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2019年4月22日 (月)

ヨコハマメリー、こんな女に誰がした!

『薔薇族』と編集長・伊藤文学のことをお堅い朝日新聞に最初に大きな記事に書いてくれた記者の小泉信一さんの著書『裏・昭和史探検』(朝日新聞社刊・定価¥1400+税)の中に「ヨコハマメリー・こんな女に誰がした」が書かれている。
 
戦後の日本、経験のない人たちには想像もつかないだろうが、焼野原になった日本の都市。
 
食うため、生きるため、家族を養うために、女たちは進駐軍、米兵のためにからだを売った。
 
その女性たちのことを「パンパン」と呼び、ひとりだけの米兵と暮らす女性を「オンリー」と呼んだが、立川の米軍基地の周辺に居を構えて暮らしていた。
 
『薔薇族』を創刊したときのマンション「淀川」の1階に茶沢通りに面したカフエ「淀」のママは黒人兵の女房だった。
 
黒い色をした娘さんがひとりいたが、ご主人は朝鮮戦争で戦死して、軍から支給される恩給で生活していたようだ。
 
「淀」のママなどは、いいご主人に出会えて幸せだったのだろうが、ヨコハマメリーさんは、横浜の街角で、顔を真っ白に塗り、純白のドレス姿で立っていた。
 
小泉さんの本から引用すると、メリーさんは出身は中国地方といわれる。
 
戦後、神戸に出て米兵相手に働き、恋人となった進駐軍の将校と上京した。
 
だが将校は母国へ帰国。
 
メリーは横浜の街角に立つ娼婦となり、老いてからは雑居ビルのエレベーターホールや、廊下で寝泊まりしていた。
 
メリーさんを若い頃に見かけたというギター奏者の榊原政敏さん(67)は、「彼女は正史では語られない戦後の闇そのものではないか」
 
榊原さんの妻、広子さん(65)は、「人にこびるような感じはなく、気品があった。最初はフランス人形かと思った」という。
 
「まゆをひそめる人もいたが、『ハマのメリーさん』と呼ばれ、慕われていた。港町横浜は寛容度が高い。流れついた人たちを迎える気風がある」
 
蜃気楼のようにつかめそうでつかめない。
 
近づけば消えてしまう。
 
そんなメリーさんは、なんと1990年代なかばまで街角に立っていた。
 
95年に横浜から忽然と姿を消し、2005年、故郷の中国地方の施設でひっそり亡くなったという。
 
 
 
小泉信一さん、よく調べたものだ。
 
メリーさんが街角に立っていた頃、下北沢の北口にぼくが経営していたカフエ「イカール館」(最初は薔薇の小部屋)の店が終わる頃、女房を迎えに行って、すぐに家に帰らず、車を飛ばし二子玉川から第3京浜を走って、横浜の野毛にある永登元次郎さんが経営するシャンソン喫茶へよく通ったものだ。
 
2019年4月11日の東京新聞に「伝説の女性「ハマのメリーさん」をモチーフにした一人芝居「横浜ローザ」を1996年から演じ、ライフワークにしている女優の五大路子が今年の公演開幕を5月末に控え、メリーさん直筆の手紙を見つけた」とある。

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その手紙はなんとぼくが親しくしていて、下北沢のカフエ「イカール館」で、シャンソンを歌ってもらったり、横浜のゲイホテル「童安寺」の経営者でもあった、故・永登元次郎さんの衣装箱の中から、メリーさんの手紙を見つけ出したという。
 
メリーさんと元次郎さんは親しかったようだ。
 
メリーさんが故郷の施設に入っていたとき、元次郎さんがホームに送った菓子などに丁寧に礼を記し、「お許しがありましたならよろしく横浜の御地に帰ってみます。その時にはなつかしの御皆々様、御無事で励みになって下さいませ」と、横浜への望郷の念をつづり、自身は横浜に成長させてもらって感謝していると書いた。
 
メリーさんと永登元次郎さん、ああ、昭和の時代は遠くなってしまった。

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