ソウルで出会った心あたたまる人たち!
今の世の中、韓国の話が多い。
北朝鮮に行くわけはないが、19年前に一度だけ取材で3泊4日、韓国に行ったことがある。
1999年の7月号の「伊藤文学のひとりごと」に、「ソウルで出会った人たち」と題して、心あたたまる話を書いている。
「景福宮(朝鮮王朝・1392〜1910の王宮)の中にある、韓国民族博物館を見学していたときだ。
中年のおばさんが品のいい顔立ちをした老女を手押し車に乗せていた。
近づいて声をかけてしまった。そうしたらなんとも美しい日本語が返ってきたではないか。92歳になるという老女。足が弱って歩けないのだという。
韓国が日本の植民地時代に、小学校から中学校まで、日本語を習ったというから、日本語をしゃべるのは当然かもしれない。
老人たちは子供のころ、日本語を習っているから、みんな日本語をしゃべるという話は聞いていたが、ソウルにやってきて老女から聞く、日本語が美しい発音であればあるほど、なぜか悲しくなってしまう。
子供のころ習ったものって忘れないのかもしれないが、韓国に住んでいて、日本に一度も行ったことがないという老女が、こんなに美しい日本語をしゃべるなんて驚きだ。
それからいまわしい戦争があり、半世紀以上もの時が過ぎ去って、その間にこの老女がどんな生活を送っていたのか、計り知れないが、日本に憎しみをもっていないことだけは確かで、それがなによりもうれしかった。
もっと、もっといろんな話を聞きたかったが、連れもあってできなかったのは残念だった。
別れ際に固く、固く手を握りしめてあげた。そして薄くなった髪の毛の頭をなぜてあげた。
このおばあさんにどんな過去があったのかは知るよしもないが、「おばあさん、ごめんね。」と心の中でつぶやいていた。
「いつまでもお元気でね」と言って別れたが、娘さんか、お嫁さんに手押し車を押してもらって、おばあさんは幸せそうだった。」
ぼくらが泊まったホテルの前に模範タクシーが停まっていて、制服をきりっと着た運転手さんがそばに立っていた。
近づいて胸のあたりを見たら、小さな勲章が10ヶ以上も下げられていた。
「その勲章はなんですか?」と聞いたら、流暢な日本語で、軍隊時代にもらったものだと答えてくれた。
「大東亜戦争」なんて、懐かしい忘れていた言葉が、運転手さんの口から飛び出したのには驚いてしまった。
ホテルの前の道を隔てた広大な敷地が、米軍の基地で門衛が何人も立っている。
そんなところで目の前に立っている70歳を過ぎたであろう運転手さんが、日本のために兵隊になり、従軍して戦果をあげて勲章をもらい、誇らしげに胸につけている。
ぼくぐらいの年齢のものには、じ〜んとこみ上げてくるものがあるが、今の若い人にはこんなことを書いても何のことか理解できないだろう。
この運転手さん、胸にいくつもの勲章を今でもつけてくれているということ、これは大変なことだと思う。
つらい過去の日本への憎しみがあったなら、こんな勲章など、とうの昔に捨ててしまっているだろうから。
日本と韓国、こんなに近い国なのに、なんとなく分かりあえない国。
でも日本からもらった勲章を胸につけている運転手さんを目の前にして、思いきって韓国に来て良かった。
そしてもっと、もっと多くの韓国の人と出会い、友情を深めたい、そんな思いでいっぱいだった。」
現在の韓国も変わっているだろうが、もう旅行はできない。
いい人に出会えて良かった。
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左側の2人が、妹と、近所の子供。
わが家の前は畠だった。
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