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2018年5月

2018年5月21日 (月)

内藤ルネさん、藤田竜さんのこと忘れないよ!

『薔薇族』の創刊以来のスタッフは、86歳のぼくひとりを残して、みんなこの世を去ってしまっている。
 
昭和の時代に『薔薇族』の読者が、どのようなことに悩み、どのように生きてきたかを語り部として、後の世の人に残しておきたい、そう思ってブログを書き続けている。
 
 
 
人間だれしも、ほめられればうれしいし、批判されれば気にするのは当然のことだ。
 
最近になってブログの終わりに「コメントをよろしく」と、つけ加えている。
 
そのためかコメントを書いてくれる人が、増えてきているのはうれしいことだ。
 
ぜひ、これからもコメントを書いてもらいたい。
 
どんなことを知りたいのか、こんなことを書いてもらいたいという要望があればありがたい。
 
 
 
ネットを触れないぼくは、百円ショップで購入した原稿用紙に4枚で1つの話をまとめている。
 
いつも次に何を書こうかと考えていることが、脳に刺激を与えてボケずにいられるのだろう。
 
自画自賛するわけではないが、読み返すと面白く、これからも書き続けなければという思いにさせられる。
 
 
 
おひとりのコメントに対して、弁解ではなく事実を書いておこう。
 
「雑誌『薔薇族』の全盛期の売れ行きは、年間で数億円?と推定します。永遠に続くものと誰でも思うでしょう。
実質編集長の藤田さんへも十分な利益の分配があったのか?は、多くの読者が興味ある永年の知りたいことです。」
 
というコメントだ。
 
 
 
内藤ルネさんと、藤田竜さんは、何十年も一緒に住み、ふたりで協力して、いろんなグッズを制作し、ひとときはその製品が街に溢れたことがあった。
 
千駄ヶ谷駅の近くの、部屋が何室もあるマンションに住み、最初に竜さんと出会った頃は、給料は200万もらっていると聞いたことがあった。
 
それが世の中が変わってきて、テレビの人気番組にまつわるグッズが現れるようになり、ルネさんの商品は影が薄くなってしまった。
 
バブルの時代に土地を売って、7億ものお金を手にしたが、世間知らずの竜さんは詐欺師に騙されて、7億なくし、その上、マンションまでとられてしまった。
 
 
 
その間、ぼくになんの相談もなく、マンションを出ることになって部屋を探したが、年とった男二人に部屋を貸してくれる不動産屋はなかった。
 
そこでやっと泣きついてきたので、ぼくの知人の不動産屋に頼んで、社員寮として、半分は会社が払い、半分は二人が払うようにして借り受けることができた。
 
膨大な彼らのコレクションは、ぼくの女房の兄の倉庫に十数年もタダで置いてもらった。
 
ぼくは修善寺に美術館を作ることには反対したが、これも誰にも相談せずに自宅兼美術館の建物を作り、オープンさせた。が、これも失敗に終わった。
 
 
 
すべてを無くした二人が美術館を建てられたのも、ぼくが二人にそれなりの給料を払っていたからだ。
 
雑誌づくりの名人だった竜さんだが、何か大きな足りないものがあったのでは……。
 
 
★コメントよろしく
 

 
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2018年5月19日 (土)

ぼくが死んだら誰が記事にしてくれるのか?

いつの頃からか、最後のページを2ページも使って老眼鏡で見ても読めないくらいの小さな文字で、びっしりとその月の出来事などをぼくが書いている。
 
1986年11月号で、ルネさんの表紙絵だ。
 
 
 
「先日、朝早くから中年の夫婦が訪ねてこられた。末っ子の息子さんが高校3年生で17歳。
 
その息子さんのところへ知らない人から手紙がひんぱんに送られてくるので、開けてみてしまったのです。それでびっくりして編集部を訪ねてこられたのです。
 
元の原稿を調べてみたら、やはり18歳と書いてあるのです。未成年者は文通欄に載せないようにしているのは、このようなことになりかねないからです。
 
お父さんも温厚な方だからよかったものの、相手の人に怒鳴りこむお父さんもいるのです。
 
ぼくが書いた『薔薇族編集長奮戦記』をさしあげて、よく読むように言って、おひきとり願ったのですが、こんなときにこの本が役に立つのです。
 
 
 
この年齢のときには誰でも同性に目が向くことがあって、また異性に戻っていくのだということを、ご両親に希望をもたせたのですが、あまりにもショックを受けているご両親を見ていると、こちらまでガックリとくるのです。
 
男が好きだということは、悪いことではないという話をよくしてあげたのですが。」
 
 
 
また、こんなことも書いている。
 
 
 
「美しい娘さんを連れたお母さんが訪ねてこられた。
 
娘さんがお見合いをしたそうですが、相手の男性が何ヶ月かたつのに、手も握らないので変だというので、興信所に十何万円も出して調べさせたのだそうです。
 
商売とはいえ、よく調べたもので、はっきりと断定はしないものの、30何歳になるまで女性関係がまったくないのだから、疑われても仕方がありません。
 
ぼくは男性の味方をしないわけにいかないので、こうした女性が訪ねてくると、本当のところは困るのです。
 
まあ、興信所が調べあげてしまっているのだから、ぼくがとやかく言うまでもないのですが……。」
 
 
 
「編集室から」の裏のページには、藤田竜さんが1ページ使って「今月の裏話」を書いている。
 
「神戸のバー「豆」の多くのお客さんに愛された名物マスター、通称・大(おお)豆さんが、この夏のさなかに亡くなりました。食道がんでした。
 
弱音は、はかなかったそうですが、ものが食べづらいようで、少しずつ痩せてきたのだそうです。そして100日入院して、残念な結果になってしまいました。69歳でした。
 
とてもそんな年には見えない若々しさで、満員の店の中をニコニコして泳いでいたのに。
 
「豆」の7周年記念のパーティーを、新造の大型船を借りきって、瀬戸内海クルージングという派手やかで、楽しい形にしてくれた、去年のあの日と同じ日、奇しくもかっきり1年後の8月4日の夕方に亡くなったのです。
 
あの日、船の上で大豆さんは、ぼくに「息子たちにも店をもたせたし、もう自分は好きなことだけしていればいい」と、嬉しそうでした。
 
私生活と仕事でのよき相棒、通称・小(こ)豆ちゃんと知り合って十年あまり、充分しあわせな人生だったと言えるでしょう。
 
店は小豆ちゃんがひきついでいます。大豆さんには店が賑やかなのが何よりの供養になるのですから、一度でも行ったことのある人は、どうぞ、また行ってあげてください。
 
小豆ちゃんは、まだ死の実感がなくて、いつものように大豆さんが「おはよっさん」と現れるような気がしてならないと言っています。」
 
 
 
竜さんが亡くなって間もなく、養子にしたよっちゃんも亡くなってしまった。あわれ。
 
 
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2018年5月15日 (火)

【オークション出品中】宇野亜喜良デザイン シルクスクリーン・ポスター

ヤフオクにて、宇野亜喜良氏デザインのシルクスクリーン・ポスターを出品しました。 
 
舞踊家・伊藤ミカの公演のために制作された2点です。
 
 
↓↓↓ご興味のある方はぜひ↓↓↓
 
『オー嬢の物語』 (1967年) ポスター 売切れ
  

 
宇野亜喜良さんの傑作作品だ!
 
 
こんなスゴイ女性は、2度と現れないだろう。
 
その女性は、ぼくの先妻の舞踊家、伊藤ミカだ。
 
1967年(昭和42年)邦千谷舞踊研究所から独立、旗揚げ公演が『オー嬢の物語』の舞踊化だった。
 
 
 
当時の舞踊公演というと、親族、友人、知人に頼み込んでチケットを購入してもらうやり方だ。
 
フランスの地下文学と言われる『オー嬢の物語』の舞踊化は画期的な企画なので、広く一般の人にも見てもらいたいと、まったくコネもないのに、週刊新潮編集部をミカと一緒に訪ねた。
 
岩波剛さん(この方の名前だけは忘れない)が降りてこられて、ふたりの話を聞いてくれ、すぐに記事にしてくれた。
 
当時の週刊新潮の発行部数は100万部を越し、その効果は絶大だった。
 
日本中からお客が来てくれて、当日売の売場に長蛇の列が……。
 
それから何度も記事にしてくれた。
 
 
 
1967年頃というと、ベトナム戦争は泥沼化し、羽田闘争、学園闘争の最中で、世の中、騒然としていた。
 
そんな時代だったが、新宿は若い芸術家が続々と現れ、「天井桟敷」「状況劇場」などが活躍し始めていて、活気に満ちていた。
 
まったく無名の舞踊家を、澁澤龍彦さんをはじめ、金子國義さん、四谷シモンさん、麿赤児さんなどが応援してくれた。
 
 
 
当時、化粧品会社マックスファクターの専属デザイナーだった宇野亜喜良さんが、ポスターからプログラム、チラシ、チケットのデザインまで制作してくれた。
 
ポスターはシルクスクリーン。
 
色を積み重ねていく高度な技術を要する印刷法で、芸術性を帯びた職人芸だ。
 
ミカのために『オー嬢の物語』『愛奴』『静かの海の恐怖』と3作品もポスターを作ってくれ、『宇野亜喜良60年代ポスター集』(ブルース・インターアクションズ刊)のカバーには『オー嬢の物語』が使われている。
 
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今回は、『オー嬢の物語』と『愛奴』の2作品を出品する。
 
50年間、ポスターを保存してきた苦労は並大抵ではなかった。
 
 
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↓↓↓ヤフオク出品ページ↓↓↓
 
 
『オー嬢の物語』 (1967年) ポスター 売切れ

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2018年5月14日 (月)

死んでお金は、もっていかれない!

うらやましい老人の話が『薔薇族』1990年6月号に載っていた。
 
「若者とのセックスが命のこやし」と題して。
 
 
 
この老人は老後の小遣いにと建てたアパート(8室)の収入で楽に暮らしていると。
 
ぼくは美術館と別荘に、大金を投入して、すべてを失くしてしまった。
 
アパートなんてものでなく、マンションを建てられたろうに、今さら悔やんでもどうなるものでない。
 
 
 
この老人、73歳だそうだ。
 
「女房は3年前に天国へ行き、そのあとひとり暮らしをしています。息子も娘もそれぞれに独立していますので、たまに孫を連れてまいります。
 
ひとり暮らしの淋しさをまぎらわすため、スナックやバアで夜を過ごしています。
 
お酒が飲めない私は、若い人にビールや水割りをおごってやるのが生き甲斐です。
 
だから若い人たちから「お父さん」「パパ」と呼ばれ大切にしてもらっています。
 
 
 
フィーリングの合った若者と、ホテルで一夜をともに過ごすこともあります。
 
ただし、特定の人をつくらないように心がけているのです。
 
それは二度、三度と交際しているうちに情が移り、先方も甘えが出てくるからです。
 
 
 
この3年間に若者に貸した金は、百万円を超えたでしょう。
 
決してその金を惜しいと思ってはいません。
 
だってそうでしょう。73歳の老人のお相手をしてくれたんですもの。
 
たとえ一夜のおとぎでも、そこには愛があるんです。
 
 
 
あくる朝になって別れるとき、小遣いがほしいとねだる者には、その夜のサービスを思い出して、それなりに、A、B、Cのランクに分けて金をあげています。
 
3万円、2万円、1万円と……。
 
たとえひと時でも、SEXのときは真剣に愛してくれなくてはいやなのです。
 
 
 
でもなかには、正直にちゃんと返してくれる若者もいます。
 
そんなとき私は、
 
「あげるつもりだったんだよ。お金は余分にあっても邪魔にならないからとっておきなさいよ」
 
と言ってやるんです。
 
 
 
そういう若者にかぎって、私を心から慕い、尊敬の念すら持っていてくれるんです。
 
「人生の先輩として、いろいろお話するのが楽しみです」なんて、泣かせるセリフを言う若者もなかにはいます。
 
 
 
とにかく若者が老人と一緒に、楽しく遊んでくれるんですもの、その代償として多少の出費は仕方ありません。
 
ただ、毅然とした態度をとらないと、それこそケツの穴まで何とやらになりかねません。
 
 
 
あと何年生きられるかわからないのです。
 
たとえにもある通り、度を越さない程度の遊びをし、体力を考えて過度なSEXはつつしむことです。
 
若者が楽しむのを見ながら愛撫してやって、若い白い液を飛ばすのを見ているのも、けっこう若返りの薬になっています。
 
 
 
人はよく私のことを10歳は若く見えますと、お世辞を言いますが、それもこれも若者とのSEXが生命のこやしになっていることは事実です。
 
「俺のチ◯ポは、もう小便するホース」なんてのたまう老人が多いですが、この世界に生きている老人は、みんな若々しくて色つやがよい人ばかりです。
 
バアへ行っても考えてみればそうですよね。
 
家でテレビばかり見ている人々と、夜の街をハントする目的をもって歩いている人とでは違うのが、あたりまえですよね。」
 
 
 
もっと早くこの老人の投稿を読むべきだった。
 
読者の老人の中でも優等生、こんな人ばかりはいないのでは。
 
ああ、美術館なんて作らずにマンションを建てるべきだった。
 
もう、おそいか。
 
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倉庫と化している別荘
 
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2018年5月12日 (土)

「文ちゃんと語る会」を再開します!

2018年4月21日(土)の「文ちゃんと語る会」は、5、6人しか集まらなかったが、その日はNHK名古屋支局が、同性愛の歴史を特集する番組づくりのため取材に来てくれた。
 
カメラに映されるのは困ると言うかと思ったら、みんなが「いいですよ」と承諾してくれた。ありがたいことだ。
 
会が終わってわが家への帰り道、杖をついてとぼとぼ歩いているうちに、「文ちゃんと語る会」は、今日限りでやめようという思いが強くなってきた。
 
確かに長いこと続けてきたし、『薔薇族』を毎月出していた頃と違って、読者が訪ねてきたり、ひっきりなしにかかってきた電話もなければ手紙も来ない。
 
話すこともなくなってきたから、やめどきかなと……。
 
 
 
1971年に『薔薇族』を創刊してからなんと47年にもなる。
 
創刊当時から雑誌づくりに関わってきた人は、みんなあの世に旅立ってしまい、生きているのは86歳になるぼくしかいない。
 
昭和の時代のゲイの人たちを語れるのはぼくしかいなくなっているではないか。
 
そう考えると、なんとしても「文ちゃんと語る会」は続けなければという思いが強くなってきた。
 
 
 
最近、ブログの文章の終わりに「コメントをよろしく」と付け加えている。
 
ブログを書くことが、ぼくの生き甲斐なのだから、読んでくれた人が、よかったとか、面白くなかったとかいうことは、問題ではないと思うものの、人間だれでもほめてくれればうれしいものだ。
 
「文ちゃんと語る会」を閉じるというぼくのブログを読んで、くろまめさんと名乗る20代の女性が、ひとりだけコメントしてくれていた。
 
 
 
「初めて投稿します。
昨年新宿二丁目のことを調べていた時に伊藤文學さんのことを知って、「文ちゃんと語る会」に参加したいと思ったものの、20代の女子一人で参加してもよいものだろうか…と躊躇していたところでした。思い立ったが吉日で参加すればよかったです。
機会があればぜひ文學さんのお話を伺いたいです!」
 
 
 
確かに若い女性が参加してくれると、ぼくのおしゃべりは熱をおびてくる。
 
男性ばかりだと力の入らないおしゃべりに。
 
これは意識しているわけでなく、自然とそうなってしまう。
 
20代の女性がひとりでは参加しにくいと言われるが、今までに多くの若い女性が参加している。
 
ぼくは『薔薇族』を出していた頃、どんな人が訪ねてきても、わけへだてなく応対してきた。それは今でも変わらない。
 
高齢になってくると、初対面の人と出会っておしゃべりすることが、脳を活性化させ、ボケない理由になるようだ。
 
初対面の人が20代の女性だったら、なおさらのことだ。
 
 
 
ぼくが30代のころ、19歳の女性、看護婦さんだが、恋に落ちたことがある。
 
それは86歳になっても若い女性が好きなことは今でも変わらない。
 
下北沢の街は若者の街だ。街を歩いている若い女性に目が向いてしまうのは自然のことだ。
 
若い頃から若い女性の胸の谷間を見るとわくわくしてくる。
 
今日はくもり空だが、下北沢の街へ行ってみるか。
 
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若い女性っていいな。駒大の同窓会で
 
くろまめさんのコメントを読んだから、語る会を続けようと思いついたわけではないが、6月30日(土)午前11時から、カフエ「織部」で、「文ちゃんと語る会」を催します。
 
ぜひ、ぜひ、ご参加を!
 
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2018年5月 7日 (月)

藤田竜さん、ひとりで作った『薔薇族』

「編集室から」に藤田竜さんはこんなことを書いている。
 
「ホモは明るい場所に出られないかもしれない。しかしホモを明るく考えることで、ホモの人たちの気持ちを楽にすることは出来るだろう。そういう考えで伊藤さんと僕は『薔薇族』をスタートさせました。
 
性の特殊なジャンルを扱う雑誌は、ほとんどが末端神経を刺激するだけのものでしかありませんでした。それはそれで閉鎖社会においては性の代行為として意義のあることだし、広い層の読者をつかむのに一番簡単なのかもしれません。
 
従ってどうしても低俗になりがちだし、読者の気分も陰湿になってしまう。その後ろめたさが美学になるという人もいます。
 
でも、僕たちは違う方向を探って、どうにか支持していただけて今日まできました。
 
下卑させなくても広く受け入れられていることを嬉しく思うのです。」
 
 
 
この号は1975年・1月号・No.24、創刊して4年目になる号だ。
 
才人、藤田竜さんが責任編集ということで、すべてをひとりでやってのけた。
 
表紙絵も内藤ルネさんかと思ったら、藤田竜さんだった。
 
しばらくぶりに目を通してみて驚きだった。
 
こんなに格調高く、気品に満ち溢れた雑誌が、のちに発禁になるとは考えられない。
 
A
 43年前の『薔薇族』1月号
 
写真は「十九の春」と題する波賀九郎さんの特選写真集。迫力が伝わってくる見事な男の裸像だ。
 
撮影場所がなんと新築したばかりの我が家の3階、16畳の床の間。掛け軸が飾られているが、その書が魯山人のものではないか。本物だとしたら大変高価なものだが、今はどう処分したのかない。
 
執筆陣がすごい顔ぶれだ。
 
詩人の高橋睦郎さんの「少年愛をかんがえる」、内藤ルネさんの「軍服」、イラストが宇野亜喜良さん、冨田英三さんの「ある愛の軌跡=みどりは綺麗な青年だった……」
 
小説は楯四郎さんの「男色忠臣蔵」。この方はNHKのアナウンサーで、東都名物、浅草十二階・凌雲閣が関東大震災で、崩れ落ちたが、同時に崩壊する男たちの恋情を描いた「浅草怨念歌(あさくさうらみうた)」は、単行本になり、アメリカでも翻訳され本になった。
 
その本を手にして、定年間際でガンで亡くなられてしまった。
 
多くの名作を残してくれた忘れられない人だ。
 
笹岡作治さんの「百姓哀歌」、平野剛さんの画集『男と男』も、すね毛も1本、1本、描いたような男の匂いぷんぷんの力作だ。
 
 
 
さて、この号の最大の読み物は、藤田竜さんと、四国の松山に住む純情青年・峻と、藤田竜さんとの手紙による何とも言えない哀切な別れとなる不思議な物語だ。
 
真ん中へんに27ページも使って、ピンクの色上質の紙に印刷され、イラストは長谷川サダオ君の力作で、8点も使われている。
 
 
 
内藤ルネさんがぼくによくこぼした言葉は、竜さんに相手を思いやる気持ちがほしかったと。
 
竜さんは『風俗奇譚』というSMの雑誌にエッセイなどを書いていたようだ。
 
どんなことを書いていたのか読んだことがないので、内容は分からないが、松山に住む大学生がそれを読み、感動して竜さんを愛するようになってしまった。
 
タイトルは『海から来た青年は薔薇の歌とともにどこへ行ってしまったのだろう』
 
『バラが咲いた』の歌が流行していた頃の話だ。
 
竜さんは青年の慕情をもてあそんでいたようで、最後はどこに行ってしまったのかわからない。
 
読者はこの青年の数々の手紙に哀れみをもって感動したようだ。
 
こんなに反響のあった読み物はなかった。
 

B

読者の反響がものすごかった!
 
ぼくの「伊藤文学のひとりごと」は、この号から始まった。
 
タイトルは「結婚のこと」。いいこと書いてる。
 
★コメントを寄せてください
 
 
★新品『薔薇族』蔵出し出品中★
 
この機会に是非お求めを
 
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2018年5月 5日 (土)

「文ちゃんと語る会」は幕を閉じる!

「文ちゃんと語る会」2018年4月21日(土)下北沢南口のカフエ「織部下北沢店」での集まりを最後にやめようと思う。
 
この会がいつから始まったのか、まったく覚えていないが、5、6年は経ったのではなかろうか。
 
た最初の会合は、森鴎外の長女、森茉莉さんが、仕事場として、人と会ったりするために毎日のように通いつめていた、純喫茶「邪宗門」だった。
 
ただ、わが家から近かったが、下北沢南口から急ぎ足で歩いても20分はかかるのが難点だった。
 
 
 
それから下北沢北口から歩いて5分ぐらいにあるカフエ「占茶」に移した。
 
急な階段を登って2階にあった。蔵書がズラッと並んで椅子も座り心地の良い豪華なもので、夫婦で店をきりもりしていて、ママは有名な占い師で奥の部屋で、お客と向き合って占いをし、ご主人がカウンターの中で、コーヒーを淹れる。簡単な食事もできる申し分のないお店だった。
 
なんでそこから他へ移したのか、忘れてしまったが、会を開らく時間の問題だったと思う。
 
 
 
次は7階建のビルのオーナーであるご夫婦が経営するカフエ「つゆ艸」を選んだが、店が狭く、外からガラス越しに店内が見えてしまうのが欠点だった。
 
このお店は作家の吉本ばななさんがお気に入りのお店で、ご主人は元和物の骨董店をやっていた人で、店内の飾りつけも一点、一点が考えて置かれている。
 
カウンターは4席しかないが、ママの由美さんの笑顔が愛らしく、おしゃべりしてくれるので、老人たち(ぼくもそのひとりだが)が、次から次へと集まってくる憩いの場だった。
 
 
 
その次は織部焼の陶器を並べるコーナーと、カフエの部分が分かれているお店。大きなガラス扉の外はタバコを吸える透明なビニールで囲まれた椅子席が15くらいか。そこで土曜日の開店時間の11時から1時までを使わせてもらっている。
 
店長は以前はデザインの仕事をしていたそうだが、岐阜で大きな店を持ち、各地で支店を出している会社の会長さんがお父さんだ。
 
この「織部」下北沢店は3階建てで、1階がカフエ、2階は美容院、3階は会社の事務所として使われている。
 
露地の奥にある静かなお店で、椅子も大きなゆったりとしたお店なので、犬を連れてくる人、乳母車で小さな子を乗せてくる人も入りやすいお店で、そんなお店は下北沢にはない。
 
 
 
3年前にオープンした時から、ぼくはこのお店でコーヒーを飲むようになった。会社の会長さんが朝日新聞と日経新聞を置きなさいということで、いつも新聞が置いてある。
 
今のぼくは東京新聞だけしか購読していない。朝日新聞はぼくの著書の『ぼくどうして涙がでるの』を生んだきっかけを作ってくれた恩義のある新聞なので取り続けたかったが、ふところ状態が悪いのでやめざるを得なかった。
 
「織部」の店長と口をきいた最初のきっかけは、そのときに限って袋とじのついた週刊ポストだったと思うが、その袋とじの中を見たいと思っていたら、店長がハサミを持ってきて中を見せてくれた。それが最初の出会いだった。
 
それからは店長にお世話なりっぱなし、年賀状を作ってくれたり、ネットを見せてくれたりありがたいことだ。
 
 
 
語る会を取材にNHKが来てくれた。昨日はぼくの自宅だった。もうしゃべる話のタネが尽きている。もう、これで幕を閉じようと思ってしまった。長いことありがとう。
 
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この会が最後ならもっと丁寧に書くんだった!
 
★コメントよろしく

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