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2018年11月17日 (土)

「文學」なんていう名前をなぜ?

昭和35年(1960年・今から58年前)12月発行の大場正史さん(1914年・佐賀県に生まれる。本邦最初の『アラビアン・ナイト』の完訳を遂げたほか著訳書多数ある)という方の『男の匂い・女の匂い=性における匂いの研究』という本の出版目録の前に「私の出版」と題して、父の伊藤祷一が自分の出版理念を書き記している。
 
箱入りの本だが父は香水のもとになるものをどこかで買ってきて、それを溶かして霧状にして製本した本にふりかけた。
 
製本所の中が匂いであふれて、働いている職人たちが気持ち悪くなってしまったそうだ。
 
B匂いは今は消えている。父の出版に対する理想どおりにはならなかった。
 
 
三井鉱山の三池闘争、浅沼稲次郎社会党委員長が演説中に右翼少年・山口二矢に刺殺された年だ。
 
ぼくが昭和7年3月19日に青山の隠田というところで生まれたときに「文學」という名前をつけてくれた。
 
なぜそんな名前をつけたのかが、この文章でよく理解できた。
 
 
 
「私の出版は、どう贔屓目に見ても趣味の域を出ていません。
 
私にもう少し商魂というものがあったなら、なんとかもっと格好のついた出版社になっていると思います。
 
私はもともと文学青年で、小学校2年生の頃から上級生の友達と俳句を作ったり、綴方を書いて回覧雑誌を作りました。
 
中学生のときには、もう詩を作り、小説を書いて、ガリ版雑誌を作りましたが、女学校にまで売り込んで誌友を獲得しました。
 
集まった連中は、いずれもティーン・エイジャーで、もちろん詩人や小説家志望でした。
 
いま登山家として、また紀行随筆家として一家を成している川崎隆章が中心となっていた同人雑誌『青潮』には、のちにプロレタリア作家になった岩藤雪夫もいたし、劇評家として活躍している安藤鶴夫などもいました。
 
そういう仲間がときおり集っては文学を語り、劇をやったりして楽しんでいました。
 
また雑誌が出来上がると、あちこちの本屋さんへ頼んでは並べてもらうのですが、5冊ぐらい預けていたものが殆ど売り切れていることもありました。
 
今日のように雑誌の数も多くなく、今から考えると本当にのんびりとしてよい時代だったのです。
 
そんなことが病みつきとなって、学校を終えると私はすぐ出版社に入って、ずっと今日まで本の虫になりきっていました。
 
戦時中も鉄かぶとにゲートルをはいて、1日も休むことなく出版の仕事を続けました。
 
私はどんなに売れそうなものでも、自分の面白くないもの、気に入らぬものは出版したくありません。
 
自分が読んでみて、これはいい、これを出さねばならぬと思えば、いかに無名の新人の原稿でも本にして世に出しています。
 
売れる売れないにかかわらず、本を作ることの楽しさはまた格別です。
 
一冊でも多くよい本を作る、よい原稿を美しい装釘にして本を作ること、それが私の信念であり、また理想でもあるのです。」
 
 
 
この文章を読むと、ぼくに「文學」と名付けてくれたのがよく理解できる。
 
まあ、いい名前をつけてくれたと、父に感謝しているが、果たして父はぼくのその後の出版をどう思っていたのだろう。
 
確かに戦後、雨後の筍のように出版社が生まれたが、そのほとんどが倒産してしまい、第二書房は長く続いたほうだろう。
 
ぼくは文才は父のようにはなく、貧乏な岩手県の山奥で育った母親似で、辛抱強く、くよくよしない性格がよかったのでは。
 
親父が女に狂って出版の仕事を投げ出してくれたお蔭で、ぼくの思うように仕事を続けられた。
 
もう少し生きて「文學」の名にふさわしい仕事を残したいものだ。

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