内藤ルネさん、ご自分の死を予知していた?
立派な西洋館の別荘を、女房の古里新潟県弥彦村(人口8000人ぐらい)に、兄の住んでいる家のすぐそば(土地は兄のもの)に、建ててしまった。
車が運転できた頃は、どれだけ弥彦に行ったことか。高速道路が完成しない前は、三国峠を越えてのことだから、10時間近い時間がかかってしまった。
同じ弥彦村に平成5年、「ロマンの泉美術館」をオープンさせた。新潟に住む詩人の松井郁子さんが、こんな文章を寄せてくれた。
「―なぜ、こんなところに建物が?―
私は目を見張り、息をのんだ。足が震えるような驚きだった。
12月の風は身を切るように冷たい。その風が雲を追い払うと、月が煌々と美術館を照らし出した。
屋根の上の風見鶏、少女のブロンズ、ステンドグラス……私の深いところから熱いものがこみ上げてきた。自分の住む世界をようやく見つけたような、長い間、待っていたものに巡り逢えたような、そんな歓びと感動だった。」
『薔薇族』を創刊させたことで知り合った、美輪明宏さん、内藤ルネさんなど、多くの人と出会ったことで、自然とぼくの美意識や感性が磨かれたような気がする。「ロマンの泉美術館」は、その集大成だと思っている。
その「ロマンの泉美術館」が何年も閉じたままで廃墟になり、別荘は物置になって、車の運転をやめた今では、他人さまにお願いして、レンタカーを借り、日帰りで行くしかなくなってしまった。
4月の15日(日)、息子の友人の今田君、バスの運転手を15年もしている、安全運転が身についている人が、朝6時出発でぼくの女房とを乗せて東京を出発した。
その日は最悪の天候で、雨だけでなく、風も強い。弥彦村まで350キロ、安全運転で5時間かけて弥彦村に着いた。ずっと雨の中を走ったが、弥彦村は雨がやんでいた。
別荘はあちこちが痛んでいる。まだダンボールが山積みで、それをひとつ、ひとつ開いてお宝が出てこないか探し出すのが、ぼくの仕事。女房は実家で兄夫婦としばらくぶりの出会いでおしゃべりに。
今田君は内藤ルネさんが『薔薇族』の表紙絵を描いたものを探し出して、持ち帰り、オークションに出すために選び出す。
ルネさんの表紙絵は若い人に人気があり、NHKのテレビを見て、中身も見てみたいという若者が多かった。
まもなくネットのオークションに出すので、そのときは高値で買ってもらえれば幸いだ。
ダンボールの中から、ルネさんのぼくあての葉書を1枚見つけ出した。
7億ものお金を詐欺師に取られ、その上、マンションにまで住めなくなったルネさん。
修善寺に人形美術館を建てて移り住んだものの、お客は来ず、失意のどん底にいた頃だろう。
上野にあった「メディアソフト」という出版社が『薔薇族』を復刊させる前のようだ。
「中原淳一先生は、晩年に『女の部屋』というマガジンを出して、大失敗をしてスッテンテンになったようです。
文学さま、自分で本を出版するならともかくも、いったん他社で出版されたら、こちらの意見は2の次になります」(その通りになってしまった)
ぼくが『裸の女房」 (彩流社刊)を出版する直前で、ゲラを今から読みます。ドキドキですよ。と。
「このあとどれだけ生きていられるか? いろいろと私自身考えさせられることが多いです。」
ルネさん、一番つらいときで、死ぬときのことを予知していたのでは…。
内藤ルネさん2007年10月24日
享年74歳
この葉書は亡くなる1年前のものだ
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