慰安婦なんていらない人というものの!
軍隊生活を経験したことのある人は、90歳を超えている。
軍隊から復員して、それぞれの職場で働くようになった人たちが、軍隊時代の経験を投稿してくれている。
日本がアメリカなどの連合軍に負けて、無条件降伏したのが、昭和20年(1945年)の8月15日だ。
『薔薇族』が創刊されたのが、1971年(昭和46年)の7月のことだから、敗戦の年から26年後のことだ。
40歳で復員してきたとしても、66歳ぐらいだから、軍隊生活を投稿してきたとしても不思議ではない。
これは貴重な投稿と言える。
昭和49年(1974年)の7月号(No.18)創刊3周年の記念号で、藤田竜君が表紙絵を描いている。
「僕は軍隊では進級の早い方であった。同兵は農家や漁師の者が多く、学校の先生などは珍しかったからに違いない。
たちまち伍長、軍曹と進んで、いつの間にか班長さんになってしまった。戦況も不利になってくると、次から次へと少年兵が補強されてきて、僕は初年兵教育に大童であった。
初年兵教育は普通3ヶ月と決まっているものの、こう戦況が悪化してくると、のんびりとしてはいられない。
1、2ヶ月教育してどんどん前線へ送り込むのである。兵隊が内地から送られてくると、まず内務班に持ち物を整頓させ、次に風呂に入れる。これが大変である。せまい浴場はごった返しだから、浴場で脱衣させていては、衣服を間違ったり、紛失したりで後が煩わしいため、真っ裸で浴場に行かせる。
「私物の整理の終わったものは、その前に立て。ただいまから入浴するが、浴場は混雑するから、裸になってゆく。まず衣服を脱げ」
こうして次々と脱がせ、最後にはたった1枚のパンツもとらせてしまうのである。
「軍隊は地方人と違うから、前を隠す必要はない。手ぬぐいは鉢巻にせよ」
真っ裸の若者たちは、外に出ると営庭の外れにある浴場まで駆け足である。浴室では、じゃが芋を洗うようにして、どうにか汗を流した兵隊たちは、また駆け足で内務班に戻る。
この間、班長の僕は外面は恐い顔を見せながら、内心はニタニタとして、イキの良い若者の裸を思う存分楽しむのである。
自分の身の回りを世話させる当番兵を決めるのも、たいていこうした時にするのである。僕はあまり体格のいい若者は好みでない。
どちらかというと小柄で、女性的な方がなんとなく安心感がある。征服するにもしやすいような気がする。
僕が決めた当番兵は、体こそ小柄だが、ペニスは一番大きな若者であった。
夕食後、下士官室に呼んで、当番兵の役目を教える。
食事を運ぶこと、衣服の洗濯と手入れ、それに就寝の準備。演習に出るとき以外は、もっぱら班長のことだけをしていれば良い。夜も班長が床に入ってから下士官室を去る。
僕はある夜、床に入りながら「当番兵は役がらとくに病気を持っては困る、お前はどこも悪いところはないか」と、聞いた。
「はい、ありません」
「どら、見せろ」
僕はまず目や、口の中をのぞいてから、だんだんと、胸、腹と検査していった。
「裸になってみろ」もじもじしている当番兵を僕は布団の上に倒して、「病気がうつると困るから、当番兵は皆こうして検査されるのだ」と言った。
消灯ラッパが鳴る。もう誰もくる心配はない。僕は灯りを消すと、兵隊を身近に抱き寄せて唇を吸い、ペニスを吸った。
兵隊は身をかたくしていたが、ペニスは山のように大きくなりピクピク動いた。
兵隊はときどき体をのけぞって苦しそうな声を出す。僕はその顔を僕の股ぐらで押さえつけて、兵隊が射精するまで吸い続けた。
ぐっと大きく膨張してくる。
そして「ウーン」とうなったまま、激しい勢いで射精する。
僕は兵隊のあふれるような精液を夢中で飲み干しながら腰を動かす。
そして兵隊の口の中に僕自身を果ててしまう。
兵隊はその日から毎日、僕と自分の下着を洗濯するのが、日課となってしまう。
初めは身をかたくしていた兵隊が、だんだん僕の愛撫に慣れてきて、自ら僕の精液を求めるようになると、決まって前線行きとなる。
僕は何度、こうしてひそかに当番兵と悲しい別れをしたことだろう。」
全文を載せてしまった。
ここに書かれた時代は、太平洋戦争が始まった頃のことだろう。
兵舎がちゃんとあって、そこで訓練して前線に送り込む。
それにしても実弾で銃を撃ったことのない兵隊が戦えるわけがない。
無謀な戦争をしたものだ。
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コメント
すごい
一気に読んでしまった
面白かった
投稿: | 2018年4月 7日 (土) 01時28分
半分くらいの内容が、妄想でしょう
投稿: | 2018年4月 3日 (火) 11時30分