針金とじの『薔薇族』ご夫婦だけで!
「伊藤文学のひとりごと」(№370)に、「多くの協力者に支えられての38年」と題して、ぼくはこんなことを書いている。
「『薔薇族』を支えてくれた人は、直接的に原稿を寄稿してくれたり、イラストや劇画を書いてくれた人たち。
その数は何十人、何百人にもなるだろう。
それに『薔薇族』を愛読してくれた何万人もの読者を忘れてはいけない。
それと『薔薇族』を印刷し、製本してくれた人たち。
そして販売してくれた取次店、書店の人たち、それこそ沢山の人たちの協力があって続けてこられたのだ。
創刊の頃の活字を一本、一本ひろって組んでいく、あの小さな組専門の印刷所の植字工のおじさんの顔が、今でも浮かんでくる。
製本はご夫婦の二人だけの製本屋さん、針金とじで、一冊、一冊、ガチャン、ガチャンと綴じていく。
一万部を製本するのに一週間はかかったものだ。
今でも思い出すのは、上野の成田行の電車に通じる地下道にあった本屋さん。
戦後、浮浪者がごろごろとこの地下道にむしろを敷いて寝ころんでいたので、駅が考えて片側をお店にして貸したのだ。
カーテンだけで仕切られたゲイバアも何軒かあり、エロ本ばかりを売る老夫婦が営む本屋さんがあった。
ご主人はおとなしい方だったが、奥さんは元気な人で、それこそ江戸っ子という感じの人だった。
表通りに車を停めて、息子を乗せた乳母車に『薔薇族』を積んで何百冊も運んだ。
シャッターをおろすまで売れ続けたのだから、このおばさんの元気な声は、今でも脳裏に残っている。
銀座のソニービルのとなりに「大雅堂書店」という木造2階建ての大きな書店があった。
表通りに面した本屋さんで、なぜか『薔薇族』を愛してくれたご主人は、届けるやいなや、ショウ・ウィンドウの一番めだつ場所に『薔薇族』を飾ってくれた。
取次店を通さないで、直接ぼくが運転する車で届けていたのだが、発行日と届ける時間が決まっていたので、届けるやいなや、お客さんが待ち受けてくれていて、すぐさま買い求めてくれた。
ここの書店で今東光(こん・とうこう・参議院議員)和尚と出会ったり、女流作家として有名な円地文子さんのご主人と出会ったりした。
ゲイ向けの単行本のあとがきに、ゲイ雑誌を出したいという思いを書いたら、それに応じてくれた人が、藤田竜さんと間宮浩さんだった。
昭和46年(1971年)3月1日の日付で雑誌の発行に協力したいという間宮浩さんからの手紙が届いた。
その直後、間宮浩さんが仕事場にしていた、新宿御苑に面した部屋に訪ね、そこで藤田竜さんとも出会った。
3月にふたりに出会って、7月には創刊号を出してしまったのだから驚きだが、それは他社と違って社員はいない、ぼくが自分で決断すればいいことで、会議などで決まるなんて面倒なことを必要としなかったからだ。
人間、運というものがある。
このふたりに最初に出会えたから『薔薇族』を出し続けることができたのだ。
『薔薇族』はトーハンや日販の大手の取次店と取引ができたので、日本中の書店に送ることができた。
地方に住んでいて、うっ屈していた才能ある人たちに発表の場を作ったのが『薔薇族』だった。
多くの人たちが作品を送ってくれた。
楯四郎さんもそのひとりで、名作を多く残してくれた。
華やかな『薔薇族』の時代を作ってくれた多くの協力者たちのことを忘れるものではない。」
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