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2019年3月

2019年3月30日 (土)

みんなに支えられて87歳まで!

「文ちゃん87歳誕生日を祝う会 2019年3月13 於 銀座まじかな」での会が1回目、80歳の誕生日を祝う会も、オープンしたばかりの「まじかな」で盛大に開いたが、あれから7年も経っていた。
 
地下鉄銀座線で渋谷から浅草行に乗って新橋で下車。5番出口から階段をやっとこさのぼって表通りに出て数寄屋橋の方へ向かって歩き、しばらく歩くと向かい側に高級なカフエがある。そこを左に曲がると、友人のカメラマン、中嶌君が経営する「音楽バア・まじかな」に……。
 
カフエは大きな窓ガラスから店内が見える。なんとなく店内をのぞいたら、中から制服姿の女店員が飛び出してきた。
 
「伊藤さん、誕生日おめでとう」と声をかけてきたのは、「文ちゃんと語る会」を毎月開いている下北沢のカフエ「織部」でオープンした頃、働いていた女性だった。
 
ブログで「まじかな」での会を予告していたのを読んで、ぼくが店の前を通るのを待ってくれていたのだ。
 
手には赤い薔薇一輪と贈り物の手提げ袋をさげて。
 
なんというありがたい話ではないか。
 
お名前だって忘れてしまっている。お顔には覚えはあった。
 
ぼくのブログを読んでくれているので、ぼくに親しみを持ち続けてくれていたのだろう。じ〜んとこみあげてくる思いがあった。
 
「まじかな」の店内に入ると、顔見知りの人もいるが初めてお会いする人も……。
 
壁にはぼくが自分で書いてきたポスターを貼った。
 
大きなケーキを作ってもってきてくれた女性も。
 
13人ほどの集まりだったが、シャンソン歌手の方もいて、「百万本のバラ」と「ろくでなし」を熱唱してくれた。
 
 
 
2回目の祝う会は、3月19日、この日が本当の誕生日。
 
下北沢駅前の大庄水産下北沢店で、世田谷学園の同期生5人が祝ってくれ、ぼくの飲食代はみんながおごってくれた。
 
5人とも一流大学出、東大出身のM君は大学の教授を定年まで勤めていた方だが、からだは丈夫なのに頭はボケてしまって、みんなの名前もわからない。
 
銀行員だった人、お役人だった人。ぼくがおせっかい役で出欠のはがきを出し、会場を決めたりしての30年。
 
5,60人も集まっていたのが年々他界して今や6人だけ。
 
会の始まる前に健康の話は、みんなどこかしら悪いのだからやめようと言ったのに、結局は病気の話ばかりに。
 
ぼくらが入学したのは、空襲のもっとも激しかった敗戦の1年前。
 
その頃の世田谷中学はヨタ中と言われていたが、今は都内でも有名な進学校で、今年は東大に15名、早慶などは何十人も入学している。
 
世田谷学園の卒業生の有名人は、なんと言っても三谷幸喜君、2番めは伊藤文学だと言ってくれたのは世田谷学園の国語の教師を定年まで勤め、今は俳句の先生のK君だ。
 
もちろんお世辞だけど。
 
世田谷学園の名声を汚さないように、いい仕事を残していかねば。
 
 
 
3回目の祝う会は3月23日「織部」下北沢店で午前11時から13時まで。
 
朝日新聞の小泉信一記者が、ぼくの写真入りで2日前の都内版に予告記事を載せてくれた。
 
新聞を読んで参加してくれた方も5,6人。
 
1月の会に初めて出席してくれた中学2年生の少年が横須賀から参加してくれた。
 
この少年ぼくのブログを読んでくれていて、ぼくのことをなんでも知っている。
 
しっかりしたこの少年、成人したら大物になるだろう。
 
ハワイでぼくのブログを読んでくれた豊さん。中学時代から『薔薇族』を読んでいて、アメリカ人と同性婚。一時帰国を兼ねて参加してくれた。
 
レイをぼくの首にかけて抱き合った。
 
20数名も集まってくれて大盛況。
 
こんなに他人さまに祝福される老人はぼくだけ。
 
多くの人に支えられて87歳まで生きてこられたのだ。
 
感謝の言葉しかない。
 

A

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2019年3月27日 (水)

次回「文ちゃんと語る会」のおしらせ

4月の「文ちゃんと語る会」は、4月13日(土)に開催いたします。
 
日時・4月13日(土) 11時~13時
場所・下北沢南口から4分、カフエ「織部」
住所・〒155−0031 世田谷区北沢2—2—3
電話・03—5432—9068
会費・コーヒー代のみ
 
はじめての方、おひとりさま、女性、
どなたでも大歓迎です。
お気軽におでかけください。

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2019年3月25日 (月)

昭和の時代のエロには愛があった!

朝日新聞の記者というイメージは、いかにもインテリでスーツを着てネクタイをぴしっと締めた人のように思うが、この本の著者である小泉信一さんは、全く違う人だ。
 
ゲイなどというものを毛嫌いするような朝日新聞が、『薔薇族』と編集長の伊藤文学を初めて記事にしてくれたのが小泉信一さんだ。
 
もう30年以上も前のことで忘れてしまっているが、それからのお付き合いで、先妻の舞踊家、伊藤ミカとの出逢いから、33歳で事故死するまでを綴った『裸の女房』を出版したときも、大きな記事を書いてくれた。
 
最近、朝日新聞出版から『裏・昭和史探検』(定価¥1300+税)という本を出版された。
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奇人、変人という言葉があるが、小泉さんのスーツ姿って一度も見たことがない。
 
朝日新聞の記者とはとても思えない、ひげ面で髪の毛はぼうぼう、着ている服も古着みたいで下北沢の街には似合うような人だ。
 
川崎って行ったことがないが、想像するにあまりおしゃれな街とは思えないが、川崎で生まれ育った人のようだ。
 
この本は週刊朝日に連載したものと、「昭和のエロには愛があった」というタイトルで、風俗業界の動きは昭和のほうが圧倒的に面白かった。
 
アナログでデタラメでインチキだけど、人間味あふれるホンモノ。
 
そんな昭和のエロを名物編集者、末井昭さんと語り合った、とある小泉さんとの対談はめっぽう面白い。
 
日本が不景気になり、活気がなくなって元気がない、平成の時代に育った若者には到底想像がつかない戦後の昭和時代の裏話を知ってもらいたい。
 
 
 
まえがきに小泉さんは、こんなことを書いている・
 
「そろそろ平成も終わる。どんな時代を私たちは迎えるのだろうか。ただ郷愁を込めて言えることは、昭和とは実に人間くさい時代だった」と。
 
「「額縁ショー」「トルコ」「愛人バンク」「テレクラ」……。
 
「カストリ雑誌」や「のぞき部屋」も昭和の産物だ。
 
法規制に抗しつつ、なんとか生き延びてきた風俗。
 
伝説の街娼ヨコハマメリーは横浜から姿を消し、故郷の中国地方の施設で亡くなったという。
 
正史では取り上げられることのない人々や好色の徒たち。
 
その素顔に迫ろうと週刊朝日で不定期ながら連載が始まったのは平成28(2016)年の春だ。」
 
 
 
よくまあ、いろんな人と出会い取材し、文献を調べて書いたものだ。
 
当然、「薔薇族=著名人も愛したゲイ雑誌」のタイトルで藤田竜表紙絵のなつかしい創刊号とぼくの写真も載って、6頁も紹介されている。
 
2004年9月22日、朝日新聞は夕刊の社会面で「発売中の382号を最後に『薔薇族』が廃刊する」と報じてくれたのが小泉さんだ。
 
2019年3月23日に下北沢のカフエ「織部」で「文ちゃん87歳・誕生日を祝う会」を開くが、2019年3月21日の朝日新聞朝刊に「伊藤文学さんが語る催し23日に」のタイトルで予告を書いてくれた。
 
短歌を通じて学生時代に知り合い、ぼくが催すパーティには必ず参加してくれた学芸大出身で教師をやっていた金田義直君(亡くなっている)の奥さんが、新聞を見たと言って電話をかけてくれた。
 
「生きていたら参加したろうに」と。
 
 
 
「昭和の時代のエロには愛があった」この言葉は小泉さんの名言だ。
 
『薔薇族』も読者に愛を持ち、おもいやりを持ち続けたことは、他誌とは違うところだ。
 
小泉さんよりは長く生きているから、昭和のエロの裏話をこれからも書き続けていく。

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2019年3月23日 (土)

極端に同性愛を嫌う人こそ!

『薔薇族』を取次店に通さないで、直接ぼくが運び込む書店では、すぐにカバアをかけて一番上の一冊をむき出しにして、指をさせばさっと渡してくれる店もあった。
 
書店の店員によっては『薔薇族』の読者に対して感じの悪い態度をとることもある。
 
創刊号から購入してくれているという年配の読者からこんな手紙をもらったことがある。
 
 
 
「都内のあるお店で貴誌を購入していますが、どうもこの種の購入者に対する接客態度がよくないのです。それがはっきりしたのが、2、3日前のことでした。
 
70歳近いその男性が、「細かいのを持っているのか」と、高飛車な物言いで、何か悪いものでも買っていく、嫌な奴という物腰でした。
 
不潔なものでも与えるがごとく、早く持って行けとばかり、ありがとうのひと言もありませんでした。二度とこの店に行くものかと思いましたが、受けた恥辱は計りしれませんでした。」(『薔薇族』1992年4月号)
 
 
 
ぼくはこの手紙を誌上で紹介したときに、冷静になって考えてみてくださいと書いた。
 
この意地の悪い書店の親父さんは、じつは同性愛者かもしれない。
 
奥さんや子供がいて、自分の本当の気持ちをずっと封じ込めているならば、堂々と『薔薇族』を買う同年輩の人に対して反感を持ってもおかしくない。
 
極端に同性愛のことを忌み嫌ったり、あからさまに口に出して言う人こそ、男の好きな場合が多いのだ。
 
かつて有名な詩人と一緒にシンポジュウムに出席したときのこと、彼が盛んに同性愛者の悪口を言い、自分はそうではないと発言するのを聞いて、辟易としてしまったことがある。
 
ところがぼくが「そうやってムキになる人ほど本当は同性愛者だったりするものだ」とたしなめると、饒舌な彼はすっかり黙り込んでしまった。
 
そして後日、渋谷の書店に納品に行ったとき、彼が『薔薇族』を買うのをぼくは見てしまった。
 
こんな経験を何度もしているものだから、ぼくは差別や偏見といった言葉を軽々しくは使わない。
 
書店の親父の冷たい態度ぐらいのことならば、読者の心の中に巣食っている、男を愛することがいけないという意識をなくし、後ろめたさを追い出すだけで解決できる問題だからだ。
 
この話は今から27年も前のことだから、『薔薇族』を売るほうも、また買うほうの意識も後ろめたさがあったのだろう。
 
 
 
『現代の図書館』(Vol.56 №4 2018・12)性的マイノリティへの情報サービスの特集号だ。
 
ぼくがいつも通っているカフエ「織部」で日本経済新聞と朝日新聞を読んでいるとブログに書いたら、「公立の図書館に行けばどの新聞も置いてあります」と、コメントを書いてくれた人がいる。
 
ぼくは図書館って行ったことがない。
 
世田谷区にも図書館はあるのだろうが、どこにあるのかも知らない。
 
歩いて行ける近くにあれば散歩がてらに行ってみたいが近くにはない。
 
石田仁さんという同性愛者を研究している若い学者が書いた記事が載っていた。
 
「ゲイ雑誌、その成り立ちと、国立国会図書館の所蔵状況」がくわしく書かれている。
 
『薔薇族』は毎号、納品していたから創刊号から廃刊になるまでの381号まではあるはずだが、6号だけ無くなっているようだ。
 
欠号は1981年10月号、85年6月、9月、10月号、86年2月号、87年9月号だ。
 
誰かが持ち去ったのだろうが、これはなんとしても揃えたい。
 
持っている方がいたらゆずってほしい。
 
後世の研究者のためにどうしても残しておきたいからだ。

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2019年3月18日 (月)

文通欄で出会った時代とネットの時代と!

「ホモの敵はホモ」自分がホモだから、相手の弱みを知っている。
 
文通欄を使って相手を脅す悪い男もいた。
 
 
 
豊島区・M雄 東京で生活して3年。都内のある私立大学に通学しています。通学の途中、太った温厚な年長者を見ると、あんな人と交際したいといつも思っています。ぼくは170センチ、57キロ、ボウリングが好きです。地方から出張で東京にくるサラリーマンを歓迎します。(『薔薇族』1972年7月号)
 
 
 
この大学生は地方から出張してくる年輩者に狙いを絞り、ホテルに誘って、コトが終わったあとに、すごんで金を要求していた。
 
こんな悪い男は文通欄を利用する人の中で数少なかったが、これはどうにもならなかった。
 
しかし、投稿するのには住所を明記しなければならないという脅す側の弱みも持っていた。
 
同じように年輩者を狙い、巧みな文句でワナをかけた男もいた。
 
 
 
新宿区・面影 初投稿。容姿は普通、独身でひとり暮らし。最初にこの道を教えてくれた人が優しい親父さんで、それ以来、年輩者に憧れ、心より話し合える全国の40〜50代の親父さんタイプの方からの便りを待つ。167×57、28歳(『薔薇族』1974年5月号)
 
 
 
この男には20通ほどの手紙が届いたのだが、50過ぎの実直そうな親父さんが被害に遭った。
 
文通2度目でこの男と会い、ホテルへ直行。
 
そのセックスが一方的だったためにショックを受けたので、示談金25万円をよこせと言われたという。
 
警察に勇気を出して被害届を出したところ、幸いなことに男はすぐに逮捕された。
 
 
 
もっと込み入った悪い男の手口もある。
 
文通欄を通じて知り合った人たちに、裏の写真を見ないかと持ちかける。
 
希望する人からは入会金のようなものをとって会費にし、その人に10日間だけ写真を貸し出す。
 
見終わると小包で送り返すのだが、その小包が雨で濡れて破れ、中身がはみ出し、それがために警察沙汰になったと言って、保釈金として25万円貸してくれとすごむというものだ。
 
創刊翌年の1972年のことで、この頃はまだホモビデオなんてものはないし、そのものずばりの写真を誰もが見たいと思っていたからまんまとひっかかってしまった。
 
ヤクザのような人は、ホモの弱みを知らないから脅すようなことはなかったが、ホモの男が脅すのだからどうにもならない。
 
脅しをひどく恐れるのは伝統的に、教員、銀行員といった社会的に信用を重んじられる職業の人たちだ。
 
写真の事件で脅された人も公務員で、職場にばらされるのではないかと心配で夜も眠れないと言っていた。
 
文通相手はどんな人間かわからないのだから、たとえ好みだとしてもすぐには信用せず、ある程度長い時間をかけて、相手を理解する努力が必要なのだが、どうしても早く会ってセックスがしたいという思いが先になってしまうので、悪い男にひっかかってしまう。
 
 
 
相談を受けると、ぼくは警察に同行したり、連絡を取りもったり、説得に当たったりしたことも何度もあった。
 
警察の人もよく協力してくれた。
 
喫茶店でお金を渡すところを張り込んでいて逮捕してくれたこともあった。
 
 
 
文通欄のデメリットを紹介してしまったが、こんな事件は少なく、いい人と出会って一緒に長いこと住んでいて、上京してくるたびに我が家に訪ねてくれる人もいた。
 
今の時代、ネットで出会う人たちはどんなことになっているのかは、ぼくには分からない。
 
文通欄は時間がかかって出会うわけだし、住所も分かっていることだから、そう悪いことはできなかった。
 
手紙は文章や、文字である程度、相手の教養の程度は分かるが、ネットはどんなことになっているのだろうか?

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2019年3月16日 (土)

『薔薇族』の電話相談室は好評だった!

『薔薇族』では編集室に相談のために来れない読者のために「電話相談室」というのを開いていた。
 
誌上で何時から何時までと時間を決めておくと、その時間からひっきりなしに電話がかかってきて、終わりの時間にはピタリとベルが止んだ。
 
その電話の内容は、さまざまだった。
 
ノンケを好きになってしまった、性病が不安、結婚の悩み、会社の上司に関係を迫られている、親に同性愛者であることを知られてしまった……。
 
ぼくだけでは答えられないこともあるので、この道のことならなんでも知っている今は亡き間宮浩さんにも編集室に来てもらって、読者の相談に答えてもらった。
 
 
 
読者・「私はこの頃あそこが勃たなくなってしまったのですが……」
 
間宮・「おいくつですか」
 
読者・「34歳で、自分で言うのも変ですが、かなり大きいほうです」
 
間宮・「いま特定の方がいますか」
 
読者・「別にいません。ハッテン場も知っていて、遊んでいるのですが、いざという時にいうことをきかないので、相手に悪くなってきて……」
 
間宮・「お話の内容では、かなり遊んでいるようですね。だんだん遊びが激しくなると、好みの範囲が狭くなってくる人がいるのです。あれでもない、これでもないと理想と現実の差が大きくなってくるわけです。つまり食事がぜいたくになってきたのです。最近はいつ頃、興奮したかおぼえがありますか」
 
読者・「そういえば、この間、金を貸した相手が金を返してくれないので、ノンケですが体で返してもらったときは興奮しました」
 
間宮・「今、言われたことで、あなたの性癖が変わってきたことがよくわかります。相手のタイプはどのような方が望みですか」
 
読者・「30歳までの精悍な男が好きですね」
 
間宮・「たとえば映画スターでいうと」
 
読者・「藤岡弘とか、伊吹吾郎とか」
 
間宮・「あなたと付き合ったうちで、ふたりのタイプの男がいましたか?」
 
読者・「そりゃ、いませんよ」
 
間宮・「ホモの中には、あなたの望む精悍な男くさい人が少ないですね。そこにあなたの原因としての問題点があるわけです。定食コースから、活づくりの扱いになったから、なかなか食事が大変なのです。もっと、はっきり申し上げると、ホモを知っている相手では興奮しないことになります。ですから対象を別の方向に定めない限り駄目でしょうね」
 
 
 
間宮さんの言っていること、ぼくには理解できにくい。
 
ノンケには分からない間宮さんならではの答えなのでは……。
 
もうひとりの方の相談ごとは――。
 
 
 
読者・「私は24歳のときから彼と付き合って、もう15年にもなります。ふたりとも独身だったのが、家庭をもちお互いに子供までできたのですが、最近になって彼の方が冷たい態度のようになってきました。他の人と付き合ってみたいと思いますが、どうでしょうか?」
 
間宮・「15年とひと口に言いますが、24歳から15年では、現在、38歳ですね。そして相手の人は」
 
読者・「私より3歳上ですから41歳です」
 
間宮・「15年もうらやましい。ホモ仲間では1年ももてばいいとされているので、15年は大変なことです。私が言いたいのは、夫婦の間でも15年の間には、出るの別れるのが始まるのです。ましてすでに家庭ぐるみの付き合いが始まっているのでしたら、もう肉体的な関係は遠くなっても、もっと精神的なものにウェイトをおかれてゆくべきだと思います。浮気はしないほうがいいでしょう」(1974年3月号より)
 
 
 
さすが間宮さん、いいアドバイス。
 
『薔薇族』を長いこと支えてくれてありがとう。

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2019年3月11日 (月)

北海道のへき地に世田谷の名を!

カフエ「織部」には朝日新聞と日本経済新聞が置いてある。
 
これらの新聞を読む人は、おそらく数人だろう。
 
ぼくは一番購読料が安い東京新聞しか読んでいないのでありがたいことだ。
 
日経の文化欄を読むのが楽しみ。
 
毎日通えればいいが、そうもいかないところがつらいところだ。
 
 
 
2019年3月6日の日経文化欄「北の大地の世田谷」と題する山形トムさんの記事を読んで、世田谷から一歩も出たことのないぼくには、ことんなことがあったのかとびっくりした。
 
山形さんはぼくと同年代の方のようだ。
 
 
 
「太平洋戦争末期の1945年7月、私たちは空襲で焼野原となった東京都世田谷区から、現在の北海道江別市の角山地区に開拓のため入植した。このとき道内へと入植した人たちは「拓北農平隊」と呼ばれている。
 
政府は同5月、被災者の救援と食料の増産を目的とする北海道疎開者戦力化実施要項を策定。全国から入植者を募った。
 
10月までに約3400世帯が道内に入植、世田谷区からは33世帯が移った。もっとも開拓者の多くは厳しい寒さと未開の土地に耐えかね、入植地を離れる。現在、世田谷からの入植組で、角山に残るのは6世帯だ」とある。
 
 
 
日本の敗戦が8月15日だから、7月と言えば1ヶ月前ということになる。
 
世田谷が焼野原になったとあるが、これはオーバーな話だ。
 
5月に世田谷はB29の爆撃があったが、焼けたのはところどころで、ほとんどが難を逃れた。
 
ぼくは国民学校の6年生だったから、当時のことはよく記憶している。
 
山形さんは当時11歳で長野県に学童疎開していたのを急遽北海道行きが決まった。
 
親が決めたことだから行かざるをえなかったのだろうが、苦労をしに行ったようなものだ。
 
 
 
「私の父は入植する前、世田谷の砧にある撮影所がある東宝映画の俳優をしていた。山形凡平といい、エノケン(榎本健一)の映画に出演したこともある。
 
ほかの世田谷区民の職業は大学教師や音楽家ら様々だったが、誰一人農業の経験はない。頼れる身寄りもなく、持ち家が焼けてしまった人が多かった」
 
 
 
北海道で仕事をするとしたら、牧畜か農業しかない。
 
農業の経験のない人たちが北海道へ渡ったら、生きていけるのだろうか。
 
無謀としか言いようがない。
 
東京にいても仕事はないし、食物はないし、行けばなんとかなると思ったのだろう。
 
案の定、角山地区はひどいところだったようだ。
 
 
 
「角山地区は石狩川流域の泥炭地で、農業には適さない。家と土地は無償で支給されるという話だったが、いざ行ってみると更地だけで、家は見あたらなかった。周りの農家の納屋に泊めてもらい、自分たちの家を建てるところから始めなければならなかった。
 
原始林から木を切り出し、馬で運ぶ。家は元建具屋の仲間が指導し、皆で助け合いながら建てた。秋までに家の半分だけ造り、震えながら最初の冬をやり過ごした。
 
入植から1ヶ月で終戦を迎えた。疲れ果て東京に戻る人たちも多く、翌年には20世帯まで減った。(中略)
 
96年に自作の絵画や開拓当時の資料など約100点を展示する北の世田谷美術館を開館する。開拓に苦労する中でお互いの得意の分野を教え合い、学びあったあの頃の想いを伝えたかった。(中略)
 
角山に入植した2世も皆傘寿を過ぎ、世田谷の記憶は年々薄れてきている。今後も描き続け、埋もれた歴史を発信し続けたい。」
 
 
 
世田谷を愛するぼくとしては、うれしい読み物だった。

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2019年3月 9日 (土)

『道ばたの雑草』に目を向けよう!

2月の終わりのころ東京新聞1面の3段8割の書籍広告のひとつに目がとまった。
 
『写真集 道ばたの雑草 小口茂樹著』(リフレ出版・¥1800+税)
 
サブタイトルに「――路傍に佇む楚々とした麗人たち――」とある。
 
広告文は「一瞥もせずに通り過ぎてしまう大都会の四季折々の草花。
 
人生もまたそんなものか、今、歩いてきた道をあらためて振り返ってみると、何と、なかなか綺麗ではないか。オールカラー」と。
 
ぼくも『薔薇族』を創刊する前は、単行本ばかり出版していたので、3段8割の小さな広告の原稿を少しでも他の出版社の広告よりもめだつようにしようと苦労したものだ。
 
朝日新聞は広告料が高いので、一度も出したことがなかったが、東京新聞は営業マンが熱心でよく訪れてきたので、広告を出すことが多かった。
 
 
 
かつては下北沢駅周辺には、書店が7、8軒もあったが、今は姿を消してしまった。
 
一軒だけ残っているのは、スーパー「ピーコック」の3階にある三省堂書店だけなので、アマゾンなどに頼まず取り寄せるようにお願いした。
 
1週間かかるということだったが、3日もしたら「入荷しました」と電話がかかってきた。
 
本を取りに行って『林 忠彦・昭和を駆け抜ける』(クレヴィス刊・¥2700)の写真集も取り寄せるようにお願いした。
 
「世田谷美術館」でも昭和の時代の写真展が開かれているが、辺鄙な場所にあるので見に行けない。
 
車に乗っていた時代はよく訪れたが……。
 
 
 
『写真集 道ばたの雑草』の著者は、1951年東京生まれ。
 
世田谷区の奥の方の奥沢という街に住んでいて、医学博士で整形外科専門医で整形外科医院も開業している。
 
序文を読むと「学術的な定義とは言えないが、本書での雑草とは、人の生活圏にあって、人から踏まれたり刈られたりこそされるが、水一滴与えられず、自立して成長、増殖する草のこととした」とある。
 
写真集は週刊誌を横にした変形の本で、140頁オールカラーだから、¥1800は安すぎる。
 
小口先生は整形外科医とは思えない、神経が繊細で、心のやさしい方だから、誰も見もしない路傍に生きる雑草に目を向けられたのだろう。
 
世田谷区は人口も多く、そして広い。
 
世田谷に住んでいながら奥沢の街には行ったことがないが、緑も多く広い庭の家に人は住んでのどかな住宅地なのだろう。
 
ぼくが住んでいる代沢の街は、歩道も車道もすべてコンクリートで固められ、雑草が生えるところがない。
 
それでも雑草は生命力が強い。
 
どこから種が飛んできたのか、コンクリートの僅かなすきまに土が少しでもあれば、そこに根を下ろしい生きている。
 
写真集をよく見てみると、4、50年前の代沢は、そんなに家も密集していなかったから、土の部分も多かったので、この写真集にあるような花が咲いていたことを思い出した。
 
春夏秋冬に分けて、咲く花を編集しているが、先生は昼食を兼ねた散歩中に撮影したもので、園芸の影響を受けている宅地や、公園は除外したとある。
 
先生はご自分の生きてきた道を多くの雑草の中に重ね合わせているようだ。
 
代沢の街もよく注意して見れば、どくだみやタンポポは咲いている。
 
この写真集に目をとめる多くの人がいるような、平和な日本になってもらいたいものだ。

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2019年3月 4日 (月)

カミングアウトなどする必要はない!

2019年2月19日の東京新聞朝刊の記事、世の中、ネットの時代になり『薔薇族』を出し続けていた頃とは、すべてがオープンになったと思っていたが……。
 
「アウティングなき社会へ・下」とあるから連載したものだろう。
 
タイトルは「善かれと思っても「暴露」=打ち明けられたら対話を」とあり、「亡くなった男子学生がよく着ていた服を手にする母親=愛知県内で」とある母親が手にする写真が載っている。
 
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1971年に『薔薇族』が創刊され、次々と出し続けていた時代は、同性愛者だということを親に知られて自殺をしたり、会社をやめたりする人が多かった。
 
ぼくは創刊以来、同性愛者であることは、異常でも変態でもないのだから、胸を張って堂々と明るい太陽の下を歩こうと言い続けてきた。
 
『薔薇族』が廃刊になってから、すでに15年の時が流れ、いろんな意味で世の中が変わり結婚をしない男女が増え、結婚しない男性や女性も周りの人たちから変な目で見られないようになってはきている。
 
そんな時代になってきたというのに、校舎から転落死した一橋大法科大学院の男子学生(当時25歳)の事件は新聞で読んで知ってはいたがショックだった。
 
『薔薇族』の読者で自殺した若者たちの顔が思い出されてくる。
 
今の時代の若いゲイの指導者たちはカミングアウトすることをすすめている人が多いようだ。
 
 
 
人間、弱い者、皮膚の色、障害のある人、ある地域に住む人などを差別したり、偏見の目で見たりするのは、悲しい本能かも知れない。
 
だからひとつの差別や、偏見をなくすには途方もない長い時間と、それをなくそうとする人たちの努力がいる。
 
この記事にはこんな実例が書かれている。
 
 
 
「レズビアン(女性同性愛者)の大路香里さん(33歳)も数年前、告白した女性にばらされ、共通の知人間で広まってしまった。
 
「関係性を変えてしまう繊細なプライバシーだから、信頼し、心を許した相手にしか言わなかったのに、ショックでした」
 
性的少数者の相談を受けてきたNPO法人「共生社会をつくるセクシュアル・マイノリティ支援全国ネットワーク」代表理事の原ミナ汰さん(62歳)は、「この人ならと信頼して打ち明けた人にばらされるので、アウティング被害は、ショックが大きい」と語る。
 
相手が親しい関係のために被害を言い出しにくく、周囲には当事者間の問題として距離を置かれやすい面が「性暴力に構造が似ている」と話す。」
 
 
 
ぼくは両親や、兄妹、友人などにも自分が同性愛者であることを告白することは、まったくする必要はないと考えている。
 
なぜなら女が好きな男が、いちいち人に「おれは女好きだ」と言う人はいない。
 
男が好きな男、女が好きな女、今や医学的にも異常でも、変態でもないと証明されているのだから、当たり前のことなので言う必要はまったくない。
 
まだまだ同性愛者を異常視し、不潔だと思っている人が多いのだから、同性愛であることを告白したら、よくない結果になることの方が多いと思う。
 
 
 
「亡くなった一橋大の男子学生の両親は、生前、息子から直接、ゲイだと聞くことはできなかった。
 
アウティングという形ではなく、もし、今、生きていてゲイだと話てもらえたら――。
 
母親はちゃんと受け止め、声をかけてあげたかった。
 
「いいパートナーができたら、連れていらっしゃいね」と。」
 
 
 
もう、二度とこんな悲劇が起こらない世の中にしたいものだ。

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2019年3月 2日 (土)

『薔薇族』というネーミングは秀逸だ!

『薔薇族』1998年の1月号に、デザイナーでもあり、イラストレーターの第一人者の宇野亜喜良さんが、「ゲイの本質に迫る、秀逸なネーミング『薔薇族』」と題して、おほめの言葉を寄せてくれた。
 
 
 
「『薔薇族』が創刊300号を迎えるという。世に3号雑誌という言葉があるように、3冊を発行するくらいで、ぽしゃってしまうものが多いのである。似たタイトルでいえば、澁澤龍彦さんが主幹であった『血と薔薇』は、4号で廃刊になっている。
 
いまさらながら300号というのはすごい数だと思う。ホモ・セクシュアルなテイストの草分け的存在であり、今なお充足を続けるこの雑誌に心から祝福を捧げたいと思う。
 
ところで『薔薇族』というネーミングは秀逸だと思う。薔薇という植物が、ホモ・セクシュアルのメタファーなのか、どうかはぼくには分からないけれど、ジュネの『花のノートルダム』(この「花」は、どうもバラのようだと思う)や、ロジェ・バディムのレズビアニズムの匂う映画『血とバラ』、三島由紀夫を撮った細江英公の写真集『薔薇刑』というように、野生と高貴が内在し、しかも、少しばかり病んだ感じ、内側から、これでもか、これでもかという気構えで押し開いてくる花弁のオブセッション。
 
精神の内側に張り詰める壁紙のようなビロード質。読者のあいだに飲む覚醒と耽溺の味ローズ・ティー。花束が大きければ、大きいほど声高に愛を叫ぶ花。
 
14歳の少年すら魅了する耽美と犯罪の匂いのする、たった2文字で34画ある薔薇。
 
そうして今やホモ・セクシュアリティの代名詞のように使われる『薔薇族』なのだからすごいと思う。」
 
 
 
こんなにまで、ぼくが命名した『薔薇族』のネーミングが秀逸だと言ってくれた宇野亜喜良さんに感謝するばかりだ。
 
最後の頃、『薔薇族』の表紙のデザインを担当してくれたり、「ロマンの泉美術館」の催し物チラシのデザイン、レストランのランチョンマットの素敵なデザインもしてくれた。
 
50年も前には先妻の舞踊家、ミカが舞踊化した『オー嬢の物語』『愛奴』『静かの海』と3点もシルクスクリーンの豪華なポスターを製作してくれた。
 
ポスターだけでなく、チラシ、カタログ、チケットのデザインまでも。
 
『薔薇族』を創刊した時、表紙に「薔薇」とあるものだから、書店員が「園芸コーナー」に並べてしまったという、笑い話のような本当の話があった。
 
現在の大型書店で、本のありかを尋ねると、すぐに答えてくれるが、当時の書店はのんびりとした時代だった。
 
 
 
ぼくは駒沢大学に入学して、万葉集の研究者であり、斎藤茂吉の弟子で「白路」という短歌結社の主宰者でもあった森本治吉先生に師事して短歌を作るようになったので、長いものを短く表現することを覚えた。
 
それで書名を考えたり、小説の見出しを考えたりすることが上手になった。
 
創刊の前に誌名を考えて『薔薇』とつけたかったが、すでに他社で商標登録されていたので、やむなく全国に散らばっている多くの読者のことを思い、連帯感を持ってもらいたいという願いをこめて、「族」という言葉を下につけたというのが、本当の話だ。
 
カミナリ族、暴走族、みゆき族など、大人に理解されない60年代の活気にあふれた当時の若者たちが、なぜかみんな「族」と呼ばれていたのも気に入っていた。
 
大学を卒業する頃の世の中は不景気で、就職口はなく、親父の出版の仕事を継がざるをえなかった。
 
それがよかったのか、悪かったのか、自分でもよくはわからない。
 
A
B
宇野亜喜良さん(伊藤文学撮影)

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