事や住み込みの下働きをして、子供を育てました。
 
子供たちが社会人となり、少しは生活が楽になった頃、外のアパートにいた長兄が嫁と家に帰ってき、次兄はよそへ家庭を持ちました。
 
僕は男(ルネさんのこと)と暮らしていたのですが、母は長兄夫婦のいるわが家を出て、僕のところへ来て、特別養護老人ホームに入るまでの約20年をずっと一緒に暮らしました。
 
いくつになっても結婚しない末っ子に、やはり最も自分の子供という感情があったのでしょうし、嫁たちと居ればいろいろ無理をしなくてはいけず、僕のところが一番気楽だったのだと思います。
 
扶養家族はいないのだから金回りだって、末っ子がいちばんよく、経済的な気兼ねも不要です。
 
 
 
僕がごく若いうちは結婚の話もわずかにしましたが、それだけであとは何も言いませんでした。
 
男とひとつ家にいて、時には女言葉を使う僕を、いくら無学の田舎者でも、どういう人間かわかって当然です。
 
ホモはノンケより母親に優しいし、気も合います。結婚しないで一緒に暮らすことは、あるいは母親への最大の親孝行ではないかと、僕は昔から考えています。(中略)
 
 
 
30前後の寮母さんたちに、おきらくなホモの僕は人気があったし、そんな明るい息子がしょっちゅう見舞いに来るので、母は在園の老人たちに羨ましがられていました。
 
入院して死ぬ直前までの1ヶ月間が、全身痛んでかわいそうでしたが、その他はまあ悪くない一生だったと思います。
 
僕と暮らしている男(ルネさん)が、実の息子より何かと良くしてくれたことが最大の要因です。
 
彼と母はよく何かにつけて大笑いしていました。3人で旅行もずいぶんしました。
 
 
 
20余年、そういう不思議なかたちでの一家の暮らしがあって、それは父が生きていた若い頃と同じくらいに充実していたでしょう。
 
僕の一緒に暮らしている相手が女だったら、どんなに出来た人だったとしても、あそこまでのびのび生活できたかどうかわかりません。
 
親孝行のために女性と結婚する人はよくいます。
 
でもこんなふうに結婚しないことが親孝行になることもあるのです。
 
どちらも勇気のいることです。
 
 
 
最近は男も女も結婚しない人が増えてきていますから、少し前みたいに、まわりからワイワイ言われることは少しは減ってくるかもしれません。
 
結婚しないでもいい職業なら、なんとか独身でいられるよう努力をしてください。
 
そして、どうぞ母親にやさしくしてあげてください。(中略)
 
母が病院で生きている間は、不憫でたまりませんでしたが、死んだらもう痛い思いをしなくても済むものだと、僕は救われた思いです。」
 
 
 
おかあさんと一緒で、亡くなるまで看病したという人を何人も知っています。
 
藤田君の場合は、ルネさんという人がいて、そこにお母さんを連れてきたわけだから、ルネさんという人は、どんなにか我慢強い人だったのでは。
 
お母さんの部屋が取れる部屋数の多いマンションだからできたことでは。
 
それにしても31年前とは。
 
時の過ぎ行くことの早いこと。
 
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A
イラスト・藤田竜

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2018年4月 9日 (月)

書棚に眠っていた竜超君の本!

彩流社から出版したぼくの著書『裸の女房』と『やらないか!』手元に1冊もなくなっていた。ついつい出会った人にあげてしまうからだ。
 
彩流社の河野和憲さんに、5冊ずつ送ってもらおうと、電話番号を探したが、人名簿に載っていない。
 
書棚の中を見たら、竜超君の著書『消える新宿二丁目』が目に入った。
 
 
 
9年前に出版されたものだ。
 
カバーの装画は山川純一君の画集から使っている。
 
勝手に使ってけしからんと思うものの9年前のことだから仕方がないか。
 
276ページもの上製本で、定価2500円+税、本嫌いのぼくは目を通した記憶はない。
 
9年間も書棚で眠っていて、彩流社の電話番号を知るために、眠りから覚めたというわけだ。
 
 
 
パラパラとページをめくってみると、よくまあ調べて書いている。
 
2008年(今から10年も前)11月25日、下北沢にてとあり、「ゲイマガジン創始者が振り返る、その隆盛と凋落」と題して、竜超との対談が18ページを使って載っている。
 
そんなことがあったのかと思うだけで、すっかり忘れてしまっている。
 
昨日、誰と会い、何を食べたのか忘れているぐらいだから、10年前のことなど記憶にない。
 
しかし、その対談をしたときの本というものは残ってしまうものだから、嘘、偽りのない本当のことをしゃべっている。
 
単行本の中に残してくれたのはありがたいことだ。
 
 
 
略歴が書かれている上に、ぼくの写真が載っているが、10年前ってまだまだ若い。
 
『薔薇族』が200号になったときに、新宿のヒルトンホテルで盛大な出版記念パーティーを開いた。その頃がピークだったのかも。
 
ピーコさんも来てくれたし、京王ホテルで飛び降り自殺をした沖雅也さん。今のぼくは時代劇を多く見ているが、若い時の沖雅也さんは魅力的な俳優さんだった。
 
日本テレビの連続ドラマ『同窓会』は、初めて男同士のゲイの世界をお茶の間に飛び込ませた画期的なドラマで、「ラブオイル」を画面にアップさせてくれたので、「ラブオイル」の売り上げもアップした。
 
『薔薇族』のノンケの編集者M君が、力をつけてきて、その反面、藤田竜くんが体を悪くして、力が入らなくなってしまい、全体を統一するカラーというものが、だんだん薄れてきてしまった。
 
ビデオの会社とタイアップして、モデルを撮影している間に写真も撮り、それを『薔薇族』に提供してもらう。
 
これはいいアイデアだったけど、ちゃんとしたカメラマンが撮った写真とは、迫力がないのは仕方がないことだった。
 
木村健二君なんて、プロレスの写真を撮っていたカメラマンだけど、自衛隊時代に写真を学び、結婚式場での写真を撮っていた人なので、今見てもいい写真だった。
 
亡くなられてしまったけれど、波賀九郎さんの存在は忘れることはできない。
 
サヂスティックな写真を撮る人なので、いきなりオチンチンをぐっと握ったり、口に含んだ水を顔にかけて、モデルがびっくりしてる写真は迫力があった。
 
アメリカ人のボブさんと知り合ったおかげで日本では手に入らなかった、アメリカでのゲイ雑誌や、ビデオをトランクいっぱいに詰め込んで持ってきてくれた。
 
ジェフ・ストライカーのオチンチンは巨大で、コカコーラの瓶をぶら下げているようなモデルだった。その写真を袋とじにして売ったのだから反響はすごかった。
 
 
 
忘れるところだった。竜超君ってすごい才人だ。ゆっくり読んでみようと思う。
 
 
★コメント書いてくれてありがとう。コメントよろしく。
 
 
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右側・藤田竜君、左側・おすぎさん

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2018年4月 7日 (土)

ひとりで誕生日のお祝いを!

「原稿を書き上げました」という電話があり、その何ヶ月後に親族から、亡くなられたという知らせがあった。
 
芝山はじめさん、わが社から出版した、新書版の「ナイト・ブックス」の15。『365日しびれる本』富田英三さんの装画で、280円。昭和39年8月31日発行(1964年)だ。今から54年も前の本。
 
父が女狂いで、出版の仕事は、ぼくに任せきり。すべてぼくひとりで、著者との交渉から、営業までやって、月に1冊は必ず出していた。
 
著者の略歴を見ると、大正14年11月生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。株式会社東急文化会館に入社。東京ジャーナル、東急文化寄席支配人をへて、現在、ロードショウ劇場、渋谷東急支配人。東急文化寄席在任中。NETテレビ寄席。お笑い横丁などを企画した。
 
コントのほか「犬のくせ」「映画見物」などの新作落語も多数執筆している。
 
 
 
『薔薇族』には、「コント69」と、「江戸色男考」を長いこと連載してくれた。
 
「江戸色男考」は、貴重な研究で、批評社から3冊の本になっている。
 
最後にまとめられた原稿は、何を書かれたのだろうか。芝山さんも気がかりになっていただろうが、本になるのを見ずに亡くなられてしまった。
 
今の時代、よほど面白い原稿でないと、自費出版するしか本にはできない。
 
芝山さん、無念だったと思うが、ぼくの力ではどうにもならない。
 
芝山さん、痩せていて色白で、病的な感じのする方だったが、よくぞ長生きされたものだ。
 
娘さんが2人いたように記憶しているが、もうかなりのお年になってるのでは。
 
パーティ好きのぼくは『365日しびれる本』を出したときに、東急文化会館の宴会場で出版記念会をしてあげた。
 
芝山さん、お友だちもあまりいないようで、出席者は少なかったが、芝山さんが考えた新作落語を演じた、有名な落語家、桂米丸さんも出席してくれた。
 
奥さんと娘さんも出席してくれたが、お会いしたのはそのときだけで、お顔もまったく覚えていない。
 
『薔薇族』に協力してくれた人たちが、次から次へと、あの世へ行かれてしまう。なんとも寂しい話だ。
 
 
 
3月19日のぼくの86歳の誕生日。
 
身内の者は、何の関心ももってくれないが、宅配で、冷凍のうなぎが届けられた。昨年も贈ってくれた男性だ。
 
B
 
薔薇の花も送られてきた。読売新聞社発行の『The西洋骨董・アンティック』(昭和52年1977年)豪華なムックと呼ばれる雑誌で何号も出ている。41年も前だ。
 
執筆者のほとんどがゲイの人だ。西洋骨董を愛する美意識の高い人たち、彼女も若い頃、これらの雑誌に執筆していたので、担当編集者が紹介してくれたのだと思う。美しい女性だった。
 
ゴルフの道具?を販売する会社の社長さんと結婚されたとき、披露宴に招かれて出席したことを覚えている。その女性から薔薇の花が送られてきた。よく覚えていたものだ。
 
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ケーキも何人からか送られてきた。身内は無関心なので、スーパーの「おおぜき」の中に売り場を持つ、梅ヶ丘の美登利寿司から、900円のお寿司を買ってきて、ひとりで誕生日を祝った。
 
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NHKの番組に『薔薇族』の内藤ルネさんが描いた号が紹介され、ぼくも初めてNHKでおしゃべりすることができた。
 
今年はいいことがありそうな予感が!
 
 
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2018年4月 2日 (月)

慰安婦なんていらない人というものの!

軍隊生活を経験したことのある人は、90歳を超えている。
 
軍隊から復員して、それぞれの職場で働くようになった人たちが、軍隊時代の経験を投稿してくれている。
 
日本がアメリカなどの連合軍に負けて、無条件降伏したのが、昭和20年(1945年)の8月15日だ。
 
『薔薇族』が創刊されたのが、1971年(昭和46年)の7月のことだから、敗戦の年から26年後のことだ。
 
40歳で復員してきたとしても、66歳ぐらいだから、軍隊生活を投稿してきたとしても不思議ではない。
 
これは貴重な投稿と言える。
 
昭和49年(1974年)の7月号(No.18)創刊3周年の記念号で、藤田竜君が表紙絵を描いている。
 
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「僕は軍隊では進級の早い方であった。同兵は農家や漁師の者が多く、学校の先生などは珍しかったからに違いない。
 
たちまち伍長、軍曹と進んで、いつの間にか班長さんになってしまった。戦況も不利になってくると、次から次へと少年兵が補強されてきて、僕は初年兵教育に大童であった。
 
初年兵教育は普通3ヶ月と決まっているものの、こう戦況が悪化してくると、のんびりとしてはいられない。
 
1、2ヶ月教育してどんどん前線へ送り込むのである。兵隊が内地から送られてくると、まず内務班に持ち物を整頓させ、次に風呂に入れる。これが大変である。せまい浴場はごった返しだから、浴場で脱衣させていては、衣服を間違ったり、紛失したりで後が煩わしいため、真っ裸で浴場に行かせる。
 
 
 
「私物の整理の終わったものは、その前に立て。ただいまから入浴するが、浴場は混雑するから、裸になってゆく。まず衣服を脱げ」
 
こうして次々と脱がせ、最後にはたった1枚のパンツもとらせてしまうのである。
 
「軍隊は地方人と違うから、前を隠す必要はない。手ぬぐいは鉢巻にせよ」
 
真っ裸の若者たちは、外に出ると営庭の外れにある浴場まで駆け足である。浴室では、じゃが芋を洗うようにして、どうにか汗を流した兵隊たちは、また駆け足で内務班に戻る。
 
この間、班長の僕は外面は恐い顔を見せながら、内心はニタニタとして、イキの良い若者の裸を思う存分楽しむのである。
 
自分の身の回りを世話させる当番兵を決めるのも、たいていこうした時にするのである。僕はあまり体格のいい若者は好みでない。
 
どちらかというと小柄で、女性的な方がなんとなく安心感がある。征服するにもしやすいような気がする。
 
僕が決めた当番兵は、体こそ小柄だが、ペニスは一番大きな若者であった。
 
 
 
夕食後、下士官室に呼んで、当番兵の役目を教える。
 
食事を運ぶこと、衣服の洗濯と手入れ、それに就寝の準備。演習に出るとき以外は、もっぱら班長のことだけをしていれば良い。夜も班長が床に入ってから下士官室を去る。
 
僕はある夜、床に入りながら「当番兵は役がらとくに病気を持っては困る、お前はどこも悪いところはないか」と、聞いた。
 
「はい、ありません」
 
「どら、見せろ」
 
僕はまず目や、口の中をのぞいてから、だんだんと、胸、腹と検査していった。
 
「裸になってみろ」もじもじしている当番兵を僕は布団の上に倒して、「病気がうつると困るから、当番兵は皆こうして検査されるのだ」と言った。
 
 
 
消灯ラッパが鳴る。もう誰もくる心配はない。僕は灯りを消すと、兵隊を身近に抱き寄せて唇を吸い、ペニスを吸った。
 
兵隊は身をかたくしていたが、ペニスは山のように大きくなりピクピク動いた。
 
兵隊はときどき体をのけぞって苦しそうな声を出す。僕はその顔を僕の股ぐらで押さえつけて、兵隊が射精するまで吸い続けた。
 
ぐっと大きく膨張してくる。
 
そして「ウーン」とうなったまま、激しい勢いで射精する。
 
僕は兵隊のあふれるような精液を夢中で飲み干しながら腰を動かす。
 
そして兵隊の口の中に僕自身を果ててしまう。
 
兵隊はその日から毎日、僕と自分の下着を洗濯するのが、日課となってしまう。
 
初めは身をかたくしていた兵隊が、だんだん僕の愛撫に慣れてきて、自ら僕の精液を求めるようになると、決まって前線行きとなる。
 
僕は何度、こうしてひそかに当番兵と悲しい別れをしたことだろう。」
 
 
 
全文を載せてしまった。
 
ここに書かれた時代は、太平洋戦争が始まった頃のことだろう。
 
兵舎がちゃんとあって、そこで訓練して前線に送り込む。
 
それにしても実弾で銃を撃ったことのない兵隊が戦えるわけがない。
 
無謀な戦争をしたものだ。
 
 
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