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2019年4月

2019年4月29日 (月)

幸せを夢見ての女性との結婚が!

『薔薇族』を創刊して6年めの1977年の12月号に「君の悩みを編集長が、お答えします。薔薇族相談室」というコーナーがあった。
 
広島県・M・27歳からの相談だ。
 
 
 
「私はなんとかなるさと、安易な気持ちで見合い結婚、そして離婚をしました。大変な苦しい日々でした。
 
幸せを夢見て結婚、一週間を過ぎましたが、彼女のからだに触れる勇気がなく、夜の営みを行うことができません。彼女の方から口づけを求められ、口を合わせました。なんと感触の悪いことでしょう。我慢をして彼女を抱き、胸をさわり、お腹や、ももをさわりましたが、肝心なものがいうことをききません。
 
数日後、再び求められ、私のものを彼女のからだに押しつけてみましたが、やはり反応がなく、不成立に終わりました。(中略)
 
私は心のよりどころとして、彼女同伴でA君と遊んだり、家に呼んだりしました。
 
「あなたはホモではないのですか?」と妻に詰問され、「何を馬鹿なことを言うのか」とその場を切り抜けましたが、事実A君に対し、愛を感じているのです。純情なA君なので、彼の寝ているスキに口づけをしましたが、それ以上のことは、やっと押さえました。彼への想いが彼女を抱かせぬ原因の多くを占めていたのでしょうか。
 
毎日どなったり、わめかれたりの毎日、なぜ、こんな目にあわなければならないのでしょうか。本当につらい毎日でした。
 
とうとう耐えきれなくなり、結婚当初の彼女の言葉である「私、生理がないの。赤ちゃんができなかったらどうする」を理由にしてしまい、半年も経たないうちに、一度も夜の営みを成功させることができないままに離婚が成立しました。(中略)
 
私の結婚生活をはばんだ原因とも思われるA君。彼のブリーフでした。彼が留守をしているとき、干してあったブリーフを手に入れ、寝床の中に忍ばせ、胸や顔に押しつけ、そして口にくわえ、彼との交わりを想像し、欲求を満たしながら眠るうちに、いつしか心を落ち着かせることができました。
 
数日後、兄宛に送られてきた彼女からの手紙を見せられました。結婚生活のつらかったこと、そしてA君との仲はホモではないだろうかと書いてありました。
 
ホモという憎いこの性格が、ひとりの女性を不幸にしてしまったのです。一生をひとりで過ごすことは寂しくて私は耐えられそうにありません。できるものなら好きな男性と一生を……。でも普通の妻子ある家庭をもちたい。また親兄弟に心配をかけたくありません。
 
トルコ(現在のソープランド)に通うか、なにかの方法で女性とのセックスを可能にし、今度は安易な気持ちでなく、心から愛せる女性を見つけたいのですが、どんなものでしょうか?」
 
  
 
編集長から「男が好きだからといって、人それぞれ違うから、全部の人に結婚するなとは言えないけれど、君の場合もう結婚しないほうがいい。また前と同じ結果になってしまうでしょう。(中略)
 
能動的な人は男が好きでも、なんとか女性ともできるけれど、受身しかだめという人は女性とのセックスはうまくいかないことのほうが多いようです。
 
君は彼女に対して大変な罪を犯してしまったと反省しているけれど、彼女はなにも知らないのだから、彼女の苦しみは君以上だったと思う。ひとりでの生活が寂しいからといってなにも知らない女性を不幸にしていいわけはないでしょう。
 
君は「ホモという憎いこの性格」と書いているけど性格とは違う、もって生まれたものなのだ。結婚はもうしないほうがいい。」
 
 
 
今、生きている人、この悩みを読んで、どう思うだろうか。

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2019年4月27日 (土)

勝っちゃん、俺と結婚してくれ!

今から42年前の青森県・久光・17歳の高校生、すごい子がいたものだ。
 
 
 
「ホモ。俺はホモなんだ。男が好きなんだ! 俺はホモだ! ああ、すっきりした。だいたい変だよ、世の中。男が男が好きになることが異常だなんて。どうしてなんだろう。人間が人間を好きになるんだから、男が男を好きになったっていいじゃないか。男が女を愛し合うように男と男が愛し合ったっていいじゃないか。
 
ホモだからって他人から変に見られて、こそこそしているなんて俺にはがまんできない。とは言っても両親が俺をホモだということを知ったらどう思うだろうか。心配するかもしれない。でも俺がホモであることを知られたら、どんなことがあろうとも、ホモであることを主張し続けるつもり。そして俺が父親になったころには、子供がもしも男好きならば理解してやるつもり。そのころになったら同性愛は公認になっているかも。
 
ホモか? 俺、いつごろからこんなに男が好きになっちまったのかな。このごろ毎日、男のからだを想像しながらオナニーをしている。もう病みつきになってしまったって感じ。
 
もう、いや! こんな生活、といってもどうにもならないのだから、俺って意志の弱い男。すごくみじめ。
 
ぼくが男好きになってしまったのは、みんな彼がいけないのだ。そう、たしか中学のときの修学旅行のときだった。彼(勝ちゃんというぼくの親友)が、俺が寝ていると、パジャマのズボンをさげて、パンツの上から俺のものに触ったんだ。
 
俺は俺で気持ちよかったから、寝たふりをしていたんだ。そしたら彼がパンツをさげてしまって、突然、口の中に入れてしまったんだ。俺は頭がツンとなって、夢を見ているような変な気持ちになってしまって、俺のものは爆発寸前、それでも我慢しているのに彼、手を動かしたんだ。俺は彼の口の中へ、ドバーってやっちゃった。
 
彼は俺のものを舌で拭いていたみたい。俺、なにがなんだか分からなくなっって、朝までそのまま寝てしまったのだ。
 
次の朝、彼はなにくわぬ顔。ああ、俺って罪な男。彼のあのことによって、俺はすごく彼のものをと思っていたが、その日は彼と別々の部屋。それっきり彼とは交渉なし。それから俺の中の男好きの気持ちが現れだしたのだ。
 
そんなことがあったので、俺は彼がホモなのかと思っていたんだが、俺といるときは、いつも彼女の話だけ。あのことは夢だったのかな?
 
もう一度、彼にやってもらいたいのだ。俺、彼のこと、本当に好きになっちゃったんだ。そして彼のものを見たい。でも、彼とは高校、別々になってしまった。
 
楽しみなものはと言えば、彼からの年賀状と暑中見舞いだけ。
 
俺は決めた。今年の夏休みには、彼の家に遊びに行こうと。そして、必ず彼をものにすると。
 
今夜も、男を思って手を動かす俺。俺はホモなんだ! 勝ちゃんが大好きなんだ。できることなら俺と結婚してくれ!」
 
 
 
スマホばかりにかじりついている今の高校生に、こんな長い文章を書けるだろうか。
 
この時代は、まだ「少年の部屋」の頁がなかった。「チビバラ大くっちゃべり」と題して高校生10人の投稿を載せた中のひとつ。
 
青森県の久光君、『薔薇族』の優等生だ。
 
ぼくが創刊号から叫び続けてきたことを理解して書いてくれている。
 
42年前の高校生、60歳ぐらいになって、このブログを読んでくれているだろうか。
 
君の予言どおりに今の世の中、なっているじゃないか!

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2019年4月22日 (月)

ヨコハマメリー、こんな女に誰がした!

『薔薇族』と編集長・伊藤文学のことをお堅い朝日新聞に最初に大きな記事に書いてくれた記者の小泉信一さんの著書『裏・昭和史探検』(朝日新聞社刊・定価¥1400+税)の中に「ヨコハマメリー・こんな女に誰がした」が書かれている。
 
戦後の日本、経験のない人たちには想像もつかないだろうが、焼野原になった日本の都市。
 
食うため、生きるため、家族を養うために、女たちは進駐軍、米兵のためにからだを売った。
 
その女性たちのことを「パンパン」と呼び、ひとりだけの米兵と暮らす女性を「オンリー」と呼んだが、立川の米軍基地の周辺に居を構えて暮らしていた。
 
『薔薇族』を創刊したときのマンション「淀川」の1階に茶沢通りに面したカフエ「淀」のママは黒人兵の女房だった。
 
黒い色をした娘さんがひとりいたが、ご主人は朝鮮戦争で戦死して、軍から支給される恩給で生活していたようだ。
 
「淀」のママなどは、いいご主人に出会えて幸せだったのだろうが、ヨコハマメリーさんは、横浜の街角で、顔を真っ白に塗り、純白のドレス姿で立っていた。
 
小泉さんの本から引用すると、メリーさんは出身は中国地方といわれる。
 
戦後、神戸に出て米兵相手に働き、恋人となった進駐軍の将校と上京した。
 
だが将校は母国へ帰国。
 
メリーは横浜の街角に立つ娼婦となり、老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや、廊下で寝泊まりしていた。
 
メリーさんを若い頃に見かけたというギター奏者の榊原政敏さん(67)は、「彼女は正史では語られない戦後の闇そのものではないか」
 
榊原さんの妻、広子さん(65)は、「人にこびるような感じはなく、気品があった。最初はフランス人形かと思った」という。
 
「まゆをひそめる人もいたが、『ハマのメリーさん』と呼ばれ、慕われていた。港町横浜は寛容度が高い。流れついた人たちを迎える気風がある」
 
蜃気楼のようにつかめそうでつかめない。
 
近づけば消えてしまう。
 
そんなメリーさんは、なんと1990年代なかばまで街角に立っていた。
 
95年に横浜から忽然と姿を消し、2005年、故郷の中国地方の施設でひっそり亡くなったという。
 
 
 
小泉信一さん、よく調べたものだ。
 
メリーさんが街角に立っていた頃、下北沢の北口にぼくが経営していたカフエ「イカール館」(最初は薔薇の小部屋)の店が終わる頃、女房を迎えに行って、すぐに家に帰らず、車を飛ばし二子玉川から第3京浜を走って、横浜の野毛にある永登元次郎さんが経営するシャンソン喫茶へよく通ったものだ。
 
2019年4月11日の東京新聞に「伝説の女性「ハマのメリーさん」をモチーフにした一人芝居「横浜ローザ」を1996年から演じ、ライフワークにしている女優の五大路子が今年の公演開幕を5月末に控え、メリーさん直筆の手紙を見つけた」とある。

D
  
その手紙はなんとぼくが親しくしていて、下北沢のカフエ「イカール館」で、シャンソンを歌ってもらったり、横浜のゲイホテル「童安寺」の経営者でもあった、故・永登元次郎さんの衣装箱の中から、メリーさんの手紙を見つけ出したという。
 
メリーさんと元次郎さんは親しかったようだ。
 
メリーさんが故郷の施設に入っていたとき、元次郎さんがホームに送った菓子などに丁寧に礼を記し、「お許しがありましたならよろしく横浜の御地に帰ってみます。その時にはなつかしの御皆々様、御無事で励みになって下さいませ」と、横浜への望郷の念をつづり、自身は横浜に成長させてもらって感謝していると書いた。
 
メリーさんと永登元次郎さん、ああ、昭和の時代は遠くなってしまった。

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2019年4月20日 (土)

男と男で精神の子を生むんだ!

『薔薇族』の初期の頃の「少年の部屋」に投稿してくる高校生の文章力は、今の時代の高校生とは比べものにならない。
 
1982年の12月号№119(今から37年前)の「少年の部屋」の投稿欄に、大阪市に住むフューチャーテラー君が、「精神の子を生むんだ」と題して投稿している。
 
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「古典の授業中にふと窓の外に目をやると、今まで夏の太陽の中で育っていた木々、草花たちが妙に違って見えていた。
 
窓の外からはもう秋風が吹いてくる。その時、教壇で先生が短歌を詠んだ。
 
 奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき
 
今の私の心境にぴったし。ああいった歌を作った人たちが生きていた時代にも、やはり秋はあったのだなあ。まったく時間というものが歌の世界にはない。そうだ、きっとこういう人たちの中にもホモはいたんだろうな、などと思ったりもした。本当に人類が生まれてからホモはいたと思う。なんだか当たり前の話だが妙な気分である。
 
僕は今、結婚したい気はべつにない。まだ高二だからだと思うけれど、ただ漠然と考えているのではなくて、真剣にそう思っている。
 
親がどうのこうのと言おうと、僕は結婚しないつもりでいる。それは古い儀式やしきたりに対する一種の反抗でもあると思っている。
 
古来からホモが弾圧されたみたいな形になったのも、もとはと言えば、みんなこの古い儀式、しきたりのためだったと思う。その証拠に、ホモなのに結婚している人が多くいる。ホモだから結婚してはいけないとは思ってはいない。
 
ただ結婚というのは男と女とのセックスから成り立つと思う。口の上ではきれいごとをたらたら言っても、要はセックスが合うか合わないかで、その夫婦の間柄は決まる。僕はホモだ。女の人と結ばれて肉の子供を産むより、男の人と結ばれて精神の子供を生んでゆくつもりである。それは女の人に対しても失礼にあたらない。
 
でも、僕がこういったことが言えるのも時代が時代だからだと思う。今、僕自身、自分がホモであることにべつに悩んだりしてはいない。でも、もしか僕が戦前に生まれ、生きてホモだったら、きっと、産めよ増やせよのその時代の掛け声に従い、結婚していただろう。
 
たぶん、古来から多くのホモたちは悩み続けたと思う。面白くなかったと思う。そういった人たちの気持ち、なんだか心にじ〜んとしみこんでくる。
 
そうだ僕たちは、そういった人たちの後を歩いてはならないのだ。新しい僕たちの世界を僕たちの手で創ってゆかねばならないんだ。だから僕は今、フューチャーアソシエイションといった未来会を創った。
 
現代の若いホモ、理解者を集めて、それぞれの意識を高めようとするために。たくさん全国から手紙が届いている。整理が大変なくらい。なかには変な手紙もあるけど。そんなことにめげずに頑張っている。
 
<パイプライン>というお店にも、若い高校生や、中学生がたくさん集まるから、FAのポスターを貼らせてもらっている。
 
とにかくFAは今、大変大きくなってきている。その分、内容のほうもしっかりしてゆきたいと思っている。僕自身もその組織のために動かなければならない。いろいろと困難が生じてくるだろうが、俺も男、やったるぜ!」
 
 
 
こんな進歩的な高校生がいたとは。
 
思いきっていろんな問題があったけれど、他誌にはない中・高生のための「少年の部屋」のコーナーを創ったからだろう。
 
恐らくこの会、残念ながら長く続けられなかったのでは……。

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2019年4月19日 (金)

お知らせ

伊藤文學講演会 開催
 
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演目:「令和」の名付親・中西進さんと『薔薇族』編集長
 
日時:2019年6月1日(土) 14〜16時(13時30分から受付開始)
 
場所:〒150-0043 東京都渋谷区道玄坂1-20-8 寿パークビル 2F(株式会社サイゾー イベントスペース)
 
会費:料金:前売り¥1,500/当日¥2,000
   高校生以下¥500
   (中西進序・伊藤文學歌集「渦」サイン本を進呈)
 
     上記サイトから申し込み、または
     電話で伊藤文學(03-3413-9411 <18〜22時>)まで。
 

 
中西進序文・伊藤文學歌集『渦』復刻販売中
 
「令和」の名付親、中西進さんの貴重な序文入りの豆本「伊藤文学歌集『渦』」復刻版を、郵送でもお求めいただけます。
 
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お求めは、500円切手1枚と送料分82円切手1枚を封筒に入れて、下記住所まで。
 
〒155-0032
東京都世田谷区代沢3−9−5−202
伊藤文学
 
郵便番号・住所・お名前をお忘れなく。

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2019年4月15日 (月)

文学さん、死んじゃいやですよ!

『薔薇族』の古い読者なら、誌上で関西でのゲイたちの情報をイラスト入りで、次々と送ってくれた鞍嶽三馬さんのお名前を覚えているだろう。
 
(ぼくのブログを読んでくれている人は若い人たちだから、高齢者はブログを読めないし、知ることはできない)
 
三馬(みんま)さんとは、ぼくが経営していた新宿の「伊藤文学の談話室・祭」で出会った方だと思うが、お顔は思い出せない。
 
レコード店を経営していたが、レコードが売れなくなって廃業。
 
京都の大手のネクタイの会社「菱屋」に移り、器用な方でネクタイのデザインをして才能を発揮し活躍された。
 
社長にも認められネクタイの美術館をつくられたときには館長にまでなった人だ。
 
その時代、『薔薇族』に関西の情報を次々と書き送って支えてくれた人だ。
  
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クールビズなんて言葉が言われだして、夏にはネクタイなど着用しない時代になり、ネクタイは急激に売れなくなってしまい「菱屋」は倒産してしまった。
 
三馬さんは失業してからも、手製のネクタイや帽子などを手作りにして売り、生計を立てていたようだ。
 
ぼくにもネクタイや帽子を送ってくれたこともあった。
 
それからは年賀状のやりとりだけでのお付き合いだったが、お互いに年をとってしまった。
 
今年、頂いた年賀状は力のないよたよたの文字でからだが弱られているなと察しられた。
 
三馬さんの住所を書いた住所録をどこかに蔵い忘れて、ぼくからの年賀状を送れず、ずっと気になっていた。
 
4月に入ってやっと探し出して、しばらくぶりに長い手紙を書いて送ったら電話がかかってきた。
 
ぼくよりひとつ年上の88歳で病院通いをしていて、指がふるえ文字を書きにくいと言う。
 
ぼくも同じことだが、友人、知人が次から次へと他界し、寂しい生活を送っているようだ。
 
 
 
三馬さんから宅配で荷物が送られてきた。
 
中には手作りのネクタイが10本ほど、帽子が3ケ、サラリーマン時代、50歳のときに書いた「ヨーロッパ・駈け足研修の夜」というイラスト入りの原稿を見つけ出したというので送ってくれた。
 
ぼくはヨーロッパには、一度も行ったことがないので、これから読ませてもらって楽しみたいと思っている。
 
C  

手紙が入っていて、「年賀状がこない今年の正月は暗い、暗い正月でした。人生に目的がないということは(この年齢の故か)やはりあの世とかいう想像もできない有様が横たわっています。
 
毎日の医者通いもきつく、うんざりです。兄弟、いとこも全部いなくなりました。ひとりぼっち、気楽といえば気楽、しかし、目的のない空しさは底知れぬ淋しさです。(中略)
 
現在のマンションも手作り商品が売れて買いました。中之島のホテルの地下街が一点主義の意識ある価値でよく売ってくれて注文に応じられないぐらい、嬉しい悲鳴でした。
 
大阪では『薔薇族』を通じて、多くの友人たちができ、ビジネスにもプラスになりました。文学さんには心より感謝しています。
 
そして、それから数10年……。年をとるわけです。そうです。いろいろ想い出されます。レコード店が倒産し、無一文となって京都へ。そしてヨーロッパ研修を3度繰り返し私の人生がころりと変わりました。
 
この手が、この指がある限り生きる価値、生きる勇気、そして生きねばならいのだと確信したのです。
 
最近、手のふるえが出てきました。それでも医者通いしながら、とにかく元気に生きています。文学さん死んじゃいやですよ」
 
 
 
ぼくも左手がすこしふるえ出しているが、みんなの心の支えにならなければ。
 
元気で頑張るぞ!

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2019年4月13日 (土)

『男色の景色』のすべてが見える!

丹尾安典(たんおやすのり)さんは、早稲田大学文化構想学部、ぼくには理解できないわけのわからない学部の名物教授だ。
 
先生の授業時間にぼくを招いてくれて、広い階段教室で講演をさせてくれた。
 
これはかなり前のことでいつの頃だったか忘れてしまっているが、講演が終わってから何人かの学生たちと中華料理店で、ごちそうになったことだけはよく覚えている。
 
早稲田大学の図書館に、ぼくが所蔵していた『薔薇族』が創刊されるかなり前、昭和27年9月10日号創刊の会員制のゲイ雑誌『アドニス』これは貴重な雑誌で、将来ゲイの歴史を知る上に役に立つもので、第60号まで揃っている。
 
丹尾さんが仲立ちして購入してくれた。
 
『アドニス』の別冊『APOLLO』には、三島由紀夫さんが文体とペンネーム榊山保で書いた「愛の処刑」と、推理小説作家で『虚無への供物』の著者、中井英夫さん(途中から『アドニス』の編集者になった人、『短歌研究』の編集長時代に、寺山修司くんを世に送り出した人でもある)の小説と、もうひとりはNHKの職員で、『薔薇族』に作品を寄せてくれた仁科勝(ペンネーム)さんの3人の作品が納められている。
 
このことを知っている人は、ぼくしかいないので書き残しておきたい。
 
この他に『アドン』の編集部から発行された『ムルム』も早大図書館にあり、『薔薇族』も欠号が多いがある。
 
一般の学生は見れないが係の人に頼めば見せてくれる。
 
これからのゲイの研究者の参考になると思う。
 
国会図書館にはないから……。
 
 
 
2008年に丹尾安典先生は、新潮社から『男色の景色――いはねばこそあれ――』と題して出版したものを角川文庫で『男色の景色』(定価960円+税)が手頃な値段で発売された。
 
カバアは地味な色あいだが、芝生に寝転んでいる少年の写真が、別にヌードでもないのに妙にそそられる。
 
そばに開かれた本が置いてあるが、なんの本だかわからない。
 
学者というのは多くの文献を読んで、書かれるのだから、一冊の本にまとめるには長い時間がかかるのだろう。
 
もちろん『薔薇族』のことも多くの頁をさいて紹介してくれている。
 
その中には寺山修司君が『薔薇族』に寄せてくれた「世界は、おとうとのために」と題する詩も紹介されている。
 
この原稿は宝物なので大切に保存しているが、なぜか寺山君専用の原稿用紙にかかれているが、サインがない。
 
奥さんの九條さんが元気な頃、渋谷の画廊で出会った時に聞いた話だが、普通なら下書きに書いてから清書するのだろうが、きれいな字で書かれている。
 
寺山君はきれいな文字で最初から書くというので驚いたことがある。
 
寺山修司君、サインをしたらこの詩の内容からご自分がゲイだということを証明してしまうことになるので、考えぬいてサインをしなかったのだろう。
 
奥さんにぼくは「寺山君はゲイだったのですか?」と聞いたところ「そうです」と答えてくれた。
 
寺山修司君、ゲイだったからすばらしい作品を残すことができたのだ。
 
『男色の景色』のオビには、万葉集、世阿弥、琳派、三島、川端――日本文化史を艶に彩る男と男のいる風景と書かれている。
 
正直なところぼくは、まだ読んでいない。
 
『薔薇族』のことが書かれているところだけは読んでいる。
 
全部読み切るのはいつのことになるかわからない。
 
書店に並んでいるうちに紹介しておかないと興味を持って購入してもらえない。
 
とにかく面白い本だから読んでほしい。
 
川端康成さんの『伊豆の踊子』の話は、興味がある。
 
どうしても読まねば……。

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2019年4月 8日 (月)

おふたりの万葉学者との出会いが!

日本の敗戦後、3年目の昭和23年の4月、世田谷中学校(現在の世田谷学園)の4月、駒沢大学文学部国文科に入学した。
 
その頃の駒大は全校で学生は700名ぐらい、アルバイトをしている学生も多かったから、学校に通っているのは、4、500人ぐらい。
 
女生徒は3名、あとは尼さんが2、30名ぐらいいただろうか。
 
ほとんどが地方からの学生で都内に住む学生は少なかった。
 
万葉集の研究者で、斎藤茂吉の弟子の森本治吉先生は、「白路」という短歌結社の主宰者でもあった。
 
ぼくは「白路」の会員になり、短歌を作歌することを森本先生から学び、駒大ではぼくだけだったので、先生のお手伝いをよくするようにもなった。
 
先生の奥様は男っぽい方で、掃除もしないのか先生の部屋はゴミ屋敷だった。
 
やはりお弟子さんで、お母さんとふたりで住んでいる若浜汐子さんの家にいるほうが居心地が良かったのか、先生は若浜さんの部屋で仕事をされていた。
 
 
 
駒大の卒業の日、ぼくは単位を3科目ほどとれず卒業論文も書けなかったので、卒業証書をもらえなかった。
 
森本先生が心配して、ぼくの父に手紙をよこしている。
 
今でもその手紙は手許に残してあるが、こんなことが書かれている。
 
 
 
「問題は「卒業に必要な単位科目が3科目不足すること」と「卒業論文」との2点にあります。
 
教授会の空気は、伊藤くんに甚だ好意的でありましたため、原級留め置きなどしては本人にも気の毒であるし、また一生の履歴に傷がつき将来いかなる職業かに就く場合、邪魔になる恐れがある。」
 
 
 
先生は心配して大学院に入学して、そこで卒論を書きなさいと言ってくれた。
 
3名国文科で卒業できない学生がいて、ぼくもその中のひとりだった。
 
教授たちや教務課の人たちを交えての会議があり、「みんなが伊藤くんは将来世に出て大成される有能な人であることを確く信じ、その事を私に告げる人が多数ありました。」
 
 
 
先生はぼくのことを心配して、父に手紙をくれたのだが、ぼくは父がひとりで社員を使わず出版の仕事をし、ぼくはすでに父の仕事を学生時代から手伝っていたので森本先生が心配してくれたけれど、そのとおりにはならなかった。
 
大学院に入学したって、本を読まないから卒論など書けるわけがなかったからだ。
 
昭和25年の5月、東京大学構内の三四郎池のほとりの山上会議所で、都内の大学で短歌を作歌している学生たちが集まって短歌会が催された。
 
その頃の駒大は3流大学で、ぼく自身勉強もできなかったので劣等感にさいなまれていた。
 
集まった学生たちは東大、早稲田、学習院、國學院、二松学舎、共立女子大などの学生、4、50名が集まった。
 
ぼくのとなりに座ったのが東大国文科の学生で2年先輩の中西進さんだった。
 
どんな作品をぼくが出したのかは忘れてしまっている。
 
一首ずつみんなが出して、それを批評し合うのだが、となりに座っている東大生の中西進さんが、ぼくの作品を絶賛してくれたではないか。
 
ぼくはうれしかった。
 
駒大生であることの劣等感は吹き飛んでいた。
 
中西進さんが褒めてくれたことが、ぼくに大きな自信を持たせそれからの人生は大きく変わった。
 
中西進さんは、ぼくの歌集「渦」に序文を書き、ぼくら夫婦の仲人も引き受けてくれた。
 
それからの中西進むさんは万葉集研究の第一人者として活躍し、文化勲章も授章している。
 
おふたりの万葉学者に出会ったことで少しはぼくもいい仕事を残せたのでは……。

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2019年4月 6日 (土)

「LGBT」は性的少数者ではない!

最近、マスコミの間でも「LGBT」なる言葉がよく使われるようになってきた。
 
しかし、その言葉の下にカッコされて、必ず「性的少数者」と記されている。
 
「性的少数者」と書かれると、ゲイの人や、性同一性障害の人たちに対して、あわれみのような言葉ともとれる。
 
成蹊大学非常勤講師の石田仁さんの著書『はじめて学ぶLGBT・基礎からトレンドまで』の序文に「「LGBT」とは、性的少数者(性的マイノリティ)の中の、代表的とされる人々の頭文字(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)をとった言葉。「LGBTについて学ぶ」ということは、たしかに「少数者について学ぶ」わけですが。その学びは同時に、多数者(マジョリティ)とは「誰」であり、多数者であることは「どういうこと」なのかについて学ぶことにもつながっています」と、ご自分がゲイであるのに「性的少数者」と認めている。
 
ぼくはアメリカのロスアンジェルスでのゲイパレードに3度、サンフランシスコでのゲイパレードに1度、オープンカーに乗って日本を代表してパレードに参加している。
 
サンフランシスコでは、知事にもお会いしロスアンジェルスのゲイパレードでは市長にも市長室を訪れてお会いしている。
 
そんなことができたのは、アメリカの人たちは一番最初にゲイ雑誌を創刊させたぼくへの尊敬の念を持っていたからだ。
 
それとなによりもアメリカを代表するゲイ雑誌『フロンティア』のオーナーであり、編集長でもあるボブさんと親しくなれたからだ。
 
ぼくは英語をまったくしゃべれないが、長くロスに住んでいる日本人とアメリカ人のカップルが通訳をしてくれたこともあるが、ボブさんは、目を見れば心は通じると言ってくれた。
 
何十万人という人たちがパレードを応援するために沿道を埋め尽くし、パレードに参加する団体の数も大変な多さで、街をあげてのお祭りだ。
 
沿道を埋め尽くす人たちも、ぼくのことをあたたかく迎えてくれた。
 
欧米ではゲイの人たちのことを「性的少数者」などと呼ぶ人はいない。
 
そんな言葉は日本だけだ。
 
ボブさんとアメリカの大統領が握手している写真を送ってくれたこともある。
 
アメリカではゲイの人たちの応援なくしては大統領選挙に勝てないとまで言われている。
 
確かに「性同一性障害」の人たちの数は少ないかもしれないが、成人男性の中での6.7%がゲイと言われているから、その数は300万、いや400万人にもなるだろう。
 
レズビアンの女性たちの数もいれれば大変な数になる。
 
日本でのキリスト教のカソリック信者の数は30万人ぐらいと聞いたことがある。
 
ゲイの人が団結すれば、参議院議員の選挙にも勝てるに違いない。
 
 
 
洋泉社の新書で入江敦彦著『ゲイ・マネーが英国経済を支える!?』その帯には「18兆円超を新たに生み出したピンクポンドとは? 日本ではまったく報道されない英国の「どんだけえ〜」な同性愛市場。経済を活性させるその市場に注目せよ」とある。
 
日本で誰も口にしないし知らないが、ゲイ産業の売り上げはすごい金額になるだろう。
 
ゲイホテル、ゲイポルノショップ、ゲイバアなどの売上は莫大だ。
 
新宿2丁目のポルノショップの年商が8億円を超えたという。
 
ゲイの世界を「性的少数者」などと、あわれみの目で見られることはない。
 
ぼくは『薔薇族』を創刊させてからずっとゲイは異常でも変態でもないのだから、堂々と明るい太陽の下を歩こうと叫び続けてきた。
 
「性的少数者」なんてもう言わせないぞ!

 

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2019年4月 1日 (月)

同性愛者は決して性的少数者ではない!

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月刊サイゾーに「伊藤文学の薔薇族回顧譚」の連載が始まって、4月号で早くも7号目になる。
 
4月号のテーマは「『薔薇族』万引きで自殺・伊藤文學の忘れられない事件」だ。
 
1983年、宮崎県宮崎市のデパートの中の書店で『薔薇族』を万引きした高校生が女店員に見つかり、警備員室に連れて行かれてしまった。
 
警備員に父親を呼ばれてしまったために、万引きをとがめられることよりも、父親に同性愛者であることを知られてしまったことにショックを受けて、「トイレに行きたい」と外に出て階段をかけのぼり、屋上から飛び降りてしまった。
 
ゲイの世界は狭い。同じ職場で書店員で働いていた若者が、その日に限って姉の結婚のための荷物を運ぶために休んでいた。
 
自分が店にいたら他の雑誌と取り替えて警備員室に連れて行っただろうとくやんで、ぼくに新聞記事などを送ってくれた。
 
若者もゲイだった。
 
彼が手紙をぼくに送ってくれなければ、地方での出来事を知らなかったろう。
 
ぼくもショックを受けて、次号にこの高校生のことを記事にしたら、その反響はすさまじかった。
 
その頃の読者は『薔薇族』を買うのにどれだけ苦労したことか。
 
やはりレジに持って行けなくて万引きしたという人もかなりいた。
 
 
 
今の時代、もうそんなことはないと思っていたが、2015年4月、一橋大学に通うゲイの男性が、恋愛感情を相手に告白したら、その人も困ったのか、仲間にしゃべってしまったのでそれが広がってしまった。
 
そのことを苦にしたのか、投身自殺してしまった事件はなんとも悲しかった。
 
ネットの時代になってオープンになったであろうに、無力感を感じずにはいられない。
 
『薔薇族』が廃刊になって早くも15年、マスコミで活躍している20代、30代の人たちは『薔薇族』や、ぼくのことを知らない。忘れられてしまっている。
 
まだまだ同性愛のことを世間の人は知らない。
 
「LGBT」なんて言葉を誰が言い出したのか知らないが、必ずカッコして(性的少数者)と書いてある。
 
同性愛の数を正確に調べることなど出来ないが、100人の男性の中に、6,7人は同性愛者がいると言われている。
 
日本中でキリスト教のカソリック信者は30万人ぐらいと聞いたことがある。
 
男性同性愛者の数は、300万人以上いるに違いない。
 
レズビアンの人を入れたら大変な数になる。
 
同性愛者は決して少数者ではない。
 
アメリカではゲイの人の応援がなければ大統領になれないそうだ。
 
日本のゲイの人達も団結すれば、大きな力になるだろう。
 
 
 
選挙が近いのでちょっと脱線してしまったが、月刊サイゾー4月号の特集「禁じられたSEX論」は、力の入った興味深い読み物だ。
 
「『バディ』休刊で消滅の危機!! 「エロ」から見るゲイ雑誌興亡史」は、ぼくも取材されたので登場しているが、『薔薇族』のあとに出てきた後続誌は、廃刊になってもマスコミはどこもとりあげない。
 
静かに消えていっただけだ。
 
『薔薇族』が廃刊になったとき、朝日新聞が廃刊を報じたときのマスコミの取材はすさまじかった。
 
海外の新聞社の特派員までが取材してくれた。
 
人間、この世を去ったときにその人の評価が分かるというものだ。
 
雑誌も廃刊になったときにその価値が評価される。
 
ゲイの歴史に後世にまで残るのは『薔薇族』だけだ。
 
誰も登ったことがない山に、最初に登頂した人の名前は永久に残るというものだ。
 
  

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