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2018年6月

2018年6月30日 (土)

坊やの死を無駄にしてはいけない!

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日活で昭和40年(1965年)に、ぼくと妹、紀子の共著『ぼくどうして涙がでるの』が映画化されたときに、駒大の同期生の長田暁二君がキングレコードのディレクターをしていたので、そのときにレコードのジャケットを製作してくれた。
 
写真の坊やは亡くなった芳っちゃんと同じ先天性の心臓病で、病院側があまりにも手術がうまくいかないので、自宅に帰されてしまった。
 
小学校の高学年の頃、母親から亡くなったという知らせがあった。その時代から半世紀の歳月が流れて、今では心臓手術で亡くなる人はほとんどいないそうだ。
 
日本で昭和25年に最初に心臓手術をした、東京女子医科大学病院院長、榊原先生が「みんなが治るように」という一文を寄せてくれている。
 
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「心臓の病気を背負った、可愛そうな子供さんがたくさんいます。
 
なかには生まれて何日もたたないうちに死んでしまう子供もあり、何歳かまで生きて、それから悪くなって死んでいく子供たちもあります。
 
手術をしてでも、普通の子供と同じように飛んだり、はねたり出来るようになり、やがて立派な大人になってほしい。
 
こうした願いは、その子供さんの親たちだけではなく、実は子供さんたち自身がもっているのです。
 
元気になって喜び勇んで帰ってゆく子供たちを見て、これから手術を受けようという子供たちは、勇気をふるいたたせるのです。
 
しかし、手術に堪えられず、死んでゆく子供たちをみるとき、手術を待つ子供たちの気持ちはどんなでしょう。
 
どうか一人でも多くの人を助けてあげたい。
 
どうか早く手術を受けさせたい。
 
重い病気でも、全部が治るようにしてあげたい。
 
子供たちの心にはげまされながら、私たちも全力をあげて努力しています。
 
芳和君も、もちろん天国から願ってくれるでしょう。」
 
 
 
榊原先生、映画の撮影に全面的に協力してくれて、病院内での撮影、榊原先生、自ら執刀している手術の場面をカメラマンを手術室に入れて撮影させてくれた。
 
当時は妹を含めて多くの患者たちが亡くなったが、医師たちも経験を積み、医療器具も急速に進歩して、心臓手術で亡くなる人はいなくなっている。
 
ぼくも「おもきり走れる日が」と題して書いているが、全文は載せられない。
 
 
 
「君をダッコして、広い病院の中を屋上に行ったり、6階の未熟児室に小さな赤ちゃんを見に行ったりしたっけね。
 
ぼくが帰ると言うと、きまってエレベーターのところまで送ってくれた。
 
昨年の1月25日、手術室に運ばれてゆく君は、宝石のように美しい涙をこらえながら、
 
「ぼくどうして涙がでるの」
 
悲しい質問を残して、再びもとのベッドにもどってこなかった。
 
君が手術にゆくまで手ばなさなかった「ジャックと豆の木」の絵本をお棺の中に入れながら、
 
「芳和、もう苦しくないだろう」
 
お棺にとりすがって泣き叫ぶお母さんの声も忘れはしまい。
 
「君の死を無駄にしてはいけない」
 
そう誓ったぼくだった。
 
野村君は死んでしまったけれど、君と同じような子供たちが、みんな元気になって思いきって走れるようになる日が、近いうちにきっとやってくる。そうぼくは信じている。」
 
 
 
「答えられない。だから私も涙がとまらない。」
 
と阿川佐和子さんが推薦してくれた復刻本が売れ残っている。
 
Amazonに注文して、ぼくが精魂こめて書いた本、ぜひ、読んでください。
 
 
 
 
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2018年6月25日 (月)

こんな切ない恋物語が!

関西の23歳、ピーター君の「人生薔薇模様」への投稿文。
 
 
 
「僕の大好きな会社の先輩が、やはり先輩の彼女と結婚してから1ヶ月が過ぎようとしていたある日、先輩から飲みに行かないかと誘われた。
 
もちろん僕は喜んでついて行った。
 
犬のような尻尾があれば、ちぎれるほど振っていただろう。
 
しかし、その尻尾は駅の改札口を出たとたん、踏みつけられてしまった。
 
僕の目の前に、1ヶ月ぶりの先輩の奥さんが、やさしい目をして立っていたのだ。
 
顔は少しやせたようだが化粧していないからか、つやつやした肌をしていた。
 
「おひさしぶりです」
 
と挨拶をしてちょっと先輩の方を見ると、さきほどとは打って変わって、不機嫌そうな表情で遠くの方を見ていた。
 
先輩も予期しなかった<お出迎え>だったのだろう。
 
僕は作り笑いをしながら、雲から足を踏み外したような後悔の念にさいなまれ、先輩と彼女は少し離れてネオンの街を歩き出していた。
 
僕は絶海の孤島におきざりにされた気分でふたりのあとを追いかけた。
 
 
 
「話があるんだけど、ちょっといい?」
 
会社の中で、先輩が改まったようすで話しかけてきた。
 
僕はてっきり仕事の話だとばかり思っていた。
 
会議室にふたりだけで入った。入ってからシステム手帳を忘れたことに気づき取りに戻ろうとしたとき、先輩が口を開いた。
 
「突然なんだけど、今月いっぱいで会社をやめることになったんだ」
 
僕は呼吸することを忘れ愕然として先輩の顔を見つめた。
 
僕の激しいショック症状に事情を説明しようとする先輩も言葉を失ったかのようだった。
 
あまりにも悲しく、泣くこともできなかった。
 
もし僕が女の子だったら、先輩に抱きついて、胸に顔を埋めて泣きじゃくっていただろう。
 
しかし、僕は先輩の彼女ではなく、ただの同性の後輩のひとりに過ぎなかった。
 
「僕も一緒に連れて行ってください!」
 
そう言う勇気と自信が僕にはなかった。
 
あまりにもたくさん言いたいことがあって、何から話したらいいかわからなくなった。
 
のどをつまらせたまま、声にならない声で叫んでいるほかない僕であった。」
 
 
 
セックスばかりを描いた投稿文が多い中で、あまりにも純情なせつない慕情は胸を打つものがある。
 
先輩もゲイだったのか、ノンケだったのかはっきりしないが、ゲイだったら手を出していただろう。
 
こんなはかない恋物語もたまにはいいのではないでしょうか。
 
 
 
最近、ぼくのブログにコメントしてくれる人が多くなってきたのはうれしいことで、ますますいいブログを書き続けようという気持ちにさせられる。
 
「NHKの番組に出演するなんて夢のよう」というタイトルで書いた記事に、こんなコメントが。
 
 
 
奥様が話されていたお話が新鮮でした。
1日に1000通ほどの読者の手紙を奥様が回送していたとは!!
ご苦労様でした。
 
 
 
この話はオーバーなことではなく本当の話だ。
 
先妻の舞踊家、ミカが1月11日に事故死して、11月には久美子と結婚し、翌年の7月には『薔薇族』の創刊号を出してしまった。
 
久美子は若いときに宛名書きの仕事をプロとしてやっていたのだから、それが役に立ったのだ。
 
まさか読者同士の橋渡しをするなんて、不思議な因縁だ。
 
 
★週刊文春、テレビの感想コメントをどうぞよろしく
 
 
B
姉とぼく
(ブログと関係ないけど残しておきたいと)

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2018年6月23日 (土)

ソウルで出会った心あたたまる人たち!

今の世の中、韓国の話が多い。
 
北朝鮮に行くわけはないが、19年前に一度だけ取材で3泊4日、韓国に行ったことがある。
 
1999年の7月号の「伊藤文学のひとりごと」に、「ソウルで出会った人たち」と題して、心あたたまる話を書いている。
 
 
 
「景福宮(朝鮮王朝・1392〜1910の王宮)の中にある、韓国民族博物館を見学していたときだ。
 
中年のおばさんが品のいい顔立ちをした老女を手押し車に乗せていた。
 
近づいて声をかけてしまった。そうしたらなんとも美しい日本語が返ってきたではないか。92歳になるという老女。足が弱って歩けないのだという。
 
 
 
韓国が日本の植民地時代に、小学校から中学校まで、日本語を習ったというから、日本語をしゃべるのは当然かもしれない。
 
老人たちは子供のころ、日本語を習っているから、みんな日本語をしゃべるという話は聞いていたが、ソウルにやってきて老女から聞く、日本語が美しい発音であればあるほど、なぜか悲しくなってしまう。
 
子供のころ習ったものって忘れないのかもしれないが、韓国に住んでいて、日本に一度も行ったことがないという老女が、こんなに美しい日本語をしゃべるなんて驚きだ。
 
それからいまわしい戦争があり、半世紀以上もの時が過ぎ去って、その間にこの老女がどんな生活を送っていたのか、計り知れないが、日本に憎しみをもっていないことだけは確かで、それがなによりもうれしかった。
 
もっと、もっといろんな話を聞きたかったが、連れもあってできなかったのは残念だった。
 
別れ際に固く、固く手を握りしめてあげた。そして薄くなった髪の毛の頭をなぜてあげた。
 
このおばあさんにどんな過去があったのかは知るよしもないが、「おばあさん、ごめんね。」と心の中でつぶやいていた。
 
「いつまでもお元気でね」と言って別れたが、娘さんか、お嫁さんに手押し車を押してもらって、おばあさんは幸せそうだった。」
 
 
 
ぼくらが泊まったホテルの前に模範タクシーが停まっていて、制服をきりっと着た運転手さんがそばに立っていた。
 
近づいて胸のあたりを見たら、小さな勲章が10ヶ以上も下げられていた。
 
「その勲章はなんですか?」と聞いたら、流暢な日本語で、軍隊時代にもらったものだと答えてくれた。
 
「大東亜戦争」なんて、懐かしい忘れていた言葉が、運転手さんの口から飛び出したのには驚いてしまった。
 
ホテルの前の道を隔てた広大な敷地が、米軍の基地で門衛が何人も立っている。
 
そんなところで目の前に立っている70歳を過ぎたであろう運転手さんが、日本のために兵隊になり、従軍して戦果をあげて勲章をもらい、誇らしげに胸につけている。
 
ぼくぐらいの年齢のものには、じ〜んとこみ上げてくるものがあるが、今の若い人にはこんなことを書いても何のことか理解できないだろう。
 
この運転手さん、胸にいくつもの勲章を今でもつけてくれているということ、これは大変なことだと思う。
 
つらい過去の日本への憎しみがあったなら、こんな勲章など、とうの昔に捨ててしまっているだろうから。
 
 
 
日本と韓国、こんなに近い国なのに、なんとなく分かりあえない国。
 
でも日本からもらった勲章を胸につけている運転手さんを目の前にして、思いきって韓国に来て良かった。
 
そしてもっと、もっと多くの韓国の人と出会い、友情を深めたい、そんな思いでいっぱいだった。」
 
 
 
現在の韓国も変わっているだろうが、もう旅行はできない。
 
いい人に出会えて良かった。
 
 
★コメントをよろしく
 
 
A
左側の2人が、妹と、近所の子供。
わが家の前は畠だった。

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2018年6月18日 (月)

もう誌面からにじみでる気迫がない!

『薔薇族』一番最後の号、200411月号No.382。もう廃刊になって14年の歳月が流れているとは。
 
しばらくぶりに最後の号を読んでみた。
 
印刷所に印刷代を払えなくなっていたので、もう次の号は印刷できませんと、引導を渡されてしまった。
 

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この号には内藤ルネさん、藤田竜さんの匂いがないからもう手を引いていたのだろう。
 
文通欄も100名足らず、あんなに多くの読者からの投稿があった「人生薔薇模様」のページもわずかに1ページで3名というさびしさ。
 
広告も少なく、厚かった時代の半分ぐらい、誌面からにじみ出る気迫もない。落ち目の雑誌というところか。
 
編集後記にぼくはこんなことを書いていた。
 
 
 
「新人立てり立てり時代は正しく飛躍し来たれり、北原白秋作詞・山田耕筰作曲というすごいコンビの我が母校駒沢大学校歌が、阪神甲子園球場に響き渡った。
 
86回全国高校野球選手権大会の決勝戦で、駒大付属の駒大苫小牧高校が、愛媛の済美高校を1310で破って、初の全国制覇を果たした。
 
箱根駅伝では駒大が優勝して、正月早々気分がよかったが、大学の野球部はどうしたことか、最近は元気がなくてふるわない。
 
 
 
決勝戦をテレビで観て興奮してしまった。
 
点を取られれば取り返す。まさに死闘だった。
 
しばらくぶりに校歌を大きな声で一緒に歌ってしまった。」
 
 
 
最後にぼくはこんなことを書いている。
 
 
 
「雑誌づくりも同じこと。気迫が誌面からにじみ出ていなければ、読者は読んでくれない。
 
ねばりにねばらなければと、自戒している。」
 
 
 
そうは言うものの、坂をころがり落ちていくものをとめることはできない。
 
今の若い人は知らないだろうが、50年代から70年代にかけて、全世界のゲイをしびれさせた、フィンランドからアメリカに渡ってイラストレーターとして活躍したトム。
 
その画業がアメリカで再び脚光を浴びている。
 
トムは亡くなっているが、恋人だったダークさんが「トム・オブ・フィンランド財団」を設立して、ロサンゼルスにあるトムの自宅を美術館のようにして作品を展示している。
 
ぼくは2度ほど、ここを訪問し、日本の男絵をプレゼントした。
 
日本で最初にゲイ雑誌を創刊したパイオニアとして、ぼくを財団の名誉理事にしてくれて、トムの作品を誌上で使っても良いという、お墨付きまでもらった。
 
ロサンゼルスを訪問した時のことを8ページに渡って写真入りで紹介していて、こんなことを書いている。
 
 
 
「トムが好んで描いた若者は、粗野で荒々しいマッチョのカウボーイ、兵隊、水兵、労働者だ。
 
入れ墨と、革ジャンでオートバイを乗り回す若者たち。
 
彼ら、Gパンがよく似合うが、インテリジェンスには関係のない若者たちだ。
 
 
 
ぼくは2度、ロスのトムの館を訪れた。
 
扉をあけると、トムがやあっと、手を上げて現れてくるのではとおもうくらい、トムが生活していた当時のままで残されている。
 
確かに室内は、黒のジャンバー、ブーツ、ベッドも革でトムのイラストそのものだ。
 
しかし、ヨーロッパから移住した人だけに、各部屋の照明器具は、ヨーロッパのアール・ヌーヴォー、アール・デコの時代のセンスのいいものばかりが使われている。
 
ゲイ特有の繊細な感覚がうかがわれる趣味のよさには驚かされてしまった」
 

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トムの美術館を建てる計画があって、その模型が展示されていたが、実現したかどうかは知るよしもない。
 
10
数年も前の話だから。
 
 
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2018年6月16日 (土)

異性と結婚した男たちは?

昭和の時代の『薔薇族』の読者たちは、ある年齢に達すればいろんな事情で異性と結婚しないわけにはいかなかった。
 
1992
年の『薔薇族』7月号に「妻帯者は男遊びにこう苦労している」という特集をしている。
 
 
 
「学生時代から続けているジム通いを理由に、週1回の外泊を既成事実にしてある。
 
トレーニング仲間と飲みに行くと言ってはハッテン場、ホテル、時には恋人のところへ。
 
せっかく気の合う男を見つけても、やはり結婚している男は窮屈なのか、長続きしないのは寂しいが、これは仕方がないことだろう。
 
 
 
苦労といえば、家から持ち出したタオルにいつものシャンプーの匂いをつけることとか、ウエアに汗をつけること。
 
ジムに行った日はいいが、ハッテン場直行の日には困る。
 
他の日は必ず家に帰り、サービスしている。
 
 
 
努力は必要なのだろう。いちばん困るのは、トレーニングの回数が減って、体が崩れてきたことだ。(埼玉県・マッスル・33歳)」
 
 
 
苦労しているんだ。早く子供を作るしかないのでは。
 
 
 
「家庭を持ってもう8年。妻は細かなことを気にしないので遊びはわりと楽だ。
 
家に男のものを置かないようにしているので、ひょっとするとウスウス感づいているのでは? と思うことはあるが、まず大丈夫だろう。
 
妻とのセックスも月に2回ほどなので、オナニーする場所に苦心する。
 
我慢できないと駅のトイレですませることにしている。(東京・夜の迷い人・31歳)」
 
 
 
こんなにまでして結婚しなければならなかった時代、今の時代の若者、理解できますか
 
 
 
「妻は芸事に忙しく、亭主なんかいっこうにかまうこともなく、今日はX町のKさんとおさらいだとか、明日は親睦をかねて1泊旅行だとかいって、忙しいを連発してどこかへ行くので、私はそれをいいことに、公園に行くことにしています。
 
公園ではたいてい若い子がトレーニングしたり、走っていたり、散歩sたりしているんですが、勉強に疲れて散歩している子が口説きやすいです。
 
それとなくトイレに誘って、ついてきた子を口説くのです。
 
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中、7から8でおとせます。(大阪・マンタ・70歳)」
 
 
  
高齢なので若い子が安心してついてくるのかな。
 
今なら犯罪だけど、その頃の子供は親に言いつけたりはしなかった。
 
 
 
「オレ30歳。妻ひとり。子供、ただいま女房のお腹で発育中。
 
男遊びっていうけど、本当に大好きで信じられる男とは遊びなんかにならないよ。
 
オレは大好きなヤツとは、いっしょに人生歩みたいヤツとは、同じ仕事をしようと思っているんです。
 
好きだ愛してる、だけじゃ男だものやっていけやしない。
 
だから人生共有するんだ。
 
オレの会社の監査は、10年前に『薔薇族』の文通欄で出会ったヤツだし、部下もそれなりに、遊びじゃなくて仕事なんだ。
 
だから女房もわかってくれる?(東京・人生共同体・30歳)」
 
 
 
しっかりとした考え方を持った人で、奥さんも子供が生まれたら理解してくれるのでは。
 
 
  
「家に帰ると1通の便りが届いている。
 
女房との会話。
 
「最近あたしが耳にしたこともない人から便りが来るけど、いったいどういう人なの。
 
秋田、仙台、京都、宮崎。まるで日本中に友達がいるみたいね」
 
「ああ、会社の支社へ移転して行った新人や出入りの商社の人たちだ」
 
「そうなの。どれもみな「親展」って書いてあったから、悪いことしてるのかと心配したのよ」
 
 
 
嘘をつくのも大変だ。
 
みんな幸せに人生を終えただろうか。
 

 
コメントよろしく
 

A

レトロな上野の路地

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2018年6月11日 (月)

NHKの番組に出演するなんて夢のよう!

『薔薇族』が2004年の11月号382号で廃刊になってから、もう14年になる。
 
それからは週刊誌に取材を受けることなどなかったが、週刊文春の「新・家の履歴書」担当の笹川智美さんから電話があって、しばらくぶりに記事になることになった。
 
NHKの名古屋支局のディレクターのお名前が笹井考介さん、ふたりの恩人ともいうべき人のお名前に「笹」がつく。
 
それに週刊文春の発売日が2018年6月14日(木)、テレビの放映日が2日後の6月16日(土)の夜11時。
 
1時間番組でNHKテレビの2チャンネル・教育テレビでで全国ネット放映される。
 
 
 
週刊文春の笹川智美さんの熱心さにも感動するばかりだったが、NHK名古屋支局のディレクター・笹井考介さんと、20キロを超す重いカメラをかつぎぱなしのカメラマン、そして音響担当の人と、3人の意気はピッタリで、いい作品を作り上げようという意気込みはすさまじいばかりだった。
 
女房はわが家での撮影をいやがったが、どうしてもぼくが机(イギリスのアンティークで、小さな引き出しがいっぱい付いている)に向かってブログを書き続けているところと、その机を背景にして、おしゃべりの場面を撮るという。
 
ぼくは野球の試合をテレビでよく観るが、カメラが進歩していて、ピッチャーの顔などアップで映し出されると、顔のしわまでが鮮明に映るではないか。
 
こんなに近くで写されたら、どんな顔に映るのか心配だ。なにしろ86歳のじいさまだ。
 
そんなこと心配したってどうなるものでもないが……。
 
彼らは3日間も通ってきた。
 
6畳のぼくの部屋は、収納棚などついてないので、本棚と洋服ダンス、古着のシャツを買いすぎているから、それだけでもいっぱい。それにベッドもある。
 
机の上も雑然としているので、2度めのときなど、カメラマンが整理して少しでもきれいに見えるように模様替えしてしまった。
 
女房もリビングで、あんなにいやがっていたのに、まんまと相手のおだてにのって、べらべら『薔薇族』創刊のころの文通欄宛名書きの苦労話をしゃべらされてしまった。
 
ぼくだけでも7,8時間はしゃべったし、下北沢の商店街を歩いているところまで撮っているのだから、編集するだけでも大変な作業だろう。
 
沖縄まで行って『アドン』の編集長の南定四郎君に取材したというのだから、1時間番組でCMは入らないとはいえ、どんなことになるのか。
 
 
 
民放ではひとつの番組を制作するのに、こんなに手間をかけないのでは。
 
昨日、NHKの「ブラタモリ」という番組を見たが、カメラマンも何人もいて、取材陣は10名を越すのではないか。
 
だからこそ民放が真似の出来ない重みのある作品になっているのだろう。
 
 
 
今朝の東京新聞を読んだら、NHKの受信料の徴収は、別の企業が引き受けていて、東証ジャスダックに上場したそうだ。
 
銀行も銀行への苦情、相談事は別会社が引き受けていて、一緒に住んでいる息子の嫁がもう何年もそうした会社に勤めている。
 
徹夜の日も何日もあって、朝帰りしてくるが、海外の日本人からの電話もあり、夜かかってくる電話もある。
 
絶対に相手を怒らせてはいけない仕事だから、神経を使う大変な仕事だ。
 
NHK内部で受信料を徴収していたら、見ていないのに何故とられるのかと文句をいう人もいるだろうし、別会社にやらせるのは当然のことだ。
 
 
 
7月に入ったら江戸前のお寿司屋「小笹寿司」で笹井さんがおごってくれるそうだ。
 
“ささ”やかないい集いになるのでは。
 
 
★コメントよろしく
 
 
C
姉・玲子と文学

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2018年6月 9日 (土)

週刊文春の「新・家の履歴書」に登場!

週刊文春の表紙絵は和田誠さんが長いこと描かれている。
 
和田さんはぼくのすぐ下の妹と、世田谷区立代沢小学校で同期生だ。
 
入学されたのも戦時中だから、80歳をとうに過ぎておられるのでは。
 
ぼくの兄妹4人も、息子ふたり、そして孫3人も代沢小学校の卒業生だ。
 
和田さんもぼくの家の近所に住んでいたのだろう。
 
 
 
確か『薔薇族』が1971年に創刊した折に週刊文春は、「ホモでない男が出したホモの雑誌」というような見出しで記事を書いてくれた。
 
その後も創刊200号の記念号を出したときに、「ホモ界の朝日新聞・薔薇族」の見出しを付けたものだから、朝日新聞を怒らせてしまった。
 
今思うに週刊文春などの雑誌が大きな記事にしてくれたお蔭で『薔薇族』は広く日本中に知られるようになっていった。
 
 
 
2001年12月には発行所・文春ネスコ、発売元・文藝春秋から、『編集長「秘話」=『薔薇族』30年間全仕事』という立派な上製本を出してくれた。
 
そのときの社長さんは創業者の菊池寛さんのお孫さんで、菊池夏樹さんだった。
 
正面玄関の右脇に広いロビーがあり、ゆったりとした大きな椅子が置かれていて、そこで編集者と著者がコーヒーを飲みながら話をするようになっていた。
 
正面に菊池寛さんのブロンズ像が大理石の台に置かれていた。
 
「菊池寛さんは、ゲイだったと噂されていますが本当ですか?」と失礼な質問をしてしまったら、お孫さんは「そうです」といとも簡単に答えてくれた。
 
ゲイのことを書いた本は、文藝春秋社では初めてのことだろうから、菊池寛さんもよろこんでくれたに違いない。
 
 
 
あの本を出してから、もう17年の歳月が流れている。
 
確か文春ネスコ社も『薔薇族』が廃刊になった年に廃業してしまったと記憶している。
 
廃刊になってから12年? 週刊誌とは縁がなくなってしまっていたが、週刊文春の女性編集者の笹川智美さんから電話がかかってきた。
 
 
 
週刊文春の中で587回も続いている、「新・家の履歴書」6月7日号は、イルカさんがとりあげられている。
 
「なごり雪」というヒット曲があるそうで、テレビで聴いたことはあるだろうが、どんな人かは知らなかった。
 
ご主人が事務所の社長さんで、陰でイルカさんを支え続けてこられたが、パーキンソン病にかかり看病で苦労されたようだ。
 
 
 
6月14日(木)発売の週刊文春の「新・家の履歴書」4ページにぼくが登場する。
 
ぜひ購入して読んでください。
 
 
 
86年前の生まれたときから、今日までのことを自分で書くと、どうしてもひとつの出来事をくわしく書いてしまい、後半が尻切れトンボになってしまう。
 
2度も書き直したが、笹川さんはOKしてくれなかった。
 
なんと17年ぶりに文藝春秋社に行って、2階の会議室でふたりで、3時間以上もかけて練り直すことができた。
 
それをワープロで打ってゲラを翌日の1時に、下北沢のカフエ「織部」に届けてくれるという。
 
 
 
文春に勤めて5年という笹川さん、すごい才能の持ち主だった。
 
夜おそくまでかかって文章を書き直したのだろう。
 
「織部」に1時に来てくれて、ゲラを読んだらびっくり。
 
直したところは字の間違いの数カ所だけ。
 
自分のことを自分で読んで感動してしまった。
 
 
 
笹川智美さん、ありがとう。
 
ぎゅっと握手をしてしまった。
 
ぼくの86年の履歴書が見事に書かれている。
 
長生きしていてよかった。
 
 
A
父母の結婚式の写真
 
B
久美子との結婚式の写真

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2018年6月 2日 (土)

告知

次回「文ちゃんと語る会」は6月30日(土)開催
 
Photo
 
★復活開催
 
日時・6月30日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
初めての方・女性・話を聞きに来るだけの方、
どなたさまも歓迎です。ぜひ、お気軽にお出かけください。

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中高年をターゲットにしなければ!

上野に事務所があった(株)メディアソフトが『薔薇族』を復刊させてくれた。
 
編集人は伊藤文学となっていたが、それは名目だけのことだった。
 
「編集室から」はむろんのこと、対談は美輪明宏さん、内藤ルネさん、唐沢俊一さんと2号に分けてしゃべりまくった。
 
横浜、野毛のゲイバア「鉄平」のマスターを取材しての記事、それに復刊後も続けている「伊藤文学のひとりごと」と、復刊をなんとか成功させようと頑張っていた。
 
 
 
実質的な若い編集長は、ライバル誌『バディ』と同じ路線を狙っていたが、横綱に立ち向かう平幕の力士のようなもので、太刀打ちできるわけがなかった。
 
復刊3号目の5月号「伊藤文学のひとりごと」に、「どうしたらゲイ雑誌の『サライ』になれるだろうか?」と題して書いている。
 
読者のターゲットを高齢者にすべきだということを……。
 
 
 
「『本の雑誌』5月号に永江朗さんがこんなことを書いている。「『薔薇族』復活と雑誌の可能性」というタイトルで。
 
「旧『薔薇族』が廃刊を招いたのは、読者の高齢化だった。ところが『薔薇族』がなくなると、中高年のゲイが孤立してしまう。新生『薔薇族』は、ネット時代の情報弱者、コミュニケーション弱者たる中高年が主要読者層となるだろう。
 
これはそのまま日本の雑誌全体にあてはまる。「書籍、雑誌は老人メディアである。」というのは松田哲夫氏の名言だが、若者が離れてしまったから老人メディアというのではなく、ネット弱者、コミュニケーション弱者にとって、重要なメディアであると捉えると、可能性はもっと広がる。」
 
 
 
しかし、読者のターゲットを若者から、中高年に方向転換させることは難しい。
 
雑誌の仕事をしている人が、みんな考えていることは、どうしたらネットに勝てるかということだろう。
 
小学館の中高年誌『サライ』は、今でも出し続け、がっちりと中高年の心をとらえて成功したが、マネをして出した雑誌は、みんな駄目になってしまった。
 
『サライ』の編集長も経験された、岩本敏さんが『サライ』よりも高年齢をターゲットにした『駱駝』という雑誌を創刊して編集長を務めている。
 
5月28日の東京新聞夕刊「メディア・ウォッチ」で、「シニア系月刊誌、定年後の富裕層へ、楽しみ探し指南」の見出しで紹介されている。
 
「人類史上、おそらく最も幸せなシニア層が存在しているのが、今の日本ですよ。」
 
ゲイの世界はどうだろうか。
 
50歳以上の人たちは女性と結婚しないわけにはいかなかったから、ほとんどの人は結婚している。
 
しかし、結婚はしたが離婚してひとりで生活している人は、女好きの人より多いのでは。
 
もちろん結婚しないでひとりで暮らしている人は、女好きの人よりは多いだろう。
 
 
 
復刊号を出してから、上野、新橋とゲイバアを取材して回ったが、老人パワーには圧倒されるばかりだった。
 
この人たちは、若いときは『薔薇族』を読んでいたろうが、現在は楽しむことを覚えてしまっているから、雑誌とは縁遠くなっている。
 
これらのシニア層をどうしたら雑誌にとりこむことができるかが、これからの勝負と言えるだろう。
 
雑誌を作る人たちがみんな模索し、悩んでいるところだ。」
 
 
 
復刊3号目にこんなことを書いて予言していたのに、8号目でまたもや廃刊になってしまった。
 
高齢者をターゲットにしている『サムソン』は、風太くんが頑張って続いている。
 
 
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