おふたりの万葉学者との出会いが!
日本の敗戦後、3年目の昭和23年の4月、世田谷中学校(現在の世田谷学園)の4月、駒沢大学文学部国文科に入学した。
その頃の駒大は全校で学生は700名ぐらい、アルバイトをしている学生も多かったから、学校に通っているのは、4、500人ぐらい。
女生徒は3名、あとは尼さんが2、30名ぐらいいただろうか。
ほとんどが地方からの学生で都内に住む学生は少なかった。
万葉集の研究者で、斎藤茂吉の弟子の森本治吉先生は、「白路」という短歌結社の主宰者でもあった。
ぼくは「白路」の会員になり、短歌を作歌することを森本先生から学び、駒大ではぼくだけだったので、先生のお手伝いをよくするようにもなった。
先生の奥様は男っぽい方で、掃除もしないのか先生の部屋はゴミ屋敷だった。
やはりお弟子さんで、お母さんとふたりで住んでいる若浜汐子さんの家にいるほうが居心地が良かったのか、先生は若浜さんの部屋で仕事をされていた。
駒大の卒業の日、ぼくは単位を3科目ほどとれず卒業論文も書けなかったので、卒業証書をもらえなかった。
森本先生が心配して、ぼくの父に手紙をよこしている。
今でもその手紙は手許に残してあるが、こんなことが書かれている。
「問題は「卒業に必要な単位科目が3科目不足すること」と「卒業論文」との2点にあります。
教授会の空気は、伊藤くんに甚だ好意的でありましたため、原級留め置きなどしては本人にも気の毒であるし、また一生の履歴に傷がつき将来いかなる職業かに就く場合、邪魔になる恐れがある。」
先生は心配して大学院に入学して、そこで卒論を書きなさいと言ってくれた。
3名国文科で卒業できない学生がいて、ぼくもその中のひとりだった。
教授たちや教務課の人たちを交えての会議があり、「みんなが伊藤くんは将来世に出て大成される有能な人であることを確く信じ、その事を私に告げる人が多数ありました。」
先生はぼくのことを心配して、父に手紙をくれたのだが、ぼくは父がひとりで社員を使わず出版の仕事をし、ぼくはすでに父の仕事を学生時代から手伝っていたので森本先生が心配してくれたけれど、そのとおりにはならなかった。
大学院に入学したって、本を読まないから卒論など書けるわけがなかったからだ。
昭和25年の5月、東京大学構内の三四郎池のほとりの山上会議所で、都内の大学で短歌を作歌している学生たちが集まって短歌会が催された。
その頃の駒大は3流大学で、ぼく自身勉強もできなかったので劣等感にさいなまれていた。
集まった学生たちは東大、早稲田、学習院、國學院、二松学舎、共立女子大などの学生、4、50名が集まった。
ぼくのとなりに座ったのが東大国文科の学生で2年先輩の中西進さんだった。
どんな作品をぼくが出したのかは忘れてしまっている。
一首ずつみんなが出して、それを批評し合うのだが、となりに座っている東大生の中西進さんが、ぼくの作品を絶賛してくれたではないか。
ぼくはうれしかった。
駒大生であることの劣等感は吹き飛んでいた。
中西進さんが褒めてくれたことが、ぼくに大きな自信を持たせそれからの人生は大きく変わった。
中西進さんは、ぼくの歌集「渦」に序文を書き、ぼくら夫婦の仲人も引き受けてくれた。
それからの中西進むさんは万葉集研究の第一人者として活躍し、文化勲章も授章している。
おふたりの万葉学者に出会ったことで少しはぼくもいい仕事を残せたのでは……。
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