« 『文藝春秋』より厚くなった『薔薇族』 | トップページ | 「暗黒大陸への熱い視線」は過去のこと! »

2018年4月21日 (土)

父の女狂いで『薔薇族』は誕生した!

ぼくはネットをいじれないので、いろんな昭和の出来事を調べることはできない。頼りにしてるのは、毎日新聞社刊の『毎日ムック戦後50年』(1995年3月25日刊)だ。
 
何度も何度も見ているので、カバアはボロボロになっている。
 
嬉しいことに、『薔薇族』創刊が載っていて、創刊号の写真までも。どれだけ雑誌が創刊されたか知らないが、載っているのは超有名な雑誌だけだ。
 
1971年には、新宿の京王プラザホテルが開業し、日本マクドナルド第1号が銀座三越の1階にオープンしている。
 
今から47年も前のことで、僕が39歳の時だ。
 
『薔薇族』が創刊される20年も前に、会員制の雑誌『アドニス』が、大阪では『同好』などで出版されていたが、発行元の住所、発行者の氏名なども載っていない非合法の部数の少ない雑誌だった。
 
ここから書くことは、あまり公にしたくない話だが、後世の研究者のために、嘘、偽りのない本当のことを書き残しておきたい。
 
その前に今の若い人たちは知らない、戦後日本の時代背景を書かなければならないが、とても短い文章では表現できない。
 
 
 
昭和41年(1966年)に、秋山正美さんの『ひとりぼっちの性生活』を刊行してからわが第二書房(社員は給料なしのぼくだけ)の刊行物は、ガラッと変わってしまった。
 
日本の時代背景は、毎日ムックを時代ごとに見てきても、とっても同性愛の人たちのことなど、マスコミでもタブーだし、隠花植物と言われていたように、世間の人たちも同性愛の人たちのことを異常性愛(辞書にもそう記されていた)だと思い、自らも異常だと思っていた。
 
第一書房は軍部の圧力で、自由に出版活動ができなくなってきたことを理由に、終戦の前の年に、社長が会社を解散してしまった。
 
その後、父は何社かの出版社で働いていたが、昭和23年に株式会社第二書房を設立した。
 
ぼくが駒沢大学に入学した年だが、姉1人と妹2人で、男はぼく1人。
 
父の出版の仕事を手伝わされるのは当然のことだ。
 
そのまま大学を出ても、どこにも勤めず、ずっと出版の仕事を続けることになってしまった。
 
 
 
処女出版に、吉田絃二郎という戦前から戦後にかけて、流行作家で女学校の教科書にまで載っている作家の妻の看病にあけてくれた手記を『夜や秋や日記』と題して出版した。
 
吉田さんは1956年4月21日(昭和31年)にパーキンソン氏病の手術を受けたが失敗し亡くなってしまった。
 
吉田さんには、2人の女中さんがいた。山形の貧しい農家の娘で、おはるさんが15歳の頃に紹介する人がいて、吉田さんの家の女中さんになった。
 
吉田さんは妻思いの人ということだったが、奥さんの生存中から、おはるさんと男と女の関係になっていた。
 
吉田さんには妹さんなどもいたのにかかわらず遺言を残して全ての財産が、おはるさんのものになってしまった。
 
美談としてマスコミは書き立てたが、実際はそうではなかった。亡くなったあとの諸々の仕事を父がやったようだが、驚くべきことに、今度は父と女中のおはるさんが男と女の関係になってしまった。
 
父は出版の仕事をぼくに任せて、女のところに通い続けるようになったので、ぼくひとりの決断で、本を出せた。
 
父がもし仕事を続けていたら、『薔薇族』は出せなかった。
 
父の女狂いが『薔薇族』を誕生させたということだ。
 
 
 
『風俗奇譚』『奇譚クラブ』などは、取次店(本の問屋)が扱わなかった。
 
社員がぼく1人ということと、昭和23年に創業し、実績があったから、『薔薇族』を全国の書店に並べることができたのだ。
 
これはぼくの大きな功績だった。
 
親父さん、女狂いしてくれてありがとう。
 
同性愛の雑誌は、ぼくが出さなかったら、あと5年、10年は出なかったろう。
 
 
★コメント書いてくれてありがとう。
 
A
姉とぼく。かわいかった

|

« 『文藝春秋』より厚くなった『薔薇族』 | トップページ | 「暗黒大陸への熱い視線」は過去のこと! »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/101967/66625441

この記事へのトラックバック一覧です: 父の女狂いで『薔薇族』は誕生した!:

« 『文藝春秋』より厚くなった『薔薇族』 | トップページ | 「暗黒大陸への熱い視線」は過去のこと! »